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イエコイ  作者: 我有一轍
三章
14/23

十四話

 トリプルデートから三日後。


 吉崎と西田は順調に仲を深めていると、美奈星から聞いた。

 このまま上手くいけば、夏休み中には彼氏彼女の関係になると言う。

 ソフトテニス部の仲良しが企図した結果になり、一安心だった。


 光誠も企業へのインターンを終えたところで、見学した現場で働く人の真剣さや丁寧さに驚いた。

 大人が高校生に丁寧語を使って説明していた。

 光誠は、ぜひともその企業で働いてみたいと思いつつも、やはり基礎の知識が違うのだと実感もした。

 工業系の高校生ならすぐにわかることをまったく理解できなかった。


 大学か専門学校へ進学しなければならなかった。


 光誠は、夕飯時にそれを相談しようとそわそわしながら席に座る。

 食卓には、そうめんと天ぷらが並んでいた。

 エアコンを弱めに掛けたむしっとした居間で、ザルの下にある氷が涼しげで、早くそうめんをすすりたくなる。


 全員が揃い、雲雀のいただきますに唱和した。



「さっそくなんだけどさ、我が家のことで妙な噂を聞いたんだけど」



 雲雀の口調はぎこちなく、光誠は不穏な空気を感じ取る。



「ウチの玄関先で光誠と誰かがキスしてたって噂なんだけど」



 母も姉妹も美奈星までが、光誠に注目した。

 美奈星だけは危機感によるもので、他は興味と関心によるものだった。



「事実はさておき、ご近所の目は気にしてよね。ただでさえこっちはスーパーで働いてて噂好きに絡まれやすいってのに」



 雲雀が、根掘り葉掘り聞かれるのにうんざりした様子だった。


 光誠は、雲雀の口ぶりに違和感を覚える。家庭内恋愛禁止というルールへ触れずに近所の目を気にしろというのは、不自然だった。

 キスなんてルール破りの最たるものなのにお咎めがない。


 母の一人、八木藤華紗は不安そうに大山羽歌を見ていた。

 それから光誠の視線に気づいて顔をしかめる。

 キスをしたことを咎められたような気がして、思わず反発したくなった。

 いつまでも保護者の同意を気にするのは不自由だった。



「うん、まぁ、キスくらいなら」



 羽歌は、難しそうな顔をして光誠を見た後にそうめんをすすった。

 家庭内恋愛禁止の提唱者も見逃す気だ。

 血のつながりのある年頃の男女が一つ屋根の下で過ごすのだから、気をつけなければならないと言って憚らなかったのに。


 光誠は不可解でならなかった。

 美奈星とのことは認めて欲しいが、一度決めたルールを守らなくて良いとなると、規律がなくなる気がした。

 最近はなりを潜めているが、以前のように姉妹たちからアプローチされたらどうするのかと不安が増す。

 特に警戒しているのが瑠璃だった。

 光誠と距離を縮めることに大らかすぎる。

 その最後の防波堤であるルールが有名無実化したら、光誠に抵抗の余地はない。

 美奈星との関係をここで明かすべきかと真剣に悩んだ。


 悩んだ末に、光誠は進学のことを相談しそびれた。




 翌朝。部活のある美奈星や瑠璃、夏期講習に参加している紫織などはいつもの時間に家を出ており、社会人たちとなれば夏休みなどない。

