十九話
美奈星のことを任せた後、紫織は先に自分の準備を済ませてから瑠璃の手伝いに向かった。
鎧戸を閉め切ったせいか、廊下は薄暗く、空気が淀んでいる。
凶悪な風の音が、人の叫び声のように鳴り響いていた。
瑠璃の扉をノックする。
「瑠璃ちゃん、できた?」
「まだー」
「入ってもいい?」
「いいよー」
紫織が入ると、瑠璃はベッドの上で大の字になって寝転がっていた。
「なにしてるのだ?」
「休憩ー」
「手伝うのだ」
紫織は、瑠璃の部屋が散らかっていないことに気づき、学習机の上に避難用の鞄が用意されているのを発見した。
「あれ、準備は終わってる?」
「休憩がまだ終わってないー」
瑠璃が甘えた人間で、好きなこと以外は成長しないと思い込んでいた。
瑠璃のことを見下していたと反省する。
学校生活で経験しないことだった。
学業に関して、紫織の見立ては外れたことがない。
努力の仕方を知っている人は抜け目がないし、知らない人は調子の良いときに足下をすくわれる。
そして、その評価は覆らないものだとばかり思い込んでいた。
「シオリンも休憩しよー」
そんな紫織の内省を知ってか知らずか、天井を眺めた瑠璃が、紫織をベッドへ手招きする。
「準備が終わったら下に集まるようにと兄さんが」
言いかけて、紫織は光誠の怒りを買っていることを思い出す。
合わせる顔はなかった。
光誠と美奈星が付き合っていると知りながらキスをしたのだから。
「少しくらい平気だよ」
うつらうつらと眠ってしまいそうな瑠璃の声は、紫織の眠気を誘う力があった。
光誠に怒られるのは先延ばしにしたいという心理を巧みに操られているようで、恐ろしくもあった。
現実逃避と眠気の誘惑にあらがえず、紫織は初めて光誠以外のベッドへとよじ登った。
「いらっしゃーい」
「どこにいればいいのだ?」
光誠のベッドであれば、縁に腰掛けたり、光誠に腰掛けたりできるのに、瑠璃のベッドでは勝手がわからなくなっていた。
「こーこ」
瑠璃は、自分の細い腕を枕にしろと言わんばかりに伸ばして見せる。
「痛くない?」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
紫織は、半袖から伸びる瑠璃の細い腕に恐る恐る頭を預けた。
筋肉よりも脂肪が多い腕は柔らかく、枕としての適性がある。
腕枕というのが実在することに奇妙な違和感を覚えた。
言葉だけを知っているが、どこで見知ったのか覚えていない。
ただ実在するとは思わなかった。
他人の腕で寝る経験など、大人になるまでないとさえ思っていた。
「シオリンはどうしてお兄ちゃんとキスしたの?」
瑠璃は天井を見上げながら訊いた。
光誠の話では、キスを迫ったのは紫織だ。
家庭内恋愛を本気でしたいと思っていたのか知りたかった。
唐突であったが予想できた質問だった。
風の音はさっきよりも大きく、恐ろしい音になっていた。
光誠が鎧戸で塞がなければ、サッシががたがたと揺れて落ち着かなかっただろう。
「兄さんが、兄さんなのか確かめたかった」
「え、え、え? なに? どういうこと? 二人は兄妹じゃないの?」
「兄妹なのだ。でも、兄妹に思えなかった」
「そ、そうなの? 気づかなかった」
普段の紫織は、兄妹として振る舞っているように見えた。
「あれ、ちょっと待って? だとしたらシオリンは今までずっと」
寝起きを共にしながら、妹のように暮らすのは、演技なんてものではなかった。
光誠を兄のように慕いながら、普通の異性として感じている状態をまったく想像できなかった。
「私は姉さんから兄さんの活躍を聞いていた。羨ましく思ったこともある。私が入学したあとに助けてくれたときは浮気な人だと思った。でも、好きになった。そうしたら兄妹だとわかった。私は妹になった。姉さんをダシにして、キスを正当化した。妹になりきれなかったのだ」
