表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天下統一おめでとう

作者: 桜井信親

室町幕府の衰退から始まった戦国乱世。

足利、細川、畠山、大内、三好など名だたる大名が立ちあがり、やがて消えて行った。

そんな中、乱世に終止符を打って天下を統一しようとする者が現れる。


彼の名は織田信長。


尾張国の一地方から始まったかの家は、瞬く間に戦国の世に躍り出る。

信長に率いられた織田家は、幾多の強敵を打ち破り遂に天下の統一に成功した。

しかし、彼は天下人とはならなかった。


天下人となったのは彼の後継者、織田信忠。


優秀な後継者である信忠は征夷大将軍職に就き、新たなる幕府を創出する。

信長は第一線から退き、大御所と称して織田家を後見。


ここに、織田家による天下統一は成し遂げられたのである。


近江国・安土城。

尾張・伊勢から京・大坂を含む大勢力圏の中心であり、将軍の居城たる織田幕府の政所である。


そこに、織田一門に名を連ねる一人の男が呼び出された。


向かう先は大広間……ではなく、将軍の私的な場である十畳の間。

つまり、この会合は公的というより私的なものであるということだった。


無論、私的な会合だからと言って礼を失するのは言語道断。

十畳の間で瞑想しながら、男は将軍を待っていた。


──と、奥から特徴的な足音が聞こえてくる。


親子揃って床を踏み抜く音がでかい。


男は軽く苦笑し、平伏して待つ。


まもなくガラッと襖が開き、煌びやかな服飾を見事に着こなす壮年の男が入って来る。


「おお叔父上。お待たせしたようで、済まなんだ」


「いえ。将軍様におかれましては、本日もご機嫌麗しく」


「うむ。ははは、そう堅苦しくなさるな。ささ、面を上げなされ」


朗らかに笑いながら、男…将軍・信忠が叔父と呼ぶ男に声をかける。

許可を得た男はゆっくりとした所作で頭を上げた。


男の名は織田信照。

信長の弟にして将軍・信忠の叔父にあたる。


もっとも、一門中での地位は低い。

信長の兄弟でありながら、弟二人よりも序列は下。

それどころか、熱田の国人に嫁いだ信長の庶姉の次男…要は甥…よりも低い。


所領も尾張で四千石ほどを任されていたが、将軍の叔父としては余りにも少ない。

将軍と同姓を許されていると言う意味では、ある程度厚遇されていると言えなくもないか。


そんな低位の一門に、将軍が一体何用だろう。

呼び出しを受けてからこちら、心中疑問符が消えることはなかったが、それも今から分かるはず。


私的には叔父・甥という仲だが、当然に将軍・低位の一門という間柄が優先される。

内容は不明ながら、最低限の礼節だけは失せぬよう気を張らねばならない。


「ふむ。…叔父上と二人だけで話がしたい。人払いを」


「「ははっ」」


しばし世間話などで歓談した後、おもむろに信忠が人払い命じる。

あらかじめ言い含められていたのか小姓らは即座に部屋から下がり、さらには足音から察するに部屋からも遠ざかっているようだった。


いよいよか!


周囲に人の気配が無くなったところで、信照は気合を入れた。

それを面白そうに眺めたあと、信忠は叔父を近くに呼び寄せた。


「叔父上、折り入って頼みがある」


「なんでしょう」


一体何を言われるのか。

内緒話のように、こそこそとするのも気になる。

自然、思わず力んで身構えてしまう。


信忠は叔父の姿に構わず、ある頼みを告げた。


「父上をな。……亡き者にして欲しいのだ」



ひぇっ



変な音が出た。

どこから?

誰かの喉か?もっと別の何かか?

