P 小耳に挟んだ話
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外に、すっかり夜の帳が下りた頃。グレイは昼に引き続き、またスイングドアを押した。
「やぁ、グレイ。今夜は一人かい。また、ナンパに失敗したんだな」
布巾でジョッキを拭いている口髭を蓄えた男が、グレイに声を掛けた。グレイは一人、カウンター席に座りながら、その男に向かって言う。
「からかわないでくれよ、マスター。俺が女好きだなんて、根も葉もない噂をまくものだから、困ってるんだぞ」
「そうかい。そいつは、すまないな。でも、火の無いところに煙は立たないと思うがねぇ」
いやらしい笑みを浮かべるマスターから視線を外し、グレイは、ぶっきら棒に注文する。
「いつ俺が、女連れで来たっていうんだよ。林檎酒を、グラスで」
「あいよ。たまには葡萄酒をボトルで頼んでくれると、売り上げが変わるんだけどねぇ、伯爵さま」
マスターは樽の蓋を開け、柄杓でロックグラスに注いでカウンターに置くと、揉み手をする。グレイはグラスを持つと、それを軽蔑を込めた眼つきで睨みながら言い、一口飲む。
「胡麻を擂るな。気色悪い」
「辛口だな、グレイ」
同じ頃、グレイの真後ろにあるテーブル席では、軍服を着て頭の禿げ上がった男と、これ見よがしにゴテゴテとアクセサリーで着飾った女が、老獪な顔で不穏な密談をしている。テーブルの上には、わずかに泡が残るばかりのジョッキが、いくつも置かれている。
「かみさんに言われたよ。いつまで歩兵留まりなんだってな。けっ。俺だって、剣の腕なら誰にも負けないってのに。あー、何で銃の時代に生まれちまったかなぁ」
「みんな、科学のせいだよ。安く簡単に新品同様の物が手に入るようになったもんだから、質屋だって商売上がったりだよ」
炯炯と不気味に瞳を輝かせた二人は、アルコールの力もあって興奮状態にあり、更に発言がエスカレートしていく。
「そのくせ、人事は階級に依るんだから、やってられない。何で、十歳以上も若いボンボンに顎で使われなきゃならないんだ。あんな生意気な野郎、副長として認められるかっ」
「あぁ、そうだよ。お貴族さまは、市民から搾取することしか能が無いんだ。儲けも無いのに、徴税人を寄越しやがって」
「王様だか何様だか知らないが、身包み剥いだら、只の人だろうに。今に見てやがれ。市民を舐めた罪に、天罰をっ」
「そう、その意気だよ」
どこぞの島国と同じように、泥酔客が天下国家論を唱えだした頃、それを背中越しに聞くともなしに聞いていたグレイは、グラスの残りを干して唐突に立ち上がり、爛爛とした目をしてテーブルを囲む二人を一瞥してから出入り口に向かって歩き、スイングドアを押した。
「貧しい社会から豊かな社会への過渡期で、取り残されてしまったんだな。努力が水泡に帰した憤りは同情するが、逆恨みは感心しないところだ。あぁ、無粋な二人にあてられて、すっかり酔いが醒めてしまった」
グレイは両腕を上げて大きく伸びをすると、夜風に吹かれながら、星の瞬く空の下を、とぼとぼと歩いていく。
「本当に自白薬の調剤をしなければならない事態に、ならなければ良いが」
誰にともないグレイの呟きは、誰の耳にも届かないまま、深い闇の中に溶け込んでいった。