所詮、あなたは愛されない
ブリジットには婚約者がいた。名前をミカエルといい、幼い頃に父親が決めた許嫁だ。侯爵家の二男で、紛うことなき政略結婚。けれどブリジットの婚約は、彼女の腹違いの妹により、今まさに破棄されようとしている。
ブリジットの母親は若くして亡くなった。残されたブリジットは、父親と共に暮らしていたが、すぐに後妻を迎え入れることになった。見た目は美しいがとても短気で、気の強い女性で、結婚から一年と経たないうちに、後妻は娘を産んだ。名前をスカーレットといい、こちらも勝気且つ強欲に育った。
「所詮、あなたは愛されていない子だから」
それが後妻とスカーレットの口癖だった。
後妻とブリジットの父親が、まだブリジットの母親が亡くなる前から愛し合っていた、というのがその理由で、毎日毎日、十年以上もの間、まるで呪詛の如く唱えている言葉だ。最初はショックを受けていたブリジットも、次第にそれが当たり前になり、18歳となった今では、全く気にならなくなってしまった。
「所詮、あなたは愛されていないのよ」
スカーレットは今日も、意地の悪い笑みと共に、呪いの言葉を吐き捨てる。ただ、いつもと異なるのは、彼女の隣にブリジットの婚約者であるミカエルがいることだった。
「だから、わたくしが彼と婚約するわ」
スカーレットの言葉は、そんな風に続いた。ブリジットは目をぱちくとりさせ、二人のことを呆然と眺めている。
「わたくしがミカエルと一緒にこの家を継ぎます。お父様もこのことは承知済みですわ。ですから、お姉さまはどこへなりと出て行ってください」
父のみならず、既にミカエルの了解は取り付けているのだろう。スカーレットは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
(元々この家に私の居場所なんてなかったのだし)
出ていけ、と言われたところで、ブリジットはそこまでショックを受けなかった。寧ろ、家を継がずに済むこと、離れられることは好都合とさえ思える。
『娘に必要な教育を受けさせていない』――――そんな風に世間から後ろ指を指されたくない父親のおかげで、生きて行くのに必要な教育だけはしっかりと受けている。仮に身一つで追い出されたとしても、何とかできるだけの算段はあった。
「あの……私はそれで構いませんが、スカーレットは愛のある結婚をしたいのですよね? 本当にミカエルで宜しいのですか?」
「えぇ、もちろんよ。ミカエルは既に、わたくしのことを愛してくださっているんだもの。婚約者であるお姉さまではなく、このわたくしをね」
そう言ってスカーレットは誇らし気に胸を張った。
ミカエルは男性にして、社交界の花と謳われる程の美丈夫だ。令嬢やご婦人方から、引っ切り無しに声のかかる彼を夫にできることは、スカーレットにとって名誉なことなのだろう。
「でしたら私に異論はありません。どうぞ、二人で幸せになってください」
ブリジットは屈託のない笑顔を浮かべ、そんなことを言う。思わぬ反応に、スカーレットは嘲る様に鼻を鳴らした。
(なによお姉さまったら。強がっちゃって、馬鹿みたい)
ミカエルの腕を抱き締めつつ、スカーレットは勝利の味に酔いしれた。
さて、いよいよ結婚というタイミングで婚約者を奪われ、家を追われることになったブリジットは、父親の指示のもと、スカーレットに来ていた縁談を引き継ぐことになった。
ヒューゴ・フェルーゼン。御年26歳の子爵で、あまり社交の場にも顔を見せず、貴族の中ではあまり存在感のない人として認識されている。
『この年になるまで独身なんだから、顔も性格もステイタスも推して知るべし、よ』
というのが、スカーレットの評価だ。
けれど、ブリジットとしては、そんなこと、どうでも良かった。そもそも、元婚約者だったミカエルを含め、結婚自体に関心が持てなかったのだ。
(どなたと結婚しても、することは同じ)
子を成し、家門を護ること。それこそが、自身に与えられた責務だ。
「それは……まぁ、そうかもしれませんが」
新たな婚約者――――ヒューゴに考えを伝えると、彼は驚きに目を見開き、困ったように肩を竦めた。
ヒューゴはスカーレットの予想に反して、目鼻立ちのスッキリした精悍な顔立ちの男性だった。線の細い男性が多い傾向にある貴族社会において、彼のような男性はあまり好まれないのかもしれない。耳目を集めるような派手さはなく、率先して人の上に立つようなタイプではないのかもしれない。けれど、ブリジットがヒューゴに抱いた第一印象は悪くなかった。
「……? 何か問題がございますか?」
「いや、俺としては折角夫婦になるのだし、仲良くやっていきたいと思っているんですが」
ブリジットの提示した結婚の条件は、まるで男性側が描きがちな理想そのものだった。
余所に女や子供を作ることを容認する上、帰宅が数日おきになったとしても構わない。ただ人並みに、食事や睡眠が摂れて、家の評判が著しく悪くならなければ、それで構わないのだと言う。
「もっとご自分を大切になさったらどうですか?」
ブリジットのあまりのドライさに、ヒューゴは思わずそう口にする。けれどブリジットはキョトンと首を傾げ、唇を尖らせた。
「まぁ! ……私は結婚に夢を見て、辛い思いをする方が、余程自分を大切にしていない気がいたします」
まるで悟りを開いたかのようなブリジットの言葉。ヒューゴだけでなく、使用人たちまで表情を曇らせる。
(この子は一体、どんな環境で育ってきたんだ?)
