十八話
日高家を囲う薄い板の塀にどこからか飛ばされてきたビニール袋が引っかかり、バサバサと音を立てたかと思うと、風に巻き上げられて空へ消えた。
さーっと撫でるような雨が屋根や庭を濡らしてすぐに止む。
鎧戸で固めた家の中では外の様子など感じることもできないし、感じたとしてもそれに伴う緊張は爆発寸前の光誠とは比べものにならなかった。
家族で唯一の男子。腕っ節も強い存在が、怒りに満ちた目で紫織を睨み付けている。
光誠は、紫織が答えるまでもなく真相に予想がついていた。
光誠の知らないところで、家庭内恋愛禁止のルールが廃止、または無効化されていると文脈から読み取れた。
それで理解できることが多々あった。
姉妹たちが急に距離を縮めてきたのも、誰もそれを止めなかったのもそのためだ。
全員が共犯者だった。
光誠は兄姉妹だと思っていた。
嘘偽りのない真面目な家族になろうとしていたのに、一人だけ空回りしていた。
紫織はおろか誰も口を開かなかった。
光誠の眼光と雰囲気にすくみ上がり、声を出せないでいた。
光誠は、紫織に続いて美奈星を見る。
この中で一番信頼していた存在なだけに、今回のことは許せなかった。
こんな大事なことを教えてくれないのは裏切りに等しかった。
それでいて中村とのことを浮気だと勘違いして怒るのだからたまったものではない。
誠実ではないのはどちらだと改めて話し合わなければならない気がした。
美奈星は光誠の視線を感じてふつふつと怒りが込み上げてくる。
非難の眼差しだとすぐに理解した。
それも家庭内恋愛解禁に関することであると読み取れた。
やましい気持ちがないとは言わない。
恋人として声を上げるべきだったと日に日に思うようになり、光誠たちが門限を破ったときに気付いた。
瑠璃と光誠の雰囲気から、間違いがあったことまでわかってしまった。
責任を感じている。
事前になにかできたはずだと。
でも油断した。
姉妹思いの光誠なら間違いは犯さないだろうと信頼し、呑気に構えていた。
その信頼を裏切られたことが悲しかった。
女性なら誰でもいいのかとヒステリックに叫びたいほどだった。
「速報が入りました。気象庁が大雨特別警報を発令しました。繰り返します。気象庁が大雨特別警報を発令しました。各自治体の指示に従えるよう準備をしてください」
テレビのアナウンサーが緊張気味の声を出す。テロップには、光誠たちのいる県名が流れていた。
いつしか日高家の屋根を激しい雨が叩きだしている。
光誠は収まりのつかない感情を無理矢理抑えて、やるべきことに優先順位を振った。
もちろんのことながら、兄姉妹げんかは後回しだ。
「台風が直撃する。喧嘩はあとでしよう。それぞれ持ち出せるものをまとめてくれ。それが済んだら居間に集合。避難するか方針を話し合おう」
光誠は不機嫌な声でそう言い残して、軍手や工具箱を拾い、自分の部屋へ戻った。
居間に残った姉妹と居候は無言で顔を見合わせた後、休戦協定を結んで各自の部屋へ戻り、荷物をまとめることにした。
「ね、ねぇ、シオリン」
階段を駆け上がるときに瑠璃は紫織へ話し掛けた。
「なに?」
まだ機嫌の悪い紫織はぶっきらぼうに答えた。
「持ち出す物ってなにをまとめればいいのかな?」
瑠璃は恥を忍んで聞いていた。今まで、こういうことは羽歌へ任せきりだったのだ。
「学生なら勉強道具。それとスマホ。瑠璃ちゃんなら楽譜も」
「あ」
紫織の心遣いに思わず感激し、瑠璃は感謝の言葉が出てこなかった。
あれだけ意見の合わないやりとりをしたあとにも関わらず、知恵を貸してくれるのは瑠璃の欲しかった家族の温かみそのものだった。
八木家では、藤華紗がしっかりしていないので、自然と姉妹があれこれとするようになり、避難の準備なども幼い頃から葵と紫織が手分けして用意していた。
「避難することになったら、泊まりに行くようなものですから」
紫織を説得しようとしていた葵も助言を付け加えた。
「姉さん」
「ん?」
