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レディースウォー  作者: 定秋
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彼女たちの戦争

プロローグ


 俺は女が嫌いだ。

 女はすぐ群れる、すぐ泣く、すぐ陰口を叩く。

 群れて孤立した人間を虐げ、泣いて責任逃れをしようとし、陰口をたたいて人の尊厳を貶める。

 男尊女卑にわめいて男女差別を主張するくせに、レディースデイで特別扱いされることに不満を漏らすことはない。

 もちろん女にだって男を嫌う理由はいくらでもあるだろう。

 結局男と女はどこまで行っても理解し合うことは有り得ない。

 別に世の中の女性の全てが群れたり泣いたり陰口叩いたりする訳じゃないだろうし、男だって群れて泣いて陰口を叩く。

 まあ、これは俺の目に女という生き物がどう映っているかということであって、俺の女嫌いの理由とはあまり関係がない。

 俺が女が嫌いなのは、俺の大嫌いな姉と妹が女だからだ。

 俺の家は古くから続く武術の道場で、当然俺も当主である親父から武術を受け継いでいる。そして、五つ年上の姉もこの武術を継いでいる。

 そんな姉は、心身を鍛えた身も心も清廉なる武道家。ではなく、鍛え上げた力で俺を虐げて喜ぶ外道だ。

 五年という歳月の差は大きく、こと戦うことに関して俺は姉に到底歯が立たない。女が弱いなんてのは嘘っぱちだ。

 二つ年下の妹は面倒臭がって武術に手を出さなかったが、血筋なのだろう。運動神経が良く、学校ではスポーツで活躍して人気者だ。だが勉強はできない。

 そんな妹は、姉に虐げられ続けている俺を見て育った為、俺が虐げられるのは自然の摂理だと思って成長した。だから年上を敬うとか、そういう態度が俺に対しては微塵もない。

 世の中、男は女に手を上げてはいけないと、それはタブーだとされているが、そんなことは知ったことではない。

 俺は、俺がバイトして買ったゲームソフトを妹が小遣い欲しさに勝手に売り払ったことを問い詰めても、なんの謝罪も反省もないという態度に、妹の顔にハイキックを入れようと本気で思ったこともあれば、それを見て妹をイジメているのだと決め付けた姉に綺麗に顎にハイキックを入れられ三時間昏倒したこともある。

 妹の方は、まだ嫌い程度だが、俺は姉に対しては、時には殺意まで抱くこともある。

 そんな実の姉と妹が女だから、俺は女が嫌いなのだ。

 妹萌え?姉好き?シスコン?考えるだけで吐き気がする。

 容姿は人並み以上に優れた姉妹だけに、周りの男友達からは羨望の眼差しを向けられることもあるが、代わってくれるなら土下座してでも、銀行口座の手帳を渡してでも代わってもらいたい。

 そりゃ世の中には、兄か弟が、姉や妹を好きになるなんて突然変異を起こした兄妹、姉弟も皆無じゃないんだろう。そういうことも全体の数パーセントの割合で有り得ているんだろう。

 だが俺に限っては、それは絶対に有り得ない。

 俺は大学を卒業して就職したら、姉と妹には住所を教えずに一人暮らしをすると心に誓っている。その為にバイトをして貯金をしている。親父にも明言している。

 きっと俺は一生彼女なんて作らず、結婚もしないだろう。当然、将来我が子をこの腕に抱くことは絶対にないに違いない。

 いつかこんな俺を包み込むような心の広い可愛くて優しい女性が、俺の凍り付いた心を溶かしてくれるなんて希望なんぞこれっぽっちも抱いていない。

 そう断言できる程に、俺は女が嫌いだ。

 それ程までに女が嫌いな俺が、何故こうなったのか、ただこれっぽっちも理解できないが、どういう訳だろう……。


 薄暗い森の中で、俺は大勢の半裸の女たちに囲まれ、武器を突きつけられているのは。



第一章 姉と妹


「なあはじめっち、今日合コンがあるんだよ合コン、はじめっちも参加してよ」

 まだ夏の名残で暖かさの残る秋の初め、大学一年も半ば過ぎ去り、大学の生活に慣れ、青春を謳歌しようとする学生が多い。

話を持ちかけてきた友人も典型的なその一人だ。

「はじめっちって女の子に対して寡黙なところがあるから声かけづらいらしいんだけど、結構女の子の評判は良いんだよ?行こうよ合コン」

「やめとけって。はじめが合コンとか、絶対ないから」

「そうなん?そっかーやっぱ本当なんだ。はじめっちがホモだって話」

「誰がホモだ」

 適当に流していたらホモ扱いされかけてツッコミを入れる。

 危うくホモにされかけた俺の名前は(にのまえ)(はじめ)、漢数字の一を二つ並べるだけという、恐らく明治に日本国民が名字を持つことを義務付けられて以来、最もシンプルな名前だろう。そんなにもシンプルな名前だが、字面だけを見た場合に、この名前を読める人間は全くと言って良い程にいない。それができたのは現国の教師くらいだ。

 身長は百七十半ばで平均的、頭髪は長くなると鬱陶しいので常にやや短めをキープしている。女の目を気にする習慣がないので、黒のパーカーにジーンズと、全く飾り気のない格好だ。

「断じてホモじゃないが、俺は女が嫌いでね。好きこのんで女子と絡むイベントに行きたくはないね」

「だよなあ。はじめが合コン行くとことか、想像できないわ」

 もう一人の友人は、中学高校と同じだった為に、俺の女嫌いを知っている。その理由も。

 大学が、住んでいる土地の最寄駅から三駅しかない為、通学の手軽さからこの大学に通っている顔馴染みは少なくない。

「そういうことだから、誰か別の奴を誘ってやってくれ。俺を誘ってくれるなら、女子が絡まない時に頼む」

「マジか。そしたら俺は一生はじめっちを誘う機会はないかもしれん……」

「好きだなあお前」

「当たり前じゃん。だって男の子だもん」

 自分が女を嫌いだからといって、女好きを責める気はない。俺の女嫌いはあくまで俺自身の問題だからだ。

 友人との会話を終え、その日の授業も全て終わり家路につく。

 今日はバイトもないし、所属している陸上部の練習も顔を出すだけで切り上げた。元々高校で陸上部に所属していてそのスポーツ推薦でこの大学に入学した。真面目に勉強して入れない程頭が悪い訳ではないが、結果が同じならあえて難しい道を行く必要はないと思ったのだ。

 自主トレは欠かしていないし、定期的なタイムの計測では好成績を記録している為、部活には顔だけ出して練習に参加をしなくても、先輩達からも煩く言われることもない。陸上部の先輩の中にも、やはり同じ土地の出身者がいるので、察してくれているのだ。

 夜七時前、家に帰ると、自分の部屋へ直行し、録画したビデオの確認をする。今日の午後四時過ぎに、ドラマ『走る大走査線』の再放送最終回があったのだ。本放送を見ていなかった俺は、主人公の黒嶋警部を中心に巻き起こるドタバタ逮捕劇を毎週楽しみにしていた。

 先週の、黒嶋警部の同僚が凶悪犯に撃たれた続きを、気になってもレンタルやネタバレには手を出さずに今日まで我慢したのだ。

 はやる気持ちを抑えながら、ビデオが巻き戻るのを待つ。

 ガチャリと音がして、自動で再生がかかった。

 ほんの数分コマーシャルが流れて、画面右上に表示されている時計が四時を示すと同時に番組が始まった。

「……なんじゃこりゃあ!」

 同僚の山下が撃たれた直後から始まるはずの走る大走査線が、何故か若手イケメンの歌手なのかタレントなのか良く分からない男達がメインを務めるコメディ番組にすり替わっている。

 何かの間違いかと思い早送りのボタンを押しても、そのコメディ番組がキュルキュルと音を立てて倍速で流れるだけだった。

 そこではたと気付く。部屋に入った時には、録画したドラマを見るのが楽しみで気付かなかったが、テレビを置いている台の陰に、ビデオテープが一本転がっていた。

 手にとってラベルを確認すると、そこに書いてある文字は俺の手書き文字で、ラベルに記された文字は、それが走る大走査線を録画していたビデオテープであることを示している。

 一体何があったのかと、ビデオデッキから今収まっているビデオテープを取り出すと、そこには丸みを帯びた十代の女にありがちな筆跡で「未姫②」と記されていた。

 そのテープを鷲づかみにして、部屋から飛び出し、隣の部屋の扉をノックもせずに蹴り開ける。

「おい、こりゃいったいなんだ」

 怒り浸透してむしろ平坦な声で言ってから、妹が高校の制服から部屋着の服にちょうど着替え終わる直前だということに気付く。

「いち兄の変態!何勝手に入ってきてるのよ!」

 妹は、下は制服のスカートからジーンズのズボンに履き替えた後だったが、上はピンクのセーターを着るところだったらしく白いブラジャーが見えている。

 ノックもなしに妹の着替えの最中に部屋に押し入る。確かに普通に考えれば変態の所業かもしれない。

 だが妹も姉も、しょっちゅう風呂上りにバスタオルを巻いただけの格好で家の中を闊歩する為、今更下着姿くらいでうろたえるはずもない。

「どうして俺の部屋のビデオデッキの中にこんなもんが入ってる?」

 妹の言葉を無視して問いかける。

「っぷはぁ。あ、持ってきてくれたの?さんきゅー」

 ピンクのセーターを頭から被り、やや細くなっている襟から頭を出すと、妹は感謝の言葉と共に俺の手からビデオテープを取った。

「いやー、今日いつも私が録画してる番組の裏番にトッキーが出るって言うから、いち兄のビデオ使わせてもらっちゃった」

 妹は、さも当然のように無邪気に言った。

「もらっちゃった。じゃねぇよ。録画予約入れてたの分かったはずだろ。なに勝手に解除してんだよ」

「えー?だっていち兄の録ってるの大捜査線でしょ?DVD出てるんだから借りてくれば良いじゃん」

「なんで録画すればタダで見れるもんを金だして借りなきゃいけねーんだよ。今すぐお前が金出して借りてこいや!」

「どうして私がお金だすのよ!見たいのはいち兄でしょ!自分で借りてきなさいよ!」

 逆ギレを始めた妹に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

「ふざけんなー!」

 妹は、背中の肩甲骨の下辺りまで伸ばした髪を左右でまとめておさげにしているが、俺はその二本の束を掴んで思い切り上に引っ張った。

「痛い痛い!やめろ変態!」

 兄を敬わない妹とのやりとりは、万事がこんな感じである。

 俺は妹のおさげを掴み吊り上げ、妹は俺の足を思い切り踏みつける。その応酬の中、玄関から声が響いた。

「ただいまー」

 その声に俺の動きが一瞬止まると、それを好機と妹は俺の束縛から逃れると、部屋を飛び出して玄関へと逃げ出した。

「えーんいち姉ー。いち兄がいじめるよー」

 帰ってきたばかりの姉の胸に飛び込んだ妹は、嘘泣きをしながら俺を悪者にした。

「あんた、また妹いじめてんの?ちょっと元気が有り余ってるみたいね。ちょうど良いわ。少し身体を動かしたい気分だったから付き合いなさい。十分で準備して道場よ」

「ちょっと待て!俺はいじめてた訳じゃない!元はと言えばこいつがっ」

「あ?何口答えしてんだ?」

 一瞬にして、割と洒落にならない程に凶悪な目付きになり、有無を言わせないドスの効いた声でさえぎられた。

「わ……わかった」

 ここで選択を誤ると血を見ることになると一瞬で判断した俺は、渋々部屋に戻って支度をすることにした。

 この家は、生活の為の家屋の横に道場がある。小学校の体育館をもう少し小さくした程度の大きさだが、個人の家にあると考えればそこそこの広さである。

 親父はこの道場で空手を教えることを生業としている。昼下がりには暇と元気を持て余した主婦を、夕方にはその子ども達を、夜には会社帰りの成人を相手に稽古をつけている。

 胴着に着替え、しっかりと帯を締めて道場へ向かう。

 既に子ども達は親に連れられて帰っていて、社会人の部の時間は夜八時からなので、まだ三十分以上も時間がある。一汗かく程度なら十分な時間だ。

「お待たせー」

 いつもは流しっぱなしの腰のやや上まで届く長く艶のある黒髪を、頭の上で束ねてポニーテールにした姉の一姫(いっき)がやってきた。黒いタンクトップの上から胴着を着ているが、この格好だと豊満な胸の凹凸が如実に現れる。もちろん、こんなものは見慣れているので自然な風景だが。

 一姫は礼もせずに道場に足を踏み入れる。大概の武道家の道場で考えれば無礼もいいところだが、俺も礼はしていない。

 ここを空手の道場として通っている人間には、親父が礼は大事なものだと教えているが、この家の人間はそれを意識していない。

 この道場は、建前で空手をしているだけで、この家の人間は厳密には空手という武術の流派を継いでいる訳ではないからだ。

「それじゃ、十分の流しで組み手ね。なに警戒してんの。そんなビビんなくても、きちんと手加減してやるわよ」

 姉の言葉には反応せずに、すぐにでも動けるように集中し、全身の神経に意識を走らせる。

「それじゃ、始めるわよ」

 姉が道場の隅にキッチンタイマーを置き、すぐに俺の正面につく。

 左足を前に出し、右半身を引いて半身の姿勢。互いに同じ体勢をとる。

 姉は怪しげな微笑を浮かべどこから手を出そうかと考えているようだが、俺は姉がどこから攻撃してきても対応できるように感覚を研ぎ澄ませて姉の動作を見張る。姉は流しの組み手、つまり軽めのスパーをすると言ったが、この女の言うことは、何一つ信用してはいけない。

 始まりは姉の一手、初歩的な左の突き。当然右腕でいなす。右腕を動かした反動で若干前に出た左半身の脇を狙って右の鉤突きがくる。これも左腕で叩き落とす。

 直後、姉の左足が跳ね上がって俺の頭を狙った。右腕を引き、左腕も降ろし気味になって両腕がやや下がり顔のガードが甘くなったところを狙ってきたのだ。左右のワンツーからの蹴り。全てが基本的な動きだが、一切の無駄なく流れるような一連の攻撃は、基本であっても驚異的な技だ。

 しかし、昨日今日初めて姉と手を合わせている訳じゃない。やや上体を後ろに逸らせてすれすれで上段の蹴りをかわして、数歩分だけ後ろに下がる。上段蹴りという大技を出したことで次の一手に繋げなかった姉と距離を取ることに成功した。

 始まってから二秒ちょっとの出来事である。

 両足を地に付けた姉が、続けざま攻撃を繰り出す。

 突きがくれば受け、かわし、蹴りがくればかわして、流して、いなす。よく、蹴りは突きの三倍の威力がある等と言う話があるが、倍数はともかく、実際威力という意味で蹴りは突きよりも破壊力が上だ。反応が間に合わなければ足なり腕なりで受けることになるが、受けるだけで鈍器で殴打されたような衝撃が身体を襲うことになるので安易に受けようとしてはいけない。この姉の蹴りならばなおさらだ。

