第八話 街に入るには馬車が必要?
鬱蒼と茂る森の中を、木の根や小石などに気を付けながら二人は歩いていた。
万に一つも足を引っかける可能性などないとでも言わんばかりにずんずんと先を行くレイラ。当然我が物顔だ。どこに行ってもアウェーには感じない図太さだ。
少し離れて、馬を引くリリがいる。足場の悪さに難儀しているらしく、歩みは遅い。
炎を纏っていた大馬も今は子馬に戻っていた。
ここはツェルノヤ森林。
レイラが住んでいた小国ヒッダーニアと隣接するマジェスティ王国。その国境にある深い森には、厄介な魔物が多く生息し縄張りを持ち、一つの生態系を築き上げている。
ゆえに警備は薄く、時折魔物の数を減らすための討伐隊が組まれて踏み入る以外にあまり人間は立ち入らない。
だからこそレイラとリリは苦も無くマジェスティ王国の領土を踏む事ができた。
『ちょっとは舗装しときなさいよ』
「……?」
黙々と突き進む中で、不意にレイラが零した言葉に、リリはハテナマークを浮かべた。
時折口にするよくわからない言語だ。意味はわからないけど、息が上がってしまっている自分と違って淀みない口調は余裕の証。レイラさまはやっぱり凄い、と尊敬の念を深めるリリだった。
「……敵ね。リリ」
「あ、はいっ!」
子馬の様子をみつつ、何度か足を止めて自分を待ってくれているレイラに感謝しつつ気力を振り絞っていたリリは、今日何度目か、そうして名前を呼ばれるのに、馬を置いて小走りでレイラの前へ出た。
レイラが見ている左斜め前へ体を向け、警戒する。
程無くして、茂みを掻き分けて一体の魔物が姿を現した。
それは短い体毛に覆われた、子供ほどの大きさを持つ蜘蛛だった。
ラージスパイダーと呼ばれる種類の魔物で、10本ある足で跳ねたり、大きな顎で噛みついたりする。
特別毒などは持っていないが、その大きさゆえ油断すれば一人前の剣士でも剣ごと噛み砕かれてしまうだろう。
「水よ」
精霊術を行使したリリが、生み出した水球を投げつけた。
そちらから現れるのはわかっていたため、先制での攻撃に成功する。水の塊をぶつけられた蜘蛛は嫌がるように身を震わせ、跳ね上がってレイラ達の前へと姿を現した。
「ふん」
節くれ立った多足が地面につく、その直前。
無造作に腕を振ったレイラが生み出した明々とした炎が蜘蛛の前面を薙ぎ払った。
ギキィイイ!! 断末魔の叫びが空気とともに燃焼し、どこに届く事もなく消えた。
「お見事です、レイラさま!」
囃し立てるリリに、レイラは無言で手をはたいた。この程度の事は造作もない。
ただ、レイラの魔法は火力が強いので、事前にリリに水を浴びせさせておかないと高確率で延焼するのだ。森を丸焼けにする訳にはいかないので、非戦闘員であるリリを前に立たせなければならない事を、実はレイラは快く思っていなかったりする。
基本、レイラは高火力だ。
レベルは低いが備えているスキルの熟練度が高く、気まぐれに放った火球はこの森に出現する大抵の魔物を塵に還す。……素材が残らないので、資金集めができない。一応威力の調節に挑戦しているレイラだが、あまり芳しくはない。小指の先程度の大きさに抑えた炎弾を放ってみたら魔物の体を綺麗に貫通してその後ろの木を燃やしてしまったりした。魔法を極めすぎるのも考え物だ。レイラのこれは天然もので、特別鍛えたりはしていないのだが……。
ちなみに大剣で叩き切った場合、柄に嵌まる炎精霊の宝玉の付加効果か、敵が爆散する。
これも素材が残らないばかりか服が汚れるし、おまけに大きな音が出るので無駄に魔物を集めてしまう。
まずリリが魔物と相対しなければならない理由はここにもあった。
「……駄目そうです」
いずれも真っ黒焦げな数本の足と外殻を遺して死んでいる蜘蛛の検分を終えたリリは、小さなナイフを鞘に収めて懐に仕舞い──自害用の懐刀だ──立ち上がってレイラの方を振り向くと、ふりふりと首を振った。流れた髪を指で退けながら、申し訳なさそうに報告する。
レイラは、またも無言で頷いた。別に素材が取れなくても構いやしない。
