第九話 捕食者
本日二回目の更新です。
残酷な描写あり。
薄く眩い太陽が斜めに森を照らす頃、レイラとリリはもそもそと布の布団の中で身動ぎした。
やがて目を覚ますと、先にレイラが布団から抜け出て身支度をする。元々の癖っ毛がさらに暴れん坊になっているのを櫛で整え、パジャマ代わりのネグリジェを脱ぎ捨てて清潔な肌着に腕を通す。それから薄桃色のドレスを着こんで、白手袋を肘の先まで引っ張って、最後にティアラを頂きに装着して準備は完了。
「ふぇあ」
気の抜ける声にレイラが振り向くと、ちょうどもそりもそりとリリが身を起こしているところだった。生地の薄い白いシャツの肩紐がずり落ちて、締められた腋の複雑な線を覗かせていた。こしこしと目元を拭う姿が小動物を想起させる。
そのような姿を見て、レイラが手を出さない訳がない。
「ほぁ……レイラしゃま……」
「ん?」
「おたわめれ、おたまれれ……」
傍らに膝をつき、跳ねた髪と頬の間に手を差し込んで、もっちりとした肌に触れる。寝ぼけまなこを向けてくるリリに、レイラはふつふつと湧き上がってくる笑みが止められなかった。
頬に手を当てたまま、親指を唇に這わせれば、くすぐったそうにリリのまつげが震えた。
「……ほあっ!? れれレイラさまっ!?」
「あら、起きた。おはようリリ」
「は、あ。ぇは、おはおうござ……」
しばらくやわやわと頬を堪能していれば、だんだんと目が冴えてきたのだろう布団を掻き抱いて身を引いたリリは、きょどきょどと左右に目を走らせると、詰まらせた息を吐き出すようにして返事をした。
「私はあの子の様子を見てくるわね。その間に支度をしておきなさい」
「ふぁ、あい!」
さて、と立ち上がったレイラは、まだ眠そうなリリに声をかけてから外へ出た。
少し湿り気のある風が髪を揺らす。目を細めて空を見上げれば、木々の合間に濃い青が見えた。今日は良い天気のようだ。森は、それぞれの葉に水滴を煌めかせて騒めいていた。
「おはよう」
「……」
既に起きていて足踏みをしたりしていた子馬は、レイラが声を上げるとすっと顔を上げて主人を見つめた。そこに歩み寄り、首を撫でれば、フルルッと息を吐く。
子馬の足元には何かの草の欠片があった。四つ葉らしき何かの残骸。食事は勝手に済ませていたらしい。良い子ね、とレイラが褒めれば、子馬は得意げに体を揺すった。
「お待たせしました!」
実は一時間も寝てないレイラは、それでも隈一つなく平気な顔をして子馬と戯れて、少しして身支度をしたリリが飛び出してくると、さっそくお互いの身を清めた。
『浄化の炎』。汗や老廃物、汚れといったものを、身体から衣服に至るまで青白い炎が舐めつくし、消し去ってくれる優れもの。旅する女の子には必須のスキルだ。一般的な旅人は魔法やスキルを使い分けて身を清めるが、レイラのこれは綺麗さっぱり気分まで爽快にしてくれるのだ。
「ありがとうございます、レイラさま。とってもさっぱりしました! むんっ」
っと両腕でガッツポーズをするリリに、レイラは頷いて、それから二人でテントを片付けた。
収納鞄を肩にかけたリリがパチンと留め具を嵌めてその表面を叩けば出発の準備は万端。
子馬の手綱を引き、二人と一匹は人探しを再開した。
◆
「うんうん……こっち?」
腰を屈めたリリが話しかけると、炎を背負った小さなリスはチチッと鳴いて走って行った。
立ち上がったリリは嬉しそうに振り返ると、さっそく主に報告する。
「レイラさま、どうやらイユさんは近いみたいです!」
「そのようね」
森の小さな案内人に導かれ、二人と一匹はさらに奥深くへと踏み込んでいく。