 姉の攻撃は止まらない。

 組み手とは言ったものの、ほぼ防戦一方である。反撃する機会が全くない訳ではないのだが、その機会をなんとか拾って攻撃を入れようとするも、その一瞬後にくる姉の攻撃への防御が甘くなる為、ダメージ覚悟になる。そして、姉からダメージを受ければ俺の戦力は一割程減るだろう。なので、ダメージ覚悟の攻撃などできるはずもない。

 姉の攻撃の方が、強く、速く、重いのだ。

 この組み手、一方的ではあるが、もし素人の傍観者がいたら、全く流しているようには見えないだろう。それ程までに姉の攻撃は素早く的確であり、俺は本気でそれを防いでいる。

 これが本気ではないと言える根拠は、この攻防がほぼノンストップで、既に決められた十分も後半に差し掛かっていることだ。

 一般的な格闘技は一ラウンド三分程度だが、人間が全力で動けば、それがプロの格闘家であっても三分も動き続けることは不可能だ。陸上の短距離走の選手は百メートルを十秒程度で駆けることはできても、一キロを一分四十秒で駆けることはできない。

 あと、姉が本気だったら、五秒と持たない。かわしようのない一撃で、防御の上から撃沈される。

 そして、組み手も終盤にさしかかった今、俺は更に神経を研ぎ澄ませて感覚を鋭敏にする必要があった。

 俺を痛めつけることでストレス解消をする姉は、必ずどこかで致命打を撃ってくるからだ。何度となく行われているこの組み手で、俺はその致命打を防げたこともあるし、防げなかったこともある。そして防げなかった日は、漏れなく俺は道場の床にキスをしている。

 残り一分。

 明らかに何かを仕掛けてくることがまる分かりで、姉の方から距離を取って動きを止めた。俺は一層警戒を強める。

 始まりと同じ左前の半身から、姉は素早く一歩右足を踏み込み、後ろになった左足で前蹴りを突き出してきた。

 対峙状態からの前蹴りなど、普通直撃するものではない。当然姉の重心である右足側に身体を移動させてかわす。そこへ俺の頭部目掛けて、蹴った足を床に降ろした姉の左手の手刀が、俺の右側頭から刈りとらんばかりに横薙ぎに繰り出される。

 普段実戦でも組み手でも滅多に手刀を使うことはない為、一瞬だけ動揺するも、首を竦ませることで、姉の手刀は俺の頭髪を掠めて俺の左半身側へ抜けて行った。更にそこから、その手刀を握り、来た道を戻るように裏拳が帰ってきた。

 手刀より破壊力の高い裏拳を、首を寝かせてやり過ごす。

 かわされて当然の前蹴りに、セオリーにない手刀からの地味に手堅い裏拳。この一連の攻撃が、今日の一撃の前兆だと本能的に察し、この後来るであろう俺の尊厳を砕く一撃に全神経を集中する。

 通り過ぎていった姉の左手が、まるで俺が寝かせたことで掴みやすくなった頭を鷲づかみにするつもりかのように力強く開かれた。

(きたっ!)

 視界の片隅で開かれた姉の左手に意識を集中し、何が来ても反応できるように動き易い体勢に立て直そうとした瞬間、腹部に衝撃がきた。

 痛みとかそういう明確なものではなく、圧力とか衝撃とか、正にそういう事象めいた何かだった。

「ッガ、ゲハァッ!グ、グゥウゲェェッ!」

 気付けば俺は涎をたらしながら喘いで道場に横たわっていた。

 口から内蔵を吐き出せそうな苦痛にのたうつ。

 膝だ。

 視界隅の左手に意識を取られた瞬間、完全に下方への警戒を怠って、そこへ膝蹴りが直撃したのだ。冷静に理屈で考えて理解したのではなく、この痛みと言うには重過ぎる腹部を襲う衝撃は、膝蹴り特有のものだ。

「いやー……。人から借りた格闘漫画でやってたから、使えるのかと思ってやってみたんだけど、こんなにも綺麗に入るとは……。あんた、頭掴まれるとでも思ったの?あんた如きにそんなことすると思うの?あんた何度寝かされても本当に成長しないわね」

 姉が言っていることが耳から聞こえてはいるが、その内容はほとんど理解できない。今はそれどころではなかった。

 今も大口を開けて喘いでいる俺の横顔に、冷たくカサついた何かが押し付けられた。足だ。

「本当は金的なり顎なりを狙うらしいけど、流石に弟を不能にしたくないし、流動食しか食べれなくするのは忍びないから腹にしといたのよ。感謝しなさい。ったく、これに懲りていい加減妹イジメるのやめんのよ。じゃ、夜の部の前にはちゃんと片付けときなさいよ」

 横たわっている俺の顔を踏みつけた姉がそういい残して、家の方へ去っていった。

 まったく見当違いの姉の言い分に怒りすら沸いてこない。本当にそれどころではなかった。

「ェッ、ウグェ、ガァ……」

 生命の危機ぐらいから、夕飯が食べられるかどうかくらいまで鈍痛が治まった俺の頭の中に浮かんだのは、これが夕食の後じゃなくて本当に良かったということだ。

 もし夕食の後だったら、間違いなく胃の中のものを全てぶちまけて撒き散らしていたことだろう。

 夕食前で本当に良かった。

 そして俺は、今日も人としての尊厳を傷つけられ道場の床にキスをしているのだった。

 

「何が手加減だ。俺じゃなかったら死んでるっつーの……」

 夜十時過ぎ。愛用の黒いウィンドブレーカーに身を包んで、日課のランニングに備えて準備運動を行う。

 この家は山の麓にあり、家の正面に立って見上げると、そのまま家屋の背面には、木々に覆われた小さな山が広がっている。

 この山は駅周りの街や、さらにその周りを囲む住宅街から程よく近いということもあり、よくモラルのない輩がサバイバルゲームや、キャンプ気分を味わいたさに焚き火をする為に勝手に入り込む。

 この山は、この家が管理している土地でもあるので、そういう輩がバカなことをしないように見て周るのがこの日課のもう一つの意味でもある。

 頭のおかしな連中と揉めることも多いが、悪いことばかりだった訳でもない。この山で遊んでいた女の子が迷子になってしまい、夜遅い時間になっても帰れず泣き喚いていた所を発見できたケースもある。

 親御さんには感謝されたが、当の女の子に気に入られてしまい「おにいちゃんはあたしのおうじサマだね!わたしおにいちゃんのおよめさんになる」と子どもらしい常套句を投げつけられた時は、年齢に関係ない異性への拒絶反応で顔を引きつらせながらも笑顔を維持するのがしんどかった。

 そんなこともあるので、この鍛錬はそれなりに大事だ。

 先程の腹部のダメージを確かめるように、念入りに身体をほぐす。

 大事には至らなかったものの、親父の作った夕食を食うにはダメージが大き過ぎて、こういう時の為に常にストックしてあるゼリータイプのエネルギー飲料が今日の夕食になった。

 それでも二時間もあれば、走れる程度には回復する。日々の鍛錬の賜物だ。

 一般人があの膝を貰ったら、冗談ではなく内蔵が破裂している。あの女はいつか冗談で俺を殺す日が来るんじゃないかと、俺は常に恐怖していた。

 この理不尽と虐待の日常が、俺の女嫌いの原因だ。

 物心ついてある程度記憶が残っている四歳くらいの頃から、俺の人生はずーっとこんな感じだった。血筋と業があって身体を鍛えてはいるが、どちらかと言うと、身体を鍛えなければ生きていけなかったら鍛えていたと言うほうが正しい。それが俺の生きた十九年だ。

 今回は腹を強く打たれたくらいで済んだが、姉の気分次第では失神させられたり、最悪骨の一本も折られることだってある。今日の姉の気分は、まぁ並と言ったところだろう。

 小さな頃は、強くなって姉を見返したいという夢物語を抱いたりもしたが、今はもうそんな幻想は捨ててしまった。あれには勝てない。この十年くらいで俺の脳にはそれがこの世界の摂理であると植え付けられた。

 準備運動を終えて息を整えると、痛む腹に呼吸を合わせながら走り始める。

 このランニング兼山のパトロールは、昨日今日、俺が始めた訳ではなく、この家の人間が代々行っていることなので、少し昇ってその高さを一周するルートで地面が踏み固められて小さな道ができている。決して走りやすいように平坦ではないが、ごつごつしてバランスを崩しやすい道を走るのも、足腰を鍛えるのに大いに役立っている。

 勾配がキツく、慣れてない人間が走れば足をくじいてもおかしくない道を軽快な足取りで走って登っていると、上り坂の終わる辺りで青白い光が灯るのが見えた。

(もう夏休みって時期でもないだろうに……)

 この山をキャンプなりゲームなりに使用しようとする人間は、何気に俺自身の通っている大学の学生であることが多い。

 この時期、夏休みが終わって遠出するのは面倒だが、ちょうど良い場所にあるこの山なら手ごろだと軽い気持ちでやってくるのだ。特にこの辺りの土地について知る機会のなかった一年目の学生が多い。どうせ小さい蛍光灯式のランタンを囲って他愛のない話で盛り上がっているのだろう。

 この山が家の土地だという理由を除けば、無理に止めさせる理由はあまりないのだが、今回のように蛍光灯などの事故に繋がりにくい物ならまだしも、中には火を焚く輩もいて、山火ことになりかけた例もあるので、甘い気持ちで見逃すと大惨事を招きかねない。

 面倒事が待っていると思うと鬱屈した気分になるが、見て見ぬ振りをする訳にもいかず、速度を緩めず坂を登って行く。

(なんだ、あれ)

 行き先で煌いている青白い光に違和感を覚える。

 光源が近づくほど、当然と言えば当然だが光が大きくなっていく。しかし、距離がどうとか言うレベルではなく、蛍光灯なんかで出せる大きさの光ではない。少なくとも今までこんな大きな光が灯された例はない。

 どんどん光度を増して膨らんでいく光は、光源まで百メートルの辺りまで近づいたところで今度は小さく萎んで、元の蛍光灯程度の光に戻っている。

 勾配を登りきって光源に辿り着くと、キャンプなどをするには丁度良く拓けて平坦な場所にある井戸から光が漏れているのを発見した。

 井戸?

「こんな所に井戸なんて……ないよな」

 昨日今日この山に登って走っている訳ではない。こんな所に井戸なんてないはずだ。

 しかし現実には、目の前に井戸がある。それも真新しい石材を使って造られたばかりの物ではなく、まるで数十年も前からここにあったと思えるほどに、腰の高さの辺りまで積まれた無数の石は角が取れて表面も所々風化して削れている。

 有り得ない場所に出現した井戸が、その底から青白い強い光を放って、それが辺りの木々を照らしている。ドッキリにしては存在感と臨場感が強すぎた。

「はは、漫画かよ……」

 警戒しつつ慎重に井戸へと近づく。

 井戸の淵へ辿り着いて、まるで覗きでもするかのようにゆっくりと淵の内側へと顔を動かして底を見ると、底には強すぎる光が見えるだけだった。

 底で何か光る原因があるとかではなく、光そのものが次から次へと湧き上がっているような感じだ。

「なんなんだよこれ……」

 予想していた事態とは大分違ったが、現実感のない目の前の事態は、俺一人で対処できる現象だとは思えず、真面目に考える気も失せた。

「昨日までこんな物なかったのに、なにがどうなったらこんな物が一日で出来上がるんだ?」

 光るだけで特に何も起こらないので、どうしたものかと困って井戸の淵に腰を降ろす。

 それが間違いだった。

「え?なっ!?」

 掃除機に吸い取られるゴミはこんな気持ちなのかと思うくらい、唐突に井戸が吸引を始めた。

 井戸の造りが頑丈だったのが救いで、吸い落とされる直前で身体を支える為に淵に手を掛け上体を起こす。

 鍛えられた身体である。それぞれの筋力を駆使すれば多少の引かれる力を振り切って井戸から逃れるくらいは余裕である。はずだった。

「ぐっ!」

 二時間と少し前に腹に喰らったダメージが、ここにきて腹筋の機能を著しく低下させた。

 腹に感じた不快感に、一瞬全身が固まってしまう。その一瞬が命取りだった。

「うわっ。うわああああああぁぁぁぁぁぁぁ」

 井戸の淵に掛けた手が外れ、身体が完全に真下を向いて俺は井戸の中に落ちた。


 一人の青年が光を放つ井戸へと吸い込まれた後、まるでその井戸は砂でできていかのように、小さな光の粒子になって崩れて消えてしまった。

 そこには青年が前日まで毎日のように走っていた、踏み固まれて雑草も生えていない硬い土の地面があるだけだ。

 そして、光る井戸も、そこに落ちた青年も、消えていく井戸も、それを見ていた者は存在せず、残るのはこの世界から一人の青年が行方不明になったという事実だけだった。


 理性と本能が生き残る為に身体を動かした。井戸の内壁の二箇所以上に身体や手足を押し付けることで落下を食い止めようとする。しかし、何故か何も触ることができなかった。

「なんでっ!」

 落下しつつも冷静になって周りを見ると、既に井戸の内壁は存在せず、ただただ白い光の中を落下していた。落下地点をまともに認識できない落下は、まるで現実感がない。それでもいつかは底に叩きつけられて、ぺしゃんこになって潰れて死ぬか、身体中の骨が折れて動けずに、やはり死ぬのだろう。

 しかし、本当にいつまで経っても白光が続くだけで、底どころか白以外の何も認識できない。

 このまま延々とただ光の中を落ち続けるだけなんじゃなかろうかと思うほどだ。存在し得ない井戸に落ちただけに、そうなっても不思議ではない。

 変化は唐突だった。

 白が一転して黒に変化した。その境目がまるで黒い地面に接近したようで、本気で死ぬと思った。

『君にお願いがあるんだ』

 結構な速度で落下しつつあるのに、誰の声とも知れない声が耳に響いてきた。

『今のままじゃあの子達には未来がない』

 誰だあの子達って。というかお前が誰だ。

『これから君が出会う子達だよ』

「人の考えが分かんのかよ!」

『あの子達は滅びに向かっているんだ。そしてそれに気付いてない』

「こっちの言葉はスルーか!?」

『時間がないんだ。あの子達の未来には、外からの知識が必要なんだ。君の世界に特異点として道を作るのは大きな賭けだったけど、君を得ることができた。君にあの子達を救って欲しい』