紫織は淡々と話した。
兄妹だからと言い聞かせてきた努力は、無駄になった。
感情があふれほどに高まったのは、美奈星が浮気をそそのかしたとほざいたときだけだった。
「そういうことだったのだ」
原因が見つかる。
「美奈星さんが嫌いなんだ。本当に兄さんを好きだったら、家庭内恋愛が解禁されたときになにがなんでも止めればよかったのだ。私は我慢してきた。だから、解禁を歓迎した。美奈星さんがしっかりしていれば、こんなことにならなかったのだ」
美奈星のことを話していると、自分でも信じられないほどにムカムカしてくる。
光誠と付き合っていたこともキスしたことも今のようなめちゃくちゃな状態になったことも。
すべて美奈星の責任にしてしまいたいほどだった。
瑠璃は紫織のことをまったく理解していないと思い知らされる。
紫織が光誠を好きだったなんて想像もしなかった。
確かに、告白してくる男子から守ってくれる光誠は格好良く見える。
瑠璃は便利なボディーガードくらいにしか思っていなかった。
「それで、お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなかったって、どういう意味なの?」
キスで兄妹かどうかを確かめる方法など聞いたことがない。
「私たちみたいな年頃の娘は、遺伝子の重複を避けるために近親の男子を拒絶する本能がある、はずなのだ」
「ふん?」
瑠璃はまったく理解できずに曖昧な相槌を返す。
「兄さんの匂いにも唇にも唾液にも拒絶反応がなかったのだ。嗅覚も触覚も粘膜もおかしいのかもしれない」
「瑠璃ちゃんがおかしいと思うよ?」
見当違いな行動に瑠璃は思わず本音を漏らしてしまった。
「そう、かも」
紫織も思わず納得し、瑠璃と笑う。
「シオリンは本当にお兄ちゃんのことが好きなんだよ。どんなにいろんな方法で確かめても、そういう結果しか出ないのかもしれないのかも」
「盲目?」
「そう、恋は盲目ってやつだよ!」
「ちがう」
紫織が、いつものように冷めた声で訂正に入る。
「恋とはドーパミン」
「どーぱみん?」
「そう脳内物質。でも、瑠璃ちゃんのおかげで私がおかしくなった理由がわかった。脳内麻薬が私をおかしくしていたのだ」
「ま、麻薬? シオリン大丈夫なの?」
瑠璃は驚いて紫織の顔を確かめる。
「うん。人間が自分で作る物だから。でも、困った」
「や、やっぱり何か問題が?」
「禁断症状が怖いのだ」
「シオリン、どうなっちゃうの?」
「兄さんでドキドキできなくなると、色々と失敗してしまうかもしれない」
「ドキドキって」
紫織からは想像もできない言葉が出てきて、瑠璃は呆気にとられる。
「恋とはそういうもの」
「わかる」
瑠璃は思わず天井を仰ぎ、光誠に抱きしめられたときのことを思い出した。
思い出しただけで、あの時の胸がぎゅっと苦しくなる感覚が蘇る。
頭が真っ白になるほどの緊張と興奮を長く味わってみたいと何度も想像して、兄妹が結ばれてはいけないという法律と未来を思い浮かべては嫌な気分を味わった。
「瑠璃ちゃんも知っていて当然なのだ」
「それどういう意味?」
「瑠璃ちゃんはアイドルだから、誰かを好きになるのが上手で羨ましいのだ」
「そ、そんなことないよ」
紫織は、瑠璃の人付き合いのうまさを羨ましく思う。
好きと嫌いをはっきり分けて考える紫織は、瑠璃の振る舞いを感心して見ていた。
紫織から聞き出せることは聞いた。
瑠璃は、美奈星との仲直りを提案したかったが、まだそこまで瑠璃の感情を誘導できていないと考え直す。
避難の準備をしながら瑠璃となにを話すべきかずっと考えて、話し始めても考えてばかりいて、瑠璃史上最高に頭を使っている状態だった。