あのリスは、レイラが生み出した炎と野生のものをリリが『融合』させて従えたものだ。
昨夜相対した不審者がいた方とは反対に進み始めた二人と一匹だが、ただ闇雲に捜し歩くだけではイユは見つからないだろう。そこで、レイラの思い付きで試してみたのだが、上手いこと目撃者を仲間にする事ができた。
といっても言葉による意思の疎通はできない。リリによるとなんとなく読み取れるくらいの精度のようだが、それで充分。一つも無かったイユの手がかりを得るどころか答えまで一直線だ。
時折立ち止まってこちらを窺うリスを追い追い、食べられる果実等を採って鞄に入れていく。ディザスター家から持ってきた保存食などはまだあるが、食料は多く持っておくに越したことはない。子馬のおやつにもなる。
涼やかな清々しい風が時々吹いきて、二人の小さな体を撫でつけていく。青臭い匂いを肺に取り込みながら、リリは体の形を浮かび上がせる布服を引っ張って整えた。それから、リスの行方を捜す。
太い木の根の上に二足で立ち、森の中にある崖を見ているようだった。
「……あっ、レイラさま、レイラさま、洞窟です!」
ひょっとしてここで途切れてしまったのかな、と小走りでリスの横までやって来たリリは、その崖に縦穴が開いているのを見つけた。穴周りの壁に何か細かい文字のようなものがびっしり彫られていて不気味な雰囲気だ。気後れしてしまいそうなものだったが、リリはこのお手柄に大喜びでびびっている暇などない様子。「よくやったね」とリスの頭を撫でてやって、それからてきとうな木の実を褒美に渡すと、今度は褒めてもらうためにレイラを振り返った。
「あの、あの、レイラさま、やりました。リリ、やりましたよねっ」
「……そうね。ここほど怪しい場所はそうないでしょう。ご褒美は何がいい?」
「えへへ。ぇと、あの、えっと」
「考えておきなさい」
縦穴を窺っていたレイラは、メイドがもじもじと指を突っつき合わせるのに視線を寄越して、特に内容を思いついていないようなのでそう伝えておいた。部下の立てた功績に報いる度量は持ち合わせたいところだが、褒美など頭を撫でてやったりほっぺたをもちもちしたり同じ布団で朝まで語り合うくらいしか思いつかないのでなんとも言えなかった。
身に着けているものを褒美として渡しても良かったが、恐縮して辞退するのは目に見えているし、そうなるとレイラにはどうにもできないので自分で考えてもらう事にして、今は目の前の怪しい洞窟を調べてみる事にした。
「貴女はここに立っていなさい」
「はい、承知いたしました。お気をつけて、レイラさま」
といっても探査系の魔法やスキルなど身に着けている者はいないので、五感での調査となる。
待機を命じられたリリは「えっ」と小さく声を漏らしたものの、足手纏いになるのは嫌なのだろう、すぐに表情を変えて目を伏せると、深く一礼した。
洞窟に近づいたレイラだが、その穴からは誰かの声や風の音さえ聞こえなかった。そこだけ音が入り込めていないような無音である。
穴の横に手を這わせ、刻まれた文字の一つ一つを観察してみたものの、特に意味はわからない。が、この洞窟のカモフラージュ率を上げたり隠蔽を施したり魔物除けだったりする呪術か何かというのは容易に想像できて、すぐに興味を失った。
それよりも、直感が伝えるこの先にいる何かを確かめよう。レイラは堂々と暗い洞窟へと踏み込んだ。
入ってすぐは、自分の体さえ見えない暗闇で、音や匂い、視覚や聴覚、果ては歩いているかどうかさえ曖昧でわからなくなってしまったが、レイラは顔色一つ変えずに前へ進み続けた。自分が地面を踏みしめている事、歩み続けている事を一切疑っていないのだ。