 食卓には寝坊組の光誠と葵が遅い朝食を食べていた。


 テレビでは夏の風物詩にもなっている台風のニュースもお馴染みだった。


 夏だろうがなんだろうが、日高家の朝食はトーストと目玉焼きとベーコン、サラダ、牛乳だった。

 朝にご飯と味噌汁を食べたいと思ったことがあるが、自分でやるには早起きをせねばならず、それをすると姉妹たちに嫌がられるので、我慢だけが唯一の選択肢だった。



「あっくん。いつものです」


「あ、ああ。毎朝、悪いね」



 葵がいつものようにきっちりと半分ずつ食べた朝食を光誠に譲る。


 今日は特にやるべきこともないので、軽い食事でもよかったが、姉の好意を無駄にできなかった。

 姉からもらったおかわりを食べていると、葵がじっと見つめていることに気づく。

 それは、人を見る目ではなかった。

 なにか品定めするような鑑定人の目つきだった。



「な、なんだ?」


「あっくん。私の絵のモデルをやってもらえませんか?」


「モデル?」



 美術室でのことが思い出されて、すぐに返事はできなかった。



「今回は脱ぎませんから」



 葵が先回りして付け加える。葵の表情は真剣そのものだ。



「わかった」



 家族で疑い合うのは気分のいいものではない。

 光誠は疑うのを放棄して、葵を信用することにした。



「なら、あとで私の部屋に来てください」


「ああ」


「それでは」



 葵が準備のために席を立つ。ライトグレーのチュニックを揺らしながら颯爽と二階へと上がった。



「モデルか」



 光誠は自分の顔のせいで起きた嫌なことを思い返し、モデルに選ばれた理由がわからないでいた。

 やれ目つきが悪いだの、やれ気に食わないなど悪目立ちしたせいで起きた騒動は数知れなかった。

 そんな男をモデルにして、葵の評価に悪い影響が出やしないかと弟ながらに心配になる。


 朝食を終えて食器を片付けた後、葵の部屋の扉を叩いた。



「どうぞ」



 葵の許可をもらって、光誠は葵の部屋に入った。

 戸締まりの際に何度か出入りしているので目新しさはないと思っていただけに、部屋の真ん中にどんと現れた五十号のキャンバスへ驚いた。



「それに書くのか?」


「そうですよ」



 椅子に座った葵が隠れるほどの大きな画材は、写し取るものに相応しい価値を求めていた。

 光誠は、自分にそこまでの価値はないと思っていた。

 画材がもったいないのではとすら心配を募らせた。



「俺でなくても」



 葵の要望に逆らかのような発言をした。



「では、私に振られて飛びかかってきた男子でも呼んで描きましょうか?」


「それは、嫌だな」



 彼らに同情はしても家に上げるような義理はない。



「自分に自信がないんですか?」


「俺は、格好良くもないし、きれいな身体をしてる訳でもない。なんで俺なんだ?」


「前に美しさの話があったのを覚えてますか?」



 葵は立ち上がってベッドへ腰掛けた。

 光誠にモデルであることを納得させなければならなかった。



「ああ。黄金比とかエントロピーとか」


「それです。でも、画家がみんな同じ絵を描く訳ではありません。自分が大切だと思うもの。それを自分の目を通すことで、美しく見えていることを知っています。その見えているものを誰かに伝えるために描くんです」