いざとなればティアラ等の装飾品を売ればいいだけの話だ。母が無駄に金をかけていたものだから多少の額にはなるだろう。
……と考えているが、実際に行動に移そうとすればリリが止めるだろう。
旅に出るにあたって荷物を調達したのはリリだ。当然路銀が必要なのはわかっていたから、いくつか売れそうなものを見繕って詰め込んでおいたのだが、如何せんリリに鑑定眼などはないため、野営の折に取り出してみるとどうにも価値がなさそうなガラクタしか無かったのだ。
辛うじて銀の燭台が売れそうだ。使い古されていて二束三文かもしれないが。
そうした理由から、それでレイラの身を削らせるのはリリにとってこの上なく申し訳ない事で、してほしくない事なのだ。代わりにお金になる物を探すため、倒した魔物は念入りに、虫とかあんまり触りたくないけど我慢して、吐き気と涙と後悔の念を飲み込んで素材集めに励んでいた。
この森に入ってから三日。
出会った魔物の数、おおよそ40と数匹。
内訳は、狂い鹿、サイコウマンティス、サイテイマンティス、サイアクマンティス、スッパマシラなど恐ろしく、特に猿は賢いため少々難敵だ。
手に入れた素材は二つだけ。
危険性の無い花の魔物であるロービスカスの花弁と根を採取した。森の深くにあるものだからそこそこ価値のある物かもしれないが、あんまり数がないため期待はできない。
必ずや、必ずやレイラさまにご迷惑はおかけできない!
リリは奮起した。路銀不足は自分の至らなさが招いた事態。幸い野営の際は心得もあってレイラさまの御手を煩わせる事はなかったが、そんなんじゃ全然挽回できない。……身を清めるのにレイラさまの魔法が必要だったし……。
そもそも自分は従者なのだ。レイラさまの身の周りのお世話は当然として、些事は全て片付けて当然。
お金の問題なんかにその崇高なる思考を一片でも割かせるなんて言語道断である。
……懸念はお金のことだけではない。
徒歩で大きな街に入れるのか? という不安もある。
馬を引いているし、旅人という体で入る事はできるかもしれないが、レイラがあの容姿なので例え馬があっても、少しバランスが悪いというか、合っていないというか。
素材だけではなく、できれば馬車のような物も欲しいのが正直なところだった。
街につくまでに寄れそうな村か何かで、都合良く手に入れる事ができれば良いのだが……。
しかし馬車を入手するにしてもお金の問題がついてくる。
やはりここは、自分が頑張りに頑張って素材を集めなければ!
両の拳を顎元で握りしめ、むんっと気合いを入れ直したリリは、つまらなそうに先を行くレイラの背を慌てて追った。
◆
日が真上に上り切る前くらいに、二人と一匹は村に辿り着いた。
あまり大きくはない村だ。囲いの背も低く、のどかな雰囲気だった。
見張り台はあるものの使われている様子はない。
魔物が蔓延る森のすぐ近くなのに、警戒心などは見て取れなかった。
「ごめんください」
「……ほわっ!?」
柵の補修でもしていたのだろうか、傍らに道具を置いて具合を見ていた妙齢の女性へ、リリが声をかけた。
作業着なのか薄汚れた布の服の、ほっかむりをした茶髪の女性であった。
んっと顔を上げた女性は、まずリリの使用人姿を認めて「近くの村の子かな、でも見た事ないな」という顔をして、しかしいやに身綺麗である事に疑問を抱き、続いてその後ろで仁王立ちしているレイラを見て限界まで目を見開いた。
日の光を受けてきらきらと輝く金髪。煌めくティアラに宝石のような瞳。
整った顔立ちは早々お目にかかれるものでなく、稀に訪れる商人より上等な仕立ての服は一目で高貴な出の者だと窺わせた。
お貴族様と従者の方だろうか。
こんな辺鄙な場所にいるはずのない尊い人の勝気な目に見据えられて、女性は珍妙な声をあげて尻もちをついた。
「もし、我々は旅の者です。この村に馬車はありませんか」
「は、はあ……?」
普段聞かないような言葉遣いに理解が遅れる。
しかし、リリの後ろで小首を傾げたレイラに、慌てて「そ、そういえば!」と声をあげた。
風の噂ではあるが、都会には無礼打ちなる恐ろしい制度があるらしい。お貴族様の機嫌を損ねれば殺されてしまうやも……!?