「ルリは、人を好きになったら将来を考えちゃうから。遊びで付き合ったりとかしたくないんだ」
紫織に通じるかわからない賭けだった。
瑠璃の境遇へ共感してくれるなら、紫織も光誠との未来を想像して、冷静さを取り戻し現実を直視してくれることを願った。
「私は兄さんと不倫してもいい」
「え!」
紫織は静かな決意を込めて言っていた。
「私は、父さんと母さんが不倫したから生まれた。今更どうこう言われても気にしない。たぶん一生言われる気がするのだ。下手したら結婚すらできないかもしれない。だから、私は今の内に本気の恋を成就したいのだ」
不倫を成就されてはたまらなかった。
瑠璃は、光誠と美奈星を応援すると決めた手前、二人を裏切るようなことはできない。
紫織の悲惨な境遇にも胸を痛めた。
不倫で生まれた子供が浮気をするとは限らない。
なのに、結婚相手として選ばれないという容赦のない未来が見えてしまう。
「私は中学の時に、一人で生きていくと決めたのだ。恋くらいワガママにしたい」
紫織は呟き、音もなく涙を流した。
瑠璃の決意は揺らいだ。
どこか他人と距離を置く紫織をコミュニケーションが苦手な子だとばかり思っていた。
そんなものではなかった。
彼女は望まれずに生まれたことを自覚していた。
瑠璃は紫織の父と母の間になにがあったのかを知らない。
想像もしたくなかった。
瑠璃の嫌う遊びの付き合いで生まれてしまったことに気づき、瑠璃の説得に失敗しつつあることを悟る。
瑠璃は、紫織の味方になりたくなっていた。
「ワガママに恋をして、できちゃったらどうするの?」
それでも最後の理性に望みを託して、瑠璃は問うた。
恋の先には、そうなることが予想された。
紫織の意志が本物であれば、そこまで行くと思った。
「考えたくないのだ」
初めて紫織の弱音を聞いた。
思慮深い彼女の思考放棄こそが、捨て身の恋の正体だと突き止めた。
瑠璃は燃えた。
まだ間に合う。
ここで止められれば、光誠にも美奈星にも面目が立つと考えた。
「シオリンは良いお母さんになれる。頭が良くて、面倒見が良くて、しっかりしてるんだから!」
「なれないのだ。なれるはずないのだ!」
紫織は、腕枕から頭を上げて瑠璃の言葉を否定した。
「なれるよ! ここで我慢すれば、まだなれるんだよ!」
瑠璃も負けじと身体を起こして、瑠璃の両肩を掴んで説得する。
紫織は瑠璃の手を払いのけて、生まれながらに負った傷を抉られた怒りと哀しみで濡れた目でにらみ返した。
「無責任な励ましはやめるのだ! 浮気っぽくて、不倫も辞さない最低な女を幸せにする男なんていないのだ!」
「いるよ!」
瑠璃はもう反射的に言い返すしかなかった。
理詰めで勝てないのはわかりきっていた。
なにか例外な存在で、瑠璃の言葉を砕くしかなかった。
「どこにいるのだ!」
一人だけいた。
それが正解なのか間違いなのか吟味する余裕はない。
合唱も会話もテンポだ。ここぞという時に、ピタッとはまる音が大事だった。
瑠璃の直感が、その音で大丈夫だと後押しする。
「お兄ちゃんだよ!」
言い切った。言い切ってから、振り出しに戻っていることに気づく。
「あ、ごめん! なんか間違えた気がする!」
背中を押してどうするのかと慌てた。
「そうなのだ。今も兄さんは頑張ってるのだ」
光誠の存在を再認識させられて、瑠璃が再び涙を流す。
だだをこねる様子はなく、なにか別の答えを見つけていた。
「えっと」
紫織の心境の変化についていけず、瑠璃は戸惑うばかりだった。
「瑠璃ちゃんは正しいのだ。普通の女の子には、父親がいる。そして、父親を模範として結婚するべき相手を見つけるのだ。私には模範となる父親がいなかった。だからかもしれない。兄さんを模範として研究しているつもりが、いつの間にか好きだと勘違いしたのかもしれないのだ」
「う、うん」