信照は何を言われたのか理解できない。

いや、理解してはいけないと無意識が訴えかける。

聞けば破滅する道だと。



「どうなされた叔父上。む、もしや聞き漏らしたか?仕方ない。今一度…」


「い、いえっ!聞こえておりまするっ」


「ふむ、そうか」


信照の醜態はしかし、信忠には関係ない。

分かっているはずのことを、敢えて淡々と繰り返そうとするのは…。

季節に似合わない嫌な汗が噴き出て来る。


何だ?

この甥は、一体何だ…?


叔父には理解できない。

実の父を亡き者に……いや!待て、待てよ…。


ここでふと冷静になり、ごくりと唾を飲み込む。

信忠は父を亡き者と言ったが、どの父とは言っていない。

どうしても冷静になり切れない頭を必死に捻り、希望する正答を導き出そうと必死にもがく。


「かっ…確認しますが……そ、その父とは……義理の…」


「いや、我が父上のことよ。実の父、織田信長で間違いない」


正室や側室たちの父親、いわゆる外戚一族の権力削減のため。

岳父となって権力を振りかざそうとする者を除こうとする。

これなら、手段はさて置き分からないではない…。


などという希望した正答は、正しく誤答だと敢え無く打ち砕かれた。


あまりの衝撃に呆然自失。

何よりも一門に優しいことで有名な信忠が、まかり間違っても実父を除こうとするなどと…。


思いもよらぬことに気を失いかけるも、それは許されない。

主筋が欲する回答をせぬ限り。


「叔父上。…我が願い、叶えてくれましょうや?」


目の前の甥は笑顔だ。

一門たちの前で良く見せる、優しい笑顔。


それが、今は酷く恐ろしい。

何故そんな顔が出来る。

その笑顔で、何故そんな言葉を吐ける!?