実際には、それは単なる噂であって別にそんな制度は無いし、むしろ理由もなく町民に手をかければ貴族であっても厳しく罰せられるのがこの国の都会だ。そしてレイラはリリが急に馬車を求め始めたのに疑問を抱いて、それを表に出しただけである。
「それならサザンの爺さまが持っとった気がしますなぁ」
「そのお方はどこに?」
「はあ、水車のある家です。今おるかなぁ。ええと、まっすぐ行ったところにあります」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
身振り手振りで教えてくれた女性にリリが腰を折ってお礼をすると「ああいえそんな」と恐縮してしまった。
「さあ、レイラさま、参りましょう」
「ええ」
振り返ってレイラを促したリリは、開いている柵の隙間から村の中へ足を踏み入れた。顎をつんとあげ、重ねて揃えた両手をお腹に当てて、きびきびと歩く姿は、村民からすれば位高く見えたかもしれないが、レイラが後ろから見る限りでは大変微笑ましく、愛らしい姿であった。
「ただいま主人は出ておりまして……ですね」
さて、二人が村の中心にある家へ向かうと、そこから出てきた老婆が馬車の持ち主は不在である事を教えてくれた。
話を聞くと、今朝から孫娘の姿が見えず探し回っているらしい。
「まーまた森にでも入っていると思うのですが、主人は、その……でして」
「森に? 入って大丈夫なのですか。魔物がいて危険ではないのですか」
老婆が言い淀んだのは、主人のボケの事だろう。リリと話しているこの女性、腰は曲がっていないものの一目で置いているとわかる年齢。当然その主人も年がいっているだろうことは想像に易い。
「お嬢様方は森から出てこられたのですか? なら感じたかもしれませんが、入ってすぐのところまでは魔物は姿を見せんのです」
一昔前には森から魔物が溢れる事も多く、この村もその防衛線として機能し栄えていたが、それは何十年も前の話。
年々魔物の数は減少し、森の恵みを採れるようになったのも最近の話ではないという。
定期的に国から騎士団が派遣されても来るので、この村はまったくもって平穏なのだ。
「泉が湧いている辺りまでは子供が遊び回れるくらいに安全なのです。そうだ、今朝取れたばかりの果物があるんですよ、良ければ上がって、食べていってください。お嬢様方のお口に合うかはわかりませんが、森から引いている水でようく冷やしてあります」
ぽんと手を打って朗らかに笑ってみせる老婆だが、内心気が気でなかったりする。
というのも、始終穏やかなリリと違ってその後ろに立つ主人らしき少女が、塵か何かでも見るような目で村を眺めているのだ。不穏な事を言われる前に家の中に引っ込んでしまいたかったが、少しでも機嫌を取るために提案した。結構な勇気である。
「あら、ええと、あっ、レイラさまに聞いてみますね!」
「おやおや」
お誘いされると思っていなかったリリは、お澄まし顔と言葉遣いが崩れて、あわわっとレイラの下へ駆け寄った。これには老婆の緊張も解れ、思わず微笑んでしまう。
さて、片手を腰に当ててつまらなさそうにしていたレイラは、リリに伺いを立てられると頷いた。貰えるものは貰っておく主義なのである。
「さ、どうぞ。足元にお気を付けください。薄汚れた家でまあ失礼をば、致しますが」
「構わないわ」
「はは、恐縮です」
文字通り輝いているお貴族様の登場に緊張していた老婆は、リリの可愛らしさによって本来の二人の幼い容姿を正しく認識する事ができた。そのため声からも固さが抜けてきているのだが、堅苦しい言葉遣いは変わらない。
従者より先に答えたレイラの声は、想像していたよりずっと幼く、しかし凛としていて、対応を間違っちゃいけないな、と気を引き締めたのであった。
もちろん実際はよっぽど暴言を吐いたり傷つけようとしない限り、レイラは気にも留めないのだけど、外見や雰囲気の力が強く、自然と周りを正してしまう。それがレイラの自然体なので、街につくまではこのようなやり取りが続きそうだ。
