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ヒロイック・プリンセス  作者: 木端妖精
一章 妖精のお姫さま
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第四話 リベンジマッチ


 それから二ヶ月ほどして、再び王城で大きな夜会が開かれる事となった。

 レイラの住まう領にも参加するよう手紙がきている。王直々の、蜜で封をされた高級な手紙だった。

 王の目に留まった。悲願は達成されたとばかりに喜ぶ母親はご機嫌で、レイラはその膝元で不愛想な顔をしてもそもそとお菓子を食べていた。


 一応、これでも彼女は喜んでいる。ただ大人として――実際には全然大人ではないのだが、二十数年生きた男の記憶がそうさせる――感情を表に出さず取り繕っているだけで、内心はどこかにぐっと立てた親指を突きつけたい気分だった。


 あの日パーティでレイラが愛想を振り撒いた、その結果が招待状だ。

 (くらい)を問わず各貴族の子息が、その親が、あの可憐なる娘は何者かと情報を集めた。王子も自分の手を取り、微笑んでくれた少女ともう一度会いたいと必死に父にせがんだ。

 あの場にいたほとんど全員の意思がレイラを夜会に誘う。レイラは口の片端を吊り上げて笑った。不敵でワイルドな笑みだが、周りにはまだ丸く可愛らしい印象を与えるだけのようだった。





「レイラさまは、夜会が楽しみなのですか?」


 室内に備え付けられた化粧台は、天蓋付きのベッドの頭側、すぐ傍の壁に取り付けられている。

 楕円の背もたれに背を預け、リリに髪に櫛を通されながら問いかけられたレイラは、楕円の鏡越しに背後の少女へ目を向けた。


 レイラとほぼ同じ背丈でほぼ同じ年頃の少女は、二歳の頃からレイラの友達をしているお付きのメイドだ。

 珍しい黒髪は色素が薄く、ボブカットに纏められている。レイラには遠く及ばないながらも、この少女もまた可憐であった。それは道端に咲く名もなき花のような儚さを思わせるものであったが、リリは気が弱い訳ではない。レイラと付き合うには少々の図太さ……精神的な(したたか)さが必要だったので、自然とそこら辺の能力が上がっている。


 ふわふわと波打つような癖を持つ黄金の髪にサッサッと櫛を通しながら、再度リリは問いかける。夜会が楽しみなのか。前はあんなに面倒くさそうだったのに。


「夜会はどうでもいいのよ」

「へ? ……でも、じゃあなんでそんなに機嫌が良いのですか?」


 リリは不思議に思った。このレイラという美しい少女は、滅多な事で感情を露わにしたりはしない。それが、あまり察しが良いとは言えない自分にさえわかるくらい夜会を楽しみにしている風だったのに、本人は違うと否定した。じゃあなんだろう。まさか櫛で髪を梳かれているのを喜んでるって訳でもないだろうし。


「特別に教えてあげるわ」


 リリの手を掴んで下ろさせたレイラは、身を捻って振り返ると、心底楽しげな笑みを浮かべた。


「愛したい人ができたのよ」

「そっ、それは……王子様、ですか?」

「あれは無理ね。あんなのではなくて、あの城にいたお姫様よ」

「ひ……め……?」


 リリの思考は数秒の間完全に停止した。

 彼女が口にした言葉の意味がよくわからなかったのだ。


「あの、お言葉ですが、レイラさま……レイラさまは地上にお一人しかおられないのですから、ご自分と結婚なんてできません」

「嫌ね、私はナルシストでもないわ。城にいた妖精のお姫様を(めと)りたいのよ」

「よ、よよよ、妖精ですかっ?」


 再度の説明にようやく理解が及んだリリは、しかし今度はその相手の種族に度肝を抜かれる羽目になった。

 どんな人間もそれ以外の種族でさえも知っている事だろう、妖精と出会う事の貴重さを。

 普通に生きていて妖精に出会う確率など成体のドラゴンに出会って五体満足で帰れるよりも低い。その妖精がお城にいて、しかもお姫さまで、さらに結婚したい、と……。

 リリは知恵熱が出そうなくらい痛む頭で懸命に事情を呑み込んで、やっとの思いで笑みを浮かべた。


「それは、その、レイラさまのお相手には相応しいかと……」

「どうかしらね。私如きが釣り合うかは怪しいものだわ」

「へぇっ!? レ、レイラさま、お気をたしかに!?」

「あなたがしっかりなさい。どうしたの、リリ」


 怪訝そうに睨み上げられて、リリは背を仰け反らせながらも両手で口を押さえて黙った。

 まさかこの自分に絶対の自信を抱いている少女が自分自身を卑下するような事を言うとは思わなかったし、神の領域に達しているその美ですら並び立てないと思わせるほどの妖精とはいったいどれほどなのかという驚きがリリの思考を掻き乱した。


