最終話
「兄さん、兄さん!」
紫織が揺り動かすと、光誠はゆっくりと目を覚ました。
瑠璃のベッドで熟睡していた。
「ああ、朝か?」
「そうなのだ。河川の氾濫警報が解除されたから、鎧戸などを開けて欲しいのだ」
「ああ、わかった」
光誠は顔も洗わずに家中の鎧戸を開けに掛かった。
それから顔を洗って歯を磨いた。
美奈星の用意したご飯と味噌汁の朝食に感動しつつ、久しぶりに腹を満たす。
二階へ運び込んでいた発電機や飲料水、食料を降ろしたところで母や姉たちが帰ってきた。
「ただいまー」
避難所で過ごしたため、全員で示し合わせて欠勤していた。
光誠は動かぬ証拠を抱えて玄関で迎える。
勝手にルールを無効化したことで、深刻な悩みを抱えることになり、母や姉たちには腹に据えかねるものがあった。
「姉さんたち、ちょっとこれについて話したいことがある」
光誠はすでに張り紙を剝がしていた。
それを掲げて、玄関で靴を脱いでいる大人たちに提案をする。
光誠が本気で怒っているのが伝わり、大人たちは互いに顔を見合わせて観念した。
普段なら通勤通学の時間に、日高家の住人は一人残らず食卓に座った。
鎧戸を開け放った居間には、快晴の空から降り注ぐ朝日が庭の水たまりに反射して入り込んできていた。
「葵姉さんたちから大方の事情は聞いた。俺を気遣うために考えてくれたことに感謝もしてる。だけど、家庭内恋愛禁止を勝手に解禁したことは許せないし、それで俺はすごく悩みもした」
「ああ、それについては私に責任がある。ごめんなさい」
瑠璃の母、大山羽歌が頭を下げた。
「私も同罪です。ごめんなさい」
次いで、八木姉妹の母であり、光誠の母でもある八木藤華紗が頭を下げる。
「姉さんと月乃さんは反対したと聞いた。ありがとう」
「まぁ、非常識だからね」
光誠に礼を言われて、雲雀が頬を掻いた。
「でも、俺はこのルールを復活させることには反対だ。このまま破棄してもらいたい」
光誠は、間髪入れずに主張した。
羽歌や藤華紗、月乃が呆気にとられていた。
「はぁ? アキは、自分が何を言ってるかわかってるの?」
雲雀だけがすぐに反応する。
「ああ、わかってる。家庭内恋愛禁止が解禁されて、知ってよかったと思う感情があったんだ。それを押し殺させるようなルールはなくすべきだ」
「なにそれ。あ、まさか、本気で光誠のことを好きな子がいるってこと?」
雲雀は光誠の言葉を真剣に聞き、確認した。
「私なのだ」
紫織は堂々と答えた。
「紫織が? 嘘」
藤華紗が手で口を押さえて息を呑んだ。
我が子の心を理解できていなかったことに不甲斐なかった。
「嘘ではないのだ。私は家族と知る前から兄さんのことが好きだった」
「ごめんなさい。気づいてあげられなくて。気づいてたら止めてたのに」
藤華紗は両手で顔を押さえると、娘の辛い心情を察して涙を流した。
「兄さんは、ルールの破棄について面白い提案をしたのだ。家族が感情を殺して生活するのは嫌だから、家の中では感情を抑えなくていいと。でも、キスやエッチはダメ。家の外では普通の兄妹でいろ。この三つの制約を出したのだ」
紫織が、指を曲げながら説明した。
「そんな虫のいい話で納得できるの? 辛くない?」
雲雀は、紫織の立場を気遣った。
「好きな気持ちを隠す方が辛いのだ。……辛かったのだ」
紫織は言っていて、好きだと言えないときを思い出して涙が出そうになり、我慢した。
「兄さんの考える新しい家族の在り方は、私が望んでいたものでもある。私はもう母さんの顔色をうかがったり、兄さんへの気持ちを隠したりするのは疲れたのだ」
「私の顔色?」
藤華紗は怯えた表情で紫織の言葉を待った。
八木家では、母に意見するのは葵だけで紫織が反抗することはほとんどなかった。