 葵にとって大切なもの。大切な人。

 それが誰なのか、葵の目を見て光誠はわからされた。


 光誠は、学校の男子が虜になる葵の柔らかな笑みを向けられて照れくさくなった。

 葵に他意があると疑い、警戒したことを恥ずかしく思う。

 葵はただ純粋に光誠のことを大事な家族だと思ってくれていた。

 光誠が守りたいと思うの同じように。



「わかった。モデルをやるよ」



 葵の熱意は本物だった。それに答えないのは恥だ。



「ありがとうございます」



 葵が嬉しそうに立ち上がる。それだけで光誠も嬉しくなった。



「それでは服を脱いでください。全部」


「ん、んん?」



 光誠は笑みを浮かべたまま固まる。なにか聞き間違えたと思った。



「ヌードモデルなんですから、服を脱ぐんです。全部」



 聞き間違いではなかった。ヌードモデルなどと言い出した。騙されていた。



「ま、待て! 俺の裸を描いてどうするんだ?」


「コンクールに出品します。あっくんの裸を」



 小首を傾げながら不思議そうな顔をする。



「しゅ、出品だと! されてたまるか!」


「大丈夫です。誰も弟の裸をモデルに描いたとは思いませんよ」



 葵は取り合わず、キャンバスに座って鉛筆を研ぎ始める。



「さぁ、みんなが帰ってくる前に軽いデッサンまでやりたいです」


「ぐ」



 美術家のように作業を始めた葵を止めることは不可能だった。



「ほ、本当に全部か? パンツは?」


「パンツもです」


「恥ずかしいだろ?」


「大丈夫です。姉弟ですから」



 ここで姉弟という言葉を持ち出すのは、卑怯だと思いつつも、葵のことを意識しすぎているのかもしれないと反省もする。

 姉弟だと言い聞かせて、Tシャツやジーンズを脱ぎ、最後に思い切ってトランクスを脱いだ。



「服はベッドの上に置いてください。そうしたら、ポーズを……」


「ポーズをなんだ?」



 葵は、素っ裸になった光誠を見て口を半開きにして固まっている。



「おーい」


「あぁっ、すいません。思わずあっくんの身体に見とれてしまいました」



 わたわたといろんな方向へ視線を散らした。


 葵もまだ姉弟だと完全な認識へ至っていないらしい。



「きょ、姉弟が意識するな」


「そうですね。ごめんなさい。それで、その、そう。私を守ってくれたときみたいに立ってくれますか?」


「守るって、告白してきた連中からか?」


「はい」


「こうか?」



 とりあえず適当に立ってみた。



「違います。もっと金剛力士像みたいにやってください」


「こ、金剛力士?」



 よくわからない葵の要望を受けて、光誠は背後に守るべき家族がいると想像する。


 葵、紫織、瑠璃、それから雲雀だ。


 ふと、恋人なのに美奈星を背後に庇ったことがないと気づいた。


 美奈星の扱いが、家族とはまだ差があった。


 いずれはその差を埋めたいと心の中で誓う。



「おや、なにか変わりましたね?」


「そうか?」



 いつでも殴りかかれる自然体。

 若干の半身で、誰も後ろにいる人物へ近づけないように立ち塞がる。

 そんなイメージで立っていた。



「ええ、顔が引き締まりました。誰を守っているんですか?」



 最後に想像したのは美奈星だ。

 美奈星と恋人関係であることを言えず、光誠は嘘をつくことにした。



「葵姉さんだ」


「それは嘘」



 光誠の言葉は、鏡にでも反射されるような速さで見破られた。


 鉛筆でキャンバスにアタリを点けながら、葵は光誠の目を、嘘までついて隠し事をした心を睨み付けていた。



「その人とキスしたんですか?」



 葵の目の色が変わっている。

 嘘を見逃さない恐ろしい目だった。

 葵は、光誠が心に思い浮かべている人物とキスをした人物が同一だと見抜いていた。


 光誠とて、そう簡単に秘密を明かすことはできなかった。

 言葉を発すればたちまち真実が露呈する気がして、沈黙を保つ。



「そうですか。そんなに大事な人なんですね」



 葵が目を悲しげに伏せた。



「別のことを聞きます。あっくんのその身体の傷はどうしたんですか?」


「これか」



 光誠の身体には細かい傷が八つほどあった。



「中学の時に暴れてたから、そのときのものだ」


「そうでしたか」



 葵は、アタリを点けながら傷の位置を正確に写し取る。



「なぜ暴れていたんですか?」


「俺はこんな顔だから、目を付けられるんだ。気持ち悪いとか気に入らないとか。理由はいろいろあったけど、結局は殴りたい顔だったってことだと思う」



 光誠の話を聞いて、葵は顔のデッサンに移った。

 顔を描く部分に少し角張った楕円がある。