「まあ、そんな訳で、私は今回もあの子に会いに行くつもりなの」

「わ、わかりました。くれぐれもお気をつけください」


 少しずつ混乱から立ち直る中で、リリはレイラの言葉に『ああ、これは許可なく勝手にやってるんだろうなあ』と予想した上で気遣った。


 この美貌を見ていると忘れてしまいそうになるが、レイラは国の端っこの小さな領地に住む、位の低い貴族の娘だ。しかも三女。お姫様でないどころか、実は領の民とそれほど差がある訳でもない。あのパーティ会場の誰よりも最下層なのは間違いなかった。間違いなく使用人以下。ならばよく考えずともお姫様に会うだなんて普通は無理だろう。そう思ったリリの考えは半分当たっていて、半分外れていた。


 そもそもレイラは王族である王子とは会っているし、モーションもかけられた。理由はやはりレイラの優れた容姿だろう。男の自意識を根本に持ち、前世含めて恋愛に疎いレイラでも、目の奥にハートを浮かべられて熱心に見つめられれば流石に察する。


 レイラの素性を知らぬ者はどうしてか彼女の事をとても位の高い貴族だと思いこむ傾向にあり、王子もその一人だったのだ。

 本来なら弱小貴族の三人目の子供であるレイラが王子と話すなどできっこないのだが、生まれ持った天上の美がそれを可能にしている。絶対無敵の自信からくる堂々とした立ち居振る舞いがそうさせる。だから、リリの考えはあっているとも間違っているとも言えた。


「何も心配いらないわ。何もね」


 不敵に笑ったレイラに、もし城内を勝手に歩き回っているところを兵士に捕まえられたらどうなるかなどへの不安は毛先ほどもなかった。失敗はありえない。そう確信している。

 その自信がどこからくるのかは謎だが、そういった自信があるからこそレイラは気高く美しい。


「う-ん、レイラさまより、その妖精のお姫さまの方が心配です」

「突然の嵐だものね」


 自信過剰なレイラもレイラだが、そんなレイラを信頼しきっているリリもリリだ。

 自分がお世話をしている少女が悪いようになるなどとは露ほども思っていないあたり、『天とは私、私が正義』を地で行くレイラにかなり毒されてしまっている。


 共に育った事もあって傾倒しきっているリリだが、敬愛するお嬢様が時々口走る謎言語と、前後から推測しづらい飛躍した台詞にだけは困りものだ。

 『突然の嵐』が何を指すのかわからず、リリは曖昧な笑みを浮かべた。笑って乗り切れ大作戦である。





 夜会の日が来た。正確には、その数日前。

 普通の外装に金の家紋を取り付けた簡素な馬車に家族で乗り込み、王城への長い道を行く。護衛の騎士達が乗った馬がぐるりと馬車を囲んで進む。


 いくつかの村や町、領境を越え、王都へ。長旅に退屈した姉がたびたび陰でレイラにちょっかいをかけた。飲み水を零させたり、それができない時はちょっとだけ水をかけたり、服の裾を凍りつけたり。

 些細ないじめに、レイラは気にも留めず景色を眺めていた。何もしない上の兄は、そんなレイラを邪魔者を見る目で見ていた。


 最近レイラの兄妹はますます陰湿になってきている。今は旅の最中で両親も近くにいるため軽いものに留められているが、家では手を出される事も少なくない。十五になって成人した兄は直接手を出しては来なくなったが、末の妹を疎ましがっているのは確実だった。姉も攻撃を続けている。それらはレイラが注目され、両親に大事にされ始めるとより顕著になった。二人共自分達よりレイラが構われているのが気に入らないのだろう。兄は社会的地位という観点から、妹の方は両親の視線という観点から。それだけの理由だが、それで十分だった。