ヒューゴは思わずそう声に出しそうになって、必死に口を噤んだ。
とはいえ、結婚観以外は至って普通――――いや、極めて理想的な女性であるブリジットを拒む理由は存在しない。二人は正式に婚約を結ぶことになった。
ヒューゴとの生活は、実家でのそれとは比べ物にならない程、温かく和やかなものだった。義母やスカーレットからは、顔を合わせるだけで冷たい言葉を吐かれていたブリジットが、今では毎日思いやりの言葉を投げかけられる。
ブリジットが好きなものは何か。何か困ったことは無いか。行きたい場所、やりたいことは無いか。ヒューゴはブリジットの負担にならないよう、少しずつ、優しく尋ねてくれる。
生まれてこの方、褒められたことなど無かったというのに、ヒューゴや使用人たちは、事あるごとに、ブリジットの立ち居振る舞いやセンス、些細な変化にも気づき、それを言葉にしてくれる。誰かと一緒に食事を摂れるというのも、ブリジットにとっては初めての経験だ。
けれど、ブリジットにとって何よりも嬉しかったのは、自分の存在が受け入れられたことだった。これまで散々『愛されていない』だの『いらなかった』だの言われ続けてきたのだ。『自分はここに居ても良い存在』なのだと思えることは、あまりにもありがたく、幸せなことだった。
(幸せ? 結婚生活に幸せが存在するの?)
それは、ブリジットにとって、とても不思議な感覚だった。
物心ついた時から、義母はいつも不幸せそうだった。外から見れば至って普通、幸せな家庭を装ってはいたが、実際は父の帰りはいつも遅く、帰ってこない日も多かったし、義母に対して愛情を持って接していたとは言い難い。だからこそ、義母はブリジットに対して『おまえは愛されていない』と口にし続けた。本当は自分自身が愛されていないことを分かっていて、それを認めたくなくて、ブリジットを感情のはけ口にしていたのだ。
(義母様はお父様との結婚に夢を見ていたから)
だから今でも、理想と現実のギャップに苦しみ続けている。自分だけが愛され、認められ、妻として尊重されることを望んでいるのだ。
「ブリジット、少し良いかい?」
ある日ヒューゴは、ブリジットを街に連れ出した。二人は目的地も定めず、ただ並んで会話をしたり、時に店を覗いたりしながら、穏やかな時を過ごしている。
ブリジットはとても不思議だった。これまでは目を背けていた、家族連れや夫婦、恋人たちが今では自然に受け入れられる。彼等の間にあるのは『偽物の愛情』ではなく本物で、本当に互いを想い合っていると感じることが出来たのだ。
「あの……どうして今日、私を誘ってくださったのですか?」
ブリジットは躊躇いがちに、ヒューゴに尋ねる。自分の中に、これまで存在しなかった感情――期待が育ち始めているのを感じている。ブリジットにとって、何かを期待することは、とてもとても怖いことだ。
(だけど、この人だったら信じて良いのかもしれない)
胸をドキドキと騒めかせつつ、ブリジットはヒューゴを見つめる。ややしてヒューゴは、ブリジットの頭を優しく撫でた。
「ブリジットのことを、もっと知りたかったから」
穏やかな笑み。頑なだった心が解きほぐされていくのが分かる。
ヒューゴの言葉には嘘がない。きっとまだ、互いに『好き』だと口にする程、二人の関係は進んでいなくて。けれど、そうなっていきたいのだという強い意志を感じる。
「私も、ヒューゴ様のことをもっと知りたいと思っています」
これまでのブリジットだったら考えられない言葉。ヒューゴは目を細めて笑うと、ブリジットの手を優しく握ったのだった。
それから数日後のこと。
「お姉さま、話が全然違います! 一体どういうことなのですか⁉」
ヒューゴ邸をブリジットの義理の妹――――スカーレットが訪れた。
スカーレットの瞳は怒りのあまり血走り、眉間にはクッキリと皺が刻まれている。ブリジットは使用人たちに引き止められつつ、スカーレットの前に姿を見せた。
「話が違う……とは?」
「とぼけないでよ! ミカエルったら……お姉さまはあいつの女遊びが激しいこと、知っていたんでしょう?」
スカーレットはそう口にし、唇をわななかせる。
「あら……何かと思えばそんなこと?」
「そんなこと、じゃないわ! わたくしというものが有りながら、アイツは他の女を誑かしているのよ!」
醒めた表情のブリジットに反し、スカーレットの興奮はどんどん高まっていく。
「おまけにアイツ、なんて言ったと思う?
