2. 一方的な友人宣言
翌朝、日の光で目覚めたマレは視界に入ったものに動きを止めた。
「お、起きたか!そなたが寝ている間、やることがなかったから少し掃除しておいたぞ。書物を動かしてよいのか分からなかったから埃を払う程度のことしかできなかったのだが、人間の部屋というものはこんなにも埃が舞っていて良いものだったろうか」
「……」
普段は起きた時点で開いているはずのないカーテンが開かれ、光の中にキラキラと舞い散る埃は非常に少なくなっている。
マレはスッと立ち上がり、心なしか通りやすくなっている書物の山の隙間を進んで寝室を出る。
「どこに行くんだ?」と聞いてくる男は無視である。
バスルームに入り全ての支度をひとりで済ませると、律儀にそれを待っていた男を背後に引っ付けたまま外に出る。
そして、マレの暮らす宮の警護をしている近衛兵に声をかけた。
「ねえ」
話しかけるまで最敬礼を取る以外の行動を起こさなかった近衛兵に疑問を持ちつつ、マレは彼らに告げた。
「不審者がいるわ?」
マレの行動に疑問を顔に浮かべていた不審者が「えええ!」と叫ぶのと、近衛兵たちが「不審者!?」と叫ぶのはほとんど同時であった。
不審者の叫びは無視して、マレは手にしていた扇でのんびりと背後を指す。
「そこ」
「宮の中にいるのですか!?」
近衛兵の言葉にマレは眉を顰めた。
(私のすぐ後ろにいる男が見えないとでも……?)
「直ちに確認させていただき……」
マレが問おうとした瞬間、部屋に走って行こうとしていた近衛兵たちが表情を消し、何事もなかったかのように元の配置に戻っていった。
まるでマレが見えなくなったかのような、今まで話していたことを忘れてしまったかのような彼らの行動に、マレは困惑する。
「なに……?」
「そなた、判断と行動が早すぎやしないか?」
パッと後ろを振り向くと、先ほどまでと変わらず美貌の男が苦笑しながら立っている。
その様子を見て、マレは浮世離れした男だと感じた昨夜の自身の考えが間違っていなかったことを知った。
***
「つまりだな、私は本当に神なのだ。前回眠りについてからだいぶ時間が経ったようなので、そなたが私を知らないのも無理はないのかもしれないが。いや、カナンサジュの言葉で呼び出した時点でそれはないか……?あ、それともそなた、意味も分からず呼んでみただけの阿呆なのか?」
近衛兵たちのもとからとりあえずマレの部屋に戻って、本で埋もれていた来客用のソファを掘り出して向かい合って座り、話を聞いてみることにした途端に言われたセリフがこれである。
おまけに足を組んで背もたれに両腕を置く姿は傲岸不遜の何ものでもない。特に信仰心があるわけでもなく、男の素性が本物の神であったとしても小さいことでは怒らなさそうなので、マレは彼を尊重する姿勢を取る考えを早々に捨てた。
したがって、自称神の言うことは無視する。
「昨夜、あなたは私に願いを言えと言ったわ。私は『どいてちょうだい』と願ってあなたはそれを叶えた。呼び出した人間の願いを叶えるのがあなたの望みならば、達成したのだから去ればよいのでは?」
「それを願いというのはどうなんだ?加えて、人間の願いを叶えるのは別に俺の望みというわけではない」
しつこく他人の願いを聞いておいてそれを叶えたいわけでもないとは。
「だとしても、そもそも私はあなたを呼び出した記憶がない」
「おお。では意味も分からず言ってみた阿呆だな」
(消えないだろうか)
思わずマレが虚無の表情になると、男は「説明してやろう」と言い出した。
「そなたは昨夜、カナンサジュたちが私を呼び出す際に用いていた文言を口にしたのだ」
豊かな心を育む麦よ
正義を照らす太陽よ
寛容を教える星々よ
大地を守護し空に生きる黄金よ
万象の王にお願い申す
はじまりのフィランが目通り願う
男が口にしたセリフは確かに、現在マレの寝室の机に置いたままの紙に書かれている言葉である。
現在進めている古代の書物の翻訳の最後の部分で、昨夜眠る前にふと目に入ったそれを口にしたのだ。
とはいえ、何かしらの意図があったわけではない。翻訳で躓いている部分で何か閃かないだろうかと読み上げてみただけで、眠たかったのでそれも一度だけのつもりだった。
そして、『万象の』以降の部分はまだ解読が終わっていなかったので、声にも出していないはずである。
マレがそう言うと、男は「解読?」と不思議そうな声を出した。