「瑠璃ちゃんの面倒は私が見るから、姉さんは美奈星さんといてあげるのだ。こういうとき、兄さんだと役に立たないと思うから」
「そうですね」
落ち着きを取り戻した妹を見て、葵はようやく微笑むことができた。
必要最低限の荷物をリュックへ詰めた後、葵は美奈星の部屋を訪ねた。
「美奈星ちゃん、入っていい?」
「はい、どうぞ!」
葵が美奈星の部屋に入ると、持ち出したい物が布団や畳の上に散らばっていた。
「あ、あの散らかってます!」
「見ればわかります。勉強道具とお泊まりセットをまず用意してください」
「え?」
「美奈星ちゃんならテニスの道具なども忘れずに」
「葵さん、ありがとうございます!」
美奈星がようやく安心したようで、落ち着いて準備を始める。
葵は苦笑しながら、まだ本当の家族になっていないと痛感した。
誰がどんな風に動くのかまったく把握できていない。
形が整っただけの未熟な家族だった。
台風は迷惑だけど、いいきっかけになった。
台風が迫る中で、もめ事が起きても優先順位を間違えなかった光誠は偉いと思った。
「美奈星ちゃんは、あっくんのどこが好きですか?」
「うええ!」
着替えの下着を箪笥の引き出しから出していた美奈星が、突然の質問に動揺する。
「準備をしながらでいいですから」
葵は美奈星のことを改めて知ろうと思った。
普段の生活ではボロを出さないように振る舞っているが、いざとなれば簡単に動揺するし、今みたいに誰かが助けてくれるとどこか甘えがある。
瑠璃と似ているが、年上なこともあり、紫織とは相性が悪いように見えた。
紫織は、しっかりしていない年上をあからさまに嫌う傾向があった。
「い、言わないとダメですか?」
「言わなくてもいいです」
「はぁ、良かった」
「ただし、応援はしません」
「う」
持ちかけられたディールに美奈星は悩む。
葵は微笑みを浮かべたまま楽しそうで、本気ではなさそうだったからだ。
ただ二人の関係を認めて欲しいという気持ちもあった。
馴れ初めを語り、恋人としての市民権を得るのも大事だった。
「わかりました」
「おや、話してくれるんですか? 意外です」
「聞いておいて白々しい」
「不満を言うときはタメ口になるんですね。いえ、気にしてませんから。それでは教えてください」
葵の人を食ったような喋り方に頬がピクリと引きつりつつ、美奈星は話すことにした。
誰にも、光誠にも打ち明けたことのない告白を受け入れた理由を。
「私は、光誠くんが葵さんや紫織ちゃん、瑠璃ちゃんを守ってケンカしているのを何度か見たことがあるんです」
「そうなんですか。まぁ、自慢ではないですけど目立ちますからね」
「自慢ですね。完全に」
美奈星は、自分にはない葵の胸の大きさへついつい目をやってしまった。
「そんなに気に障りました? ごめんなさい」
「もういいです。それで、私は小学校の時から誰かに告白なんてされたことがなくて」
「え、本当ですか?」
「あーもう! これだから葵さんと話すの嫌なんですよ!」
葵の気の毒そうな顔がムカついた。
モテるものとモテざるものの差をこれでもかと刺激されて腹立たしくてしかたない。
この見た目と性格で、葵は全学年の女子から強烈に嫌われていたりする。
「あ、手が止まってます。準備は怠らないでくださいね」
「くっそ、ムカつく」
「それが美奈星ちゃんの地なんですね」
葵は少し心配していた。
岡田美奈星という女子が、ずっと猫を被り続けているのに気づいていた。
最初は遠慮しているのかと思ったが、どんな状況でも素を見せないので、なにか理由があると思っていた。
それが光誠の彼女だから親類に嫌われないようにと角を隠していた、などとは夢にも思わなかった。
「えー、そうです」
失敗だと悟る。光誠との馴れ初めを語るはずが、地金まで露出してしまった。
「どうりで最近の美奈星ちゃんは可愛くなったと思ったんです。前よりも美容に気を遣っているのは光誠のためですか?」
「う」
さすがは同性と思った。
