七話
「夕飯です! 直ちに集まりなさい! 繰り返す! 夕飯なので直ちに集まりなさい!」
雲雀の声が家全体に響き、光誠は広げたばかりの数学の問題集を閉じた。
「ああ、クソ!」
雲雀との会話もさることながら、進路の話もせねばならず、光誠の気分は優れなかった。
住人たちは部屋を出て、正方形の食卓へ着席する。
一辺に三人が座れるほどの大きさで、光誠の両隣には八木姉妹が座った。
紫織の隣には瑠璃が座る。
その隣へ美奈星、月乃、雲雀と座る。
葵の隣に藤華紗が座り、その隣へ羽歌が座った。
光誠と雲雀は、もっとも離れていた。
「今日はお刺身です」
雲雀が光誠を見て言うので、光誠は思わず月乃を睨んだ。
月乃はたまに早く帰れる日があり、その日は雲雀が夕飯を用意することになっていた。
たまの定時帰宅で義理の弟から睨まれた月乃は、苦笑いする。
なんとなく察してくれた。
そんな義理の姉弟のアイコンタクトを美奈星は怪訝な顔をして眺めた。
美奈星の預かり知らないところで姉と恋人が、なにかの繋がりを持ったのだとしたら、あまり気分の良い話ではない。
「それじゃ、いただきます!」
雲雀の号令で、それぞれが手を合わせて食事を始める。
「今日はあっくんから話があるのよね?」
葵が約束通り、進路の話をするきっかけを作った。
放課後に見せた怪しげな雰囲気など微塵も感じさせないところが、逆に恐ろしくもあった。
「あ、ああ」
いつ切り出したものか決めかねていたので、光誠としてもありがたかった。
対辺に座る雲雀は、少し面白くなさそうな顔をしている。
「実は進路のことなんだけど、父さんと同じ建築に進もうかと考えてる。先生と相談していて、就職か進学かまだわからない。でも、できることなら俺は就職したい。姉さんや母さんたちもこれから大変だと思うし」
同性婚生活を始めたばかりの姉と、娘を抱える母親たちを見て光誠は言った。
自分の生活費を自分で稼ぎたいというのが本当のところだった。
「なにを言ってるんですか。光誠の進学費用もママが出します」
先に反応したのは藤華紗だった。
実母としての果たせなかった責任を感じていた。
なお、ママと呼んで欲しくてママを自称するのだが、恥も外聞もわきまえた光誠は、決してママとは呼ばなかった。
「ちょっと待ってください。アキの進学費用は私が積み立ててあります。藤華紗さんは、葵ちゃんと紫織ちゃんへ専念してくれて大丈夫です」
次に反応したのは雲雀だった。
育ての親でもある雲雀は、すでに光誠の成人式までに必要な費用を計算しており、高校卒業後から働き、コツコツと積み立てをしていた。
「な、なんてしっかりした羽歌さんの娘さん! じゃなかった、私は光次さんからも遺産をもらってるんです。光誠の面倒は私がみるんです!」
藤華紗も光誠の父との約束があり、退くに退けないでいた。
「二人とも落ち着いて。まだ進学するとは決まってないんだから」
二人の熱心な母に割って入ったのは、羽歌だった。
幼い娘が止めるのも聞かず、光誠の育児を放棄したこともあり、会話に入りずらそうだった。
ただ、冷静な議論を望む光誠にとっては、ヒートアップし続ける二人の良きストッパーでもあった。
「いいえ、進学させます」
因縁のある母親ということもあり、雲雀は頑として譲りそうにない。
「止める気はないわよ。それは、光誠の意志が固まったら、どっちか選んでもらいましょう」
羽歌の言葉で両者はにらみ合いのまま矛を収めた。
雲雀は、進路の話をしただけで大げさとも言えるほど藤華紗とぶつかりあう。
一家の大黒柱としではなく、純粋に男子としての一生を考慮して進学させたかった。
光誠は、自分の話題で夕食の箸が止まったことが気がかりだった。
避けては通れない話題とは言え、一家団欒の時間を台無しにしてしまうのは父の願いに反する。
光誠が浮かない顔をしていると、兄思いの妹が気付いた。
「あのさ、この中で一番美しい人って誰なのかな?」
気まずい沈黙を打ち破ろうと瑠璃が口を開いた。
「私」
間髪入れずに雲雀が名乗り出た。
不機嫌な声を発しながらもユーモアを見せつける。
反応速度の速さと雰囲気の変化の乏しさに瑠璃は唖然とした。
それを見かねて葵も助け船を出す。
「美しさとは黄金比よ」
「へ、へー。さすが葵お姉ちゃん」
「だから、美しいのは私」
我田引水の手際に瑠璃は閉口せざるを得なかった。
「は?」
空気がさらに凍り付く。