 レイラは大人の精神を兼ね備えてるので跳ね除けられているが、これが年相応の子供であったならとっくに潰れていただろう。もしかすれば、そういった欠点を持つ事でいじめを回避できていたかもしれないが、それは今はない別の可能性の話。


 王都で一泊し、王城での夜会(とは名ばかりの、午後から始まる長いパーティ)に参加したレイラは、挨拶回りに愛想振り撒きにと大忙し。姉のペトゥラは王子に一目惚れしたのか、王子が寄って来た時はレイラの隣でにこにこしていた。だが王子が離れると、なぜ自分よりレイラの方が構われるのか、いや、その理由はわかっている、だからこそ憎い……そんな感情を一つにこめてレイラを睨みつけ、歩き去って行った。


 日が落ちると、壁際に並んだ楽士隊が奏でる音楽は陽気なものから落ち着いたものに変わり、参加者は手を取り合って踊り始めた。

 踊りに興味の無いレイラは早々に抜け出そうとしたのだが、会場の中心で公爵令嬢と踊っていた王子に目を付けられて呼び寄せられてしまった。放り出された幼くも目つきの悪い令嬢の恨みがましい視線に突き刺されつつ、さすがに断る訳にもいかず一曲付き合う。


 始終穏やかな笑みを浮かべる王子と、だんだんと面倒くさくなってきて笑顔の仮面が剥がれてきているレイラ。一見すれば王子と姫の華麗なダンスで、周りの人間もいっそう輝きを放つ二人を見つめ、ほうと感嘆の息を漏らしたりするのだが、手を取り合い踊る二人の心の距離は北極と南極ほど離れていた。


『絶版ね』

「……?」


 異世界の言語で独り言ちた笑顔のレイラに、よく意味はわからずとも話しかけられたと舞い上がってはにかむ王子。そこだけ見ればまるで演劇の世界だった。


 曲が終わり、離れようとしたレイラの手を王子はきつく握った。最後に何か言いたい事でもあるのかとレイラが目を向ければ、言葉はなく、指を絡めてきた。思わず顔を顰めてしまいそうになりながらも、なんとか笑顔を保ちつつ無理矢理二曲目にもつれ込まれる。


 黄色い悲鳴がそこかしこから小さく上がった。同じ女性と連続で踊るというのは特別な意味を持つ。どうやら王子は本気のようだった。もっともレイラの心は既に妖精のお姫様で占められているので取り付く島などないのだが、儚く可憐に微笑みかけてくれる少女が自分に興味を持っていないなど想像もできないのだろう、王子は熱心にレイラを見つめていた。


 さすがに三曲目は付き合えない。王子の方も、さすがに三連続は不味いらしく、別の子の相手に移ったため、ようやっとレイラは解放された。


 さて、上手い事紳士達を躱してダンス・パーティから抜け出して薄暗い廊下に出たレイラは、疲れと不満を隠す事もなく不機嫌顔で歩き始めた。

 興味のない人間の相手は疲れるし、自分を偽る事は精神を削る。こんな事したくはないが、貴族としてのマナーは守らなければならない。社会で生きる人間なら当然の事。

 これが死ぬまでずーっと続くというのだからほとほとうんざりしてしまう。どうせ相手をするならかわいい女の子がいい。


 息苦しさに豪奢なドレスの首元に指を引っ掛け、王城の廊下の真ん中を我が物顔で歩くレイラ。事情を知らぬ者が見れば彼女をこそこの城の主と思う事請け合いだ。実際、向こうの方から歩いてきた使用人がレイラを見つけると、慌てて脇に退いて深々と腰を折った。そんな使用人には目もくれず、ずんずんと先を行くレイラ。恋する乙女は強いというが、これが彼女の平常運転である。


 前と同じテラスに出たレイラは、今日は静かに空を見上げているスターチスの下へ無言の進軍を開始した。手すりから壁のでっぱりへ。でっぱりからスターチスのいるテラスへ危なげなく移動していく。まだ二度目だというのに、もう何十回も繰り返したかのような手慣れた様子は、ひとえに彼女が自身の成功を疑っていないからこその芸当だった。