 その中に一際目立つ細くて鋭い目を書き込んだ。



「私の母とは似ていませんね」


「目は、父さん譲りだ。父さんも若い頃はよく喧嘩を売られたと言っていた」


「そうなんですか」



 葵は光誠の父を知らない。


 光誠も葵の父を知らない。


 葵にとって不便があるとすれば、母が同じことだった。

 半分だけ血が繋がっていて、年頃まで一緒にいられなかったため、姉弟という感覚が希薄だった。

 時々、異性のように感じることがあり、そのせいで血のつながりもない雲雀という女性が姉のように振る舞うことへ嫉妬してしまう。

 自分でもどうにもならない歪んだ感情が、こうして光誠を裸にして立たせていた。



「姉弟なのにあっくんのことなにも知りません」


「しかたないさ」



 一緒に暮らし始めても、光誠の顔をまともに見る機会は少ない。

 子供の頃から見慣れていればこんなことで悔しく思ったりしないと、葵の集中が乱れそうになる。

 こういうときにちらつくのは、雲雀の顔だ。

 姉の地位を奪った憎い存在だった。



「あっくんは、私のことを知りたいとは思いませんか?」



 姉としてあるまじき質問だと自覚していた。

 姉であるのになにも知られていないのは、雲雀に負けているようで落ち着かない。



「姉さんは、いつから絵を描いていたんだ?」



 聞かれたことも話したこともなかった。

 妹の紫織は、慕ってくれるが介入しない。

 勝手に分析して納得するタイプだった。

 光誠の弟らしい質問は、思わずデッサンが止まるほど嬉しかった。



「私が絵を描き始めたのは保育園に入った頃。友達に絵の上手い子がいて、その子の描く絵を真似したのが始まりです」


「保育園。よく覚えてるな。俺はほとんど覚えてない」


「覚えてるものですよ。でも、その子は引っ越しで会うことも遊ぶこともできなくなりました。それからずっと私は一人で絵を描いています」


「保育園からずっと一人で?」



 光誠の表情が崩れる。

 心にいた誰かが消え、葵へと意識が移った。

 嬉しかったが、デッサンが狂うので少し残念だった。



「ええ。そのときの父は、私の父ではありませんでしたから。心を閉ざしていたんです。母も心配してました」



 光誠の顔が再び引き締まる。

 葵のことを忘れて、キスをした人に戻ったのだと思った。



「え」



 光誠の顔は、描きたかった顔のまま葵の目をしっかりと見ていた。

 葵を忘れていない。葵までもその背中で守ろうとしていた。



「どうかしたか?」


「い、いえ。あっくんは、私のことも」



 葵は言葉にするよりも今の顔を描き取ることに最大の集中力を注いだ。

 葵の過去を知ってより強くなった眼光。

 その瞳の中に移る姉弟への優しさ。

 全身に傷を負った大きな若者が、悲しい過去という化け物に敢然と立ち向かう。

 そんなストーリーを書き込んでいく。



「そうですね」


「なにが?」



 夢中になって光誠の裸体を描いてせいか、力の入れすぎで鉛筆を握る親指が痛くなっていた。

 休憩も兼ねて、葵は自分の話をしたくなる。紫織にも知られていない姉弟ならではの話を探していた。



「あ、あれを見てもらいます」


「ん?」



 葵は、下着の詰まった引き出しを開けて、奥から二度と身につけないとして封印した下着を取り出した。



「見てください。これは私が中学二年生の時に買った下着です」


「な」



 光誠は開いた口が塞がらなかった。


 掲げてみせる葵の顔が見えるほどに透けたデザインもさることながら、今の葵と遜色ない大きさのブラジャーだった。

 姉の発育の良さに不思議な感動が込み上げる。



「こういうのを買って大人ぶってたんです」


「そ、そうか」


「早く大人になって家を出たいと思ってました。紫織には悪いですが、どうにもそのときの父とは馬が合わなくて」


「へ、へー」



 光誠はたくましい想像力が嫌になっていた。


 中学生のときの葵がその下着を着けている状態を想像してしまい、身体の一部が反応していた。



「どうかしましたか?」


「いや、なんでも」


「あ、あっくん!」



 葵にも気づかれた。



「あ、いや、これは」


「なんてことですか! デッサンが狂います! 今すぐ小さくしてください!」


「すぐには無理だ」


「じゃあそのまま描きますよ! いいんですか!」


「よくない!」



 光誠と葵はもめにもめた末、小さくなった状態を午後にもう一度見せるということで妥協した。


 が、光誠は葵に見られるだけで反応してしまい、臨戦状態を描き写されてコンクールへと出品されることになった。

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