「…あ、あにうえ、が…っ」


何を言おうとしたものか、信照の口はこれ以上の言葉を紡がない。

ふと気付けば首筋にヒヤリとした感触。


「叔父上。引き受けて頂けますな」


何時の間に抜いたのか。

木漏れ日に煌めく脇差の波紋、普通ならば美しいそれが怪しく輝く。


二の句を継げず、ただ小刻みに何度も頷いて見せる叔父。

それを見て満足そうに笑顔を見せる甥。

何とも言えないおぞましさを感じる風景であった。



* * *



「落ち着きましたかな」


十畳の間にやってきたのは昼を過ぎたあたり。

ふと気付けば日が斜めに入って来ている。


余りの衝撃に放心し、戻って来るのに相当の時間を費やした。


何時の間にやら目の前には一杯の白湯。

少し前、動揺した叔父を落ちつけようと近習を呼び用意させたものだ。

信忠に言われて初めて気付き、謝意を示して口を付ける。

些か冷めてしまったようだが、カラカラの喉には素晴らしい御馳走である。


「…はあ。まだ少なからず混乱してますが、一応は」


正直落ち着きたくはない。

なんなら、全て忘れてしまいたい。


だがその願いが叶うことはない。


「お尋ねしても宜しいか?」


ならばいっそ、腹を括って話を聞いた方がまだ建設的だ。

残念ながら衝撃から立ち直り切っておらず、言葉の端々が震えてしまっていたが。


「何なりと」


対して信忠は余裕綽々。

泰然自若とは正にこのことかと、信照は変なところで感心した。


「何故…」


「ん?」


「何故、その…そのようなことを…」


「ふむ。それはいずれに対する理由ですかな?」


実父を亡き者にする理由。

それを自分に依頼する理由。


どちらも聞きたいし、聞きたくもない。

未だに逡巡する気持ちが消えてくれないのは、己が未熟だからだろうか。


「まあ良い。お聞かせしよう」


そう言って話し始めた内容に、信照は再度目の前が真っ暗になるのだった。



* * *



大御所・信長は筑前国・名島城に滞留中。

羽柴家当主・秀勝の居城であり、その養父・秀吉とともに九州に睨みを効かせている。


信長が九州に滞留しているのは物見遊山。

新しいもの好きの信長は、南蛮渡来や大陸由来のものが集まる博多に入り浸っていた。


と言う諸々の建前はさて置き、実際の目的は大陸進出計画の推進である。


…と、信忠らは見ている。


実際に何か行動を起こしただとか、手配した中にその兆しがあるとかはない。

渡来人の話を聞いたり、自分が出征したらこのように動く…などと周囲の人間たちと語らったりはしている。

しかしそれらは所詮、手慰み程度のもの。


今のところ、大陸出征への動きや計画は露ほどもない。


「だが、そういった風聞が危ういのだ」


信忠は語る。


信長と共に天下を目指した者らは、言わば夢を実現した世代。

若き日に信長が語った夢は、自分たちが実現せしめた。

ならば今また信長が語る夢も、自分たちが実現させねばならない。


「そのような思想に染まる危険性がある」


これは全て信忠らの想像であり、信長や近臣・重臣たちが言ったという事実はない。

事実はないが、可能性としてはあると見ているのだ。


「畿内から四国、九州。そして関東から奥羽まで。ようやく天下が治まったのだ」


今後は外へ目を向けることもあるだろう。

必要性は感じている。

しかしそれは今じゃない。


幕府が出来たとは言え、まだまだ余力は少ない。

外に出て行く余裕などないのだ。


「天下静謐には、少なくともまだ三年は必要と見ておる」



無論、信長もそのことは理解している。

理解しているから幕府を次の世代に任せ、せめて自分は九州で夢を眺めてみたい。