 どうもこちらの思考に反応する辺り、コミュニケーションが取れない訳じゃなさそうだが、向こうの事情を押し付けてくるばかりで、こちらの事情はお構いなしのようだ。

 とりあえず落ちる以外に出来ることがないので、黙って聞いておくことにした。

『ああ、もう時間がない。君に……子達を…』

 まるで携帯電話の電波受信感度が悪くなっきた時と同じように、声に間隔が空き始めた。

『向こ……必……言語………そう…』

 もうほとんど何を言っているか聞き取ることが出来ない。

『あ……たの……だ』

 最後の方は何を言っているのかさっぱり分からなかったが、その声が聞こえなくなると同時に、再び周囲は白一色に移り変わった。

「一体なんだったんだ?」

 正体不明の声の話からすると、どうやら俺はこの後どこかの世界に連れて行かれるようだが、このまま地面なり何なりに叩きつけられて死ぬことはないということだろうか。

 そうであれば有り難い話ではあるが、既に理解不能のこの超常現象の最中、それを鵜呑みにして良いものかどうか……。

 鵜呑みにするのであれば、俺は誰かを救わなければならないらしい。あの子達と言っていたから、複数なのか。

 落下している事実に目を背けながら考えていると、とうとう終わりが近づいてきたようだった。

 落ちていく先に、小さな点が見える。それは穴のように見えた。

 その穴は、落ちて近づけば近づくだけ、少しずつ大きくなっていく。どうやら俺が落ちた井戸と同じくらいの大きさらしく、その穴に向かって一直線に落下しているようだが、その穴に上手く入れないとどうなるのかと予想してぞっとする。

 そんな不安とは裏腹に、俺はその穴に突入した。それと同時に不思議な感覚が身を包む。それこそ本当に井戸に落ちて水の中に突入し、少しずつ落下の勢いが失われていくようだった。

 不思議な抵抗が失われると同時に、落下していたはずの俺は、重力に反して飛び上がっていくような感覚に襲われる。

 どうやらその感覚は正しく、井戸に落ちた俺は、今度は井戸から吐き出されるが如く、井戸から飛び出したらしい。

 先程の抵抗のおかげだろう。そこまで高く飛び上がることもなく重力に引かれて落下し、地面に叩きつけられはしたが、予想していたよりも衝撃は軽い。

 数メートル地面を転がった後、身を起こして辺りを見回すと、そこにあったのは俺が落ちた井戸そのものだった。

 場所の雰囲気も落ちる直前の山中に似ているが、そこは純粋に森の中であり、本来あるべき道も、俺が登ってきた坂もない。

 俺は少しずつ冷静さを取り戻し、身体に怪我がないことを確認する。動くに支障のある怪我はないが、相変わらず腹が痛かった。

 身体の状態を確認したら、次は現状の把握に努めようと周囲を見回す。人の姿は見えないが、遠くから複数の人間が行動しているらしい喧騒が聞こえてくる。

 人が争うような怒声に、硬い物がぶつかり合う乾いた音。時代劇で、武士が刀で戦争をする時の音が大体こんな感じだった気がする。しかしこの科学の時代にそんな戦争はないだろう。

 更に詳しく現状を把握しようと一歩踏み出そうとした時、傍らで起こった変化に驚愕した。

「おいおいおいおい、ちょっと待てよ!」

 俺を吐き出した井戸が、光の粒となって少しずつ崩れ始めていた。

「こういうのは普通、元の場所と繋がるセーブポイント的なものになるんじゃないのか!?」

 俺の馬鹿な独り言を余所に、井戸はただただ光となって崩れていく。

 軽くパニックになりかけている俺の耳に、更なる変化を告げる声が届く。

「きゃあっ!」

 小さく響いた女の悲鳴。

「人の声?」

 訳も分からず放り出された場所に、自分以外の人間がいるという可能性が、俺に井戸の崩壊を忘れさせた。

 声がした方へ歩く。茂みを掻き分けて抜けた先、月明かりを遮る木々の枝が途切れて、空から射し込む月光の中に二人の人間を発見した。

 二人とも女で、一人は刃を持って立ち、先程の悲鳴の主であろうもう一人は、地面に転がって刃をつきつけられている。。

 二人とも、現代の日本では目にすることはないであろう、胸と腰周りを布で覆っただけの、露出の多い民族衣装のような格好をしている。

「なんだ?なんかの撮影か?」

 それにしてはカメラがない。撮影班がいない。

 そして刃を持った女は、手に持ったそれを高々と振りかぶった。

「おいおい……」

 夜道を走ることを習慣付けていた為に鍛えられた夜目が、その女の顔には殺意以外の感情が宿っていないことに気付いた。

「それはマズイだろ!」

 俺は痛む腹を無視して全速力で駆けた。

 十数メートル程の距離を可能な限りの速度で詰める。倒れた相手を確実に殺す為に溜めたであろう一秒程の間が、俺に刃を持った女の手を掴んで止める時間を与えた。恐らくあと半秒遅かったら、傍らで怯えている女の命はなかっただろう。

「離せっ!なんだお前は!?」

 暗がりから飛び出して、刃を持つ手を掴んだ俺は、今更相手が女であるという事実に顔をしかめる。しかしそれでも今はこの手を離す訳にはいかない。

「アホか!お前今本気で殺そうとしてただろう!」

 この女の殺意は本物だ。俺に制止された今でも、目の前に倒れている女を殺すことを諦めていない。

「離せ……離せこのっ。はっ!」

 女が身を強張らせる。この場所に第三者が、と言うか複数の人間が接近してくる気配を俺も感じる。

「離せこの!」

 別の人間が近付いて来たので殺すことを諦めたのか、女の殺意がほとんどなくなり、俺としても女に長々触れていたくないので腕を離す。

「くそっ!」

 刃を持った半裸の女は、脇目も振らず駆け出した。

 とりあえず殺人現場を目撃せずに済んで俺は一安心した。そしてこの場にもう一人女がいることを思い出した。

 未だに地面に腰を降ろしている女を見下ろすと、傍らに弓が落ちているのを発見した。さっきのは歩兵で、こいつは弓兵か?そりゃ弓兵が近接戦闘に持ち込まれたら勝ちようがないわな。

 冗談気味にそんなことを考えていると、弓兵の女が俺を見上げる目が怯えていることに気付く。

「んー」

 倒れているとは言え、女に優しくする紳士的習慣は持ち合わせていないんだが……。

 ボリボリと頭を掻いた後、決心して倒れている弓兵女に手を差し出した。

「ほれ」

「ヒッ!」

 更に怯えられた。

「ヒッて……大丈夫か?」

「い、いえ、あの……だ、大丈夫です」

 こちらに敵意がないことを察したのか、弓兵女は俺の手を取った。その細くしなやかな手をしっかりと握ると、腕を引いて身を起こしてやる。

「怪我はないか?」

「は、はい。ありがとうございます」

 そこで俺はおかしな事実に気付いた。

「言葉が通じてるな……日本人、じゃないよな」

 弓兵女の顔立ちも肌の色も日本人の特徴と一致しない。胸と腰だけの巻いた民族衣装的な格好はコスプレだと思えばおかしくないと言って良いんだろうか。

「に、にほん?」

 目の前の弓兵女は、俺の言葉が分かるようだが、意味までは分からないようだった。

「いやあのな……」

「リノッ!」

 俺の言葉は、新たに表れた女の怒声に掻き消された。

「ん?なんだ仲間か……っ!?」

 声の主の方へ目を向けた直後、俺を刺し貫かんとする槍の一閃が接近していた。

 察知するタイミングが良かったおかげで、一歩下がって身を引き殺意の篭ったその一撃を余裕を持ってかわすことができた。

「っと!?」

 本来なら更に次の攻撃に対する体勢まで構えられたはずが、今しがたの全力走行による足への負担と、腹の痛みでバランスを崩し、後ろ向きに転んで尻餅をついてしまった。

 殺すつもりで攻撃を放ってくる相手を前に、一瞬でも無防備な姿を晒すという最悪の状況である。俺は可能性の一つとして死を覚悟した。

「あ、あの」

「リノ、離れてろ!」

 予想していた次の攻撃はやってこなかった。しかし、新たに現れた女に槍の穂先を向けられ身動きが取れない。

「貴様、なにもんじゃ」

「なにもんて……ただの大学生……」

 どう答えて良いか分からずに考えをまとめようとしていると、目の前の槍女に続いて後から続々と女達が沸いて出てきた。

 いつの間にか完全に包囲されていて、全ての女が手に槍を持ち、その穂先をこちらに向けている。

「はは……こりゃ、悪夢だな」

 光る井戸に吸い込まれ、放り出された場所で、俺は大嫌いな女達に囲まれて生命の危機に陥っていた。



第二章 始まり


 全員が全員、同じように胸と腰に白地の布を巻いただけの半裸の女達に囲まれ、武器を突きつけられ、少しの間思考がフリーズしたが、我に帰った俺は冷静に周りを見回した。

 半裸の女達を視界に収めるというのは結構なストレスだが、それを我慢して冷静に周りの状況を分析する。先程助けた弓兵女、目と鼻の先に槍の穂先を置いている槍女、そして少し離れてぐるっと俺を含めた三人を囲むその仲間であろう女達。

 こいつら全員かわして包囲を突破する方法を考える。その為ならばニ、三人女を殴り飛ばしたところで、俺の良心は少しも痛まない。

「おい!なにもんだと聞いとるだろ!」

「うお、あぶね!」

 目の前の槍が更に突き出された。上体を逸らせてかわしたが、本気で刺されるところだった。

「や、やめて!」

 先程助けた、リノと呼ばれた弓兵女が倒れている俺を庇う。

「この人、私を助けてくれたんです!あまり乱暴にしないで!」

「う……」

 半裸の女が間近にいて、俺の肩に手を置いている。庇ってくれているのは分かるが、非常に苦痛だった。

「それは本当か?」

「ほ、本当です。もしこの人がいなかったら、私は……」

 俺が助けなかったら確実に殺されていただろう。それを想像したらしく、弓兵女は小さく震えていた。

 弓兵女が俺を庇ってくれた為か、槍女が槍の穂先を俺から離した。

「そうか。それは、すまんかったな」

 仲間の命の恩人に武器を向けたことに謝罪を受ける。

「まぁ、それは良いんだけど、立っても良いか?」

「あ、すみません」

 俺の肩に置いていた手を離して飛び退る弓兵女。命の恩人ではあるが、それなりに警戒もされているらしい。

「……つつ」

 足は特になんともないが、やはり腹筋のダメージが大きい。本調子に戻るのに少し時間がかかりそうだった。あの外道姉貴め……。

「んで聞くが、お前なにもんじゃ。どうしてここにおる?」

「どうしてって、光る井戸に吸い込まれて……はっ!?」

 俺は忘れていた事実を思い出して、おもむろに駆け出した。

 槍女が武器を下げた為、油断していた周囲の女達の一角をのけて飛び出す。

「あっ!おいこら!待て!!」

 俺が逃げたと思ったのだろう。槍女を先頭に戦闘半裸軍団が追いかけてきた。

 十秒も走ることなく、俺は足を止めて立ち尽くした。

 そこには、木々と茂みの他は何もなくなっていた。

「そんな……、嘘だろ」

 俺を飲み込み放り出した井戸が、その名残を残すこともなく、跡形もなくなっていた。

 後ろから女達が追いついて来たが、呆然と立ち尽くす俺に武器を向ける気は起きなかったようだ。

「なんじゃ、こんな所に立ち止まって。逃げたんじゃなかったんか」

「逃げようにも……、ここがどこか分からん」

「分からんて、お前どこから来たんじゃ?」

「日本」

「ニホン?そりゃどこじゃ?」

 どこだろうな……。この地面掘り進んで行った所にはないだろうな。

「そんなことより、名前じゃ。まだ聞いとらん」

 正直、会話に付き合うのも面倒だと思うくらいに現状に絶望していたが、ここがどこかも分からず、帰り方も分からない今、可能な限り情報を集める必要があった。

「おい!聞いとるのか!?」

「ああ、悪い」

 一息、大きく溜息を吐いて槍女に向き合う。

「名前か、名前な。俺の名前はニノマエハジメ。俺の住んでた所にあった井戸に落ちて、気付いたここにいたんだ。んで、そこの子が襲われてた」

 この場所にやって来た経緯を淡々と一息で説明した。

「ニノマエハジメ、変な名前じゃのー。呼びづらい」

「全部言わなくて良い。呼ぶならハジメだけで大丈夫だ」

「そうか。それじゃハジメ。イドってなんじゃ?」

 予想外の質問に、俺は目の瞬きを何度も繰り返す。

「井戸ってのは……」

 理屈や構造を説いても恐らく理解できないだろうから、簡潔に説明する。

「地面に穴を掘って水を汲むための場所のことだ」

「水を汲む場所に落ちたら、ここに来るんか?」

「知らん。普通なら有り得ないだろうな」

「そうか、じゃあハジメはどうやってここに来たんじゃ」

「それが分からんから困ってるんだ。それ以上聞くな……」

 再び顔を手で覆う。不毛な会話に頭が痛くなってきた。

「あ、あの」

 槍女の後ろに控えていた弓兵女リノが声を上げた。

「帰る所、あるんですか?」

 その質問にどう答えれば良いのか、答えを出すのに少し時間がかかった。

「帰る所はある。ただ帰り方が分からん」

 本当に、どうやって帰れば良いんだ……。って言うか帰れるのか俺。

「そしたら、あの、私達の所へ来ませんか?」

 槍女の後ろにいた弓兵女リノは、数歩進んで俺に歩み寄ってそう言った。

「いや……それは……」

 そして歩み寄られた分後退する。この状況でその提案は嬉しいのだが、どう見ても女しかいないこの集団と行動を共にするのは、俺にとっては相当なストレスなんじゃなかろうか。

「ちょっと、何勝手なこと言ってるのよ!」

「そうよ!余所者じゃない!」

 どうも雲行きが怪しい。周りの女達は反対のようだ。

「で、でも、私助けてもらって……」

 弓兵女リノは、周りに批難され、たじたじとなっている。

「あんたが勝手に離れたんじゃない!」

「そんな飛び道具に頼ってるからよ!」

 目の前の槍女を含め、弓兵女リノを除く全員の武器は槍だ。この弓兵女は、何気にこの集団の中でも浮いた存在なんじゃなかろうか。

 これは、この集団に頼るのは難しそうだな。

「静まれ」

 槍女の一言に、周りがぴたっと口をつぐんだ。

「リノが足を引っ張ったのは確かじゃが、こいつがリノを助けてくれたのも確かじゃ。受けた恩を放っておく訳にもいかん」

「マイア……」

「おいハジメ」

「あ、はい」

 流れが良く分からず、対目上口調になってしまった。

「行くとこがないんじゃったら、わしらについてくるか?」

「んー……」

 有り難い申し出ではあるが、女だらけの集団に身を置いて大丈夫なもんだろうか。でもまぁ、女が戦う役割なだけで、こいつらの村なり集落なりに行けば男もいるだろうし、なんとか女と接触する機会を避ければ、まあどうにかなるか。

