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イエコイ  作者: 我有一轍
二章
8/23

八話

 アラームが鳴り、光誠は普通に目覚めた。


 二日続けて妹たちにたたき起こされるということもなく、昨日の朝からあったことは夢だったのではと思っていた。



「おはよう、兄さん」


「うおっ!」



 光誠はベッドへ腰掛ける紫織に気づいた。


 夢ではなかった。



「な、なんで?」


「兄さんのアラーム設定は合理性があってとても良いと思うのだ」


「そうじゃなくて!」


「瑠璃ちゃんは、残念ながら二度寝につき、間に合わなかった」


「それでもない。どうして部屋に入って起こしに来るんだ?」


「別にいいだろう? 兄妹なのだし」



 兄妹というフレーズを出されてしまうと、反論することができない。


 紫織からは兄妹という言葉に不満があるような雰囲気があった。


 光誠の沈黙を肯定と受け取ったのか、紫織は三つ編みを揺らさずに立ち上がり、光誠のスマートホンを手にする。



「少しいじらせてもらうのだ」


「お、おい」



 紫織は、どこで知ったのか光誠のスマートホンのロックを解除して、画面をタッチしていた。



「兄さんに朗報だ。アラームは、あと五分早くてもいい。私が観察した結果、その時間にはみんな化粧を終えている」


「どうやってロックを解除した?」


「どうって、兄さんの指のあとがあったから」



 紫織は、設定を変えたスマートホンを光誠へ返す。


 傷防止フィルターの張ってある画面を見ても、指のあとなど見つからなかった。



「あ、初めてじゃないな!」



 光誠は、紫織が何度もスマートホンを観察していることと観察の積み重ねでロックナンバーを解読したのだと気づく。


 紫織がちろりと舌を出していた。



「さぁ、なのだ」


「プライバシーの侵害だ」


「兄妹なのだ。多少はしかたない」



 紫織は、またも兄妹だと言う。



「これくらいの兄妹はもうベタベタしたり、お互いに干渉したりしない、……はずだ」



 光誠は、距離感に疑問を持っていた。昨日からの疑問をもっともまともな妹にぶつけるのは間違っていると、言った後に後悔した。



「兄さんの意見は、前提が偏っているのだ」


「なに?」


「幼い頃からくっついたり喋ったりした兄妹にしか当てはまらない」


「そ」



 そんなことはと反論しようとして、紫織の目に張られた涙の幕を見て言葉を失った。

 鏡のように潤い、光誠の意見を切り捨てようとしている。

 世間への体裁を気にする光誠から正論という武器を取り上げて、見下していた。



「私は、もう少し兄さんと」



 それ以上は、紫織も言葉を続けられなかった。


 親たちの関係により、一緒に育つことのなかった兄妹だった。

 培われるはずだった兄妹愛というものが、まだない。

 それを作ろうと距離を縮めようと努力している。

 その努力を踏みにじる者が、たとえ実の兄だったとしても容赦はしないという雰囲気を全身から発していた。


 光誠に、その努力を否定する冷酷さはなかった。



「もう、目は覚めたみたいなのだ」



 紫織は、そう言い残して光誠の部屋を出て行った。


 光誠には父がいた。

 血は繋がっていないけど、姉もいた。

 二つの性に触れる機会があった。

 八木姉妹や瑠璃には、異性の家族に触れる機会がなかった。

 原因はそこにあるのだと考えた。

 幼い頃の記憶を探れば、父親にくっつく女子というのを運動会などで見たことがある。

 姉妹たちにあるのは寂しさだと思った。

 そんな風に確信できるのは、決して涙を見せないものの、目で訴えるのが上手な紫織のおかげだった。


 紫織が出て行ったあと、部屋を出て洗面所へ行く。


 顔を洗い歯を磨いていると、狙ったように美奈星が隣へやってきた。



「あれ?」


「ん?」


「今日は驚かないんだ?」


「ああ」



 美奈星に言われて、驚いていないことを思い出す。

 姉妹たちのせいか、雲雀の忠告によるものか、光誠は鏡の前に立つ恋人を見てもドキドキするようなことはなくなっていた。



「それはそれで、嬉しくないかも」