「──……イユは良い子ですよ。両親は……まあ家の子供ですが、ロクでもなく、イユを置いて王都に入って以来連絡一つ寄こしませんが、あの子は泣き言一つ言わず元気に育っております」
梨に似た瑞々しい果実を切り分けてくれた老婆に、レイラ達は雑談がてらその子供の話を聞いていた。
特徴はユースティティア族の血が濃く出た動物の耳と赤い髪で、幼い見た目をしているという。というか実際年齢は低く、今年で7になるのだとか。
「ほら、リリ」
「ぁの、レイラさまっ、御戯れは、あのあのっ」
つまんだ果実の切れ端をリリの口元に持っていき、あたふたする彼女を宥めてすかして見事「はも」っと手ずから食べさせる事に成功したレイラは、機嫌良く目を細めて、両手で口を隠してもぐもぐやっているリリを眺めた。
それから、果汁でべたつく指先に炎を走らせて浄化すると、老婆に視線を移した。流し目だ。情欲のような焔の灯る切れ長の目に見られて、老婆は年甲斐もなく顔を赤らめて、はっとした。いけない。なぜだかぼうっとしてしまった。今の一瞬、魅入られたように彼女へと引き込まれそうになってしまった。
「私がその子を連れ戻してあげるわ」
その提案に、老婆は思考を挟まずに頷いた。
勝手に体が動いてしまったが……まあ、せっかくそう言ってくれたのを無碍にできないのもあるし、困っているのは主人だけとはいえ、鎮めるために呼び戻してくれると言うなら素直に助かる。森に分け入るのは老体には染みるのだ。
「主人の馬車を融通して欲しいという話でしたな。ええ、そうしていただけるなら、主人とは話をつけておきます」
「助かります」
「いえいえ、しかし本当によろしいのでしょうか。先程お伝えした通り、あれはもう長い事使っておらず、手入れもしておりませんので……使えるかどうか」
果物を頂く折、リリは老婆に要望を通していた。それは今こうして受け入れられたが、肝心の馬車はほぼ壊れかけらしい。
それに関しては考えがあるのよ。
と、レイラは心の中で言った。……口を動かすのが億劫だったので声には出してない。
なので当然誰にも届かなかったが、気にせず、レイラは「どうしましょう……?」と自分を窺うリリへもう一度果実の一切れをつまんで彼女の口元へ差し出した。
何かを言おうとしたリリは、レイラの悪戯な笑みに観念したように肩を落として、むっと眉を寄せて果実を食んだ。
◆
森に取って返した二人は、人の足で踏み固まれた道を歩いていた。
森の深くとは違ってこの辺りは木漏れ日が差し、のどかな雰囲気が漂っていた。
レイラのスキルである直感に引っかかるものもなく、スムーズに泉へと辿り着く事ができた。
人の手が入った開けた場所に、円形の、石造りの泉があった。狭く小さな水路が森の外へ向かっている。
水気があるためか涼し気で、吹く風も爽やかであった。
「……ああ、あなた方は?」
「もしかして、サザンさんですか?」
泉の傍に老人が立っていた。小さな布の鞄を持って、困った顔をしてうろうろしていた。
リリの問いに、老人は不思議そうに頷いた。どうやら彼が馬車の持ち主であるサザンらしい。
「孫を探しに来たのです。この辺りに入ってしまったと聞いて来たのですが、あの子に持たせていた鞄しかなくて……ああ、どうしたら」
「それなら、私達にお任せください。きっとイユさんを見つけてみせます」
「頼もしいですな。しかし森には魔物が……」
もさもさと草を食む子馬を撫でながら、レイラはリリの勇姿を眺めていた。
てきぱきと要領よく受け答え、自分達が魔物と相対しても大丈夫という証拠を示したり、老人を安心させるように優しく語り掛けたりととても頑張っている。
やがて話がついたリリが戻ってくると、レイラはうんと一つ頷いた。……なんで頷いたのかリリにはわからなかったが、とにかく二人は馬車を貰うため、迷子となった老夫婦の娘、イユの捜索に入った。
捜索は難航する。そもそも二人に行方不明者を探すスキルも、森の中を自在に把握するスキルもなく、あっと言う間に日が沈んで、木々の合間には質量を持つかのような暗闇が満ちるようになった。
「ううう、申し訳ございません、レイラさまぁ……」