「そうだな。悪いが、そうさせてくれ」

「よし、決まりじゃ。文句はないな」

 どうやら、マイアと呼ばれたこの槍女がこの集団のリーダーらしい。

「おお、そうだ。こちらの名前がまだじゃったな。わしの名前はマイア。このウルカ族で戦頭(いくさがしら)を務めとる」

 ウルカ族って言うのかこいつら。

「私はリノです。よろしくお願いします!」

 再びリノが身を寄せてきた。近付いただけ下がるのも不自然なので、顔を引きつらせながらなんとか耐える。

「よ、よろしく頼む」

 ストレスで頭が痛む中、歪んだ笑顔をするのが精一杯だった。

 マイアは、俺より少し背が低いくらいの、長身の女だ。明るい色のチョコレートを彷彿とさせる濃い赤の髪の毛が、癖っ毛なのか、首周りで外に跳ねている。

 リノの身長は並で、恐らく百六十センチに届かない程度だろう。青みを帯びた黒い髪は長く、胸元の辺りで途切れて全体的に先が内側にくるまっている。

 前にマイア、後ろにリノ。二人の女に挟まれて歩き出す。正直、この集団の一番後ろを少し離れて歩きたいくらいだが、贅沢は言えまい。 

 こうして俺は、訳も分からず放り出されたこの世界で、長い長い、いろんな意味での戦いに身を投じることとなった。


「おいおい……嘘だろう。勘弁してくれ」

 この可能性はもちろん考慮していた。しかし考え得る限り最悪の事態だった。

 可能性として考えていただけであって、多少条件を悪く見積もって考えても、こんなことには成り得るはずがなかった……。

 俺の頬に汗が、冷や汗が流れ落ちる。頭痛という形で、頭の中で危険を知らせる警鐘が鳴り響いている。

「なんでここ、男がいないんだ」

 マイア、リノ一行について夜も明け、空が白み始めた頃に集落へと辿り着いた。彼女たちを迎え出てきたのは、女と言う女、女しかいない。

 恐らくこのウルカ族は、二十歳前後の女が戦う役割を負うのだろう。下は十代半ばから、上は二十代後半といったところか。

 なので彼女らの生還を笑顔で迎えた面々は、幼いのと熟したのとに二分できた。

「今帰ったぞ!」

 マイアの大声に、更にそこかしこから女が姿を現す。吐き気すら催しそうだった。

 大人たちはその場で彼女らの帰りを迎え、幼女、少女達は待ちきれずにこちらに走り寄ってきた。

「おかえりー!」

 子ども達はそれぞれ親しみ深い相手に向って散っていく。中でも戦頭とか言う将軍職みたいなマイアの人気は絶大なのだろう。十人を越える幼女が押し寄せてきた。

 当然、傍らにいる俺も幼女に囲まれる形となる。

 マイアは豪快に笑いながら幼女達を抱き上げているが、俺を囲んだ幼女達は、不思議な物を見る目で俺を見上げている。

「マイアー、これなにー?」

「どうしたのー?」

「変なかっこー」

 確かに、基本胸と腰に白布のみのウルカ族にとって、顔と手を除くほぼ全身を黒く覆うこのウィンドブレーカーは、かなり特異に見えるだろう。

「こいつはハジメじゃ、先の戦でリノの危ないところを救った恩人でな。しばらくここに客人として置くことになった!」

 マイアが、向こうの大人達にも聞こえるように大声で言った。そして俺にとっての悲劇が始まった。

「ひやああああああああああ」

 性的な悪戯を受けた女の悲鳴のような声が響き渡った。俺の悲鳴だ。

 マイアの紹介に警戒心を解いたのだろう。足元の幼女が俺にまとわりつき始めた。

「ハジメ、リノをたすけたのー?」

「ハジメつよい?」

「ねーハジメー、これなにー?」

 数人で俺に足にまとわりつき、まとわりつく場所がなくなると、飛びついて腰なり腕なりに抱きつき始めた。

「………」

 胴と両腕に三人、足元には五人程。幼女という幼女にまとわりつかれ、一瞬意識が飛びそうになった。

 しかし、今ここで倒れれば、恐らくもっと多くの幼女が俺に襲いかかってくるだろう。。

「っく……」

 決して重くはないのだが、それぞれが思い思いに動き回るのでバランスを崩して倒れそうになる。血を吐く思いでふんばった。

「こらー!離れなさい!皆疲れてるんだから!」

「わー!リノが怒ったー!」

 見兼ねたのかなんなのか、リノが一喝すると、蜘蛛の子を散らすように幼女達は逃げ出し、他の女達の所に突っ込んでいった。

「た、助かった」

 本当に助かった。

「大丈夫ですか?すみません。客人なんて、滅多にあるものじゃないので」

 あまり大丈夫ではない。

「いや、まぁ、良いんじゃないか。子どもはあんなもんだろ……」

 本当に、ガキは残酷だ。

「ハジメ、ついて来い。族長の母様の所へ行く」

「ん、分かった」

 滅多にない客分らしいし、偉い人の前に通されるのも当然か。

「あ、私も行きます。助けてもらったの私ですから」

 慌てて後ろからリノがついてきた。

 集落の中を歩くと、同じ建物のようなものがそこら中に並んでいるのが目に付く。

 骨組みに革か何かで作られているだろう幕を張ったそれは、建物というよりテントに近い。遊牧民が使うような強風程度ではびくともしなさそうなそれは、中国でパオとか呼ばれてる物に近い。これがウルカ族の家のようだ。

 五分も歩かずに、一際大きなテントが目に付いた。恐らくあれが族長の家なのだろう。

 特大テントの前まで行くと、マイアはそのまま歩みを止めずに入り口をくぐった。

「母様、客人を連れてきたぞ」

 俺は声がかかるまで中に入るかどうか迷ったが、入り口の幕は上の淵で固定され、入り口は解放状態である。客人と言われたのもあるし、気にせず入ることにした。

「あの、お世話になります」

 流石に女とは言え、偉い人らしいので態度を改める。

「うちの若いのを助けてくれたんだって。ありがとうよ」

 テントの中にいるのは、銀髪と見紛う程に頭髪が全て白くなってしまった初老の女性だった。

 胡坐を掻いて座った姿勢で、長髪が腹のあたりまで落ちている。髪型は違うが、顔はマイアと良く似ている。これが若返ればそのままマイアになるんじゃないかと思うほどに似ていた。

「母様、こいつはハジメ。リノの件もあるが、どうもこの森に迷い込んで帰れなくなったらしい。しばらくここに置く」

 マイアが端的に説明した。迷い込んだのではなく放り込まれたのだが、マイアの説明が妥当だろう。

「そうかい。好きにしな」

 胡坐を掻いて柔和な笑みを絶やさぬマイアの母は、細かい事情は一切気にせず、それだけ言って話を終わらせた。

 随分簡単だな……。

「来い、ハジメ」

「それじゃ、失礼します」

 マイアがテントから出てしまったので、俺もそれに続く。

「それで、俺はどうしたら良いんだろう。集落の外れにでも、適当にねぐらを用意して良いのかな」

 男がいないこの集落で、誰かの家に厄介になるというのは論外だ。俺の精神が持たない。

「今から作る気か?なんでそんな面倒なことする必要があるんじゃ。リノ、ハジメはお前の命の恩人じゃ。お前の所に置いてやれ」

「分かったわマイア」

「いっ!?」

 俺の脳内に危険信号が鳴り響く。

「い、いや、いいよ。女の子の家に厄介になる訳にはいかないだろ。俺は適当にどうにかするから!」

「あん?何訳のわからないこと言っとるんじゃ。助けられたもんが恩人をもてなす。なんの問題がある」

 完全に正論です。すみません。

「そうですよ!命の恩人なんですから、遠慮なんてしないでください!」

 遠慮じゃない。遠慮じゃないんだ……。

「わ、わかりました……」

 女が嫌いで苦手なので、あなた方のお宅には御厄介にはなりません。とは言えず、結局リノの家に厄介になるしかなさそうだ。

「それじゃわしはもう寝る。次またいつフィエダの連中が仕掛けてくるかも分からん。お前らもさっさと休めよ」

「おやすみなさい。マイア」

 そう言うと、マイアは再び族長のテントに入っていった。

「それじゃハジメさん。私の家、こっちです」

 なんでこの子は、男を家に招くっていうのに、こんな楽しそうなんだ……。マイアの態度もあるし、そういうとこオープンなんかな。欧米人とか挨拶代わりキスするとか言うもんな。

 どうでも良い思考を巡らせ、軽い現実逃避に走る。変な井戸に呑まれて、変な場所に飛ばされて、女しかいない部族に拾われて、女の家に厄介になる。そろそろ頭が麻痺してきた。

 リノについて歩いていくと、集落の一番外側の辺りまでやって来た。同じようなテントが並んでいるだけに、初めてここに来た俺には、個々の違いが全く分からない。

「ここが私の家です」

 やはり同じようなテントの前に到着する。

「ささ、どうぞ入ってください」

「あ、ああ……」

 随分信頼されきった好意を向けられているものの、やはり女の家に厄介になるという行為に、俺の理性と本能の両方が、それ以上はいけないと訴えている。

「あの、どうしたんですか?」

 リノが、なかなかテントに入ろうとしない俺に、不思議なものを見るような眼差しを向けてくる。

「あの、さ、やっぱりマズイと思うんだよな。女の子がこんな簡単に初対面の男を家に上げたら……」

 好意を無下にする訳にも行かないが、さりとて俺も譲れない一線があるので、なんとか誰も悲しまない形で丸く収めようと試みる。

「ええと……、あの、どういうことか良く分からないんですけど、もしかしてご迷惑ですか?」

「いや、迷惑とか、そういんじゃなくて」

「すみません。そうですよね……。私みたいな足手まといと一緒にいたくないですよね……。ごめんなさい、私、マイアに他の人の家を頼めないか、ちょっと話してきます」

「いや、そういうことじゃなくて!足手まといとかそんなの知らないし!」

 他の女の家紹介されても困るし!

「いいんです。私、いつもいつも戦いでは足を引っ張ってばかりなんです……。今日だっていつの間にか皆とはぐれて、それで孤立しちゃって。ハジメさんが来てくれなかったら私……」

 聞いてねー!そんなこと別に聞いてねー!

「いや、分かった!大丈夫。ごめん、厄介になるから!失礼します!」

 放っておくと、聞いてもいないことを延々と吐露されそうだったので、居たたまれなくなって俺が折れた。勢いでリノのテントに飛び込む。

 族長のテントとは違って、リノのテントはこの集落での平均的な物なのだろう。直径四メートル程度の円形の生活スペースには、中央に竈、円の外側に寝床らしい布のと、用途の分からない荷物、それに弓兵らしく弓や矢を手入れする一角があった。 別に女の家に変な幻想を抱いていた訳ではないが、さすが戦闘部族とでも言うべきなのか、飾り気のない生活風景だった。

妹の部屋はそれなりにファンシーだし、あの野蛮な姉ですら、女の部屋だなぁと思わせる程度に明るめの内装を施してある。しかし、このテントの中からは女を感じさせる物がほとんどなく、そこに安堵した。

「何もない家ですけど、遠慮しないでくださいね。私一人住まいですから」

「ふぐっ」

 何故そういうことをさらっと言う……。

「ちょっと待ってくださいね。ええと……」

 とリノは、大きめの荷物がまとめてある場所で何かを探し始めた。

 彼女が取り出したのは、毛皮でできた大きめな敷物と毛布だった。

「これ、お母さんが使っていたものなんですけど。よろしかったら使ってください」

「ああ、ありがとう」

 同じような物がもう一組、既に地面に敷かれているので、恐らくこれは布団的な物なのだろう。

 リノは毛皮布団を、テント内の空いているスペースに敷いてくれた。位置的にリノの寝床と竈を挟んで丁度反対の場所である。

「それじゃ、もう休みましょうか。夜通し歩いてハジメさんもお疲れでしょう?」

 確かに、昨日?の夜の姉との組み手から今までいろいろありすぎて、頭が上手く働かない気がするのは疲れているからだろう。

「あ、ああ、それじゃ、有り難く使わせ貰うよ」

 俺はリノの敷いてくれた毛皮布団に手をおいて、初めて使うそれがどんな物なのかを確かめようとした。

「ご飯の時には声をかけますので、ゆっくり休んでくださいね」

「ああ、分かった」

「それじゃおやすみなさい。うんしょ……」

 えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?

「ちょちょちょ、どう、え、な、何してんの!?」

「きゃっ!」

 あまりに唐突の出来事に完全パニック状態になる俺。リノの両腕を押さえつける。


 この女は、極々普通に、まるで当然かのように自然な流れで、胸の布を取ろうとしたのだ。


「え、え、わ、私何か変なことしましたか!?」

 急に俺が態度を荒げてしまったので、驚いているリノ。

「いや、ダメだろ。なんで男の前で脱ごうとしてるの!そりゃここは君の家だけどさ!」

 男でも女でも、自分の家の自分の部屋では、人様には見せられないような格好をしたりすることはおかしくはないが、今は俺がいる。それをして良い時ではないはずだ。

「ど、どういうことですか?」

「どういうことって、そんな軽々しく女の子が男に肌見せちゃダメだって!」

 この部族全員が半裸だが、それはそれ、これはこれだ。

「あの、聞いても良いですか?」

「聞く?何?」

 俺の言動がさっぱり理解できないという顔で、リノが俺に質問を投げかけた。

「さっきから何度か出てきて気になっていたんですけど……」

 続くリノの言葉に、俺は姉に殴られるのと同じくらい、頭の中に衝撃を受けた。


「男とか、女って、一体なんですか?」


「ん?」

 俺はまず初めに、この世界では表現の問題で男と女という言葉を使わないのだと思った。生物学的な言い方をすれば雄と雌、英語ならメイルとフィメイル。そういう表現の違いなのだろうと。

「ああ、そうだよな……。ここは日本じゃないんだ。当然この国のきちんとした言い方があるよな」

 自分の言った言葉の中に、ここが日本ではないのに、平然と日本語が通用しているという矛盾があることを意図的に無視した。

「日本では、俺みたいなのを男、リノや、マイア達を女って言うんだ」

 しかしリノの言葉は、どこまでも残酷に俺を理解不能な異世界に追いやる。

「ハジメさんは、私達と何か違うんですか?それと、日本ってなんですか?確かにハジメさんは、あまり見ない服を着て、胸もないですし、声も少し変わってますけど……」

 性別というものを、理解していない?

 この深い森の中に住む部族であれば、未だ前時代的な争いをしていることも、日本を知らないことも、文明の気配が全くないことも、有り得ない話ではないが、性別が分からないってのはどういうことだ……。ならこいつらはどうやって子どもを産んでいる?