やがて不思議な空間を抜ければ様々な感覚が戻ってくる。腸か何かを思い起こさせるでこぼことした周りの壁と、そこを通る風の音。そして、響いて聞こえる複数人の笑い声。
反射して聞き取り辛いが、男の声がいくつかと、若い女の声があった。
レイラは、やや歩く速度を緩めながら、声に意識を集中させた。
『お頭ぁ、見せてくださいよぉ』
『何言ってんだい、あんたらのきったない油を一滴でもつけたら価値が暴落しちまうよ!』
『そんな事言わずに! もうずっと自慢話ばかりでちらりとも見せてくれないじゃないですか』
『……疑ってんのかい? ああ? あたしがほら吹きだって。』
『い、いや、そういう訳じゃねぇですよ』
『はん。まあいいよ。は~思い出したらまた笑えて来たよ、あの色男の間抜けな顔! よっぽど大事な物なんだろうねぇ、これ』
『おおっ! それが!』
複数の声が重なって意味の読み取れない音になっている間、レイラは壁の高い位置に張り付いた光る苔のようなものを見上げたりして洞窟観光に勤しんでいた。……おそらくは賊だろう者達の会話の内容に興味がないのだ。話からして、昨晩現れた怪しい男達と関わりがあるのだろうが、彼女にとってはそこら辺の苔より優先度が低いらしい。
歩いて行くといくつか洞窟は分かれ道を提示した。声と直感に従って進むレイラの足取りに迷いはない。
その間も奥から響く声達は、自分達が奪った紋章の価値に思いを馳せたり、捕まえた少女が幾らで売れるかを想像しては賭け事をしたりしているようだった。
レイラの興味がようやっと賊の方に戻る。
いや、賊はどうでもいいのだ。囚われているらしい少女はイユで間違いないのだろうか。いずれにせよ少女が囚われていると聞けばここで引き返す道は無い。というか少女であるからこそ、こうしてレイラは進んで助けに来たのだ。
『見た目は良いし高く売れるかもな』
『若すぎねぇか? 買い叩かれる可能性もある』
『ああ? だから言ってるだろ。その子ユースティティア族だろう? それの狐の奴だな? 二束三文にもなりゃしないよ』
『あれっ? なんだよ金になんねぇのか』
『高いのは虎の奴だ。こんなとこにゃいないがね』
『んだよ、良い酒でも買おうと思ってたのに……はぁぁ~、どうすっか、あれ』
『食っちまうか?』
『おお、売って食料買うよりは手っ取り早くていいな』
「オレぁあの目がいいな。気の強そうな藍色の目が美味そうだった」
「耳って美味いのかな」
「どうだろ。肉なさそうだけど」
「んじゃ鍋用意しとくよ」
「よろしくなー」
低めの段差をよいしょと乗り越えたレイラは、人の気配で満ちる空間に辿り着いた。
薄汚れた布服に身を包んだ茶髪の男や皮鎧を纏った頭の寂しい男が壁付近に座って何かを飲み交わしていたり、壁に背を預けて談笑していたり、奥にある穴へ入って行ったりと絶えず動いていた。
中心にある石造りのテーブルについているのは、場違いなほど身綺麗な女性だった。
くすんだブロンドに、整った顔は幸薄そうな細面。華奢な体は清楚な白布の重ね服に包まれていて、アンバランスな大きな胸はその下で服を絞る事で必要以上に強調されている。さらに首から下げるアクセサリーが露出した谷間に乗っていて、彼女より背の高い者が彼女を見下ろせばどうしたってそこに視線が行くだろう塩梅だ。
「じゃ、飯まで外の警備でもしようかな」
「働き者かよ。まあだらだらしてても体も鈍っちまうしな」
「んだんだ。つーか畜生っつっても人間の解体とか見たく…………?」
「ん? どうし……。……?」
こちらへ近づいて来ていた賊の一人がレイラに気付いて立ち止まると、その脇から顔を覗かせた男もレイラを見て固まった。