蛍火を周りに浮かべて自分達の周りを照らしていたレイラは、蹲っていじけるリリを見下ろした。サザンに向かって胸を叩いていた姿は影も形もない。自信満々に「任せてください」と言ったのに、全然上手くいかない。それに主人を付き合わせてしまっている事に申し訳なさでいっぱいなのだろう。
「気にしないでいいわ。それより野営の準備をしましょ」
「ふぁい……」
いじいじと草をいじくるリリを見かねて、レイラは肩を揺らしてそう声をかけてあげた。そうする事でようやく鞄から用具一式を取り出し始める。
昼のあれは幼さゆえの根拠のない自信が表れたものだったのだろうが、レイラとしては元気なリリの方が好きだ。そうしょぼくれられるとつまらない。やや頬を膨らませて目を潤ませている彼女も……これはこれで、中々そそるものがあるのだけど。
「さ、しっかり立ちなさい。腑抜けたままでは怪我をするわ」
「は、はい!」
組み立て式のテントの重い布を広げながら促せば、リリはびっしりと背を伸ばして、それから鉄の棒を地面へ突き刺した。
このテント、簡易組み立て式という魔道具で、本来は平らな場所に放れば勝手に展開設置される優れもので、レイラの父も冒険者であった頃は大切にしていたのだが、倉庫に仕舞われているうちに壊れてしまったようで機能が失われてしまっていた。なのでこうして手動で組み立てている。
子供の身には重労働だが、レイラは涼しい顔で作業をしていた。疲れない訳ではないが、顔に出すようなものでもない。汗を掻いてないのはそういう体質なだけだ。蛍火に照らされた肌は夜でも白い。リリは、普通に汗を浮かばせて、普通に息を上がらせている。こういう表面的な差異がリリの主人への憧憬の念を深めるのだろう。ああ、レイラさまはなんて完璧なのだろう。リリはそんなレイラさまに一生ついて行きたいです!
ふんすふんすと鼻息荒く鉄の棒を抱いては、えいやっと地面に突き刺していく。
そうして力を合わせて大きめのテントを完成させると、今度は火を起こす。
昼間の内に集めておいた木枝を一箇所に集め、レイラが炎を灯した指でつっつけば勢いよく燃え上がる。
少し距離をとり、リリが敷いた布の上に腰を下ろしたレイラは、踊る火の粉を瞳に映し、しかし興味はないようで膝に肘を乗せて頬杖をついた。ちなみに半胡坐に半片膝立ちの、これはいわゆる歌膝という座り方であるのだが、だいぶん貴族らしくない。しかし不思議と見た目は高貴なもので、何を憤っているのかつねに不機嫌に近い仏頂面もたいそう美しく映えた。どんな形姿でもそう見えてしまうのは不思議な話だが、それがレイラという少女である。
「どうぞっ、レイラさま!」
「ありがとう」
一度テントの中へ引っ込んだリリが木のコップを手にして戻り、レイラに渡す。中身は精霊術で生み出された水に果実を絞ったものだ。
もう一度テントに入ったリリは、今度は木の桶を持って来て子馬の前へ置いた。
「ほら、お飲み。お前も喉が渇いてるでしょう?」
「……」
つぶらな瞳をリリに向けた子馬は、素直に首を下げて桶の水を飲み始めた。その首を一撫でしてやったリリは、テントに戻って自分の分を用意してくると、たき火を挟んでレイラの向かい側に腰を下ろした。
彼女が両手で持つコップの中身はただの水だ。果実などそういったものは主人優先、という形をとっているのだろう。
村で一休憩入れたとはいえ、朝から歩き通しだったので喉が渇いている。コップに口をつけるとこくこくと喉を鳴らして飲み干した。
「水よ」
精霊へ呼びかける声がたき火の弾ける小さな音に混じる。
生み出された水球を上手い事コップの中へ落としたリリは、今度はちょびちょびと飲み始めた。
そんな一つ一つの動作を、レイラはじっと見つめていた。
「……? あの、いかがなさいました?」
やや口の端を上げ、じっと自分を見るレイラを疑問に思ったのだろう、リリはおかしなところがないかさり気なく腕や体を見回しながら問いかけた。揺れるたき火の、オレンジと影に浮かぶレイラの顔は、見慣れているはずのリリでさえどぎまぎしてしまう。どうしてそんなに見つめるのだろう。何か粗相をしてしまっただろうか……?