そう思っていた。


それが故に、齟齬をきたしたは悲劇と言えよう。


「…それにな」


これまで深刻そうに語っていた信忠の顔に、初めて別の色が灯る。

それは一門に対する優しい顔でもなく。

信照に向けた優しさの奥にある狂気の色でもない。


「此処で挫けては、何のために惟任を抑えたか分からぬ」


「…惟任?……光慶殿が、何か」


ここまで話の大きさに圧倒され、黙って聞いていた信照だったが…。

唐突に関係なさそうな言葉を聞いて、疑問が口をついて出た。


「光慶ではない。父親の方…日向入道のことよ」


惟任日向入道。

若き日には明智光秀と名乗り、信長に従い各地を転戦してきた。

幾多の武功を稼ぎ、近江坂本と丹波国を領する有力家臣となっていたのだが。


「天正十年頃でしたか…剃髪して家督を光慶殿に譲って以来、信忠様のお側にあったと記憶しておりますが」


信長も光秀を優遇し、惟任の姓と日向守の官位を与えて畿内の司令官に準ずる立場を与えていた。

しかし織田家による毛利征伐の頃、突如として出家隠居。

家督を嫡男に譲り、自身は信忠付きの側近として今に至る。


当時は信長による指示かと思われたが、どうやら信忠が何かしたようだ。


なお、信照は光秀に会った事は数えるほどしかなく、ほぼ全て伝聞でしかない。


「相違ない。その折に、私は堪えよと申した。そして、……要は、時が来た……そう言うことよ」


これで分かるようなら自分はもっと活躍してるはず。

信照がそう思うのも無理からぬほど意味不明な発言だった。

裏側を知らぬ限り、手掛かりにすらならぬ謎の言葉。

もちろん信忠はそれを踏まえて言ってるのだが。


「これに関し、私から言うことはない。必要であれば入道に直接尋ねるが良い」


「はあ。…あ、いえ。…はい、必要であれば」


訳が分からないが、詳しく知りたいとも思わない。

余計な事に首を突っ込まないことも大事な心構え。

そう思い今まで生きてきた。


この歳になって、自力では到底どうにもならぬこともあると思い知らされたが。


「さて叔父上。協力頂くにあたり、一つ申し渡すことがある」


望んで協力する訳ではないのだが。

心中悪態をつきつつ、表面上は大人しく拝する。


「叔父上には織田家から出て頂く。所領も一旦召し上げる」


「…は?」


まさかの言葉。

今日は想像だにしない事ばかり聞くなあと、呆ける間に話は進む。


「叔父上はこれから中根と名乗って頂く。また、僭称ながら越中守を許す。中根越中と名乗られよ」


「はあ…」


返事と言うより、ただ気が抜けていくだけの反応を返す信照。

と、そこで名乗りより気になる事を聞いてないことに気付く。


「そ、それより!所領召し上げとはっ?」


「うむ。何、我が側仕えの市之丞は叔父上に似ず優秀故、別家を許そうぞ」


「い、いえ!それは喜ばしいですが、市之丞めは次男にございます!」


さり気なく甥から優秀でないと明言されるも、それに気付かず声を荒げる。

所領を召し上げられたら嫡男が家を継げない。

加増発展には左程興味を持たぬ信照だが、流石に家名断絶は黙ってはいられない。


「叔父上は織田家を出るのだ。家を残す訳には行くまい」


「そ、そんな無体な…」


「そもそも叔父上。叔父上は少々誤解しているのではないか?」


「は、…な、何を?」


これまで叔父・甥の関係としていたものが微妙にずれる。

信照は元より甥として接してはいなかったが、信忠の気配に違和感。

肌で感じられるほど、何かが確かに変わった。


「父上は一門に甘い。そう思ったことはないか?」


「そ、それは…」


もちろんある。

むしろ、織田家にあっては暗黙の了解とも言える。