「……? ……?」
そうすると一人、また一人とレイラに気付き始め、騒がしかった洞窟の奥からどんどん声が消えていった。
いちように、ぽかんとした顔でレイラを見ている。それは女性も例外ではなく、おちょこのような陶器を持ち上げかけた格好でぴたりと止まっていた。
その一人一人の顔を見回したレイラは、さて、このまま奥の方へ行くかと歩き出した、ところで男達が再起動を果たす。
「っは!? え、おい、いつからそこに! どこから!? だれ!」
「え、なに? なに? 誰? おひめさま?」
「ぷっ、落ち着けよ、酒の飲みすぎだって。……なにあれ」
困惑や戸惑いが男達の間で交わされる。
そこにいる女性も場違いではあるが、レイラの姿は場違いを通り越して非現実的ですらあった。
「ええい! 何をぼさっと、ええい! ……何してんだい」
と、ここで女性が勢いよく立ち上がり、男達を一喝した。
慌てて立ち上がったり武器を手にする男達は、しかし未だに丸めた目でレイラを見つめている。
レイラは踵を返して元来た道を戻り始めた。
敵の多さに臆したのではなく、戦う場所を移すためだ。さすがに洞窟の中で火を扱う訳にはいかないと判断した。もっとも魔法の火が何を燃焼してそこに現れているかはわからないので、使用に際して問題は無いのかもしれないが、試す気にはなれなかった。
「追いな! よくわかんないけど捕まえるんだよ!」
「オオー!」
女性が指示をすれば、そう訓練されているのだろうか、男達は声を合わせて雄叫びをあげた。びりびりと洞窟の壁が震える。レイラは自然な足取りから小走りに切り替えて、足場の悪さに苦労する事なく外へ向かった。
「捕まえろ! あれなら売れる!」
「幻覚じゃねぇよな! みんな見えてるもんな!」
「なんだろうなあれ!」
「知るか! 捕まえねぇとおれ達がおかしらに魔物のエサにされちまうぞ!」
「おお!」
追っ手の男達は隊列なくばらばらに追ってくる。そのためお互いがお互いの走りを邪魔して思うように駆けれず、レイラとは足の長さに差があるというのに追いつけずにいた。
やがて闇が見えてきた。出口だ。何かしらの術が施された空間を速度を維持して駆け抜けたレイラは、森の中へと飛び出した。
広い空間へ出た事による解放感と、かあっと目を焼く強い光に顔を顰め、茂みや木の陰から顔を覗かせるリリと子馬へ顎をしゃくって指示を出す。
不思議そうにしていたリリは、レイラの意志を読み取って木の裏へ姿を隠した。飛び出した手が手綱を掴んで引っ張り、子馬も迷惑そうにしながら後退していった。
「ふん」
「おわーっ!?」
「なんじゃぁあああ!!?」
振り返り様に腕を薙いで半円状に爆炎を起こせば、ちょうど飛び出して来た男達が巻き上げられて吹き飛び、ドシャドシャと降り注いだ。
「水を」
後ろは振り返らず、まるで呪文を唱えるようによく通る声で指示をするレイラの前に、洞窟から湧き出す男達が燃え残りをわたわたと跨ぎながら出てきた。
「魔術師だ! 火魔法を使う!」
「どうする!?」
「お頭が来るまで足止めしろ! 周り込め!」
倒れていた男達も後から来た男達に腕を掴んで引き立たされたり手を貸して立たされたりしている。
手に手に使い古しの剣や槍や盾を構えた男達がレイラを警戒したまま扇状に広がろうとして、残っている火に足を突っ込んで「あづっ!」と悲鳴を上げた。
そこへ水球が飛んでいく。威力はないが、ぶつけられた男は踏鞴を踏んで体勢を崩すと、目を白黒させながらレイラを指差した。
「水も使う! 攪乱しろ!」
「弓持ち! おおい誰か、やれ!」
怒号が飛び交い、押しつ押されつひしめき合う男達は少しずつ隙間を空けると、弓を持つ男が前に出てきて、矢をつがえると顔の横で構えて弦を引き絞った。