「……その文言が書かれていたのは千年以上前の書物。言語が今とは異なるから解読が必要よ」
「おお、どおりで先程の男たちが話す言語を知らなかったわけだ」
「……?私は彼らと同じ言語を話しているし、現在進行形で、私たちの会話は成立しているように思うのだけれど」
「そなたはフィランだからな。互いの使う言語が何であろうと、我々は会話をすることが可能だ。厳密には会話ではなく通じ合うと言う方が正しいかもしれぬが」
当然だとばかりに男はそう言ったが、マレは途中から全く違うことに気を取られていた。
マレは自身の素性を男に明かした覚えがない。マレが解読していた文言にフィランの名が出てきたが、だからといってマレがフィランだとは限らないだろう。それを男は断言したのだ。
「……なぜ、私がフィランだと?」
「?聞くまでもない。気配も、容姿も、そして言葉が通じることも、全てがそうだと示している。というかそもそも、例の文言はフィランの者が唱えないと私には聞こえないしな」
気配や容姿については兎も角、文言の内容を鑑みるに後半の説明は筋が通っている。にもかかわらずそのような単純な予想もできずにいたことに、自分が自覚している以上に動揺していることを感じた。
「それにしても、しばらく滞在する予定だから言語も覚えないとな」
「……」
兎にも角にも胡散臭いが、マレが数週間かけて解読していた文章を違わず言うだけでなく、さらにその先まで誦じたとなると、この男が人智を超えた存在だということが事実である可能性は高いのだろう。
マレ以上に古代語に精通した人間が、中期古語の解読すら苦戦しているこの国に存在するとは到底思えない。国に登録した研究者でない限り古代語で書かれたような貴重な書物に触れる機会はなく、知らない場所でとてつもなく優秀な言語学者が解読に成功しているということもほぼあり得ないのだ。
それに昨晩、直前までは間違いなく誰もいなかったはずの部屋に突然現れたことや、先ほどの近衛兵たちの態度の急変も、尋常ではないことだった。
(何よりも……)
昨夜から何度も感じていることではあるが、男の持つ雰囲気が普通ではないのだ。
背中の半ばほどまである真っ直ぐな髪は、全てを呑み込むような闇色。それを弄ぶ手は純白に紅を数滴落としたような温かみのある色で、芸術家が大挙して訪れそうな完璧な骨格である。投げ出した手足もすらりと長く、素材の見当もつかない布をふんだんに使ったゆとりのある衣が良く似合っている。貧相な体型の者が着れば布に喰われているようにしか見えないだろう。
優美と表現するしかない繊細な眉、通った鼻筋、桃色の薄めの唇。それぞれの完璧なパーツが完璧な位置にある顔面は、何よりもその瞳が目を引いた。
マレと同じなのだ。
『真珠のように馥郁たる光を湛えた白髪、朝露に濡れた薔薇のような唇、大陸一の陶芸家が作った白磁の器のように白い肌』と褒め称えられてきたマレが、唯一『何にも例えることができないほどに美しい』と言われる金色の瞳。
男が持つ瞳は、それだけを比べるとマレのものと区別がつかないほどに酷似していた。
人間離れした美しさに加え、その瞳についてはマレも疑問に思うところがある。
——だからといって、面倒ごとは御免なので立ち去れという考えに変更はないのだが。
「——言語を学びたいのであれば実際に見聞きすることが重要ね。城下町に行けば機会はたくさんあるだろうから、そちらに行くと良いのでは?」
「おお!確かに一理あるな!」
ソファにもたれていた上半身を起こしてそう言った男に、マレは微笑みを浮かべて「では、あちらに」と出ていくための扉を指す。
「ん?」
「あの扉を出て先ほど近衛兵たちが立っていた場所を真っ直ぐ行って。大きな建物が並んでいる方向を目指してしばらく歩いていけば城の正面広場に出るから、あとは門から出ていけばいいわ。よく分からないけど、先ほどのように姿が見えないようにできるのであれば騒ぎが起こることもないでしょう」
「ああ、うん。あとで行ってくるから、とりあえずは言葉が通じるそなたから色々聞いておくのが適当だろう。そなたと話しているうちに覚えられるしな。せっかく起きたのだし、しばらくこちらに滞在しようと思うから、友人とは仲を深めねば!」
「はい?」
「ん?」
まさか、この男はマレのことを友人だと言ったのだろうか。
その可能性が浮上して、マレは昨夜のパーティーで何度も我慢した、眉間に皺を寄せるという行為を、ここにきて思い切り実行してしまった。