「これからは、兄さんを父親に見立てて接することにするのだ」
「うん?」
「そうすればいつか、瑠璃ちゃんの言うとおり、兄さんみたいな男の人を見つけて結婚できるかもしれないのだ」
「お、おう。そうなんだ。よくわからなかったけど」
紫織の中で何が起きたのかさっぱりわからないまま、瑠璃の目指すべき所へ着地した。
光誠を父親に見立てるという部分に不安が残るものの、光誠と美奈星の味方ができたので一安心する。
「今度は私が腕枕するのだ」
「え、いいよ無理しなくて」
「いいや、するのだ。断固するのだ」
そう言って紫織が寝転がり、腕を横に突き出した。
「少しだけだよ?」
「遠慮はいらないのだ」
瑠璃は紫織の勢いに負けて腕枕の世話になる。
「どんな感じなのだ?」
「うん、ちょっと細いかな。もう少し太い腕の方が楽しいと思う」
「私もそうだったのだ」
話すべきことを終えたせいか、会話が続かなかった。
二人でだらだらと休憩し、天井を見上げている。
「そろそろ下に行く?」
「もう少しだけなのだ」
「わかったー」
台風の時にのんきな態度を取ったことは、母親と二人暮らしの時にはなかった。
羽歌はヒステリックに声を出して避難の準備をして、瑠璃をせっついた。
何事もマイペースでやりたい瑠璃は、内心で羽歌のことを嫌っていた。
それに不安だった。
羽歌を頼りないと感じていたのだ。
「台風の時にこんなことしてるのはじめて」
丸いLEDの蛍光灯が浮かぶ天井は、雨とか風を感じさせなかった。
不安がないわけではないが、極度に小さくなっている。
年の近い紫織と一緒にいるからか、一階で光誠が奮戦しているからだと思った。
羽歌と二人暮らしの時は、鎧戸などあまりしなかったし、したとしても時間が掛かった。
瑠璃は手伝いたくなかったし、手伝ったとしても自分のやるべきことには思えなくてすぐに飽きた。
「兄さんのおかげなのだ」
「うん」
紫織の意見へ素直に賛成できた。
力仕事を男の人がやってくれるのはとてもありがたかった。
それもあっという間にやってしまった。
台風への備えは万全ではないけど、ほぼほぼ大丈夫なような気がしていた。
「瑠璃ちゃんは」
「うん」
「兄さんに恋をした?」
「うん」
生返事だった。
紫織を説得するのに頭を使いすぎて、自分の防御がおろそかになっていた。
「やっぱり」
「いや、違うよ!」
「隠さなくてもいいのだ。カラオケで兄さんの前で歌っているときに気づいたのだ。瑠璃ちゃんが内股になって目をうるうるさせながら歌う姿を見て思ったのだ。あ、瑠璃ちゃん濡れてるなって」
「わああああ! なに言ってるのシオリン!」
瑠璃は慌てて起き上がり、紫織の口を両手で塞いだ。
もごもごと反論を言いたそうにするので、手をどかす。
「事実なのだ」
「ちがあああう! 違うから!」
「でも、あのあとトイレに行ったから」
「ああああああ!」
瑠璃は再び紫織の口を塞いだ。
認めるのは簡単だし、隠すことでもなかった。
ただ、これ以上の問題を増やしたくない。
光誠は美奈星と結ばれるべきで、姉妹がその邪魔をするのは良くない。
「ルリは別に浮気をしたいわけでも、お兄ちゃんの恋の邪魔をしたいわけでもないから」
立場を説明してから塞いでいた手をどけてベッドに転がる。
「私たちは不幸なのだ。兄を好きなるような妹になってしまったのだ」
「ルリはルールを復活させるつもりだよ。こんな状況は、もううんざり」
ルールを解禁した和歌がいまいましく、許せなかった。
「それが良いと思うのだ。瑠璃ちゃんに協力する」
「ありがとう。それじゃわかり合えたところで下に行こうか」
「うん」
瑠璃と紫織はベッドから立ち上がると、光誠たちの待つ一階へと向かった。
台風は激しさを増すものの、日高家を揺るがすことはできずにいた。