「良い夜ね」

「! ……レイラ」


 レイラが声をかければ、はっとして振り返ったスターチスは、間を置いてから目を細めて少しだけ首を(かし)げた。疑問を感じたというよりは、ただの仕草のようだ。


「また来たのですね」


 感慨深げに呟くスターチスの姿は、当然の事ながら二ヶ月前となんら変わりなかった。

 レイラは歩みを止めずに彼女の隣に並んだ。当然のごとく。パーソナルスペースなどあってないようなもの。

 そうして夜空を見上げれば、隣の妖精も同じように空を見る気配があった。


「何度でも来るわ。貴女に会うために」

「なぜですか? なぜ、私なんかに……」

「逆に聞くけど、なぜ駄目だと思うのかしら」


 さも不思議そうに聞くレイラだが、一介の貴族が無断で姫に会うなど当然駄目に決まっている。スターチスはそういった理由で拒絶しようとしている訳ではないが、おおよそ常識的な発言ではない。


「お父様が……言ったのです。私は失敗なのだと」

「失敗?」


 俯きがちになって話すスターチスに先を促せば、彼女は頷いて、物悲しそうに身の上を語った。


 長き旅の果てにスターチスの母となる妖精と出会ったこの国の王は、その愛と栄光を手にして帰還した。

 妖精の楽園を捨てて人間の住まう地へ下りてきた妖精は絡め取られ、王の私欲の下に倒れた。

 真実の愛を見つけたと思っていたのに、そんなものはどこにもなかった。王には正妻がおり、自分はただの妾の一人である、そう知った妖精・コチョウは娘であるスターチスに別れを告げ、自然に還ったという。


「……死んだというの? 貴女のお母さまは。……妖精は不滅ではなかったの?」

「おおいなるターニア様がいる限り、私達妖精は死にません。でも……みずから自然にかえる事を望むならその限りではないのです。……それは人間の言うところの死とおなじ」


 純粋な妖精であるコチョウを失った王は、その矛先をスターチスに向けた。生まれた時から今と同じ背格好を持つスターチスは、ハーフといえどほぼ妖精で、その力は健在のはずだった。