誰もなにも言わないので、美奈星の些細な努力は気にされもしないものなのだと自信を失いかけていた。
「半分はそうですね」
「半分? もう半分はなんです?」
「この家は学校でも有名な女子が三人もいます」
「月乃さんは入れないんですか?」
「姉は女子ではないです」
美奈星はきっぱりと否定しておく。成人で成人済みだからだ。
「き、厳しいんですね」
「それで、葵さんたちと一緒に下校していると、私に刺さる視線が痛いんですよ。わかりますか?」
「わかりません」
葵は朗らかに答えた。
「でしょうね! 私だって化粧とかあんまりしたくないんですよ! それなのにあなた達みたいな美人姉妹と並ばないと行けないから、こう負けっぱなしだとやってられないんです!」
「ははぁ、美奈星ちゃんは負けず嫌いなのね」
美奈星という人間がだんだんと見えてきて、楽しくなっていた。
それは負けず嫌いという点で紫織と似ている。
末の妹どうしで、反りが合わないのもうなずける。
先ほど起きた言い争いも一歩も譲らなかった原因の一つだと思った。
「それでいい加減にあっくんとの馴れ初めを教えてくれますか?」
「葵さんが話をそらしまくってるんですからね!」
「そうでしたか? そうかもしれませんね」
自覚はないが、そういうことにしておく。
「そうですよ。それで、光誠くんに身体を張って守ってもらうのは単純に憧れだったんです。光誠くんに告白されたのはびっくりしましたけど、この人に守ってもらえるなら、それもいいかなって、思い、まし、た」
改めて心に秘めていたことを話すのは気恥ずかしく、美奈星の言葉は尻切れトンボになる。
「そうでしたか。ところで、あっくんは美奈星ちゃんのどこが好きなんですか?」
「まだ、聞いてません」
美奈星もずっと聞きたいとは思っていた。
両親の事故死や引っ越し、居候、同棲生活と落ち着かない日々にかまけて、しっかりと確認できていなかった。
キスはした。
恋人だという信頼はある。
でも、証拠となる光誠の気持ちを未だに知らない。
「ちょうどいいですから、今日聞いてみますか?」
美奈星は生まれて初めて殺意を産んだ。
人の大事な恋の秘密を面白半分におもちゃにする人間が許せなかった。
たとえそれが恋人の義理の姉であろうと睨まずにはいられなかった。
「その顔」
葵は他人の感情を鬱陶しいと思うことは多々あっても、心の底から美しいと思うことは稀だった。
周りにいるのは、愛想と打算の女子か下心が透けて見える男子ばかりだ。
決して心地よいとは言えない感情に囲まれていると、人の顔など真剣に見る気も失せた。
石膏像の方がよほど人間に見えるとすら感じ始めていた。
美奈星の顔は合格だった。
光誠の見せた家族を守るための顔にも引けを取らないほど、何かを守ろうとする本気を秘めている。
葵は、その秘めたるものを言葉で聞きたいとは思わない。
それをキャンバスに写し取り、探るように描写したい衝動に駆られた。
「面白いです」
「ケンカ売ってます?」
「褒めてます。こんなことをいきなり言うのもなんですが、美奈星ちゃんはあっくんと似た部分があります。きっと良い恋人に、もしかしたら夫婦になれるかもしれません」
葵の画家としての偽らざる感想だった。
光誠を単独で書いたときに不完全さがあった。
光誠の後ろか横にもう一人描くべきだと感じていた。
それが自分だったらと想像して、違和感を覚えた。
きっと光誠と同じくらいの強い感情を持った凄まじい存在だと思った。
その凄まじい存在に美奈星が当てはまっていた。
「そ、そんな夫婦だなんて」
美奈星は、いきなりの昇格に殺意を霧散させる。
手強いと感じていた葵からのお墨付きで気を良くしていた。
少し褒めすぎたかもしれないと思いつつ、葵は美奈星の準備が終わっていることに気づく。
「準備できましたね。集合しましょう」
「あ、はい」
葵が襖を開けて、美奈星を先に譲る。恐縮しながら美奈星が部屋から出ていった。
家族としての一歩をようやく刻んでいた。




