二話
目覚まし時計の鳴る数分前に勢いよく扉が開く。
ドタタっと助走が入って、ほとんどない滞空時間の後に、光誠へ衝撃が落ちてきた。
光誠の知らない家族会議から数日後の朝だった。
「ぐ!」
「お兄ちゃん、起きて!」
小鳥よりも小鳥らしい軽やかな声が鼓膜を叩く。
「る、瑠璃か?」
寝ぼけた目で確認したシルエットは、いつものツインテールの髪型をした異母妹、大山瑠璃だった。
「そうだよ! 起きて!」
体に感じた衝撃は瑠璃一人のものとは思えず、痛みで起こされるという不愉快極まりない目覚めに光誠の強面は、より人相の悪いモノになっていた。
「起きたようだ」
体を起こすと別の声が聞こえた。
瑠璃は光誠にまたがるように乗っており、もう一人はベンチにでも座るように腰掛けている。
異父妹の八木紫織だ。
こちらもいつもの三つ編みを背中に垂らしている。
二人ともチェックのミニスカートにブラウスを着て、学校へ行く準備を済ませていた。
「今日はなんだ? どうしてこんな起こし方をする?」
高校の制服を着た妹たちは、光誠から降りるとそそくさと部屋から出て行こうとする。
「たまにはいいよね?」
「たまにはいいだろう?」
一方は可愛らしく、一方は白々しく。
全く似ていない姉妹は、言ってから楽しそうに笑って居間へと戻っていった。
「たまには、か」
光誠は新鮮な『たまには』も悪くないと思いつつ、ベッドから抜け出した。
洗面所へ行き、顔を洗い歯を磨く。
寝起きの口内がどうにも気に入らないのだが、姉妹たちからは漱ぐだけで良いのではと疑問を持たれていた。
光誠には姉妹がたくさんいる。
存在は知っていても、高校二年になるまでまったく接点がなかった。
光誠の父は立派だと思うところもあれば、どうかと思うところもあった。
結果として光誠の母と再婚し、死んだ。
重い病を隠していた。
父が死んだ後、同性愛が発覚して離婚していたもう一人の母が、母と再婚した。
光誠もあまりの出来事に父の死を悼むどころか新しくできた家族に戸惑うばかりだった。
父の病死が発覚する数日前に同級生へ告白した。
嬉しいことに受け入れてもらうことができた。
その後から信じられないことが連続する。
その恋人の姉が光誠の姉と同性カップルになっていることを知った。
その直後に、光誠の恋人の両親が事故でなくなってしまった。
光誠の恋人は岡田美奈星といい、姉夫婦という言い方が正しければ義理の兄姉ということになる。
なので、身寄りを亡くした美奈星は、姉夫婦のいる光誠の家に居候することになった。
姉夫婦の婚約や美奈星の両親の事故死、突然の同居。
家族には付き合っていることを言い出せるはずもなかった。
「はぁ」
「おはよう」
「うぉぁっ!」
光誠が恋煩いをしていると、美奈星が隣に立った。
シトラス系の香りが光誠を覚醒させる。
鏡を覗き込んで小麦色になりつつある肌を嫌そうに見る同級生の姿は、毎日見ても新鮮だった。
前髪やまつげをやたらと気にしているのが女の子らしくて可愛らしい。
朝起きてすぐに恋人のいる風景というものに、光誠はまだ慣れなかった。
「まだ、そんなに驚く?」
「あ、ああ」
「私は、こんな大きな洗面台の方が驚くけどね。しかも、光誠くんが作ったんでしょ?」
日高家の洗面台は三人が並べるほど長く作ってある。
設計士でもあった父の設計に則り、父と光誠が五LDKを十LDKにリフォームしたときの産物だった。
光誠は、どうしてここまで大きな家と洗面台、風呂、増設したトイレが必要なのかと疑問をもっていたが、今となっては父の目論見のためだったと納得している。
この家は、最初から姉妹たちを迎えるために設計されていた。
「ほとんど父さんの言うとおりに手を動かしただけだ」