 自然の塊である妖精は魔力の塊である精霊と親和性が非常に高い。妖精は魔法を意のままに操り、自在に自然を動かすと言う。

 だがスターチスはそれらの力を扱えなかった。だからこその失敗という言葉。


 王は妖精を欲していた。一匹ではなく、たくさん。スターチスが成功していたなら、コチョウはあと何百も妖精を産み出す事になっていただろう。

 失敗作の烙印を押されたスターチスは、しかしこうして生かされている。その美貌と妖精という種族にはまだ価値がある。王は最後の一滴まで利用しつくす気なのだ。


「とんだ下衆ね。貴女に同情するわ」


 仮にも国王を切り捨てるレイラに、スターチスはそっと目を伏せた。


「ありがとう……と言えば良いのかしら。わからないわ、哀しくて」

「その哀しみを癒してあげたいのだけど、何をしたら……」


 涙を滲ませ、肩を震わせる少女にレイラはおっかなびっくり手を伸ばした。肩に触れ、そのまま抱いて自分の胸へ抱き寄せる。

 頭を抱み、嗚咽を漏らすスターチスの背を撫でながら、レイラは何も言わずに彼女が落ち着くのを待った。

 その中で、不意に思い出した。

 ずっと昔に見た夢の中で、白い少女から教わった歌の存在を。


 すぅ、と息を吸って、軽やかに吐き出す。


 抱き締めた少女の肩越しに、レイラは陽気な歌を歌った。

 背を震わせていたスターチスは、それがかつて幾度となく母が聞かせてくれた妖精達の歌だと気づくと、泣く事も忘れて聞き入った。

 今生で初めて歌というものを歌ったレイラの声は、妖精さえ魅了する音色のようだ。伏せがちで、うるうると濡れたスターチスの瞳がそれを物語っていた。


「……ふう」

「それは、お母様のうた……」

「初めて歌ったのだけれど、なんだか楽しい気持ちになれるのね」


 微かに震える声を発したスターチスの後ろ頭を、レイラは三度、優しく撫でた。

 月光に煌めく濃紺の髪は指の熱で溶けてしまいそうなくらいに細くて、レイラの小さな胸は愛おしい気持ちでいっぱいになった。


「これは、妖精達の歌なのね」

「……はい。お母様は、私が悲しい気持ちになると、いつもこの歌を歌ってくれたんです」

「……そう。哀しいから、貴女は歌っていたのね」


 レイラの肩を押して体を離したスターチスには、もう悲しげな雰囲気は少しも残っていなかった。

 それが嬉しくてレイラが微笑めば、スターチスも同じように笑った。弱々しいものではない。心からの、輝かんばかりの笑顔。

 ああ、お宝だ。


「ありがとう、レイラ」

「どういたしまして」


 レイラがこのテラスに来たのはこの歌に誘われての事。

 古い夢から続く不思議な繫がりが、スターチスに笑顔を取り戻させた。


 トクン、トクン。

 鼓動の音が重なる。

 体を離したとはいえ、まだ距離は近い。それこそ息のかかる距離で、膨らんだスカートが絡み合っている。


「ねえ」


 レイラがそっと顔を近付けて囁けば、「ぁっ」とスターチスが吐息を漏らした。自信に満ちたレイラの顔を直視できずに目を逸らす。輝きが強すぎる。ずっと薄暗い部屋の中で過ごし、夜にこうしてテラスに抜け出す事しかできないスターチスには、どこへだって行けてしまいそうなレイラが眩しくてたまらなかった。


 同時に、その輝きに惹かれた。だってスターチスも妖精なのだ。人間の輝きに惹かれ、ふらふらと近づいてしまう性質を、彼女だって持っている。

 レイラの発する光に手を伸ばせば、自分も同じようになれるのではないかと、スターチスは思った。


「私と」


 視線が絡む。

 高い体温が空気の中で混じり合い、見つめ合う瞳の中にはお互いの顔しか映っていない。

 小さな手を押さえ、少しずつ顔を近付けていくレイラに、妖精のお姫様は動く事も目を逸らす事もできなかった。


 レイラの侵攻は唇と唇が触れてしまいそうな距離で止まった。

 触れていないのに口に何かこそばゆいような感覚があって、スターチスは頬を赤く染めた。ドキドキと、鼓動を早めた。

 もう少しレイラが動いたらどうなるか、なんて世間知らずのお姫様にはわからなかったが、雰囲気が気分を高揚させた。


「一緒に――」


 薄紅色の花が開くように、その小さな口を開いて愛を囁こうとしたレイラは、不意に耳に届いた足音にぱっと振り返った。

 下のテラスに小さな人影。


「ああ、やっと見つけました!」


 僅かな月明かりに照らし出されたのは、この国の王子だった。

 ゆるふわなブロンドを風に揺らして手すりへ駆け寄った、まだあどけない少年はほっぺたを真っ赤にして、見るからに興奮した様子であり、レイラは人知れず眉を寄せた。どちらかというと中性的な容姿の王子であったが、レイラの琴線には掠りもしていない。要するに、お呼びでないのだ。


「何故こんなところに……いえ、先程のうたは、やっぱり君だったんだね!」

「ええ、そうよ。たった一人のための歌」

「心が飛び跳ねてしまいそうな素敵な声だった! ぼくは、君の声に誘われてここへやってきたんです」

「まあそれは光栄ね」


 レイラの方が完全な棒読みでも王子は気にした風もなく手すりに張り付き、一心にレイラを見つめている。だいぶんお熱のようで、傍らに立つ本物のお姫様の方には気が付いていないようだった。

 それならば好都合だ。スターチスは人に姿を見られてはいけないときつく言いつけられている。だから、自身の胸に手を押し当て、怯えたように後退ると、小走りで部屋の方へ戻って行ってしまった。


 横目で大きな窓が閉まっていくのを見届けたレイラは、胸中で深い深い溜め息を吐いた。

 もうひと押し。

 もう一声で、きっとあのお姫様をトリコにできたのに。


「なんとうつくしい……」


 邪魔者さえ来なければ……。

 陶然とした様子で呟く王子を見下すレイラの目は冷たかった。





 まず、レイラは王子に会場へ戻るよう諭された。

 まさか袖にする訳にもいかず渋々王子の隣へ下り立てば、彼はうっとり息を吐いてすぐにレイラの手を取った。無遠慮な振る舞いに『気安い』と文句を言ったレイラだったが、幸いと言うべきか、理解されずに首を傾げられるにとどまった。