「すみません、ハジメさん。またいつ戦いになるか分かりませんし、今は疲れてると思うので、難しい話はとりあえず休んでからにしませんか?」

「あ、ああ……」

 リノの話に衝撃を受け、疲労もあって確かに思考が上手くまとまらない。今は休むことが先決かもしれない。

 そしてリノが最後に質問をした。

「それで、あの、私、脱いじゃダメですか?」

 もう好きにしてくれ……。


 目が覚めれば、全てが夢で、俺は山中に寝転がっていることを少し期待したのだが、そう都合良くは行かないようだった。

 気だるい身体をなんとか起こす。たかだか一晩動き回ったくらいで疲弊するようなやわな身体ではないので、この気だるさは精神的疲労が原因だろう。

「あ、起きましたか?」

 どうやらリノは料理中らしく、手元で肉を割いている。

「これどうぞ」

 リノは手を休めて俺の前に木の椀を置いた。中は透き通った液体で満ちている。

「ああ、ありがとう」

 椀を手にとって失礼ながらも臭いを嗅ぐと、ほんのり酸味のある香りがするくらいで、特に問題はなさそうだった。そのまま一口中身を啜る。

 どうやら液体の正体は、何かの果汁を水で薄めた物のようだ。寝起きは喉が渇くので丁度良かった。

「すぐ食事の用意をしますので、少しだけ待って下さいね」

 このやり取りだけ取ると、まるで夫婦のようだと思わないこともないが、リノに対して、というより女に対してそういう感情を持ちようがないので、食事の用意までしてもらってなんだか申し訳なかった。

 割いている肉は干し肉だろう。スパイスで下ごしらえされたその干し肉から、まだ火を入れる前だというのに食欲をそそる香りが漂ってくる。

 やることもなく、手持ち無沙汰でテント内を眺め回していると、客がやって来た。

「リノー、入るよー」

 幕をのけて入って来たのは、リノと同じくらいの背格好の女だった。

 日本人の感覚で考えれば、失礼な話だがここは狭い。その狭い空間に女の密度が増してしまい、俺の背筋はやや緊張気味に堅くなる。しかもどちらもやはり半裸だ。

「リノー、お肉持って来たよー」

「いらっしゃいネーヴェ」

 ネーヴェと呼ばれた女は、若干ツリ目がちだがキツい感じはなく、どちらかと言うと悪戯っ子といった猫っぽい印象だ。やや長さのあるショートカットが良く似合っている。

 身長こそリノと同じくらいだが、身体つきはリノより少しふっくらしている感じだ。筋肉の凹凸が贅肉で目立たない。

「ハジメさん。この子はネーヴェ、良くお肉を分けてくれるんです。狩が上手なんですよ。ネーヴェ、この人は」

「知ってる。ハジメでしょ。昨日危ないとこ助けられたんだって?」

「うん、ハジメさんが助けてくれなかったら、本当に危なかったの。十メートル以上ある距離をあっと言う間に駆けつけて、フィエダの剣を受け止めたの。凄かったんだから」

 リノはてきぱきと火の灯った竈に、切り分けて串に刺した干し肉を配置して炙っていく。

「……え?」

「へー、あんた強いんだ?」

 リノの言葉の中に違和感を感じたが、俺の思いを余所にネーヴェの言葉は止まらない。

「まぁ弱くはないけど、強いかって言われたらなんとも言えないな」

 武器持って戦争してる奴らの言う強さというのがどれ程の物か分からないと、どの程度で強いと言って良いのかが判断できない。

「いやー、強い奴ってそろってそういう言い方するんだよねー」

「別に、そんなことないだろ……」

 変に鋭い女だ。

「はい、できましたよ。どうぞハジメさん。ネーヴェの分も、はい」

 皿ではなく、木の葉だろう。青々とした分厚い葉に、炙った干し肉と付け合せに、漬物のような木の実が盛られている。野性的ながらも食欲をそそる食事が俺とネーヴェの前に差し出された。

「ああ、ありがとう」

「さんきゅー、いつも悪いね」

「ううん、ネーヴェにはいつもお肉分けてもらってるし。私も一緒に食べた方が楽しいし」

「いやーだってどんなに肉を取れたって、美味しくできなきゃ意味ないからねー。ほんと助かってるよ」

 ネーヴェの言葉の通り、確かにこの炙り干し肉は美味い。肉自体も良いのかも知れないが、スパイスの味付けも炙り加減も絶妙だ。

 肉だけではなく、木の実の漬物も、少し濃い目の肉の味が後に引かないように口の中をさっぱりさせる。

「うん、確かに美味い」

 俺が素直に女を褒めるのは、実はかなり珍しい。

「ほんとうですか!ありがとうございます!」

「礼を言うのはこっちだろう。寝床貸してもらった上に、美味い飯まで用意してもらって」

「いいえ、ハジメさんは命の恩人ですから!」

 命の恩人って、重いんだな……。

 あまり引きずりたい話でもないので、強引に話題を終わらすことにする。

「なぁ、ちょっと教えてもらいたいことがあるんだが良いか?」

「なんでしょう?」

「ウルカ族の中で、一番物知りな人を教えて欲しいんだ」

 俺はこの食事の団欒よりも、今自分がどういう状況にいるのかを把握することを求める。その為には少しでもこの集落で物を知る人間と話さなければならない。

 寝る前のリノとの会話の件もある。

「そりゃまぁ、ミラ様でしょう」

「ミラ様?その人と会わせてもらえるか?」

「あの、ミラ様は族長です。ここに来る前にお会いした」

 あの時の、マイアの母親か。ミラさんというのか。

「ミラ様はいつも家にいるよ」

 ネーヴェの言葉に、俺は早速行動に移ることにした。

「そうか……分かった。ちょっと行って来る。ごちそうさま」

「あ、はい。行ってらっしゃい」

「ばいばーい」

 背中で声を受け、そのままテントを出る。夜が明けてこの集落に来て、リノのテントで寝ている間に昼を過ぎてしまったようだ。

 足早に集落の中央に向って歩く。家々の位置は全く分からないが、あのでかいテントを目指すだけなら迷いようがない。

 集落の中を歩きながら、俺はあのネーヴェという女について思い返す。

 態度こそ軽薄な感じはあるが、あれは相当にできる女だ。身体つきは贅肉がついていてスレンダーではないが、プロレスラーがそうであるように、筋肉の凹凸はある程度の贅肉があると簡単に見えなくなる。あの肉体は、あの女が相当なパワータイプであることを示している。

 それも、恐らく結構に戦うことが好きな類の人間だ。強さという点で俺に興味を示していた。あれはうちの姉と同じような、戦うことを好む人間の態度だ。

「まあ、一応客としてここにいるから、あの馬鹿姉貴みたいに無節操にケンカふっかけてきたりはないだろうけど」

 戦える女という存在は、そのまま姉と直結してしまう為、何故だか思考が防衛的になってしまっていた。

 そんなことを考えている間に、もう少し歩けば族長のテントだ。

 巨大テントの前に辿り着くと、まだ入り口の幕は上げられたままだった。

「すみません。お話があるんですが、入っても良いですか?」

「ああ、客人さんかい?遠慮することはないさ。入っておいで」

「失礼します」

 俺は一礼して入り口をくぐった。

 相手が女性だとは言え、このレベルになってしまうと純粋に目上の人間である。下手に失礼な態度も取れない。

「立ち話もなんだ。腰を降ろしな」

「ありがとうございます」

 そのまま腰を降ろすも、膝を折って正座する。

「随分と変な格好をするもんだね。手先のおぼつかない、戦うこともできない死に損ないを相手にそんな気を使わなくたって良いんだよ。足崩しな」

「失礼します」

「硬いねぇ……別に良いけどさ」

 足を崩して胡坐をかいた。ここからは、お言葉に甘えて遠慮はしないことにする。

「リノとネーヴェから、ここで一番の物知りはミラさん、族長のあなただとお聞きしました」

「まぁこん中じゃぁ一番長いこと生きてるからね。そこらの若いのよりは物を知ってるつもりだよ」

 早速族長の言葉に違和感を覚える。ここの人間に年齢という概念があるのか分からないが、マイアの年齢は俺と同じで二十歳に達していないくらいだろう。そうしたらこの族長の年齢は精々五十前後のはずだ。

 しかし、目の前の老婆は頭髪が完全に色を失ってしまっているということもあり、もう少し老けて見える。

 更に族長は、この集落には自分以上長く生きている人間はいないと言った。精々多く見積もっても六十程度で最長老ってのはおかしくないだろうか。

「単刀直入に聞きますが、ここはどこなんでしょうか。俺は奇妙な場所を通ってこの森に放り出されたんですが、ここは俺が元々いた場所とは相当離れた所のようなんです」

「そう言われてもねぇ。ここはウルカ族の集落さ」

「そのウルカ族の集落のあるこの森には、名前はないんですか?」

「あるよ。ここはテスタの樹海と呼ばれている森さ。あんた本当に何も知らないんだね」

 初めて、自分の現況を知る為の糸口が目の前に垂らされた。

「そのテスタの樹海の外には何があるかご存知ですか?」

「話だけならね。ここから西の方へ行くと、フィエダどもの集落がある。更に西に行くと、そこで森が終わっているらしい。そこにはこの樹海とは違った世界が広がっているそうだよ。東は、確かめたこともないが、ずーっと樹海さ」

「どう違っているかは、知りませんか?」

「さあねぇ。私も自分で見た訳じゃないからねぇ。そこまでは知らないよ」

 彼女の言葉に嘘はなさそうだ。と言うより、嘘をつく意味がないだろう。これが嘘だとして俺が損をしても、誰かが得をすることはないだろう。

 これがこの辺り一帯の住人全員で俺を騙しているドッキリか何かでなければ、だが。

 質問はこれだけでは終わらない。

「族長。貴方は性別というものをご存知ですか?」

「セイベツ?そりゃ何だい?」

 この集落一の物知りらしい族長ですらも、性別を知らないようだ。

「性別というのは、俺と、あなた方ウルカ族の違いのことです」

「確かにあんたは、どうも雰囲気が全くうちの奴らと似ていないね。それが何か関係あるのかい?」

 族長もリノも、どことなく自分たちと俺に違いがあることは意識しているようだ。

「そうですね……。俺と、あなた方ウルカ族との違いが、そのまま男と女の違いと言って良いんですが、詳しく話すと長くなるので、それはまたいつか違う時にでもさせてください」

「なんだい、もったいぶるね」

「すみません。……そう言えば、今日は何日でしたでしょうか?」

「今度は何の話だい?」

「いや、今日が何月何日かって話なんですが……」

「悪いが、さっきからあんたの言ってることは全然分からないよ」

 どうやら年月の概念がないらしい。そうすると、歳もないかもしれない。

 まだ聞きたいことはあるが、相手に通じない質問ばかりを投げかけ過ぎて、少しばかり族長も気を悪くしつつあるようだ。

「ありがとうございました。また、聞きたいことができたら、教えてください」

 怒らせる前に切り上げることにした。

「そりゃかまわないけど、今度来る時はあたしに分かる話にしておくれよ」

「それじゃ、失礼します」

 一礼してテントを出る。特に行く当てもないし、とりあえずリノのテントに戻るしかないか。

 来た道を戻りながら、族長との会話で分かったことを思い返す。

 まず第一に、どうやら本当に俺は、地球とは違う世界にやって来てしまったようだ。恐らく、どんなに探したところで、俺の知っている場所はここには一つもないだろう。

 第二に、ここには男が存在しない。そうすると、どうやって子孫を残しているか気になるところだが、子どもがいるあたり、何かしらの繁殖方法があるのだろう。まぁ、いつまでもここで生きて行くつもりはないし、俺の気にしなければいけないことでもない。

 第三は年月の概念がないことか……。これは、族長の推定年齢六十未満で集落の最長老だということに何か関係してくるのかもしれない。もしかすると、この集落に関わらず、この世界の人間は俺が見た目で判断するより年齢が若いのかもしれない。

 マイアもリノもネーヴェも、見た目からすれば二十歳前後だが、あれでまだ十代前半、もしくはまだ一桁なんてことも考えられる。荒唐無稽な話ではあるが、ここが地球でなければ何でもありだろう。

 しかし、族長と話す前から気になっていることがあった。

 族長を尋ねる前、リノ達との会話の中で、リノは「十メートル」という言葉を使った。ネーヴェの話でうやむやになってしまったが、確かにメートルという単位を使っていたはずだ。

 ここが地球ではない上に、年月の概念もないのに、メートルなんて単位が口から出るのはどう考えてもおかしい。

 そもそも言語が通じていることから都合が良すぎる。日本語というもの一つとっても、元々日本は島国で大陸からの影響をほとんど受けずに発展した為、言語が非常に独特だという話を聞いたことがある。その日本語が、飛ばされた異世界でも使われているなんて、偶然にしても出来すぎている。

 つまりこれは、偶然ではないのだ。

 俺がこの世界に放り出された時。つまり、あの井戸に落ちた時だ。

 正体不明の声が、途切れがちになりながらも「言語」と言っていた。おそらく、あれが答えなのだろう。

 そもそもあの時の話の内容からすれば、あの井戸をこの世界への入り口として開けたのもあの声の主のようだし、つまるところ、ここで使われている言語は、本来俺には全く馴染みのない未知の言語なのだろう。

 それを、あの声の主の都合のよろしい力で、自動で翻訳されているに違いない。そうとしか考えられない。

 恐らく、リノの「十メートル」という言葉も、ここの人間が使う距離の概念を翻訳した結果だろう。

「有り難迷惑すぎる……」

 人を異世界に飛ばしておいて翻訳機能だけつけられてもな……。

 しかし、あの言葉がそれぞれ本当に意味があるのならば、もしかすると、滅びに向っているらしいあの子達ってーのは、このウルカ族のことなのだろうか。

 抗争状態にあるらしいフィエダ族っていうのとの関係が、大きく関わっているのかもしれない。だとすれば、俺が戦いに介入してウルカ族を勝利に導くことが、俺に課された役割か……。

 そう考えれば、まさにその戦闘の真っ最中に放り出されたことも納得できる。

 だが現実的に考えて、精々肉弾戦に長けただけの俺が、ほとんど戦争と言っても良いようなこの戦いに介入してなんとかなるのだろうか。しかも当事者達は全員女。この世界に放り出されたことを含めて、全てが俺だけを狙った嫌がらせのように思えてきた。

 タンッ。

「ん?」

 大工がトンカチで釘を叩くような音で、考えことから意識を話される。

 気付けば周りにテントはなく、俺は集落の外れを少し通り過ぎていたようだ。同じテントばかりが並んでいて、来た道を正しく戻っているかも分からなかったし、結局リノのテントの位置も分からずに素通りしてしまったらしい。

 タンッ。

 再び音が響いた。

 気になって音が聞こえてくる方へ足を向ける。

 音は同じくらいの感覚で何度も鳴り、音の発生地点と思われる場所へ近づけば近づく程、はっきりと大きく聞こえるようになった。

 音の発生地点に辿り着くと、そこには見知った顔がいた。

 どうやら、音の原因はリノの弓の訓練だったようだ。


「へえ、すごいな」

 リノが矢を放っている的を見て思わず言葉が出た。

 リノが的にしているのは、周囲の木より幾分太い木の幹だが、そこまでの距離は五十メートル近くあるだろう。

 しかし、リノの放った矢は、どうやら全て表面が削られた木の幹のほぼ中心に突き刺さっているようだ。

「あ、ハジメさん。族長とのお話は終わったんですか?」

 近づいて声をかけて初めて俺の存在に気付いたようだ。集中力もそれなりの物があるらしい。

「ああ、おかげさまでいろいろと分かったよ。しかし、結構な腕前なんだな。伊達で弓持ってる訳じゃないか」

 必要以上にリノには近づかない。この女は何かあると急接近しようとする傾向にあって危険だ。

「いえ、私なんてまだまだですよ……。戦いの時には、いつも他の皆の足を引っ張ってますし」

 そう言えば、この女、弓兵なのに戦場で完全に孤立してたな……。弓兵の配置ってそういうもんなんだろうか。

「普通弓兵だったら、後方からの援護が仕事だと思うんだが、どうして一人っきりになったんだ?」

「コウホウ?エンゴ?ちょっと良く分からないです……。私、最初は皆と一緒に移動してたんですけど、戦いが始まって少し後ろに下がって、敵が逃げ出したら皆がそれを追って……、そのまま皆と離されて一人になってしまったんです」