織田家に属する者、特に古くから仕える者ほどその思いは強い。


そしてそれは、信忠はより顕著である。

いや、顕著だった。

信照にとっては、少なくとも今日までは。


「謀反を起こした我が叔父・信勝殿も一度は許し、その子らは今も健在だ」


特に信勝の嫡男・信澄は信長からの信頼も厚く、近江大溝城主を務めている。

その弟たちも、幕府旗本になったりとそれなりに遇されていた。


戦で下手を打った次男・信雄も叱責で済まし、その後は加増と官位昇進を繰り返し行った。

同じく讃岐統治で失敗した三男・信孝も、順調に昇進を重ねている。


他、尾張統一の過程で敵対した者らも追放で済まし、後に帰参も許した。


「佐久間信盛や林佐渡らとは大違いよな」


彼らは織田家譜代の重臣で、特に佐久間信盛はこれと言った失点がなかったのに追放された。

林佐渡も最初期にこそ信勝に付いたが、その後は筆頭家老として家中に重きを成した。

それが、突然追放された。

他にも水野信元や丹羽氏勝、安藤伊賀など追放された者は枚挙に暇がない。


彼らに共通して言われるのは、功罪の軽重が安定しないこと。

要は、言い掛かりに近い形で追われる者が多かったのだ。

理由としては、織田家直属の力を増す為と囁かれている。


「信栄や通政も、親に比べると小粒よ」


佐久間信盛の子・信栄。

林佐渡の継嗣・通政。

彼らは信忠に仕えて重用されてはいるが、その権勢はたいしたことはない。

つまり、そういうことだと。



「対して、織田の一門はどうか。ハッキリ申せば叔父上、お主は無能だ」


自分でも薄々感じていた事だが、甥であり主君でもある将軍からズバリ言われると立つ瀬がない。


「なのに織田家の本拠地、尾張国で四千石。過少と思うか?」


信長の弟、信忠の叔父と考えれば最低一万石は……などと考えられなくもない。


実際、信長の弟で存命なのは、順に信包、信照、長益、長利。

そして信包は独立して十万石ほど。

次いで長益が二万石、長利が一万五千石。

長益と長利は信照の弟だが、信忠付き家老として幕府でもそれなりの地位にある。


そして信長の子らは除くとしても、信澄が七万石。

姉甥の信氏は五万石、その弟・忠辰は一万石。

同じく姉甥の信弌は二万石。

従兄・信成の子・正信は一万五千石。


彼らは大なり小なり数多の戦に一軍を率いて参戦。

あるいは執政官として織田家のために働いてきた。


対して信照はどうか。


正直言って何もしてない。

その出生柄、誰にも迷惑をかけぬよう、ただ屋敷に籠って大人しくすべきと考えて来た。


せいぜい織田家の催事にひっそりと参加する程度。

あとはまあ、嫡男と次男を近習として信長、信忠にそれぞれ出したくらいか。


「我が織田家でも、穀潰しを養う余裕はない」


これといって何もしてないと自覚のある信照が、何故今まで生きて来られたか。

存在価値がなければ放逐されてもおかしくはない。


「そなたにも使い道があるからよ」


信忠は、為政者の目で叔父を見る。

その目は硬質で、情に訴えず効率を求める眼差しだ。


「そも、主家の血筋はそれだけで価値がある」


政略結婚などがその良い例だろう。

男だろうと女だろうと、家と家との繋がりに使えるなら十分価値を認められる。

さらに血統だけを価値とするならば、むしろ無能な方が良いことさえある。


「一族が多ければ多いほど、打てる手は多くなる故な」


だからこそ大事にするのだと信忠は言う。

家族だから、繋がりがあるから。

そう言った情とは全く別の面から、一門に対する優しさが出ていたのだ。


「家臣どもを斬らないのも似たような理由だな。対して敵は斬る。当然よな」