 美奈星が、不服そうに渋い表情をしながら前髪を整える。



「キスしたい」



 口を漱いだ光誠がぽつりと言うと、美奈星は慌てて光誠の口を押さえた。


 シトラスの香りが光誠の鼻腔をくすぐる。



「なに言ってるの!」



 声を潜めて慌てた恋人に叱られるのは、鈍感になった胸を適度に締め付けた。


 背伸びをして光誠の口に掌をあてがう美奈星の顔が、近くにある。

 その唇は、上下共にふっくらとしており、リップでつやつやになっていた。


 キスしたら、自分の唇もつやつやになるのだろうかと光誠は想像し、試したくなった。


 口を塞がれたまま光誠が顔を近づけると、意図に気づいた美奈星は顔を険しくして首を横へ振った。



「今はダメ」



 光誠は、抗議の意志も込めて再びキスを迫る。



「ダメ」



 二度目のダメで光誠の心は折れた。


 美奈星の目が、本気で嫌がっているのを間近で見たからだ。

 嫌われては元も子もないと、諦めもついた。

 もっと言えば、恋人と思われていないのではないかと不安さえ感じた。

 十七歳というまるっきり子供という年齢でもないのにキスすらできないのはどういうことかと不満もあった。

 雲雀に尻を叩かれたことと昨日の姉妹たちの変化に焦りを憶えていた。



「キスもしないつもりか?」



 諦めたことで口が自由になり、つい情けない言葉が出た。



「そ、そういうことじゃなくて」



 美奈星は、釣り上げていた目を少しずつ元に戻し、ぱくぱくと良いあぐねる。



「なくて?」


「も、もっとゆっくりできるところで」



 尻すぼみになる美奈星の言葉を聞いて、光誠はキスの条件を理解した。



「わかった」



 美奈星の両肩を掴んで力強く頷く。

 是が非でも美奈星とゆっくりできる場所を見つける所存になった。


 美奈星は、目の色を変えた光誠に呆れたように苦笑いする。


 家庭内恋愛が解禁されたことを光誠に伝えようかずっと悩んでいるうちに、光誠は光誠で美奈星への要求を激化させてきていた。

 羽歌が心配するほど、光誠は落ち込んでもいないし、不健全でもなかった。

 光誠の事情と家庭内の事情を知る美奈星は、この錯綜する家庭内の思惑をどう解決したらよいのか一人で悩んでいた。



「もう、学校行くから」


「ああ」


「……はぁ」



 美奈星は、悪化ばかりしているような状況に溜め息を吐きつつ、洗面所から出て学校へ向かった。


 光誠は、思い悩む美奈星を見送ったあと食卓へと座る。


 葵と紫織だけになっていた。


 他の住人はみな出払ったあとだった。



「瑠璃は?」



 気象予報士が、新しい台風が発生したとテレビで語っているのを横目に紫織へ尋ねる。



「まだ寝てるのだ」



 尋ねられた紫織は、トーストを食みながら答えた。



「マジか」



 皿一枚にトーストと目玉焼きとベーコンの乗った物足りない朝食だった。


 朝が忙しい人たちばかりなので文句を言う気はなかったが、自分のためにもどうにか改善をしたいところだった。



「はい」


「ああ、ありが」



 右隣にいる葵から恒例の残飯が渡される。



「朝からなんの冗談だ?」



 半分のトーストを口にくわえた葵が、光誠の口へ目がけてトーストを押し込もうとしていた。



「姉さん流の間接キスです」



 棒状の菓子でやるようなことを間接キスというのは無理があると思った。



「ひひはへんは?」


「なに言ってるかわからん」


「要りませんか?」


「いやもらうよ。ありがたく。でも、その遊びには付き合わないぞ」


「残念」



 半分のトーストの先端を噛み千切った葵が、残りを皿へ戻し、きっちりと半分にした目玉焼きやベーコンを光誠の前へ寄せた。

 それよりもモゴモゴと咀嚼する葵の唇へ目が行く。

 美奈星と違い、葵の唇は下唇が肉厚で大人っぽかった。



「ん?」


「いや、なんでもない」



 葵に視線を気づかれて、慌てて皿へと目線を反らす。


 渡された皿の上にある葵が口を付けたトーストへ視線が集中してしまう。

 光誠の中で、キスというものが無意識を支配していた。



「瑠璃ちゃんのことは任せるのだ」


「あ、ああ」