「それでもすごいよ」
前髪を斜めに分けながら、鏡の中の美奈星が光誠に笑いかける。
光誠は思わず溜め息をついた。
「なに? 人の顔見て」
光誠は洗面所の入り口から顔を出して廊下に人がいないことを確認する。
姉妹たちは居間で朝食を取っているので少しぐらいのひそひそ話は聞こえそうになかった。
「美奈星は可愛い」
光誠がぼそりと言うと、美奈星が光誠と同じように廊下を確認してから光誠の脇腹を小突いた。
「な、なにを急に! もう、私は朝練だから先に行くね!」
顔を赤くして囁いてから、美奈星は洗面所を出て行った。
「うん、可愛い」
光誠は告白を受け入れてもらったことが心底嬉しかったし、あまり喜べる身の上ではないものの、心が弾むような毎日が送れていることが幸せだった。
光誠が洗面を終える頃には、美奈星がテニスラケットを担いで家を出て行く所だった。
「遅いよ、アキ! 私たちはもう出るからね!」
光誠と多くの時間を過ごしたのは、血のつながりのない姉である日高雲雀だった。
その雲雀がスーパーへ出社するために慌ただしく出て行く。
「戸締まりをよろしくね~」
次いで、光誠の実母である八木藤華紗が保育園へと出勤した。
「わかった。気をつけて」
光誠は母親と姉を見送ってから、朝食の並ぶ食卓へと座る。
「羽歌さんと月乃さんも、もういないか」
光誠のもう一人の母である大山羽歌と美奈星の姉である岡田月乃の姿はすでに見当たらなかった。
羽歌は個人病院の事務員をしており、月乃は光誠たちが通う学校の教員で古典教師として働いている。
「あっくんは、いつも起きるのが遅いです」
光誠の隣には、食事の進んでいない異父姉、八木葵が座っている。
ふわふわのショートボブの中になんとか寝癖を見つけようとしても、いつも見つからないのは不思議だった。
「葵さんも食事は遅いよな」
注いである牛乳を飲みながら買い言葉を返す。
「私はもう終わりです」
「は?」
朝食のトーストとサラダ、ベーコンと目玉焼きはそれぞれ半物ずつ食された状態だった。
「また残して」
「あっくんに上げます」
そういって高校三年になる葵は、手を合わせて席を立つと、そのまま学校へと行ってしまった。
「あれで持つのか?」
光誠は、自分の分を見て、悔しいことに物足りなさを感じていた。
女性の家族が増えてからというもの、一番変わったのは食事だった。
父がいたときよりも確実にカロリーが制限されていた。
毎朝のことではあるが、小食の姉のお下がりをありがたく頂戴した。
「兄さんはどうして毎朝寝坊するのだ?」
光誠をベンチ代わりにしていた紫織が、不思議そうに尋ねた。
「そんなの決まってるよー。夜は忙しいんだよねー?」
ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべた瑠璃が、紫織をからかうように答える。
「課題か?」
「日課だね」
光誠は、トーストを食べながら瑠璃の頭をバスケットボールみたいに掴んだ。
「痛い痛いお兄ちゃん」
「何が言いたいのかな?」
「なんでもないです。ごめんなさい」
「ったく」
締め上げていた握力を緩め、懲りた様子のない瑠璃と紫織を眺め、姉妹といる自分を客観視する。
兄姉妹になれているのかと。
突然できた家族との距離感は未だにつかめていない。
妹たちは距離を縮めようとしてくれるのだが、それが正しいのかもわからない有様だった。
光誠は居間に飾られた長い半紙を見て、気分が濁る。
家庭内恋愛禁止。
年頃の男女が暮らすとあって、家族が集まって最初に決めたことだった。
光誠は、自分が危険な存在のように扱われているのをなんとなく気付いていたし、姉妹たちは避けるように行動していた。