「おいで、リリ」
「へっ? えぁ、はい……?」
質問に対する答えはなく、ただ呼び寄せられるのに戸惑いながら、リリはコップを傍らに置いて立ち上がった。誘われるままレイラの隣に屈めば、頬に手を当てられるのにひゃっと声を上げてしまった。
「なな、なにを……なんでしょうかっ、レイラさま」
「いいえ、何も。それより……私のわがままに付き合わせてしまって悪いわね」
「は……そ、そんな、レイラさまに付いていけるのはこの上ない喜びでございます……でも、至らない事ばかりで……」
今日までの道のりを振り返ってみれば、役に立たない自分の姿が浮かんでくる。と、労わるように頬を撫でられて「はわ」と上擦った声を発した。
その反応がぞくぞくとレイラの感情を煽る。幼い少女のそのような艶姿は現実に見る経験はなく、初体験の刺激を求めるレイラには至宝だった。……単に女好きであるのも理由だが。
先程水を飲む際の小さく動く喉の言い知れぬ艶はレイラの胸にちろちろとした火を起こした。
熱量が形となって鎌首をもたげる。知らずレイラの笑みは深まっていった。
「──だから今日は、私がリリの髪を梳いてあげる」
「へぁ、や、れれレイラさま、そそのような恐れ多い、んっ」
「ふふ」
耳の裏のくぼみをくすぐられるのに身を震わせたリリを見て、レイラは明確に笑みを見せた。可憐というよりは嗜虐的で、縮こまる少女の反応をじっくりと愉しんでいるようであった。
恥ずかしがるリリを抱き寄せたレイラは、その背側に陣取ると、上機嫌でその黒髪に手櫛を通した。観念して大人しくされるがままになるリリ。手で口を押さえ、極限まで集中した意識の中、後ろ髪の一本一本が太い神経になってしまったみたいに、主人の指がするりするりと通るたびに走るむず痒い快感に声を抑えるのでいっぱいいっぱいだった。
「んんっ……ふ、ん……っ」
ぴくぴくと震えるまつげに上気した頬。柔い指が頭皮に触れるたびに微かな吐息が漏れてしまう。……そんな獲物を真正面から目にしてしまっていたら、レイラの行為は際限なくエスカレートしていただろうが、幸い髪を梳くのに夢中な彼女が正面に回るような事は無かった。
そうして存分にリリを愛でたレイラは、潤った心に満足し、いつの間にか眠ってしまった彼女をテントの中に運び入れ、彼女の代わりに夜の番をする事にした。
『このリリ、どのような脅威も察知し、必ずやレイラさまにお伝えいたします!!』と大張り切りだった彼女を思い出しつつたき火の傍らに座り、時折傍にある枝を取って火の位置を正したり、四肢を折って浅い眠りに入っている子馬を眺めたりしながら夜が更けるのを待った。
レイラの知る現代とは違う人工電灯のない世界。頼りになるのは原始的な火の明かりか夜空の星の光だけ。
見上げた木々の合間から見える空は綺麗で、一つきりの月が半欠けの体を覗かせていた。
黄色い半円はまだ頂点には達してない。つまりまだまだ夜は長い。
人は生きている上で数えきれないほどの夜を迎える。時には夜更かしをしたり、遠い星を眺めては過去から届く光に思いを馳せたり……。
「ふぅ……」
全て退屈だった。
何もかももう通った道。すでに経験した事に興味を抱かないレイラからしてみれば、この時間は退屈極まりない。
ただ、そんな気持ちを抱いて過ごしていても、これから先何千何百と同じ夜を迎えるのだ、こんなではそのうち退屈のし過ぎで息絶えてしまうだろう。
だから発想の転換をして、一夜一夜を『初めて』の特別な夜にしようと思いついた。
たとえば今日は、リリの可愛い姿を見た夜。
テントを出る際に撫でた小さな頭は愛おしく、広げた手の平に視線を落としたレイラはふっと熱い息を吹いた。
愛おしいといえば……あの妖精の姫君は……スターチスは、今日もバルコニーから空を眺めているのだろうか。
それが同じ空ならば、この夜を特別だと思うのは難しくなく思えた。
彼女を娶るために、レイラはいくつもの難題を突破しなければならない。
女同士での婚姻を阻む宗教の問題。
妖精を狙う権力に返すための立場の問題。
自分達が生きていくために必要な経済の問題。
とりあえずは一つ一つ潰していくつもりだ。レイラは自信過剰に見えるが無謀ではない。過去の自分に裏付けされた地に足のついた思考もできる。