 マグカップのホットミルクを飲み干した紫織に答えつつ、白い露に濡れた紫織の唇へと注目してしまう。

 姉妹だからか、葵と同じように下唇が厚かった。

 可愛らしい舌が、唇のミルクを舐め取り、紫織のキャラクターに似合わない肉感のある口元が、光誠の理性をかき乱した。



「なにかついてる?」


「い、いや、なんでもない。瑠璃のことはわかった。なんとかする」


「よろしく頼むのだ」



 紫織は、特に気にせず、食器を片付けて葵と一緒に家を出た。


 一人残った居間で、光誠は反省する。


 美奈星とキスをすると決意した途端に、姉妹たちの唇へ意識が引き寄せられていた。



「早く食べて瑠璃を起こさないと、あ」



 手に取った葵からもらった半分のトーストの千切られた方を口へ運ぼうとしていることに気づく。



「こ、これはノーカウントだ!」



 光誠は一人叫んでから食事を終えた。


 光誠は無心になった。

 間接キスとか唇を意識するような浮かれた精神をねじ伏せながら食事を終え、食洗機を起動し、瑠璃の分の食事にラップを掛けて冷蔵庫へしまう。

 部屋に戻り制服に着替えて、家中の戸締まりをしながら瑠璃の部屋へと向かった。


 片仮名でルリと書かれたネームプレートのドアをノックするが、返事はない。



「瑠璃! 入るぞ!」



 軟派な精神に対する腹いせのように声を荒げて瑠璃の部屋の扉を開ける。



「る」



 夏掛けの布団へ抱き枕のように足を絡ませた瑠璃が、ベッドの上ですうすうと寝息を立てていた。

 女所帯で油断したのか、パステルな水色の下着姿である。

 細い太ももの先には意外にも肉付きのよい尻があり、光誠は言葉を失い瞠目した。


 キスだ唇だと言っていられないような状況だった。

 下着姿の妹がいる。

 それをどうしたらいいかと、寝姿を眺めて一分ほど考え込んだ末にたたき起こすことにした。



「おい、瑠璃! 起きろ! 遅刻するぞ!」


「ほぇっ!」



 化粧をしていない瑠璃は無邪気そのもので可愛らしかったが、光誠は心を鬼にして揺さぶり起こす。



「目を覚ましてとにかく服を着ろ! いいな!」



 光誠はやれることをやり、妹の肌を見ないようにしつつ部屋を出た。


 紫織や葵の部屋の戸締まりをしていると、瑠璃の部屋から悲鳴があがる。


 目が覚めたようだった。



「あああああああ! お兄ちゃんが! お兄ちゃんが!」



 光誠は再び瑠璃の部屋の前に行き、叫び返す。



「もうお前だけだ。朝飯を食う時間はないからな。あと、戸締まりは自分でしろ。玄関で待ってるぞ!」


「待って! 待って! まだお化粧してない!」


「知るか! 寝坊する方が悪い!」


「ヤダヤダ! お化粧しないで学校行きたくない!」



 だだをこねる瑠璃の言葉を聞いていると、光誠はドアを蹴破って引きずり出したくなった。


 怒りで震える拳をなんとか落ち着かせ、光誠は階段に腰掛けて瑠璃が出てくるのを待つ。


 スマートホンを見て、遅刻は確定だと諦めた。


 普段だったら家を出る時間を二十分も過ぎてから、瑠璃が申し訳なさそうに部屋から出てきた。



「終わったか」


「うん」



 この家に来てからする初めての寝坊で、瑠璃は合わせる顔がなかった。



「毎朝、俺よりも早く起きて化粧してたんだな。偉いじゃないか」



 光誠は、もう怒る気にもならず、逆に褒めた。


 あまり怒っていても良いことはない。


 姉の雲雀がそうだった。


 それに家族が怒ってばかりというのは、父親が嫌っていた。


 光誠もそれを見よう見まねで踏襲する。



「ごめんなさい」



 すっかりしおらしくなった瑠璃は、ただただ恐縮して非を詫びた。



「もういい。どのみち遅刻だ。焦ってもしかたない。どうする? 朝飯を食ってくか?」


「うん」



 瑠璃は、高校生と言うより小学生かと思うほど素直になる。


 すっぴんや寝姿、果ては下着まで見られたことで、アイドルなどとちやほやされていた瑠璃なりの威厳が崩れ去ったことへ立ち直れずにいた。



「じゃあ座ってろ。レンジで温め直すから」


「はい」



 二人だけの居間で、瑠璃は大人しく座っていた。


 いつもの賑やかな一面は見る影もない。