 弓を両手に持ったままうなだれるリノ。昨夜に耳にしてから記憶に残っている話を総合すると、どうやらこの女はちょこちょこ足を引っ張っているらしい。

 まあそれはともかく、敵が逃げ出して、前衛と後衛の距離が開いて、後方に残ってしまったリノが襲われる。素人考えの推測ではあるが、それって敵の作戦なんじゃないか。

 俺は更に、昨夜リノが俺をこの集落に誘ってくれた時、周りの女達が飛び道具としての弓を批難していたことを思い出した。

「一つ聞きたいんだが、どうしてリノは弓なんだ?昨夜見た時は、ウルカ族の人間は皆槍を使ってたみたいだけど」

「そうですね。ここで弓を使っているのは、私だけです。母がそうだったんですけど、元々母はウルカ族の人間でなく、他所からウルカ族として迎えられたって聞いてます。だから皆が槍を持つ中、私は母に教えられた弓を使っているんです。それしかできませんから……」

 手に持った弓を寂しそうに見つめるリノ。

 それしかできないと言っても、これだけ弓術が達者であれば、そんなに卑屈になる必要はないと思うが、やはりウルカ族全員が近接武器の中、リノ一人が弓を持っていたら、そりゃ馴染めないわな。

「リノの母親は他所からここに来たって言ったな?他所って言うのは、戦ってるフィエダ族以外の部族からってことか?」

 今の所、集めた情報ではこの森にウルカ族とフィエダ族がいて、その両者が争っていて、フィエダ族の集落の先で森が終わっているということだけだ。

 ここの人間は漠然とした質問をしても理解ができそうにないので、こういう会話から細かい情報を拾っていかないとダメなようだ。

「いえ、多分この森にはウルカ族とフィエダ族しかいませんよ。母は森の外から来たらしいです。族長がそんなことを言っていました」

 そうすると、先程族長の会話で出てきた森の外の話は、出所はリノの母親なのだろうか。

「リノは、外がどんな所だったか覚えてないのか?」

「森の外ですか?私はここで生まれたので、森の外のことはちょっと……。母からここへ来る前の話はほとんど聞いたこともないんです。すみません」

「いや、謝る必要はないが……」

 ん?リノはここで生まれた?ということは、リノの母親はウルカ族の人間との間に子どもを作ったのか?それとも、ここに来る前には既に身篭っていたのだろうか。

「なあリノ、お前どうやって」

「ここにいたかハジメ。リノも一緒か」

 横からマイアの声が割り込んできた。

 リノとの会話に気を取られて、マイアの接近に気付かなかったようだ。流石に部族一の腕前はあるらしい。

 マイアはどんどん接近してきて、俺の胸倉を掴んで引き寄せた。

「お、俺に何か用か?」

 近い近い近い近い!

「ネーヴェから聞いたぞ。ハジメ、お前相当強いらしいな」

「まて、どうしてそうなった!あと近い!」

「昨日リノが襲われていた時、フィエダを一匹、あっと言う間に追い返したらしいじゃないか。目にも留まらん早業だったと聞いたぞ」

 あのネーヴェとか言う女……完全に誇張してやがる。

「と、とりあえず離してくれ……。これじゃ話すに話せない」

 女に急接近されて高圧的な態度で接されているというこの状況が、非常にストレスで、悪いことをしている訳ではないのに、俺は渋面でマイアから必至に顔と目を逸らしていた。

 マイアとしては、別に乱暴にしているつもりはないのか、すんなりと俺の服から手を離した。

「ん、んん……。あのな、その話、完全にネーヴェが話を大きくしてるぞ。俺はリノとの間に割って入って攻撃を止めただけだ。後はお前達がやって来る前にフィエダ族は勝手に逃げた。そうだよな、リノ」

 事実確認の為にリノに話を振る。

「わ、私はあの、必死だったのであまり覚えてないんですけど。でもあの時のハジメさん、フィエダの一撃をあっさりと受け止めて、凄かったですよ!」

 わーお。なにその逆効果な発言。この子バカなの!?

「ほお、そうか。その場で見ていたリノがそう言うとは……。ハジメ、お前やはりただもんじゃなさそうじゃのう」

「いや、そんなことはない。俺はただの大学生だ」

「ダイガクセイってなんじゃ。お前にはいろいろと聞かなきゃならんことがありそうじゃのう。とりあえず来い、今からお前の力を見せてもらう」

 言って後悔した。そりゃこいつらに大学生なんて分かる訳がない。

 マイアは振り返って確認もせず集落の方へ歩いていく。

 ついていくか迷ったが、リノに背中を押された。

「行きましょうハジメさん。マイアはそんなに酷いことはしませんよ」

 そんな酷いことって、どのくらいまでなんだ……。俺は嫌々集落の方へ足を向けた。


「またこんな状況かよ……」

 昨夜もウルカ族に囲まれたが、また同じような状況だった。

 今回は、武器こそ突きつけられてはいないものの、人数が大分増え、集落中の女達が見物に集まって俺とマイアを中心に円状に囲いを作っていた。リノとネーヴェもその一角に立っている。

「皆の者!こいつは昨日、フィエダに襲われていたリノを助けたハジメじゃ!どうやら相当なツワモノらしい!」

 マイアの言葉に野次馬達が沸き立った。

「あの女……」

 俺はぼそりと呟き、ネーヴェを睨み付けた。当のネーヴェは、わざとらしく明後日の方を向いて目を逸らしていた。

「今からこいつがどれ程のモンか、わしが直々に相手をして見せてもらうとする!」

「そんなことになるんじゃないかとは思っていたが……」

 状況は、完全に俺を無視して、俺とマイアを囲んだウルカ族は、完全に俺達を見世物として盛り上がっている。恐らくウルカ族は、こういった決闘めいたことが好きなのだろう。

 ネーヴェじゃなくマイアの方が来るとは予想外だった……。俺の周りにいる女は、戦いたがりばっかりか。

「ハジメよ。手加減はせんぞ。痛い目見たくなかったら本気でやれ」

 そう言うと、マイアは手に持っていた槍を構えた。

「ちょっと待て!」

 俺は慌てて制止する。

「なんじゃ?」

「アホか!そんな凶器持った相手と本気でやれるか!」

 ウルカ族の武器は柄が木で、槍頭が鋭利に加工してある石器で出来ている。本当に本気でやって下手な所に当たったら大怪我どころじゃ済まない。

「なに言っとる。お前フィエダの一撃をいとも簡単に止めたんじゃろ。だったら大丈夫じゃ」

「大丈夫じゃねーよ!お前ここ一番の実力なんだろ。そんな奴と本気で戦えるか!」

「うるさいのお。じゃあどうしたいんじゃ?」

 どうもこうも、そもそも戦いたくないんだが……。

「この状況だからな。今更戦いたくないなんて言わんが、せめてお前の武器は、先の石のない物にしてくれ」

「そんなもん槍じゃないじゃろ」

「槍とまともに戦うのがあぶねーつってんだよ!」

 こいつは本気でしばきたい……。

「つまらん奴じゃのー。誰か、棒を寄越せ!」

 マイアが言うと、どこからともなく槍頭のないただの細長い棒が投げ込まれた。

「これで良いんじゃろ。さあ、始めるぞ」

 仕方なく、俺は棒を構えたマイアと向き合った。同時に野次馬達の声もピタリと止んだ。

 こちらに棒の先を向けて低く構えるマイア。俺は右半身を完全に引く。マイアに対し左肩を前にして、武器に対して攻撃面を極力狭くする構えで向かい合う。

 マイアの攻撃に対して、即反応できるように腰を落として、すぐに左足で後ろに跳べるよう体重をかける。マイアの武器が槍でなくなれば、大きく後ろに跳ぶだけで、予想外に突きが深くても槍頭がないからほぼダメージは受けずに済むはずだ。

 マイアの動きを警戒して動かずにいると、マイアが痺れを切らした。

「どうした。さっさとかかってこんか」

「あのな。槍なんて迎撃上等な相手にこっちから攻める訳ないだろ。俺からは動かんよ」

 俺から攻める場合、槍は先端を俺に向けるだけで良いが、逆に攻めさせれば、俺は先端の一点だけを警戒すれば良い。つまり俺から攻める利点は全くないのだ。そもそも俺はマイアと戦う理由もない。

「そうか。じゃあわしから行くぞ!」

 言葉と同時にマイアが棒を突き出す。

 動きを読み切っていた訳ではないが、俺は大きく後ろに跳び退って回避した。マイア突きは正確に俺の腹があった場所を狙って繰り出されていた。

 飛び退りながら目にしたマイアの突きは、むしろ武器が殺傷能力の少ない棒になったことで、力で威力をカバーしようとしているように鋭かった。

 あんなもん直撃したら、棒でも身体に穴が空くんじゃないか……。

 更にマイアは一歩踏み出し、続けて突きを繰り出す。

 腹、胸、頭と遠慮なくマイアの棒が俺を狙う。それぞれ飛び退りながらかわした。

 棒の先端は尖っていないので、下手に直撃を受けない限り怪我はしないだろうが、槍使いに棒を持たせておいてそこにつけ込むのは無粋だと思い、一応槍を相手にしているつもりで動く。

 あっさり負けなかったことに、野次馬達が再び盛り上がり始めた。

「ふん。その身のこなし、やはり少しはできるようじゃのう」

 今のは小手調べだったのだろう。まともに戦える相手だと認識したマイアが、獰猛に笑った。

 その笑みに、十数年間で感じなれた雰囲気を察し、俺は意識を切り替えた。

 次の瞬間、更に鋭さを増した突きが俺を襲った。予想通りの洒落にならない一撃を左に小さく移動してかわす。しかし、避けられることも計算の内だったのか、マイアは小さな動きで棒を横に揺らしてしならせ、思い切り横薙ぎに俺に叩きつけてきた。

 接点が棒の柄なので、当たっても致命傷にはなり得ないが、しなりで勢いを得た棒の横薙ぎは想像以上に威力を持っていて、俺は更に左に身を転がすことでなんとかかわす。頭上を鋭い風切り音が通り過ぎた。

 必然的に寝転がる形になるが、すぐに膝立ちになってマイアの動きを見る。その時には、マイアは横に振り切った棒を縦に振り上げて、今度は叩きつけるように打ち下ろしてきた。今度は右に転がってかわす。

 身を起こすなり可能な限りマイアから距離を取った。マイアの動きは槍のそれではなく、棍術に近くなっている。槍だけではなく、棒状の武器なら大概使いこなせるようだ。

「お前……まともに当たったら軽傷じゃすまないだろ」

「当たっとらんからええじゃろ」

 当たる訳にはいかないから避けてんだよ……。

「マイアー!やれやれー!」

「いつまで手加減してんのー!」

「がんばれマイアー!」

 俺とマイアを囲む野次馬が更に盛り上がって声を飛ばす。すごいアウェイ感を感じる。

 そこかしこで上がる女の声にイラっとした為、さっさとこの馬鹿げた決闘を終わらせることにした。おそらくどちらかが決定的な一手を決めない限り終わらないのだろう。

 受身でいてはいつまでも終わらないので、今度は俺から仕掛ける。

 始まりと同じ姿勢で棒を構えるマイアに正面から飛び込む。当然迎撃の刺突が突き出されるが、身体を反らしてギリギリでかわす。マイアは先程と同じく横薙ぎの攻撃を出す為に棒を横に揺らした。

 さっきは槍としては予想外の一撃に派手に避ける形になったが、マイアの技量を垣間見た今、同じ轍を踏むことはしない。

 俺は、棒がしなった反動でこちらへ振り払われる前に、身体を横にずらして、自分から棒に身体をぶつけた。

 インパクトの瞬間をずらされた棒はほとんど威力を持たない。

 右腕で棒を受け止めると、すかさず棒を脇で挟んで固定する。そのまま腕力と右半身を下げる力で棒ごとマイアを引きつける。

「!?」

 武器を抑えられ、前にバランスを崩したマイアを引き寄せ左拳を腹に叩きつける。

 俺の左拳がマイアの筋肉の凹凸が浮き出た腹部に叩き込まれる直前、今度はマイアが、前に引かれる力を利用して俺の横を通り過ぎるように転がった。

 抱えた棒を捨てるかどうか逡巡した次の瞬間、背後で棒を掴まれる感覚と、足に衝撃。膝裏を蹴られ一瞬で膝を付かされる。

 跪いた俺と、その後ろに立っているマイア。

 実戦なら殺されてもおかしくないな……。

「まいった」

 これは実戦じゃないから、殺されたくはないし、これ以上続ける気もない。

 マイアの勝利にウルカ族達が歓声を上げた。

「お前……」

「すごいです!」

 背後でマイアが何か言おうとしたようだが、駆け寄ってきたリノの声に遮られた。

 多分マイアは、俺が予想以上に動けることに驚いたのだろう。一瞬とは言え手玉に取れたしな。

「マイアとあんなに戦えるなんて、ハジメさんすごいですね!」

「おつかれー。凄いじゃん、やっぱり強いんじゃん」

 俺のこの状況に陥れたネーヴェもやってきた。

「すごいねー。今度私とも戦ってよ」

「あのな……」

 ネーヴェの言葉に耐えかねて立ち上がる。

 ウルカ族は好戦的な部族のようだし、多分こういった決闘めいた物はちょっとした楽しみなのだろう。しかし俺は自分から喧嘩をふっかけたことのない平和主義者だ。

「俺はむやみに人と戦いたくないんだよ。今のだって下手したら大怪我してたっておかしくないだろうが。俺は二度とこんな見世物みたいな戦いはしないからな」

 また勝手に見世物にされるのは御免なので、ハッキリと告げておく。

「えー。そんな強いのに、勿体ないよ」

「勿体ないとか、そういう問題じゃないんだよ。とにかく、俺はここの人間とは戦わない」

「ここのじゃなければ良いんじゃな」

「え?」

 いつの間にか、元の自前の槍を持ったマイアが言った。

「ここの人間と戦いたくないんなら、フィエダの奴らとなら良いんじゃな?」

「いやいや、そういう問題じゃないだろう」

「なんでじゃ。これだけ戦えるのに、まさか戦うのが怖いわけじゃなかろう」

「下手な挑発すんな。戦えるからなんて理由で、人の生き死に手を出せるわけないだろ」

 そう、昨夜は目にはしなかったが、ウルカ族とフィエダ族のやってることは、ほとんど戦争だ。

 槍に弓に、フィエダの持っていたのは刃だろう。あれだけの武器を持って戦って、殺し合いをしてない訳がない。

「ハジメ、わしにはお前が何を言ってるのかさっぱり分からん。強いから戦う。なにが悪い?」

 どうやらマイアは、純粋に俺が戦おうとしないのが理解できないようだ。

「俺の世界……、俺が元いた場所は、よほどのことがない限り、他人の命を奪うことも傷つけることも罪なんだよ。だからってお前たちが戦うのに口を出す気はないが、俺を巻き込むのはよしてくれ」