が、撃つ気配はない。あくまで威圧するだけで放とうとはせず、そんなではレイラを脅す事もできない。
「だわー!」
「お、ま!」
再びレイラが腕を振るえば、連続した爆発音とともに男達の足元が爆ぜ、小さな火柱が突き出る。吹き飛ばされた者は僅かな滞空時間の後に地面に叩きつけられ、弾き飛ばされた者は洞窟側かレイラ側へ滑り込んだ。
「ばかっ! 撃て! 射れ!」
「くっ!」
あまりの容赦のなさに焦ったのか、誰かが弓持ちの肩を後ろから殴りつけて焚きつけると、弓持ちの男はよろめいて片膝をつき、その体勢から一射、ひょうと放った。
風を裂いて迫る矢に対し、レイラは体を横向きにして紙一重に避け、何もなかったかのように体を戻すと三度腕を振るった。
今度は誰もいない位置を炎が走り、その衝撃に男達がたじろぐ。
もはや優劣は決した。表情なく炎をけしかけるレイラに、賊共は完全に逃げ腰になっていた。
「あっ、こら! ひゃわわわ!」
「な、なんだぁ!?」
このまま賊を散らして少女の救出を狙っていたレイラは、馬の嘶きとともに茂みから飛び出したリリが盛大にこけるのを振り返って、溜め息を吐いた。事はそう上手くは運ばないらしい。
何度か跳ねて近くまで来た子馬に、よたよたと駆け寄って来るリリ。泣き出しそうな顔の彼女に取り敢えず声をかけようとしたレイラは、直感が警鐘を鳴らすのにリリを後ろへ庇った。
複数の足音が耳を刺激する。葉を騒がせ、木々をしならせ、時には圧し折って倒し、それは現れた。
見上げる程巨大な蜘蛛だった。鋭利な毛を持つ楕円の体に、槍を繋げたような足を持つ、6、7メートルはくだらない巨体は道中何匹か倒したラージスパイダーの比ではない。
「なっばっおっあいつはヒュージスパイダー!?」
「森の主が何故こんな場所に!」
賊達が悲鳴を上げ、じりじりと後退する。その数人を押しのけて、短剣を携えた女性が出てきた。
「あんたら小娘相手に何を手間取って……なん……だと……!?」
『────』
ヒュージスパイダーは、七つの赤い宝石のような目を持ち、中心に大きな目玉を持つ。
ぎょろりと賊共を見下ろした大蜘蛛は、興奮したように足踏みすると、腹の下から突き出した管、のような太い針から液体を射出した!
「うわーっ!」
「ちっ、糸だ! ナイフッ……!」
「無理だ切れねぇ、火だ、誰か火を!」
左右に転がって避けた者がいたが、中心にいた者は逃げ遅れて液体を被り、それがみるみる白色化すると糸に巻かれて転がった。
お頭と呼ばれていた女性もその中の一人だ。体と両腕を拘束された女性は、きつく縛る糸に上下から挟まれた胸が苦しいのか、崖に身を打ち付けて苦悶の表情を浮かべると、大蜘蛛を睨み上げた。
「あんたら逃げな! この拠点は放棄する!」
「そんな、お頭! せっかくここまで逃げてきて、商売だってやっと軌道に乗っきたってのに!」
「ごたごた抜かすんじゃないよ! デカブツごと葬られたくなきゃ尻尾巻いて逃げ出しな! 『光を統べる遥か古の民──』!」
怒鳴り合う賊達から視線を外した大蜘蛛は、今度はレイラ達に目玉を向けた。ひっとリリが息を飲む。震える彼女を腕で押しやり下がらせ、レイラはさてどうしようかと思案した。
『直感』は痛いくらいに警告を繰り返している。この敵には勝てないから逃げるべきである、と。
たしかに相対するだけでビリビリと肌が粟立つし、目を離せないような存在感は凄まじい圧を発している。生物としての格が違うとひしひしと感じさせられた。
『いいわね』
ぽつりと呟く。