 光誠は暖めた朝の一皿を瑠璃の前へ置き、牛乳を注いだマグカップも添えた。



「寝坊は初めてだな」


「はい」



 瑠璃は、人が変わったように恥じ入ったままトーストをかじっている。


 一つの失敗でこうも変わるのかと光誠は不安を感じた。


 自信をすっかりと失った姿は、見るに堪えない。



「大丈夫か?」


「今日、休みたい」


「遅刻くらいでそんな大げさな」


「寝坊で遅刻したなんて学校に言いたくないの!」



 半泣きで訴える瑠璃のプライドの高さに光誠は呆れるほかなかった。



「寝坊で遅刻なんて誰でも一回くらいやるだろ」


「私はやりたくなかったの!」



 光誠のやる気のない慰めに瑠璃はムキになって言い返した。



「ああ、もうわかったから。俺が寝坊したってことにしよう」


「え」


「それでいいだろ」


「う、うん。ありがとう」



 瑠璃の顔は、信じられない物を見るようだった。


 ふと、紫織に言われた言葉を言いたくなった。


 瑠璃が、紫織よりも寂しい思いをしていたと想像できた。


 母子家庭で姉妹もいない。


 そういう環境では味わえないことを味わいたいというのが、昨日の姉妹たちの奇行の原因だとわかっていた。


 それを満たせば、奇行も終わるだろうと光誠は考えた。



「兄妹、だからな」


「あ」



 瑠璃から恐縮の空気が抜けた。


 幼い頃は、家にいて向き合うのは孤独ばかりだった。


 父も兄姉もない世界が瑠璃に歌を歌わせた。


 沈黙や静寂は幽霊と同じで怖かった。


 そんなものと無縁な場所にいる。


 それをようやく実感した。


 久しく感じたことのなかった見守られる暖かさを朝食と一緒に噛みしめた。


 光誠は、黙って食事を続ける瑠璃の唇を見ていた。


 止める者はいなかった。


 見られている瑠璃も食事に集中していて光誠の視線に気づかない。


 瑠璃の唇は上下とも肉厚で、歌を歌うせいか大きく開くこともできた。


 子供のように頬張ると頬が丸く膨らむ。


 咀嚼ですぼめられた唇には張りがあり、艶やかだった。


 その艶に見覚えがあり、光誠は思わず尋ねた。



「唇になにか塗ってるのか?」


「え、リップだけど」


「食べても平気なのか?」


「うん、大丈夫だよ」


「そうか」


「あ、食べてみる?」



 瑠璃が失敗続きの巻き返しをしようとして冗談を言った。


 言ってから、光誠の視線が瑠璃の取り出したリップクリームではなく唇へ注がれていることに気づき、リップクリームを取り落とす。


 屋上で抱きしめてもらったときの立っていることすらできないほどの緊張とその状態で唇を奪われるのを妄想して、一瞬で顔が熱くなった。



「ち、ちがうから! ルリの唇のことじゃないからね!」


「あ、当たり前だ! そんなわけあるか!」



 光誠は慌ててそっぽを向く。


 兄として間違っていると、ほぞを噛んだ。



「あ、でも」


「なんだ?」


「今ならしてもバレないよ?」



 瑠璃は、思いつきで兄を誘惑する。


 寂しさになれてしまったせいで、他人との適切な距離など学んだことがない。


 兄と他人の違いがわからないし、キスくらいなしてもいいと思っていた。



「ば、バカなことを言うな。俺はな!」



 美奈星のことを打ち明けるチャンスだった。



「あ、ちょっと待ってね」



 瑠璃のスマートホンが鳴り、瑠璃の耳をスピーカーに取られてしまう。



「もしもし、シオリン? うん。今ごはん食べてる。うん。お兄ちゃんが寝坊したことにして良いって。うん。よろしくー」



 間がいいのか悪いのか、紫織からの電話により、空気が変わった。



「それじゃ、ご飯も食べたし、学校に行こっか!」



 瑠璃が、光誠との会話や寝坊をなかったかのように席を立ち、満面の笑みを浮かべる。



「あぁ、そうだな」



 光誠は、すんでのところで秘密を守ったことに安堵しつつ、キスを意識しすぎておかしくなった自分に嫌気がさしていた。


 昨日の今日で、姉妹たちを悪く言えないと深く反省した。

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