今のレイラ達では一足飛びにこなす事は不可能である。まずは足場を固めなければならないだろう。そのための手段は思いついている。
普遍的で面白味もない選択だが、レイラはすでに既知の中にも未知が垣間見える事を知っている。
そのほんの少しの期待に機嫌を微上昇させたレイラは、想いを寄せる妖精を胸に浮かべて静かに歌った。
「……──? ……」
ふと草を踏む音がして、同時にレイラの直感に引っかかるものがあった。
立ち上がり様に腕を振って強い炎を起こし、たき火を飲み込ませたレイラは、それが暗闇に還っていくのを横目に音の出所へ目を向けた。
何者かが近づいてきている。
「……?」
暗い視界に慣れてきた頃に、微かな声が耳に届いた。
男の声だ。若く、されど変声期は迎えているように思える。迷うような呼びかけるような囁きが意味を持たないままレイラの下までやってきていた。
少し前へ出て、木々の合間の手前に立つ。
ややあって、下手人が姿を見せた。といっても暗闇に紛れて顔も見えないが、辛うじて外套らしき布に身を包んでいるのは見えた。……その合間から覗く物々しい鎧にも。
「そこに……誰かいるのか」
引っかかりのない、良く通る声が囁きとして投げかけられた。
ちら、とテントの方を見やったレイラは、男の影が追っ手である可能性を切った。単独……仲間がいるのかもしれないが、逃亡者を探して森に分け入った者には見えない。
レイラは、男の質問には答えず、空へと手を振りあげた。
放った炎が中空に留まり地上を照らす。お互いの姿が炎明の下に曝け出された。
「おお……」
及び腰で空を見上げた男が、レイラへと視線を移し、感嘆の声を漏らす。
このような森の深くでレイラのような少女に出会うとは予想もしていなかったのだろう。何せレイラは夜会の中心に佇むお姫様のような姿なのだ。とても外を出歩くような格好ではないし、地に蔓延る魔物と戦えるようには見えない。
男は、この突然現れた可憐なる少女に釘付けになってしまったようだ。
フードに覆われた艶のある青髪に目元を隠すアイマスクに似た圧布。肩から足元までを隠す古びた灰色のマント。その腰に剣か何かを吊るしているのだろう膨らみ……。
「ああ……なんと」
レイラが腰に手を当てて男を観察していると、何ともつかない溜め息を吐いた男が半ば無意識といった様子でフードを取り、覚束ない足取りで近寄ってきた。
が、数歩もせず止まる。そして再び「ああ……」と色めいた息を吐くのだ。
「さっきの歌は、君が歌っていたんだね」
「……」
レイラは答えず、腰に手を当てたままつまらなそうな顔をしている。目の前の人物に欠片も興味を抱いていないようだ。直感は警鐘を鳴らしておらず追っ手でもないときて、その上女の子でもないならどうでもいい。つまりは、そういう事だろう。
この男はレイラが夜空に捧げた"妖精のうた"に惹かれてやって来たらしい。マントから出した手で口元を擦ると、照れたようにはにかんだ。──あいにくアイマスクの切れ込みが非常に怪しく、いくら声が爽やかであろうと不審者にしか見えなかったが。
「女神様か、はたまた妖精様か……僕は、その……」
言い淀んで身動ぎする男に、レイラは小首を傾げてみせた。
女神のようだ、妖精のようだと容姿を褒められてもこれっぽっちも心を動かされない。なぜならレイラという女が美しいのは当たり前だからだ。世界の常識を特別な事のように語られても首を傾げるばかり。
そんな事より、男が何を言おうとしているかなど心底どうでもいいが、外敵がいなくならなければリリを安心して寝かせる事ができないので、レイラは仕方なくちょいと頭を動かして見せて先を促したのだ。
「アロ……ジャックだ……と、いう者です」
「……」
「歌を邪魔してしまって、本当に申し訳ない……けれど、厚かましいかもしれないが」
かさりと草が鳴る。にじり寄るように少しずつ少しずつ距離を詰めてくる男に、レイラは特に何を思うでもなくその顔を見ていた。
「月下の美姫よ。森の妖精よ。この素敵な出会いに感謝を。そして、愚かな僕の失敗を、どうか聞いてはくれないだろうか」
レイラは答えない。微塵も興味がわかない。
それを都合よく受け取った男は、懺悔するようにぽつぽつと勝手に語りだした。