重臣は追放で済ませ、ほとぼとり冷めた頃に帰参を許す。

場合によっては子や兄弟などにも家を立てさせる。

しかし手放した権勢が戻ることはない。

それでも一度地獄を見た者は、二度目がないよう必死で働く。

憎悪を募らせる者は目の届く範囲で敢えて暴発させ、見せしめに使う。


使い方は様々だが、人財とは良く言ったものである。


「民を始め、家臣一同から一門たちも全て織田家の財だ。これに嘘はない」


確かに嘘はない。

しかしこのように説明されて、喜ぶ者がどれだけいることか。


「まあこれは私の考えでな。父上はじめ、他の者に話した事はない」


そんなものを聞かせられる理由を、信照は努めて考えないようにした。


「叔父上。私はずっと、お主の使い道を考えていた」


どこぞへの養子をまず考えたが、既に二人も子がいるため使い辛い。

しかも片方は自分の近習として仕えている。


飾りの大将として危険な任務を課す。

試しに甲州攻めで長益にやらせたら妙な箔付けになった。

これも使い所が難しい。


「故に今こそ、だ。お主は影が薄い上に無能と目されておる。だが、一門である」


それも信長の残り少ない弟でもある。

信忠から見て、信長の信照に対する情は濃くはないが薄くもない。


その出生は、まず母は熱田の商家に生まれた。

器量良しとの評判で、既に許嫁も決まっていたらしい。

そこに信長らの父・信秀が半ば拉致も同然に奪い、信照が生まれたのだ。


認知こそすれ、信秀は信照に興味を示さなかった。

その母も同様。

一度奪ってしまえば、あとはどうとでもなる。

適当に屋敷を与え、金を与えて放置したまま亡くなった。


実家である商家は、遠江中根家御用達の分家であったが内通を疑われて取り潰し。

熱田の実力者である大橋家との勢力争いに敗れたともされるが、真相は不明。


あるいは信秀が長生きしていれば、その処遇もまた違ったかもしれないが。


現実には頼るべき後ろ盾もなく、守るべきものもまたない。

加えて能力が高い訳でもなく、日々を静かに過ごすしかなかった。


元々低い能力に加え、庶子で最低限の教育しか成されなかった信照は無能として成長。

一定の常識と思考力は持つが、武力も知略も政治力も、野心すら持たなかった。


危険性の無い弟を信長は安心して、且つ面白味のない存在として接した。


信照を挟んだ弟たち、秀成は武人として期待されたが若くして討死。

長益は若い頃から婆娑羅者として鳴らしつつ、茶道に興味を持つなど面白い存在で可愛がられた。

長利は信照と同じく地味だが秀成同様武勇があり、長益に引き摺られる形で存在感を出していく。


自然、信照の序列は下がっていった。

それでも安心できる存在は大事だったようで、どれだけ順位が下がっても信長が忘れることはなかった。


信忠が家督を継ぐ折にも、信長は信照について言及していた程に。

大事にしろとは言われなかったし、使い道を示された訳でもない。

ただ、よく見ろとだけ言われたことを覚えている。


だから信忠は信照のことを常に頭の隅に置き、使い道を考えて来たのだ。


「叔父上は間違いなく、父上にとって安心できる存在。故に、誂え向きなのよ」


そして、遂に使い道が決まった。

同時に信忠の腹も決まった。

通常順序としては逆のはずだが、抱き合わせで決断に至ったのは事実である。


天下を統一した今、信長の存在は危険視されている。

危険視するのは何も信忠ら幕府だけではない。

よって大義は幾らでも用意できる。

駒も揃った。


「ああ、そうそう。事が成功すれば、お主の嫡子・新兵衛に五千石を与えようぞ」


「はっ…」


旧領より一千石の加増。

たったそれっぽっち。

いや、そんなことよりも!