 倫理観云々もあるが、女達と一緒に、別の女達を倒す為に戦う。おおよそ俺には理解も想像もできない状況だ。

「分からんな」

「別に分かってもらわなくても良い。とにかく」

 マイアが俺の言葉を遮る。

「そうじゃない。分からんのは、人を傷つけるのがダメなら、ハジメ、どうしてお前はそんなに強い?」

 なるほど、確かにもっともな疑問だ。

 暴力が罪とされる社会で、必要以上に身体を鍛え格闘技術を磨くことは矛盾しているな。

 話の成り行きを見守っているリノとネーヴェを見て、適当に説明を考える。

「そうだな。強いて言うなら、リノが弓を使っているようなもんだな」

「わ、私ですか?」

「どういう意味じゃ?」

「リノは、槍や近接武器の多いウルカ族にあって弓を使ってるだろ。どうしてだっけ?」

 唐突に話を振られて慌てるリノ。

「は、はい、あの……母が弓を使っていたからです」

「それがどうかしたんじゃ?」

 どうやら俺のまわりくどい言い分にマイアが苛立ってきたようだ。

「それと同じさ。俺の一族は、何かをする為じゃなくて、ただ強くなる為だけに鍛えてる一族なんだ。その力を何かに利用することはあっても、そもそも何か目的があって鍛えてる訳じゃない」

「それに何の意味があるんじゃ」

「別に意味なんかねーよ。そういう家に生まれたからそうしてるだけだ」

 まぁ、俺には一つ、強くならざるを得ない理由があったが。主に俺自身の身の安全の為に。

 俺の言い分が理解できないのか、マイアは腕を組んで考えことをしている。

「ねぇねぇハジメ」

「なんだ」

「ハジメのいたとこではさー、そんな奴ばっかりなの?」

 俺の話しに興味を持ったのか、ネーヴェが問いかけてきた。

「同じように強くなろうとしてる人間がいるかってことか?」

「そうそう」

「いるにはいるが、うちの人間みたいなのは稀だな。普通は、お前たちが戦いがあるから強くあろうとしてるように、何か目的があって鍛えてる」

「ふーん?」

 どうやらネーヴェはあまり理解できていないようだ。

「なんじゃ、よーわからんが、わしに分かるのはハジメ、お前が強いということじゃ。だから」

「だから俺は戦いには参加しないって言ってるだろ」

「そいじゃハジメ、お前はこの先なにもせんでここに居座るつもりか?」

「う……」

「お前はリノの命の恩人じゃが……それだけでずーっとここに居座るつもりか?」

「くっ……いや……」

 こいつ、痛いところを突いて来るな。

 確かに女嫌いの俺が、状況に甘んじて働かずにここで世話になるのは虫が良すぎる。

「な、何か戦う以外でやれることがあれば……」

「そんなものはない」

「ぐふっ」

「ハジメ、お前がどうしてそうまでして戦いたくないのかは知らん。が、そうまでフィエダと戦いたくないならそれで良い」

「え?」

「その代わりハジメ、お前は戦場でリノを守ってくれ」

「え?私?」

「それで良いのか?」

 いや、それは良いのか?戦場に出ることは同じじゃないか。でも無職はきついな。

「お前がリノを守ってくれれば、わしらはフィエダを追い詰められるからな。それだけで助かる」

「どういうことだ?」

「うるさく言うもんも多いが、リノの弓はよう役立っとる。ただどうしてもわしらが前に進むと孤立しがちになってしまうからな。昨夜みたいなことになりがちなんじゃ」

 ああ、昨日みたいなの、よくあるんだ。

「いつもは私がついてるんだけどねー。昨日も一応あそこにいて、リノの近くでフィエダと戦ってたんだけど、一匹見落としちゃってさ」

 その見落とされた一匹が、あの時リノを襲っていたフィエダ族という訳か。

 リノも見落としで命危険に晒されちゃたまったもんじゃないだろうに。

「それで、俺がリノを守れば良いんだな?」

「そうじゃ。それくらいならできるじゃろ」

「働きもせずに居座るのも居心地が悪いしな。それくらいはするよ」

「良いんですか!?」

「それくらいは仕方ないしな」

 既にこの集落そのものの居心地は正直最悪ではあるが。何も知らない、右も左も分からない世界でまたいつ友好的に接することができる人間に出会えるかも分からんし、そこは我慢するしかない。

「よろしくお願いしますハジメさん!」

「ああ、よろし……い!?」

 話に決着がつくと、それを待っていたのか、幼女達が群がってきた。

「ハジメすごかったー!」

「ハジメつよーい!」

「でもマイアのほうがつよいよ!」

「マイアかっこよかった!」

「ははは!そうじゃろうそうじゃろう!」

 子どもというのは容赦がない。今度は飛びつかれはしなかったが、既に足に三人へばりついている。

 マイアは子どもに称えられて満足そうだ。

「あ、ありがとな。でも今汗で汚れてるから、離れた方が良いぞ?」

 なんとかソフトな言い方で幼女達を説得する。

「ホントだー。ハジメ汚れてるー!」

「砂取ってあげるよー!」

「あー、わたしもー!」

 幼女達を遠ざける試みは、完全に逆効果となってしまい、幼女達は俺の服を叩き始め、そして上半身を叩く為に腰や脇に昇り始めた。

「も、もう良いぞ!もう砂は落ちた!」

 俺の衣類についた砂を落とした幼女達は、むしろ砂が落ちたことで目的が変わり、俺に昇ることを楽しみ始めた。

 何故か我先にと器用に俺の身体にへばりつく。既に一人肩車をしている状態だ。

 幼女達に罪はないが、身に染み付いた女嫌いの本能は、そろそろ限界を迎えつつある。

「いい加減にしなさい!ハジメさんはお客様なのよ!!」

 この集落に来た時と同じように、またリノが幼女達を叱る。

「あははー!」

「リノが怒ったー!」

 怒鳴られた幼女達は、すぐさま俺の身体から飛び降りて逃げ出した。

「もう!」

「ああ……」

 ふくれっ面のリノを他所に、服の確認をする。どうやら前のファスナーも、縫い目も無事のようだ。

 このウィンドブレーカーがダメになったら、着る物がなくなってしまうし、この女しかいない集落で俺がまともに着れる服はすぐには出てこないだろうから、これは大事にしないと。

「あんた、すごいねー!」

「ぐっ」

 服をチェックしていたら、結構な力で背中を叩かれた。

「マイア相手に良い戦いっぷりじゃないか!」

「素手でマイアと戦えるなんて、あんたタダもんじゃないね!」

 幼女達の次は、御婦人達が群がっていた。三十前後のグラマラスなご婦人方が……。こういう層が趣味の男には堪らないのかも知れないが、俺にはもう拷問に近い。まだ幼女達の方がマシだ。

「いや、結局負けましたから……、別に大したことないですよ」

 礼節を大事にする日本人としては、目上の人間に対しては粗野な態度は取れない。

「なに言ってんだい!あの子はうちの戦頭なんだから、負けたって気にすることないんだよ!」

「そうそう、それでもあんたは十分強いさ」

「私がマイアくらいの頃だったら是非戦ってみたいもんさね!」

 歳を取った人間が話し好きなのは全世界共通か……。

 会話はほとんど井戸端会議のレベルで進行し、俺は隙を見てその輪から逃げ出した。

 

「酷い目にあった……」

 御婦人方の輪から逃げ出し、集落の中をリノのテントがあるであろう方向へ向かって足早に歩く。

 マイアと戦った時はまだ明るかったが、そろそろ日が暮れそうだ。

 そこかしこのテントの中で火が焚かれているようで、一つ一つのテントがぼんやりと明かりを放つランプシェードのようだ。

 たまにすれ違うウルカ族が声をかけてくれる。どうやらさっきのマイアとの戦いでそれなりに認められたようだ。ウルカ族では、フィエダ族もそうなのかもしれないが、強さがそのまま立場に繋がっているのかもしれない。

 もしこの想像が事実だとしたら、なんとも野蛮な話だ。でも未開の蛮族ってのはそういうものなんだろうな。

 リノのテントがどれか分からないながらも集落の外れまで辿り着くと、丁度リノがテントから出てくるところだった。

「あ、ハジメさんおかえりなさい」

 リノの手には、タオルのような布切れが数枚収まっている。

「丁度良かった。はいこれどうぞ」

 リノは、持っている布を一枚俺に渡した。

「これは?」

「これからお風呂に行こうと思ってたんですよ。入れ違いにならないで良かった。ハジメさんも行きますよね。お風呂」

「風呂があるのか。そりゃ入りたいが、でもなぁ……」

 ここで言う風呂がどんなものを指しているかは行って見ないと分からないが、どう考えても個室とかじゃないだろうなぁ。

「あ、大丈夫ですよハジメさん。ハジメさんは、その、嫌なんですよね?私達の身体とか見るの」

「え?いや、見るのが嫌っていうか、まぁ間違ってはいないが」

 男が女の裸を見るのが嫌ってのもおかしな話だけど、確かに正直見たいとは思わないな。見せられても困るし。

「ええとですね。私達が使うのは何人も入れる大きいお風呂なんですけど、普段あまり使われない、小さいお風呂もあるんですよ。だからハジメさんはそっちを使えば大丈夫ですよ」

 大きい風呂に、小さい風呂。この環境から考えれば、温泉かな。

「そうだな。それなら俺も安心して入れるな。それじゃ案内してもらって良いか?」

「はい!こっちですよ!」

 リノの案内に従って、集落の外縁を歩いた後、そこから森の中に続く小さな道に入る。少しして、肌に当たる空気に温かさを感じ始めた。

 白い湯気が立ち込める場所までくると、茂みの向こうに小さな温泉が現れた。

 確かにリノの言うとおり、人が三人も入れば窮屈に感じてしまいそうだ。

「それじゃあ私は行きますから、ゆっくりつかって下さいね」

 そう言うとリノは背を向けて来た道とはまた違う方へ歩いていった。

 とんだ天然娘かと思いきや、なかなか理解の早い子だな。

 リノの話ならウルカ族はほとんどここを使わないようだし、安心してつかることにした。

 服を脱いで適当に木の枝にひっかけると、湯加減確かめるようおそるおそる足をつける。

 熱すぎる様子もなさそうなので、温泉の底の岩肌に気をつけつつ、身を沈めた。

「くぅー!」

 温泉の熱が刺すように身体を刺激する。それと同時に身体から疲労が抜けていくような気分になる。

 女だけの集落で、気の休まらない環境だと思ったが、この温泉は心安らげる場所となりそうだ。

 一人きりで湯につかり気分が落ち着いたが、しかし安らいでばかりもいられない。

 改めて自分の現状を考えると、胸の内に不安がよぎる。

 こんな異世界に一人放り出されて、帰り方も分からず、そもそも帰れるのかも分からない。ここが女だらけのこの世界だと思うと鬱になりそうだ。

 それにここはおかしなことが多すぎる。女しかいない上に、年月の概念もあやふやだ。元の現実世界とは物理的な法則が何か違うのかもしれないが、それを理解しようにも、ここの人間達がそれを説明できる言葉を持っていないのではどうしようもない

 そもそもこの温泉だって変じゃないか。温泉って普通山にあるものだろう。

 昨夜、ウルカ族に拾われた場所からこの集落まで結構歩いたが、ずーっと平地だったはずだ。

 平地でも地下で温められた源泉を掘り出して温泉を作ることは可能なのかもしれないが、ボーリングなんかの掘削機がなきゃ話にならないだろう。

 どう考えたって、ここにそんな装置はあるはずもない。山の麓って感じもないしな。

 俺がこの世界から帰れるのかどうか、考えて分かるものではないのかもしれないが、ただ状況に流されるままでいる訳にもいかない。

 そう思って沈思黙考にふけっていると、茂みの向こう、ここに来る時に歩いてきた道から人の近づいてくる気配がする。

 この辺りはウルカ族の縄張りだろうから危機的に構えることはないが、この世界には女しかいないという事実から、嫌な予感がして身構える。

「おうハジメ、おるか?」

 声の主はマイアだった。

「マイアか。何か用か」

「リノがこっちの風呂に入っとると言っておったが、間違いなかったようじゃな」

「ああ、リノが気を利かせてくれてな。こっちの小さい温泉を勧めてくれたんだ」

「そうか。ちょっと待て……」

 茂みの向こうでゴソゴソと身動きする音が伝わってくる。

 俺は非常に嫌な予感を感じた。まさか……。

「おいマイア、ちょっと待」

 俺が言い終えるより先に、マイアは茂みを掻き分けて姿を現した。

「て……」

 一糸まとわぬ全裸姿で。

 まるで見ろと言わんばかりに、左手を腰に手を当てて何もかもさらけ出している。見た感じの感想だけを言うなら、その豊満なプロポーションは女の中でも抜群なものだ。

 世間一般の男からすれば、垂涎の状況かもしれないが、俺のテンションは凄い勢いでダウンしている。簡単に言うなら、ドン引きだ。

「おうハジメ、少し横にずれろ」

 異性という概念がないのだから、恥じらいなんて感覚もあるはずもなく、マイアは堂々としてこともなげに言った。

 こういう時、普通の男だったらいろいろと嬉し恥ずかしい気分になるのだろうが、俺は眉間に皺を寄せて無言で温泉の真ん中から端の方へ身を寄せた。

 俺が空けた場所にマイアが腰を降ろす。どうして俺は異世界に来て女と風呂に入っているのか……。

「おいマイア。お前リノから俺について何か言われなかったか?」

 先程のリノの言葉からすれば、俺が女と一緒に風呂に入りたくないというようなことを伝えられていてもおかしくなさそうなものだ。

「おお、言っとったぞ。ハジメ、お前リノの裸を見るのが嫌らしいのお。そいでなんじゃ?リノがわしみたいな強いもんのだったら良いんだろうと言っておったが、本当にお前は変わった奴じゃのお」

 少しでもあの女の理解力を褒めた俺がバカだった。何も分かっちゃいねぇ……。

 姉妹のいる俺にとって、女の裸体を見るというのは別に珍しいことではない。当然興奮などできようはずもない。俺はただただ不機嫌になりつついい加減、事情を説明すべきだと思った。