瞬間、大蜘蛛が吐き出した液体を、腕を薙いで生み出した炎で燃やして散らし、ぱらぱらと落ちてくる黒い欠片の中でフッと笑みを浮かべる。
挑戦的な笑みだった。
それを大蜘蛛がどう受け取ったのかはわからないが、従者の方は落ち着いた主人の声に感化されて震えが治まったらしく、静かに精霊への呼びかけを開始した。
「『光の結界!!』」
「水よ!」
大蜘蛛の足元から平面の光が立ち上るよりはやく、リリが生み出した大き目の水の球が蜘蛛の目玉にぶつかった。
びくりと怯んだ大蜘蛛は、四角柱の光の中に閉じ込められながら身を震わせて水滴を飛ばすと、足を折って跳躍体勢に入った。子馬が嘶く。賊達が悲鳴を上げながら四方に散っていく。
果たして、大蜘蛛が着地したのは、崖から離れて空を見上げていた女性の前だった。
「くあっ!」
着地の衝撃で地面が揺れ、簀巻き状態の女性はうつ伏せに倒れた。リリもバランスを崩して倒れそうになったが、レイラに腕を掴まれて持ち堪えた。
だが次には突き飛ばされていた。他ならぬレイラの手によって。
「っあう! れ、レイラさま……?」
尻もちをついたリリは、思わず閉じかけてしまった目でレイラの背を見上げた。いや、見上げようとして、突然燃え上がった炎の壁に囲まれて、何もわからなくなってしまった。
「ヒヒィー!」
「あ、駄目よ! 落ち着きなさい!」
怯え竦んでいた子馬が炎に驚いて暴れ出してしまった。混乱などしている暇なく、リリは子馬に飛びついて炎に触れてしまわないよう必死になだめた。
空気の燃える音の向こうからくぐもった悲鳴が聞こえてくるのに肩が跳ねる。思わず声の方を見ても、目に痛い橙色の揺れる姿しか見えず、リリには主人の無事を祈る事しかできなかった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛!」
「お頭ァーッ! 畜生!」
「こん化け物がァ!!」
炎のサークルでリリを囲ったレイラは、そちらに向けていた手を胸元にかざし、横へ振り抜いて炎を走らせ、妖精霊剣ジュラティオを現出させた。
しかめっ面で、食事をする大蜘蛛を見上げる。
「ぐああああ!! ぃぎっがあああ!!」
腹の半ばまでを大蜘蛛の口に収められた女性は、鋏角が食い込む身をくねらせ、髪を振り乱してただただ苦痛に叫んでいる。
こんな光景はとてもではないがリリには見せられなかった。レイラとて平気ではない。人死にを直で見た経験はなくとも耐性はあるが、さすがに生きたまま怪物に食われる女はインパクトがでかすぎた。
そのような凄惨な物は見せたくないから、あの女性が蜘蛛が飛ばした糸に足を取られ、引き摺られ始めた時点でリリの視界を塞いだのだ。
「あっ……あっ……あっ」
そのせいで、こうして女性の方を助ける機を逸してしまった。
痙攣とともに発せられる声に、もはや生命力はほとんど感じられない。胸から先が反る形で揺れ動き、白濁とした目は限界まで見開かれている。血液混じりに口元から垂れる唾液や涙が髪を伝って地面や、下にいる男の肩にかかるのを見て、レイラは喉の奥がツンと辛くなるのを感じた。
今さら炎を出したところで彼女は助からないだろうが、彼女が逃がそうとしていた部下くらいは助けられるかもしれない。悪党を助けるか否かを考える前に、レイラは空いている左手の人差し指を蜘蛛の腹に向けた。
「おわあ!?」
「ぐあっ!」
唐突にその巨体を大きく持ち上げた大蜘蛛は、果敢に立ち向かっていた男達を跳ね除けると、二つの顎を開いて女性を飲み込んだ。
地鳴りと共に体を戻すと、咀嚼するように鋏角をギチリギチリと動かして、近くに倒れる男達に目を向けた。その目玉が品定めをするように蠢く。
『────!?』