「…何故、新兵衛なのでしょうか」


何故、自分じゃないのか。

兄を亡き者にするという仕事に、納得は全く出来ない。

出来やしないが、それは一旦脇に置いておく。

また別の問題だから。


今回の件は、どう考えても危険な任務。

とてもじゃないが五千石のためにやるようなことじゃない。

一万石貰えるとしても躊躇するような事だ。


「ふむ?…ああ、何故自分に恩賞が下されないか疑問なのだな」


なに、簡単な事よ。

そう言い置いて、信忠は朗らかに告げる。


「お主が、生きては戻らぬからさ」



* * *



「それは、どういう…?」


「ふむ。叔父上は影働きといったものをご存じないですかな」


影働き。

表に出せない、暗殺や諜報活動などを意味する。

通常は身分の低い中間や行者、忍びの者らを使うことが多い。


「天下人の御父を亡き者した下手人が、平穏無事に生き延びられると思うか?」


「そ、それは…っ」


自他ともに無能だと考えてはいるものの、別に一般的な思考力がない訳ではない。

信忠が如何におかしい事を言っているかは流石に分かる。


もちろん普通なら不可能だ。

しかし、仮にも将軍の命。

表だって加増などは無理でも、何かにかこつけてどうにかできるものじゃないのか。


これは正解。

但し、それをする気があるかないかで話は変わるもの。


「ハッキリ言おう。お主には、父上と心中してもらう」


まさか一日のうちに、驚天動地の度合いが更新されるとは夢にも思わなかった。

何度目か分からない放心をする信照を尻目に、信忠の発言は続く。


「これがお主の使い道よ。父上には、安心して逝って貰わねばならぬでな」


死人に加増は出来ない。

だから嫡子に加増する。

しかし罪人の子に加増することは不可能。

だから旧恩により、などと言って一門を優遇する措置を取る。

あるいは他の適当な功を上げても良い。


「それであれば五千石が妥当ということよ」


狼狽する叔父に向ってつらつらと説明するが、別に下手人の名を晒す必要はない。

無理心中などとせず、穏便に病死させればいいだけでもある。

その辺りは敢えて明言せず、信照もまた気付かない。


あくまでも、信長の死は信忠が預かり知らぬ事でなければならない。

天下人の父、その死を盛大に利用せねばならない。

将軍は父の死を乗り越え、糧にして幕府を固める仕事に邁進せねばならないのだ。


「今まで惰性を貪って来たのだ。加えて家名存続に加増だぞ。破格だと思わぬか?」


何か言わねばならない。

しかし、喉がカラカラで言葉が出ない。


「ああ、新兵衛は私が預かる。事が終わるまで不自由させぬと約束しよう」


微笑む甥が恐ろしい。

今まで余り興味がなかったが、切支丹どもが言う悪魔とはこういった顔なのではないか。

そう思えて仕方がない。


前に、信孝からデウスの教えとやらを聞かせられた。

あの時は右から左に流してしまったが、今はとても興味がある。

是非、今度話を聞いてみよう。


自分に今度があれば、だが…。


「それでは選んで頂きたい。すぐに中根越中として活動を始めるか、此処で倒れるか」


この悪魔…もとい、甥…将軍?は一体何を言っているのか。

何はともあれまずは一度屋敷に帰り、身辺整理をせねばならない。


「あまり時間は取れませんぞ。それと、屋敷へ戻る暇は渡さぬ」


甥になったり悪魔になったり、入れ替わりが激し過ぎて付いていけない。

いや、自分の思考も訳が分からなくなってきた……。


「悩む必要はあるまい。今すぐ家を潰すか、仕事をして子孫に家を繋ぐか二つに一つだ」


嗚呼…。

叶うならば、今すぐ楽になりたい。


「仕事をすれば病死も許すが、今なら無礼働きとして切腹、改易は免れぬ」


楽になりたいが、それは拙い。

嫡男・新兵衛はもちろん、信忠に仕える次男・市之丞もどうなるか。


信照の関係者、女子供に至るまで連帯責任となりかねない。

恐らく死罪はないが、代わりに…。


「敢えて言うが、お主の代わりは幾らでもおる。例えば新兵衛、例えば市之丞…」



ひぇっ


再び変な音が出た。

予想された言葉。

それでも実際に言われると、もう……どうしようもない。


「謹んで、拝命致しまする…」


名誉と家族を人質にされて…。

それでも最悪、自分が悪名を被れば息子たちは…。


震える身体を必死に抑えつけ、平伏した。

最早打つ手はない。

ここで何か手立てを思い付けるならば、そもそもこんな事態に追い込まれていないだろうから…。


「そうか!流石は叔父上、甥たる私の心を汲んでくれて…嬉しく思うぞ」


どの口が。

そんな悪態すら出て来ない。


信照の心中を漂うのは絶望か、あるいは諦観か…。


「では叔父上。いや、中根越中よ。我が密命、しかと頼むぞ!」


満面の笑みで叔父の手を取る信忠と、無言で俯く信照の姿は実に対照的で…。

彼らを影から見詰める双眸は、笑みの形を作っていた。



* * *



織田信照が将軍信忠の勘気を蒙り、改易されたのはそれからすぐのことであった。


信照は追放。

嫡男新兵衛は一旦長益預かりとなった後、許されて幕府へ出仕。

次男市之丞は御咎め無しとされた。


織田家は一門に甘い。

風聞が全国に素早く広まる。

が、家中では元より公然の秘密。

今更誰も気にしない。


これは好機かと蠢く者らも、あまりに周囲が動かないので漸く気付く。

ああ、織田家ってそういうものなのかと。


やがて、織田信照の話題が出ることもなくなっていった。


「さて、顔合わせは済んだ。それでは出立するぞ」


「とは言っても、我らは基本別行動ですがね」


延暦寺に縁のある、天海と称する老僧。

滋野幸村と名乗った信州訛りの強い武士。


彼らと合流した信照は、中根越中と名を変えて行動を開始する。

目指すは筑前名島城。

兄であり、天下人の実父でもある織田信長が滞在する場所である。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] おお、スゲェ汚ぇ。しかも典型的な日本国内しか見ていない行動だ。世界を見てればこの時代外に打って出るべきなのはわかるはずなのになぁ、江戸幕府と同じ過ちか、朝鮮出兵で仕事無くなった不満武士達を口…
[良い点] こういう汚さがにじみ出る作品大好きです
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