だから、今朝の行動は逆に珍しいくらいで、不思議だった。
「それで兄さんは、なぜ寝坊をするのだ?」
疑問が解決されなかった紫織が、再び光誠へ尋ねた。
「一度だけ、早く起きたことがある」
「あ、そうなの?」
ヘッドクローから立ち直った瑠璃が光誠の答えに意外そうな顔をする。
「ああ。そうしたら、みんなすっぴんだった」
その一言で瑠璃の笑顔が軽蔑するような顔になった。
紫織は手を叩いて腑に落ちたことを体現する。
「そうか。姉さんたちが嫌がったんだ」
「そういうことだ」
一人だけ嫌がらない姉もいた。
付き合いの長い雲雀だ。
雲雀は九歳で一歳の光誠の面倒を見ていた。
姉にして母のような存在である。
お互いのすべてをなんとなく見知っているのだから、恥じるような間柄ではなかった。
「お兄ちゃん最低だね」
瑠璃が無体なことを言う。
「俺は悪くないだろ」
妹たちと話しながら朝食を終えると、食洗機に食器を入れてスイッチを入れる。
登校前の仕事だった。
「お兄ちゃーん、私たち先に行くねー」
「おお、気をつけろよ!」
妹たちが出て行くと、光誠は戸締まりを確認する。
女所帯と言っても差し支えないくらいに狙われたら大変な家庭だった。
共用スペースはもちろん、それぞれの部屋の扉は鍵を掛けずに出かける取り決めになっていた。
光誠は姉妹や両親、恋人の部屋に入ることができた。
毎日やっているので、自分の部屋とは違う香りにドギマギすることはなくなった。
美奈星の部屋だけは未だに軽い緊張というか興奮を憶えてしまう。
最後に越してきた美奈星に割り当てられたのは客間を想定して作った和室だった。
襖を開けると畳の匂いに加えて、洗面所で嗅いだシトラスの香りが残っていた。
畳まれた敷き布団の上に部屋着がのせてある。
気を抜くとそれを拾い上げて匂いを嗅いでしまいそうだった。
運び込んだ学習机は、畳が痛むからと美奈星が遠慮していた。
整理整頓してあり、美奈星の勤勉さを思わせた。
壁には試合用のユニホームが掛けてあったり、友人たちとの写真が貼ってあったりする。
何時間でも眺めていられそうだった。
「いかんいかん」
和室の障子を開けて、サッシの戸締まりがしてあるか確認する。
問題なくサムターンは固定されていた。
「よし」
一階を見た後は二階へ上がり、八木姉妹と瑠璃の部屋を確認する。
「あいつ」
八木姉妹は部屋も整っており戸締まりもしっかりしているが、瑠璃だけは部屋が荒れていた。
今日に限って、洗濯前なのか後なのかわからないショーツやブラジャーがベッドの上に放り出しており、サッシの鍵も開けっぱなしだった。
「う」
サッシの向こうには、色とりどりのショーツや下着が、小型の台風が通り過ぎた夏空の下で気持ちよさそうな風に揺られていた。
聖域。
雨よけの半透明な波板と目隠しの格子で完全に隔絶された天空の中庭だった。
光誠が、この家の中で唯一足を踏み入れることを許可されていない場所だ。
あの下着の群れの下で大の字になって寝そべりたい。
寝そべって眺めながら、どれが誰の下着か想像しながら過ごしたいと思ったことは、十や二十ではない。
ふと、瑠璃の部屋の時計を見ると、登校時間が差し迫っていることに気づいた。
「まずい!」
光誠は瑠璃の部屋の戸締まりを確認すると、聖域のことは忘れて自分の部屋へ引き返した。
急いで制服に着替えると、時間割を確認することもなく通学鞄を持って玄関へ走る。
鍵と一緒にキーホルダーへつなげてあるセキュリティカードを不法侵入感知器へ挿して起動した。
それから玄関を出て鍵を掛けると、全速力で学校へ向かう。
光誠は進路というものに一つ目標ができていた。
美奈星との会話がヒントになったのだ。
父と同じ、建築という目標だった。