『ブリジットはこんな僕でも良いって言ってくれた。浮気を容認してくれた』
――――だからわたくしにも、この条件を呑めって言うのよ⁉ ヒドイわ! こんなのあんまりよ!」
「そんなこと言われても、私は気にならなかったし」
前婚約者とのやり取りを思い出しつつ、ブリジットは眉間に皺を寄せる。
「あんた、頭おかしいんじゃない⁉ 何が悲しくて、自分を一番に愛してくれない男と結婚なんかしなきゃならないのよ! こんな馬鹿な条件を呑むなんて信じらんないわ!」
スカーレットは顔を真っ赤に染め、ヒステリックに叫び続ける。
けれどブリジットをこんな考え方にしたのは他でもない、スカーレットだ。しかし、スカーレットはそのことに気づかず、ブリジットに全ての責任があると思い込んでいる。ヒューゴ邸の使用人たちは皆、腹立たし気にスカーレットのことを睨んでいた。
これまでのブリジットだったら、スカーレットが何を言おうと、何も感じなかった。自分が貶められるのは当たり前のことで、ずっとずっと、スカーレットや義母の言葉を基準に、自分の世界や価値観を形成してきた。とはいえ、ブリジットも今回ばかりは黙っていられない。
「――――わたしからすれば、義母さまがあんなに不幸な結婚生活を送っているっていうのに、結婚に夢を見ているあなたの方が頭がおかしいと思うわ。スカーレット、あなたはいつも『所詮、あなたは愛されない』ってわたしに言っていたけど、冗談。愛されていないのはスカーレット、あなたも一緒でしょう?」
その瞬間、スカーレットの目がカッと見開き、手が大きく振り上げられる。
(打たれる……!)
けれど、その手が振り下ろされることはなかった。
「俺の婚約者を傷つけるのは止めていただきたい」
「ヒューゴ様……」
間一髪。スカーレットの手は、ヒューゴによって宙に縫い留められていた。
「なっ……! まさか、あなたがヒューゴ様だっていうの⁉」
散々馬鹿にした、自身の婚約者になるはずだった人物。それが、想像以上にカッコよく、逞しい人物なのだと知ったスカーレットは、驚きのあまり愕然とする。
「そんな! そうだと知っていたらわたくし、ミカエルなんかと婚約したりしませんでした! あぁ、今からでも遅くありませんわ。お姉さまとわたくしの婚約者を取り替えましょう! そうすればきっと、全てが上手く――――」
けれどヒューゴは、大層冷ややかな目でスカーレットを睨んでいた。ヒューゴはスカーレットへの嫌悪感を露にしつつ、ブリジットをそっと腕に収める。スカーレットの瞳孔がカッと見開かれた。
「俺の婚約者は君じゃない。ブリジットだ。俺はブリジットと夫婦になる。必ずブリジットを幸せにする」
ヒューゴは迷いなく、そう言い放った。ブリジットは瞳いっぱいに涙を溜め、ヒューゴのことを見つめている。スカーレットは唇をギザギザに引き結び、地団太を踏むと、その場から一目散に逃げ出した。ブリジットたちはそんなスカーレットの後姿を見送りつつ、躊躇いがちに互いを見つめる。
「ヒューゴ様。わたしはこれまで、貴族の結婚に愛情は必要ないと思っていました。その方が上手く行く。傷つかずに済むのだと。けれど――――そうではない結婚もある。そう思ってもよろしいでしょうか?」
「……もちろん。そうしてくれると、俺も嬉しい」
ヒューゴの返答に、ブリジットは嬉しそうに笑う。
それから数年後。
ブリジットの実家であるマルティニ家は、入り婿の度重なる借金により首が回らなくなり。家財を引き払って、地方でひっそりと暮らしている。スカーレットも義母も、さすがに現実を受け入れざるを得ず、これまでの自分を恥じて慎ましく生きているらしい。
ブリジットはというと。
「お母さま!」
ヒューゴによく似た可愛い子供達に囲まれ、幸せな気持ちで毎日を過ごしている。守るものができたヒューゴは、これまで以上に仕事にも精を出し、王家の覚えも目出度くなっている。結婚が良い方向に働いた例だと、専らの評判だ。
「ねぇ、ヒューゴ様。わたし、この子達には将来『結婚は幸せなものだ』と思ってもらいたいです」
ブリジットはそう言って目を細めて笑う。かつての自分のように、愛情を諦めたりせず、現実から目を逸らさずに生きて行って欲しい。
「大丈夫だよ。俺たちなら絶対、大丈夫」
ヒューゴはブリジットの手を取り、力強くそう口にする。二人は顔を見合わせると、声を上げて笑うのだった。
この度は本作を読んでいただき、ありがとうございました。
ブクマや広告下にある評価【☆☆☆☆☆】で反応をいただけますと、今後の創作活動のモチベーションに繋がります。どうぞ、宜しくお願い致します。
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