新たな犠牲が出る前に、レイラの指から放たれた小さな球状の炎が大蜘蛛の体を貫いた。それは空に消えて行き、森に被害を及ぼさない。
足を畳むようにして驚く大蜘蛛は、しかし熱への耐性があるのか、はたまたレイラの火力が高すぎたのか燃え盛るような事はなく、傷口から黒煙を上げる程度に収まっていた。
あの巨体には小さなダメージなのだろう。
『!? ……!? ……!!』
続けて三回、レイラは火球を放った。悉くが大蜘蛛の体を貫通し、空の彼方へ消えて行く。
苦悶してのた打ち回るように動く大蜘蛛だが、決定打にはならないようだ。
レイラとてできれば致命的だろう頭への攻撃を加えたいが、位置が低すぎて森林火災を起こしかねない。そして直接斬りに行くには直線上でもたもたと立ち上がろうとしている賊二人が邪魔だった。
『──!』
恐ろしい金切り声を響かせ、血走った目にレイラを映した大蜘蛛は即座に管から液体を放った。
それを炎で払ったレイラは、飛散した液体が木々や地面をジュウッと溶かすのに咄嗟に袖で口元を覆った。
腕を薙ぎ、近くの地面を爆発させて風を起こす。気化した毒が自分やリリに危害を及ぼす前にできる限り遠退けようとしたのだ。
「ちっ……厄介ね」
跳ね返った土がビチビチとドレス越しに肌を打つのに、レイラは思い切り剣を地面に突き刺した。
もはや森への被害を気にしている余裕はない。元より、あの生物はレイラより遥かにレベルが高い。手加減などしていれば身を滅ぼすと判断し、一気に決めに入った。
「はっ」
小さく跳び上がって剣の柄に乗り、魔力を流し込んで炎精霊の宝玉を起動する。
ぼう、と空気を燃やす音が広がる。宝玉は濃く紅く輝きを増して光を広がらせ、とうとう刀身から炎を発した。
『──!!』
それは指向性を持ってレイラの体を持ち上げる。
逆巻く炎の流れに任せて舞い上がったレイラは、天地逆転、どころか大蜘蛛に背を向けた体勢となる。吐き出された毒液はレイラの真下を通り、小さな体は遥か空まで炎の奔流と共に昇って行った。
身を捻り、体勢を正し、今度は炎の流れを魔力で操る。全ての指向性を大蜘蛛へ向け、レイラは自らを急降下キックの姿勢で射出した。それはまさしく、火の矢のようで。
『!』
ヒュージスパイダーは空を見上げ──その瞬間に目玉を貫かれ、後を追う炎の渦によって内部をボロボロに焼き尽くされた。
体の下から突き抜けて外へ出たレイラは勢いのまま着地し、推進力を殺しきるまで地を削って進み、上半身を揺らして止まった。
『────────!!!』
体に空洞を空けられた大蜘蛛が断末魔の叫びを上げ、レイラの手によって倒された魔物達の例に漏れず爆発する。
ただし一息に全てが破壊される訳ではなく、目玉があった場所がまず弾け、浮き上がった体の前面が弾けて森の方へ吹き飛ぶと、腹が弾けて地面に激突して軽い地震を起こした。そのまま数度爆発しながら木々を薙ぎ倒して森の中を進むと、最後に一際大きな音と共に爆散した。
「……」
もがいていた足の幾つかが放物線を描いてレイラの真横に突き立つ。少し位置がずれていれば危なかっただろうが、レイラはあらかじめ当たらない事がわかっていたかのように無表情のまま微動だにしなかった。
だが、やや生まれた不機嫌さは隠しきれない。
「少しは……手応えがあると思ったのだけど」
ボトリ。ボト、ボト。
地に落ち、目の前まで転がってきたヒュージスパイダーの頭部へ、レイラは愚痴を零した。
ゆらゆらと蝋燭のように火を纏う頭部はすえた臭いを発しながら揺れ動いている。
……格上との戦闘ではあったが、期待していたような興奮は得られなかった。
これでおしまい? 本当に?