不機嫌な声を出したのは、雲雀だった。
光誠から見ても雲雀と葵は犬猿の仲だ。
同じ姉という立場でありながら、一緒にいた時間が違う。
それが葵の対抗心の原因だった。
悪化した空気に焦った瑠璃は、盟友でもある紫織に助けを求めてすがるような視線を送る。
瑠璃からの救援を受け取った紫織が一呼吸置いてから、発言した。
「どちらも間違ってる。答えはエントロピーなのだ」
凍り付いた空気は確かに砕けた。
紫織以外の誰も理解できずに首を傾げている。
「えっと、どういう意味?」
瑠璃が想像と違った盟友の言動に説明を求めた。
「物質は徐々にエントロピーを溜めて劣化していく。水源の水、新雪、咲いたばかりの花など新鮮な物ほど美しい。だから、この中で美しいのは、私と瑠璃ちゃん」
雲雀と葵の鬼のような形相が二人へ向けられる。
雲雀の烈火の如き睨みと葵のすくみ上がるような眼光だった。
「なあああ!」
紫織の解説でとばっちりを受けた瑠璃が悲鳴を上げる。
「そもそもなんでそんな話題の替え方したのよ」
羽歌が、末娘のチョイスに苦言を呈した。
瑠璃の犠牲により、それ以降は口論もなく無事に夕食を終えた。
光誠は一番風呂を浴びてから自室で宿題を消化し、進路のこともあり予習などにも手を伸ばした。
「はぁ」
気がつけば日付が変わっていた。
光誠は、睡眠をしっかり取らないと数学はできないと言う数学教師の言葉を思い出しつつ、喉が渇いたので部屋を出た。
光誠の部屋は、台所のすぐ隣にあり、居間に面している和室だ。
襖を開けて真っ暗な居間を抜けて台所へ行くと、冷蔵庫の前に屈む満月を見つけた。
夏の夜に冷気を浴びるワイシャツのみの姿で、真っ白い尻を丸出しにした月乃がいた。
「あ、光誠か」
「月乃さん。なんて格好で」
「あはは、その、まぁ、聞くな」
古典教師のあられもない姿を見てしまうと、学校でどんな顔をすれば良いか分からなくなる。
雲雀とのお楽しみのあとのままの姿で渇きを癒すために忍んでいたのだと理解できた。
羞恥心を乗り越えたのか、長袖のワイシャツを着た月乃が立ち上がり冷蔵庫を閉めた。
「そういう光誠は?」
「喉が渇いたんで」
学校という場所ではないので、お互いに改まった態度ではなかった。
「そうか」
月乃が、冷蔵庫の前を光誠に譲る。
手にはスポーツ飲料があった。
光誠は月乃と入れ替わって冷蔵庫を開けて、五百ミリリットルのミネラルウォーターを見つけて手にした。
「そうだ光誠」
月乃が思い出したように光誠へ話しかける。
白いワイシャツの裾からは、黒いレースのショーツが見えていた。
常夜灯の灯る居間でもはっきりとわかるほど太ももをぴったりと閉じて恥じらっているにも関わらず、光誠を脅威と感じていないのか逃げも隠れもしない。
それはそれで光誠としても男であることを否定されたようで、嬉しい姿ではなかった。
「なんです?」
「ドンファンになるなよ?」
「どんふぁん?」
「大昔のプレイボーイさ。散々遊んだあげくに女を泣かせてばかりいる奴だ」
光誠は、月乃の前で女性を侍らせたことなどないのだが、妙な心配をされていた。
なぜ、そんな忠告をするのかと不思議に思い、尋ねた。
「なんでそんなことを俺に?」
「お前は、血のつながりがあるとはいえ、女子に囲まれている。家でも学校でもだ。それで気を良くして女遊びが板については困ると思ってな」
月乃は、家庭内恋愛が解禁されたあと、光誠の姉妹たちから色気づいた雰囲気が感じ取った。
ただでさえ血が繋がっているというのに、女遊びまで覚えては困る。
まして教師という立場ではなおさらだった。
「兄姉妹だ」
「男女七歳にして席を同じゅうせず。ことわざもあるくらいだ。気をつけろよ」
月乃の心配は、雲雀とは真逆だった。
その月乃の妹と付き合っていることを隠している身としては、なんと返答すれば良いかわからなかった。
「気をつけます」
「ああ、頼むよ」
月乃はそう言って雲雀の部屋へと戻っていく。
二人の関係は、家族に公認されている。
光誠は羨ましいと思った。
ただ、美奈星との関係が公認されたとして、雲雀や月乃のように夜を一緒に過ごす訳にも行かなかった。
未成年だからだ。
未成年だからといってどこまでも節度を守れるほど子供ではなかった。
夕飯前にした雲雀との会話が脳裏を浮かぶ。
「するなら急げ、か」
姉妹たちに迫られるという異常事態に直面し、光誠の危機感は高まっていた。