「母さんは普通の女性になろうとして、私にもそれを押しつけるけど、もう止めて欲しいのだ。私は浮気でデキた望まれなかった命だと知っている。私もまた浮気者の特徴を持っている。それを出せば母さんが悲しむのだ。だからずっと隠していた。でも、大人に近づけば近づくほど自分の出生が重くのしかかる。私には、普通の恋愛ができないし、普通の結婚もできない。そこから人生を考えたいのだ。嘘を着せるのは終わりにして欲しい」
光誠も知らなかった深刻な悩みだった。
知っていたのは瑠璃だけだった。
瑠璃は、祈るように両手を握り合わせて、内心で紫織に声援を送っていた。
ルリが紫織にかわって泣きそうにもなっていて、紫織は思わず微笑んだ。
「私、母親失格ね。ううん、もう昔から母親に相応しくなかったのかも」
藤華紗は、知らず知らずのうちに娘へ負担を掛けていたことを知り、なにも理解してあげられなかったことを知り、親として築いてきた少なからぬプライドが崩れ去った。
「母さんには感謝してるのだ。こんな私でも幸せになれる道を見つけてくれ」
「え?」
「浮気者の母さんでも幸せにしてくれる人が、兄さんのお父さんがいたのだ。私が兄妹だと知っても兄さんを好きでいた理由はそれなのだ。兄さんには、浮気者を幸せにする力があるのだ」
紫織の真面目な解説を聞いて雲雀が吹き出した。
「雲雀」
月乃が雲雀の脇腹を小突いて真面目な空気を壊したことをたしなめる。
それを聞いて美奈星も合点がいった。
光誠が、中村依乃里と親しげにできたのはそういう理由もあるかもしれないと納得してしまった。
「私は兄さんから、将来の旦那に相応しい男性像を学びたい。だから、兄さんの提案を受け入れて欲しいのだ」
真面目で大人びた主張に、藤華紗は思い悩んだ。
娘を子供扱いにする時期はとうに終わっていて、大人として考えていることが嬉しくもあり、まだまだ目の離せない年頃であり、信じ切れないところがあった。
「あの、私も光誠くんの提案に賛成です」
「へ?」
いきなり手を上げて喋りだした妹を見て、月乃は変な声を出した。
「実は、両親がなくなるほんの少し前から、光誠くんと付き合っています」
「えー!」
「えー!」
美奈星の告白に、雲雀と月乃が同時に叫んだ。
「美奈星が転がり込んで来たときに家庭内恋愛禁止のルールを作られてしまい、俺たちはどうしたらいいかわからなくて、とりあえず黙っておくことにしたんだ」
光誠は、美奈星だけを戦わせないように発言して参加する。
「あのとき、私が勇気を持って解禁を止めていればと思うこともありました。おかげで紫織ちゃんとは激しく揉めましたけど」
「今では反省してるのだ。今後は気をつける」
美奈星と紫織がぎこちなく目を遭わせ、ぎこちなく笑い合う。
わだかまりが残ったものの手打ちはできていた。
「そ、そうか。すでに付き合ってる人間がいるなら、家庭内恋愛禁止はたしかに良くないな」
羽歌は、深刻な現状にルールが不適切なことを認めざるを得なかった。
美奈星の発言は、ダメ押しに近い力があり、羽歌と藤華紗は観念したようにうなずき合う。
「わかった。家庭内恋愛禁止は破棄しよう。ただし、光誠の提案通りに節度は守ってくれよ?」
未成年者たちは、ぱっと顔を明るくし一斉に返事をした。
「月乃、生きてるか?」
「あ、ああ。まさか光誠くんと妹が付き合っているなんて」
「私も気づかなかった。でも、お似合いだと思うんだ」
「これから厳しく監視しなくては」
月乃は目つきを険しくし、光誠と美奈星を交互に観察し始めた。
光誠は姉妹たちと笑顔でハイタッチを交し、美奈星と仲睦まじく微笑み合っている。
そんな光誠を見て、和歌は安堵していた。
父が死んでからの光誠の落ち込みぶりを心配していただけに、嬉しい成長をしてくれたと思った。
仏間に目をやると、普段は雲雀がやっているお供えがしてあった。
線香も五本立っていて、燃え尽きようとしている。
岡田姉妹を優しく見守る両親の隣で、光誠の父の遺影が笑ったように見えた。