 そのまま会場に戻れば、ざわりと波紋が広がった。

 満面の笑みの王子が手を引くのは、あれはいったいどこの国のお姫様だろう。

 一度ここで姿を見せているにも関わらず、レイラの美しさ故に誰もが衝撃を受け、忘れてしまったかのように釘付けになった。


 パーティーの主役は自分であるとでも言いたげな堂々とした振る舞いと大人びた微笑みは魅了の魔法そのもので、だからだろう。

 誰も二人が広間の中心で踊り出すのを咎めようとはしなかった。楽士隊が遅れて演奏を開始する。


 一度のパーティで同じ女性と二回以上踊る事は、あなたを意識していますよと言っているようなもの。

 エスコートする王子の顔を見れば、誰の心にも同じ思いが浮かんだ。


 ああきっと、この二人がご結婚なされるのだろう。


 末端の末端、吹けば飛ぶような存在であるレイラと王子の婚約を誰もが疑わず、王でさえ満足気に頷きながら二人のダンスを見守った。

 一方で、雰囲気だけで既成事実を作られてしまったレイラはたまったもんじゃなかった。

 周りの視線をそれとなく窺えばわかる、生暖かい視線と祝福の空気。


 ただでさえそれでイラつくというのに、それ以上に目の前のニコニコ王子に腹が立つ。

 何度も曲をリピートさせて延々ダンスに付き合わされるのはまだ我慢できるにしても、本来なら妖精のお姫様と絡められていただろう手が王子の手と繋がっているのは我慢ならなかった。


 まあ、この場限り付き合えばそれで終わりだ。

 浮かんだ怒りを抑え、レイラは粛々とこのお遊びに付き合ってやった。

 その間ずっとスターチスとのやりとりを思い返していた。


 彼女の声。彼女の仕草。抱いた肩の細さ。肌の柔らかさと(ぬく)もり。痺れるくらいに甘い匂い。月の花の香り。

 どうしても彼女を伴侶にしたい。ともに人生を歩みたい。

 燃え上がる情熱は衰える事無く肥大していく。

 だが冷静な部分がそれにいったんストップをかけた。


『私と一緒に、知らない世界を見に行きましょう?』


 レイラがテラスで告げようとした言葉。

 きっと最後まで言えていれば、スターチスは頷いただろう。レイラはそう確信していた。

 同時に、それでは駄目だろうという事も理解していた。


 勢いのままスターチスを連れ出すのは容易いだろう。

 だが、必ず追手が出る。手を引いてどこまで逃げて行けるか……。

 自信家のレイラにも、この駆け落ちが成功するとは断言できなかった。


 もし『妖精の楽園』に逃げ込む事が出来れば人は手出しできなくなるだろう。

 妖精だけが住まう地。誰も知らない伝説の場所。

 実在するのか。スターチスが場所を知っているのか。そこに辿り着くまでに追いつかれてしまわないか。

 懸念は多い。

 そんな不確実な行動をするより、もっと確実な手を取るべきだろう。


 成り上がり。


 地位を高め、権力を強くして国の頂点に立てば、王を黙らせ、誰の手出しもできない状況でスターチスを娶る事が出来る。

 現在貴族の中でも最底辺であるレイラが手っ取り早く地位を向上させるには……。


「! ふふっ」


 自身をリードする王子に目を向ければちょうど視線が繋がって、彼は嬉しそうにはにかんだ。

 見る者が見れば危うい恋に落ちてしまうだろう微笑みはレイラの興味を毛ほども引かない。そもそもステージが違うのだ。レイラは男に興味はない。憐れな王子の恋は始まる前から終わっているのであった。


 そういう訳で、王子に嫁いで王妃という立場を手に入れる案は無し。

 ならば他にどうすれば良いのか。

 貴族の子女たるレイラが正攻法に権力を高めていくには……。


 様々な道筋を頭の中に思い浮かべたレイラだったが、実現にえらく時間がかかるか、そもそも無理であるという結論に辿り着くばかりだった。

 だがそれは正攻法であればの話。


 ダンスパーティーが終わり、行きと同じ時間をかけて屋敷に戻って来たレイラは、自室へ入るなり待機していたリリを呼び寄せた。


「リリ、私は暫く部屋にこもるわ」

「……ええと、それはいつまででしょうか?」


 突拍子のない言葉に困惑しながら聞き返すリリに、レイラは感情を窺わせない顔で答えた。


「次の夜会があるまでよ」

本日夕方頃にもう一話投稿します。

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