I 侍女は場末の歌姫だった
I 侍女は場末の歌姫だった
――早朝から、尾籠な話をします。聞きたくない人は、両手で耳を塞いでおくなり、耳栓をするなりしてくださいね。……いいですね。それでは、始めます。この公邸には、ジャグジーや追い焚き機能、シャワーは無いものの、清潔で広々とした大理石のお風呂場があり、湯船には火山による地熱で暖められた温水がかけ流されています。それから、上水には井戸を使います。蛇口を捻れば、とはいきませんが、澄んだ綺麗な水を飲んだり使ったりすることが出来ます。ここまでは、許容範囲なのですが。
「問題は、下水よね」
――起き抜けに水を飲めば、催すのは自明の理であります。そこで、お手洗いをお借りしたところ、川の上に立つ木の小屋に案内されました。中は、中央に両手幅四方の穴が開いた板張りの床があるばかりです。穴の下を覗き込めば、さらさらと涼やかな小川のせせらぎが聞こえます。いくら水洗とはいえ、ウォシュレットに温水便座がある陶器の城が鎮座し、汚れを拭うロール紙まで完備された生活に慣れきっている私からすると、これは非常に原始的で不潔に感じます。抵抗ありあり。
「まぁ、水に注意と叫びながら、通りに水瓶の中身をぶちまけるよりずっと衛生的ですけど」
――はい、回想終了。両手を耳から除けてください。もしくは、耳栓を外してください。
*
ヤヨイは、厨房の近くを通り過ぎようとした。しかし途中で、調理台でパン生地を捏ねているフィアが小声で歌っているに気付き、そのままヤヨイは、厨房の中へ立ち入り、フィアに声を掛ける。
――短調で、ラテン系ワルツみたいね。何ていう歌なんだろう。
「今日の朝ごはんは何なの、フィア。何か、お手伝いしよっか」
背後からの突然の声に、フィアは一瞬ビクッと驚きながらも、すぐに冷静さを取り戻し、捏ね上げた生地を成型しながら丁寧に答える。
「今日の朝食は、バターロール、塩漬け鰊、ザワークラウト、ドライフルーツです。人手は足りてますので、ご心配なく」
――日持ちする物ばかりね。冷蔵庫が無いから、仕方ないか。
「新鮮な食材は、ここでは手に入りにくいの。それとも、ナマモノは食卓に登らせちゃいけない決まりでもあるの」
立て続けに、ヤヨイは疑問を呈する。フィアは、表情ひとつ変えずに、鉄板に乗せた生地を釜に入れ、蓋を閉めながら淡々と答える。
「船の到着が遅れたり、不作だったりすると、朝市に行っても、なかなか目ぼしいものが並んでないものです。食卓に出してはいけない食材がある訳ではありません」
――いつでも欲しいものが手に入るわけではないのか。市場や商店はあっても、スーパーマーケットやコンビニエンスストアは無いものね。
「ふぅん、そうなんだ。ところで、さっきの歌は、どういう曲なの」
釜の火加減を見ているフィアに、ヤヨイは質問した。フィアは、火から目を離さず、落胆の色を見せながら答える。
「やはり、聞かれてたのですね。聖戦と乙女の祈りという曲で、波止場で船旅に出た恋人の無事を願う歌です」
――聞かれたくなかったのかな。音感は鋭くないけど、耳に心地良い響きだったから、上手だなぁと思ったんだけど。
「へぇ。何か、嫌な思い出があるのかな。あっ、別に、言いたくなかったら無理に言わなくて良いわ。ただの興味本位だから」
ヤヨイが両手を小刻みに左右に振りながら言うと、フィアは、ためらいを見せながら慎重に口を開く。
「嫌という訳ではありませんが、聞いても不快になるだけですよ」
――このあと、パンが焼き上がるまでに聞かされた話は、フィアの生い立ちに関する身の上話だった。要約すると、次のようになる。……フィアは町娘で、母親は欲の皮が突っ張った質屋。父親は、誰か知らない。物心がつく頃には、水牛亭というカフェバーで、酔っ払い相手に歌わされいたという。罵声や下卑た冗談を浴びせられながらも、お愛想半分に愛嬌を振りまいていたところ、ある日、グレイに気に入られ、この公邸に引き取るよう取り計らわれたのだという。品性と商才は並び立たないもの。倫理観に基づいて値段を決めていては、利益が得られないが、少しでも儲けを得るために品性の悪い行為をすることは、それが、たとえ生活のためであっても、良心に悖る。フィアの頭の中には、そんな思想が根付いているのだという。……とても十五歳の少女とは思えないくらいしっかりしてると思ったら、こういう背景があった訳だ。