「ん……」
ぎちり、ぎちり。
恨みがましく大蜘蛛の鋏角が動く。
恐ろしい生命力だ。穴開きの頭部だけとなってもしぶとく生きているのだ。
だが炎上していては、もって数分の命だろう。
そんな事より心配しなければならないのは、今の爆発で延焼した木々の事だ。
素早く鎮火しなければこの森は火の海と化すだろう。それは本意ではない。
生態系が乱れるだろうし、あぶれた魔物がどこぞへ氾濫すれば名声どころか罪を得てしまう事になるし、森の幸を受け取れなくなった村の人間がどうなるかなど想像するのは容易い。
「……」
だが、リリと子馬を囲う炎の壁を解こうとは、レイラには思えなかった。
辺りに飛散する男達の遺骸。それらは糸に顔を覆われての窒息死であったり、身を打たれて死んでいたり、毒を浴びての中毒死であったりと様々であったが、見過ごせない程度には損傷しているものも多かった。
極めつけは、破壊した蜘蛛の体内から零れ落ちたのだろう女性だ。
上半身は人の形を留めているものの両の脇腹からの出血は致命的で、それ以上に、繋がっているのが不思議なほどドロドロに溶けた下半身がレイラのもとまで異臭を届かせていた。
「……せめて安らかに眠ってちょうだい」
レイラは、もの言いたげな、されど濁り切った瞳を自分へ向ける女性へと手をかざし、周囲の遺体ごと炎上させて高火力で焼き払った。
最後に腕を振ってそこら中を爆発させておおまかな火を消し去る。
「……よし、ね」
掘り返されて土を覗かせる荒れた広場になってしまったが、目に毒な物はあらかた消え去った。一度周囲を見渡してから頷いたレイラは、そこでようやくリリ達を解放した。
振り返ったレイラは、胸元に両手を押し当てて顔を青褪めさせているリリを見て、声までは防ぎきれなかった事に気付いて舌打ちしそうになった。
「レイ、ラ、さま……」
「リリ……」
今にも倒れてしまいそうな足取りで寄って来た彼女に、レイラは掻き抱いて慰める事しかできない。
震えていたりはしない。けれど、高い熱を持ったその体が、どうしてか冷たく感じられて仕方なかった。
何度も後ろ頭を撫でてやって、彼女の短くしゃくりあげるような呼吸が穏やかになるのを待った。
「……リリは、リリは、もう、大丈夫です。ぅ……私は、私の使命を、果たします……レイラさま」
気丈な声に、レイラは体を離してリリの表情を見た。
幼くも勇ましく、愛らしい顔。潤んだ瞳に見つめられて、レイラは「そうね」と呟いた。
「ではリリ、水を。……森の消火をお願いできる?」
「はい、もちろんです。レイラさま」
「それが終わり次第、イユらしき誰かの救出といきましょう」
「はい!」
思ったより元気に駆け出したリリに、レイラはほっと息を吐いた。
旅をするにあたって自分に絶対の自信を持っているレイラだが、それに付き合うリリはそうではない。その事を、最後の抵抗とばかりに金切り声を上げて威嚇する大蜘蛛の頭に飛び跳ねて驚くリリを見ながら、改めて胸に刻んだ。
剣を回収し、指輪に戻す。
子馬に歩み寄ってその背を撫でてやりながら「よく逃げ出さなかったわね」と労えば、子馬は誇らしげに鼻を鳴らした。
魔力が切れて何度か戻って来るリリに都度『魔力譲渡』で回復させ、賊の生き残りが血迷って襲ってこないかと目を光らせていれば、ほどなくして無事にすべての火が鎮火された。
「お疲れ様です、レイラさまっ」
「あなたも、よく頑張ってくれたわ」
「恐縮です! えへへっ」
少しよれた衣服に草や何かを張り付けながら戻って来たリリを褒め、さて、とレイラは顎に指を当てた。
功績を重ねるリリに与える褒美を、そろそろ真剣に考えなければならないだろう。
果たして何を与えるべきか。にこにこと微笑んでいるリリには普段の泰然とした表情を見せながら、内心ではむむっと眉を寄せて思い悩むレイラであった。
TIPS
・熱線
圧縮した炎の魔力球を飛ばすただの火魔法。
ただし過剰に魔力が込められているので威力は桁違い。
・ヴォルテクスフレイムキック
妖精霊剣ジュラティオの魔力を引き出し、生み出された炎と共に繰り出す
強力な飛び蹴り。