「ゆえあって僕らは彷徨うように旅をしている。先日この森に踏み入り身を隠させてもらっていたのだが……隠れていたのは僕らだけではなかったらしく、不逞の輩に大事な……僕の命よりも大事な紋章を奪われてしまったのだ」
なんてことだろう、と男は額を押さえて俯いた。痛ましい表情を浮かべて緩く頭を振る。
レイラからのリアクションは特にない。白けた目で眺めているだけだ。内心、「僕ら」という言葉から仲間がいる事を知って少し警戒しているくらい。ああいや、「それは、悲しい物語だわ」とでも言ってやろうかと一欠けらの考えを浮かばせたが、反応すると喜ばせるだけだと判断して取りやめたのだ。
「儚げな容貌に油断してしまったのだ。いや、それはただの言い訳だろう。あれが無ければ僕らが再び立ち上がることなどとてもできないというのに……ああ、ああ、月下の美姫よ、森の妖精よ。どうか僕に加護を与えてはくださらないだろうか……?」
土を蹴る音。
誰かが近づいてくる音に、レイラは目の前の男からついっと視線をずらして、光の届かない暗闇の向こうを見据えた。
それから、ふらふらと夏虫のように吸い寄せられてくる男を見上げ、腰に当てていた手で空間を薙いだ。
空にあった炎の球が消える。途端、周囲は闇に閉ざされた。
「ああ、待ってくれ!」
「おおジャック、ここにいたのか!」
引き留めようとする声に重なって低く太い男の声がした。また何者かが現れたのだ。
もう少し近づかれては、乙女の聖域だ、剣の錆にしなくてはならなくなるだろう。
指輪のルビーに指を這わせ、面倒だが声を発して警告をすべきかと思考を巡らせていたレイラは、やがて男達が言葉を交わし、片一方が説得するような形で森の向こうへ取って返して行く気配を感じた。
「……」
とりあえずは、外敵は去っていったようだ。
レイラは、やはり無言で、一連の出来事に関心を向ける事なく、かわりにたき火の跡まで戻ると、木枝の積み重なった燃え残りに指を触れて再びたき火を起こした。傍らに座り込んで、じっと揺れる火を見つめ始めた。
□
暗い森に二つ分の足音があった。やや急ぎ足のようで、踏みつけられた草や押しのけられた木枝が忙しなく抗議の声を上げている。
道なき道を行く二人は、揃って全身を隠す装いをしていた。
「本当にいたんだ! 妖精が!」
「馬鹿言えよジャック、勇者にでもなったつもりか?」
「いや、キング。キミだって目にするチャンスはあったんだ。手を伸ばせば触れられる距離に、あの小さな妖精はいた……そうだ、もう少しで、僕は加護を頂けたかもしれないのに……! 今からでも戻ってもう一度お願いしに行こう!」
「ば~かいえ! お前どんだけ俺らが焦りながら迷子を捜し回ったか、その苦労を知らんだろう!」
「そ、それは、いや、本当にすまないと思っている……だが」
「だがも何もねぇよ、ジャック様よぉ。まぁ、てっきり紋章を取り戻そうと賊共のアジトにでも突撃したんじゃないかと冷や冷やしていたが、杞憂に終わって助かったぜ」
「む……」
あんまりな言いようだと感じたのか、むっと顎を上げるジャックに、キングと呼ばれた男は口元を隠していた布をずり下ろすと、これ見よがしに溜め息を吐いてみせた。
「ま、妖精とやらに感謝だな」
「くっ……いや、だが、本当にいたんだよ」
「まだ言うか。妖精なんて伝説の存在だろうに。つーかここは妖精の森でもねぇしよ」
「恐ろしいくらいに美しい少女だった……真昼の太陽のような明るさの中に揺蕩う金の髪と翡翠の瞳に、僕は人智を超えた力を感じたんだ……」
小走りから早歩きに移りつつ、ジャックが思い返してはうっとりとした声で話すのに、キングは付き合ってられんと空を見上げた。
「妖精ですか。それは是非ともあやかりたいものですなあ」
と、しわがれた声が地面を這ってきた。闇を纏った、ローブ姿の人型が木々の陰から出でる。
それは一目で腰が曲がっているとわかる老人だった。
「クイーン。その、申し訳ない……」
「御身が無事であるなら何も言いますまい。ですがもうちぃとばかり、この老骨の心を労わってくださればと……」
「は。心配をおかけしました」
腰を擦りながら歩み寄ってきた老人と合流した二人の男は、そのまま振り返ることなく野営を行っている場所へ帰還する。
やがて、夜が明けた。