「そうだな。ここで世話になるんだったら、その辺きちんと説明しておかないとな。なぁマイア」

「なんじゃ?」

「俺、男と女って言葉、お前に言ったっけか?」

「ふむ、時折お前はそんなことを口走っとるな。なんなんじゃ、オトコとオンナというのは?」

「簡単に言えば男と女って言うのは、俺とお前だよ」

 マイア額の眉を寄せてこちらを見る。

「意味が分からん。バカにしとるのか」

「もしかしたら、この世界には男は本当に存在しないのかもな……。マイア、俺とお前で、何か違いがあると思うか?」

「ふむ、そうじゃのう。まず、全く乳がない。それに声も少しばかり変わっとるな」

「それが男と女の違いの一つだ。女は、個人差はあるが、胸が自然と膨らむようにできてる。まあほとんど膨らまないような女もいるがな。男は基本的に女のようには膨らまない。声に関しても、女の声は男に対して高い音になりやすい。男は逆だ」

「つまり、乳のない声の低い人間は男という訳か?」

 一応言っていることは理解できているようだ。マイアはリノと比べればきちんと話の分かる人間らしい。

「そういう訳でもない。胸がなくて声の低い女も存在し得るからな。いいか、ここからが本番だから良く聞けよ。男と女ってのは、そういった外見的特徴だけの問題じゃない。そうだな、まぁ言うだけ言うが、一番の大きな違いは生殖器だ」

「セイショクキ?」

「ああ、生殖器だ。ただ話をこの先に進める前に、一つお前に聞いておかなきゃならないことがある」

「なんじゃ?」

「お前達ウルカ族は、一体どうやって子どもを産んでいる?」

 俺の質問を聞いたマイアは、まるで不思議な物を見るかのように俺を見た。

「お前そんなことも知らんのか?」

「ああ、分からん」

 俺にとって現実世界の子作りが、ある程度の教育を受けていれば自ずと分かる行為であるように、マイアの言葉はこちらの世界での子作りが成長の過程で当然のように知識として得られることを示している。

「分からんから教えてくれ。お前たちはどうやって子どもを産む?」

「そんなもん、赤い満月の晩に子授かりの儀で子を作るに決まっとるじゃろ」

「子授かりの儀?」

 まるで古来の風習のようなものを彷彿とさせる言葉だ。

「わしらウルカ族も、フィエダだって子授かりの儀で子どもを作っておるはずじゃ」

「その子授かりの儀ってのは、具体的には何をするんだ?」

「赤い満月が昇る晩に、子を作る資格を得たもんが、黒の祠で子授かりの儀を受けるんじゃ」

「儀を受けるって言うのは、誰かに何かをされるのか?」

「そこまで細かいことは知らん。わしはまだ子授かりの儀を受けとらんからな。ただ、儀の最中は黒の祠の命令にただ従えという話じゃ」

 黒の祠の命令?もしかすると、そこに男がいて、儀として女を抱くとか、そういうしくみなのか。

「その黒の祠っていうの、今度案内してくれないか?」

「ふむ」

 マイアは何故か即答せずに考え込んだ。

 そして答える。

「ダメじゃ」

「どうして?」

「黒の祠は子授かりの儀の神聖な場所じゃ。わしも入ったことはあるが、あれは迂闊に踏み込んで良い場所じゃない。ハジメ、お前の強さは認めるが、よそ者であるお前を黒の祠へ連れて行く訳にはいかん」

 まあ、正論だな。

「そうか、それじゃ仕方ないな。そしたら話の続きだ」

「おお、セイショクキだったな。早く聞かせろ」

 早く話せと身を乗り出すマイア、少なからず俺の話に興味を覚えているようだ。

 それは構わんが、あまり近づくな……。

「生殖器って言うのはな、子どもを作る上で必要不可欠な器官だ」

「キカン?」

「身体の一部って意味だよ。簡単に言うとだな……。男と女は異なる生殖器を持っていてな。その異なる生殖器の機能が両方揃うことで初めて子どもができる。俺の世界では、だけどな」

「どういうことじゃ。そのセイショクキとやらを身体から取り出してくっつけでもするのか?」

 マイアの言葉に、男女の生殖器だけを取り出して性行為を行うという絵を想像して、なんとも言えない気分になった。

「そういう訳じゃない。ただ、男という存在を知らないお前に細かいことを言っても意味がないからそこは省かせてもらう」

 女相手に性行為自体を語るって、完全なセクハラだしな。

「なんじゃ、言うだけ言っておいて、ふざけた奴じゃのお」

 どう言われようと説明する気はないが、マイアは俺の話に大分興味を持ったようだ。

 ふと俺は、無駄だと思いつつあることを確認してみようと思った。

「なあマイア。お前や、ウルカ族達って、定期的に股から血が流れたりしないか?」

 これ、もし現実世界で女に尋ねたらセクハラ間違いなしな上に、周囲に完全に変態のレッテルを貼られるだろうな。

 まあ男なしで繁殖するこの世界の女に生理なんものがあるとは思えないが。

「おお、流れるぞ。よー知っとるな」

「……なんだって?」

 俺は温泉の縁の岩に寄りかかって話していたが、マイアの言葉に驚いて身を起こした。

「何驚いとる。お前が聞いたんじゃろう。戦えるくらいに大きくなったウルカ族は、皆そうじゃのお。わしも初めての時は驚いたぞ。なんだか身体が気だるいと思っていたら、痛みもないのに血が流れ出すんだからのお。まあ、何度も繰り返すうちに気にならんくなったがな」

 男なしで生殖するくせに、生理があるのか。やっぱり男いるんじゃないかこの世界。いや、でも生理があるからって男が必要な理由にはならないのか?別に生理って男の存在とは関係ないのか?くそ、こんなことなら保体の授業をもっと真面目に……、って何を考えてるんだ俺は。

 結局子どもを産むことは出来てるんだから、生理の有無も、男の存在も、そんなに深く考えることでもないな。

 なんだか馬鹿らしくなって考えることをやめた。

「それが女の生殖器の特徴さ。その出血も、子ども作る為には欠かせないものなんだ」

「そうなのか?」

「ああ、少なくとも、俺の世界ではな」

 俺自身、生理という現象がなんなのか、正直良く分かってないが。

「話を戻そう。つまり、生殖器の違いがそのまま男と女の違いな訳だが、男は男型の生殖器を、女は女型の生殖器を持つ。この生殖器の違いが男と女だ。そして、まぁ、さっき見た感じ、マイア、お前は紛れもない女だよ」

「それで、ハジメはそのオトコで、オトコのセイショクキを持っとるんじゃな?」

「ああ、まあな」

 やや、嫌な予感がした。

「だったら、ハジメ、お前のセイショクキを見せろ」

「断る」

 自分で話しておいてなんだが、そりゃそうなるよな……。しかしここは譲れない。

「なんでじゃ。さっきわしのは見たんじゃろ。お前のも見せろ」

「見たくて見たわけじゃねーよ!」

 言うことめちゃくちゃだなこいつは……。

「それにだ、この世界には男はいないようだし、子どもを作るにしてもその手段は俺の知ってるものと違うのかもしれないしな」

 言って、そもそも俺がマイアに何を言いたかったのか思い出す。

「ただ、俺が男で、お前……いや、ウルカ族全員が女であることには違いない。それで、まぁ正直に言うけどな。俺は女が苦手なんだよ」

 本当は苦手ではなく嫌いなのだが、女の集落で世話になるのに、貴方達が嫌いですとは流石に言えない。

「苦手?怖いのか?」

「怖い……。怖いか、そうかもな」

「お前、あれだけ戦えるくせに、わしらが怖いのか?」

 あまり込み入ったことを話すつもりはなかったが、この際だから話してしまうことにした。

「俺のもといた世界にな、言い方は悪いが、マイアでも全く歯が立たないような恐ろしい女がいるんだよ」

「ほぅ。そりゃずいぶんとわしも甘く見られたもんじゃのお」

「別にお前が弱いって言ってる訳じゃない。俺の知ってる女の中では、マイアは十分強い女さ。でもな、その女は別格だ。仮に今日のお前が本気でないとしても、お前が槍を持って本気で戦ったとしても、その女には勝てない。これだけは断言できる。そんな化物がいるんだよ」

「そんなに強いのか。一度戦ってみたいもんじゃのお。どんな奴じゃ?」

「俺の姉だよ」

「アネ?」

「ああ、俺の姉だ」

 姉が怖いなんて、まるで子どものようだが、事実なのだからしょうがない。

あの女は毎度毎度稽古や訓練と称してはトラウマレベルの一撃を俺に叩き込むことを日々の楽しみにしているような悪魔だからな。そんな姉に恐怖を抱いたところで恥ではないはずだ。

「アネか……」

「あんまり言うなよ。情けなくなるから」

 姉と聞いてさしたるリアクションもなく呟いていたマイアが問いかけてきた。

「ハジメ、アネってなんじゃ?」

「は?」

「だから、アネじゃ。そんなに強いのかアネとやらは」

「いや姉が強いというか、強いのは俺の姉だけで……。分からないのか?姉が?」

「分からないから聞いとるんじゃろうが」

「妹は?」

「知らん」

 ちょっと怒り始めた。

 これは翻訳機能のミスかなにかで、意味が通じてないだけなのだろうか。

「姉って言うのはだな、同じ親から、自分より先に生まれた肉親のことだよ。自分より後に生まれると妹になる」

 いざ言葉で説明すると微妙に難しいな。間違ってはいないはずだが、正確かといわれるとなんだか自信がない。

「何を言っとる。子どもは一人しか産めん。先だの後だのあるはずなかろうが」

「は?」

 一人しか、産めない?

「なんで?」

「知らん。黒の祠はどうやっても一人しか子を授けてくれん。誰がやっても同じじゃ」

「はぁ」

 なんだそれ。意味が分からん。

 本当にとんでも世界だなここは……。完全に俺の理解の及ばない摂理で成り立っているようだ。

 親一人、子一人。二人目は、産めない。

「なあマイア」

「なんじゃ」

「お前らフィエダと戦ってるだろ。やっぱり武器を使ってるんじゃ、命を落とす奴もいるよな……」

「フィエダは弱いからな。そうそうないが、それでも死ぬもんもおる」

「死んだ子の親は、もう一度産めるのか?」

「いや、授かった子が死んでも、やはり黒の祠はもう子を授けてはくれん」

「そうか」

 それは、つまり、人間が減ることはあっても増えることがないということなのでは……。

 フィエダとの争いを、戦争という規模で見て良いものか分からないが、武器を持って殺しあう以上、人の死ぬ機会は平和な社会の事故での比じゃないはずだ。

 しかし一人の女は一人の子しか産めないのであれば、種として繁栄しようがない。むしろこいつら、実は既に結構な衰退の中にいるんじゃないのか。

 井戸の中で聞いた「彼女達を助ける」という言葉がこの状況の打開を言っているのだとしたら、やはり俺が現実世界に帰る条件は、ウルカ族を助ける、と言うかこの戦争そのものを終わらせることか。

 無理過ぎる……。

 三国志の武将じゃあるまいし、一個人が戦争なんてこと象を左右させられるわけねーだろ。

 俺、本当に元の世界に帰れないんじゃなかろうか。

 鬼畜姉と馬鹿妹がいないという点でだけ、元の世界に返れなくても良いと思ったりしないでもないが、しかし、こっちはこっちで女しかいない世界とか、本当に世の中よくできてるな。不条理的な意味で。

 とりあえず少し前向きに考えて、現状打破の為に動くとしよう。

 戦争の終結が条件なら、その戦争について知っていなければ話にならない。

「ちなみに、ウルカ族とフィエダ族はどうして戦ってるんだ?縄張り争いか?」

「うむ、それがな」

 マイアは思わせぶりに空を見上げるように顔を上げた。

「よく分からん」

「……は?」

「よく分からんと言ったんじゃ」

 戦っている理由が分からない?そりゃずいぶんと不毛な戦いじゃないか……。

 いやでも部族間抗争ってそんなもんかね。先祖が何かの理由で始めた争いを、子孫がただ訳も分からずその行為だけを引き継いているとか、有り得ない話じゃないよな。

「ウルカ族とフィエダ族は、そんなに昔から戦ってるのか……」

 言葉は、マイアへの問い掛けではなく、自然と口からこぼれた感想のつもりだった。

 そしてマイアがそれに返答した。

「いや、フィエダと戦い始めたのはそんなに昔からじゃないぞ」

「なんだって?」

「わしがまだこんくらいのガキの頃は、フィエダとは争ってなかったんじゃが……。いつごろだったかのお。急にわしらにちょっかい出すようになりよった。まだわしが戦頭になる前の話じゃ」

 こいつら、年月の概念がないから、時間の部分とかが漠然としすぎるんだよな。

「どうしてフィエダがそんな風になったのか、分からないのか?」

「理由は分からん。ただ、どうもそれと同じような時にフィエダの戦頭が代ったらしいのお。もしかしたら何か関係あるかもしれん」

 戦闘の指導者が代って、戦争が始まった。随分とシンプルな話なんじゃないのか。

「そのフィエダの戦頭って、どんな奴か知ってるのか?」

「おう、何度か武器を交えたこともあるからのお。名前はアドネ。戦いながらぺちゃくちゃ喋る変な奴じゃ」

「マイアが戦ってまだ生きてるということは、かなり強いのか」

「んむ。ぺちゃくちゃ喋るが、決して弱くはないのお。まあ奴は少しでも負けそうになるとすぐ逃げるからどこまでやれるのかよく分からんが」

 それは戦術的撤退って奴だろうな。

 まあどう考えても、そのアドネって奴が戦争の発端だな。この世界の全体像が分からんからどんな理由があるのかは想像つかんけど。

 そういや族長の話だと、フィエダの里の向こうで森が終わってるんだよな。だとすれば森の向こうにも何かがあって、それが絡む可能性もあるな。

「まったく。分からないことばかりで嫌になるな」

「それはそうとハジメ、わしもお前に聞きたいことがある」

「ん、なんだ?」

「お前、さっき……昼に戦った時」

 マイアが言い切る前に、再び誰かがこちらへ近づいて来た。

「マイアー、ハジメー、こっちにいんのー?」

 ネーヴェか。

「あ、いたいた。リノが二人でこっちにいるって言ってたからさー。どうせだったら私も一緒しようかなって」

 なんなんだろうね。この人達の無神経さは……。俺は風呂一つ満足につかることもできないのか。

「そうか。それじゃ俺は上がる。あとは二人で楽しんでくれ」

 リノの用意してくれた布で前を隠して湯船から上がる。服を回収して温泉から離れる。

「えー、なんでよー。一緒に入らないのー?」

 ネーヴェが不満の声を上げたが、完全に無視をした。

 あれだな。昼間にマイアをけしかけたこともそうだが、こいつは俺の嫌なことをピンポイントでやってくるな。気をつけよう。

 そんなことを考えながら、俺は隠れるように茂みでパンツを履いた。


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