二十二話
光誠の避難所は瑠璃の部屋だった。
紫織の部屋が女性部屋になっていたからだ。
午後九時に一悶着起きた。
光誠は床で寝ると遠慮したが、姉妹たちにベッドへ押し込まれ、添い寝や子守歌をするぞという脅迫に屈して、ベッドを借りることになった。
消灯した部屋で暴風と大雨の気配が際立った。
一日を掛けて雨が降り続けるらしかった。
遠いところを消防車のサイレンが走っている。
日高家のある地域は避難勧告が出ていた。
なにが起きても不思議ではなかった。
寝る前に姉とやりとりをしたが、月乃と合流して避難所にいるということだった。
藤華紗と羽歌も合流していて別の避難所にいるという。
最悪の最悪が嫌でも浮かんで来る。
紫織がインターネットで拾ってきたハザードマップでは、日高家は洪水浸水想定区域に入っていた。
川の氾濫がもっとも恐ろしかった。
寝る前にブレーカーを落とすか悩んだ。
冷蔵庫の中身が惜しくなり、落とさなかった。
河川の氾濫が起きないようにと祈りながら寝返りを打った。
気にしてはいけないと思いつつも、布団に染みこんだ瑠璃の匂いに心地よさを覚えた
光誠にとっての母は雲雀だ。
産んだのは藤華紗だが、育ててくれたのは雲雀だった。
その雲雀と同じ母から生まれ、光誠と同じ父を持つ瑠璃は、本当に妹らしい存在だった。
高校で知り合うまで接触もほとんどなかったのに瑠璃の匂いや体温に不思議と安心してしまう。
朝から動きっぱなしだった光誠は、疲労と安堵から深い眠りへと落ちた。
光誠が熟睡している中、部屋へ入ってくる影があった。
紫織だ。
足音を忍ばせて、光誠の眠るベッドへよじ登ると肩を揺すった。
「兄さん、起きるのだ」
囁き声と身体の揺さぶりに覚醒し、ハッとする。
「ん、なにかあったか?」
光誠は寝ぼけた身体を無理に起こして紫織に聞き返した。
「瑠璃ちゃんが家を出て行った」
「なに?」
光誠が慌ててベッドから出ようとすると、紫織が抱きついて止める。
「はなせ、急がないと!」
「聞くのだ兄さん」
「なにを」
頭がはっきりしてくると、雨音が聞こえないことに気づいた。
「瑠璃ちゃんは、私のために色々と頑張ってくれたみたいなのだ。だから、労ってあげて欲しいのだ」
暗闇で光誠にすがりつく紫織は、瑠璃に掛けた迷惑を申し訳なく思っていた。
その苦労に報いるには、光誠の協力が必要だと思った。
「わかった」
「よろしく頼むのだ」
光誠の同意を得ると、紫織は身体を離して光誠を自由にする。
光誠は部屋を出て静かに玄関へ向かった。
「え」
瑠璃が驚きの声をあげた。
玄関から出たところで、両膝を抱え込むように屈んでいた。
「こんな時間になにしてる?」
「え、えーと、雨がやんだみたいだから様子を見に……」
瑠璃は、バツの悪そうな顔をする。
「はぁ、少しだけだぞ」
「う、うん」
光誠は瑠璃の隣に並んで星空を眺めた。
午前中に見た分厚い雲の群れが、すっかりなくなり星が見て取れるほど空気もきれいになっていた。
暖かい風が吹き付け、瑠璃の下ろした髪が踊るように乱れた。
「虫がね、すごい鳴いてるの」
「ああ」
数十匹のコオロギが台風一過を喜ぶように合唱していた。
瑠璃はこれを聞いていたらしい。
風が唸るように吹き付けると負けじと虫たちが羽を擦り合わせる。
自然と命の応酬に笑みがこぼれた。
寝る前に聞いたサイレンの音はなく、声を潜めれば風と虫の音の合奏を聴いているような気分にさせた。
賑やかで静かな夜だった。
「瑠璃」
「な、なに?」
光誠が呼ぶと、瑠璃が緊張した面持ちで見上げる。
「色々と力を貸してくれて、ありがとう」
瑠璃がいなければ、光誠は未だに姉妹のことを理解できずにいた。
感謝しても仕切れない分を頭を撫でることで発散した。
「うぉぉぉ、これがシオリンをダメにするやつか!」
頭を撫でられた瑠璃は、見た目からは想像もできない優しい触れ方で、身もだえしそうになる。
これはダメだと本能が悟っていた。
むずむずとした気恥ずかしさで体の奥底から痺れた。
幼い頃に欲していた優しい父親像にぴったりと重なる手の温かさを持っていた。
あり得ない懐かしさに自己肯定感を否応なく満たされて、ずっとこのままでいたくなった。
抱きしめられた時とは違い緊張感はなく、ただただ暖かいものが胸に満ちていく。
一人で育てられてきた寂しさを埋めるのに十分だった。
「も、もういいよ。お兄ちゃん」
寂しさは辛いものだと思っていたのに、光誠に認められて褒められて満たされるのなら悪くないものかもしれないと感じた。
「そうか」
瑠璃といると、兄妹の時間という確かな実感があった。
いつまでもこうして虫の音に耳を傾けていたいが、いかんせん夜中だった。
光誠は、臨時の家長として瑠璃を家に入れなければならなかった。
「そろそろ家に戻ろう」
「お母さんたちも無事かな?」
「ああ、たぶんな」
妹の心配を和らげてやり、家へと入れる。
雨が止んでも、河川の増水は続く。
明日の朝が無事に来ることを夜空の星に願い、光誠は玄関に鍵を掛けた。




