M 男同士の心理戦
M 男同士の心理戦
――真が偽になり、偽が真になる。社会においては、その境界線は算術のように明白なものではなく、実に曖昧模糊としたものである。
公邸から歩いて一時間ほどの下町に、軒端に水牛のシルエットが描かれた看板が吊り下げられているカフェバーがある。スイングドアを押して店内に入ると、中は男性客が八割を占めており、若い女性や子供の姿は見受けられない。
「ブラックで良いのか、ニッシ。砂糖なら、持ってるぞ」
そう言いながら、グレイはテーブルの上にシュガーポットを置く。ニッシは、グレイとはテーブルを挟んだ向こう側に座っており、顎に手を当てて考え込んでいる。
「なら、二つほど入れてくれ。――ここは僧正か、いや、城を動かすべきだな。よし」
ニッシは、白と黒の市松模様の盤面と、そこに並べられた白黒合わせて三十二個の駒を睨みつけながら、いい加減に返事をして、黒い駒を斜めに動かしかけて手を止め、別の黒い駒を横に三枡動かす。そのあいだに、グレイはシュガーポットから茶色い角砂糖を二つ摘み取り、カップに入れる。
「入れたからな、ニッシ。――そう来たか。そうなると、女王を動かすしかないな」
グレイは、白い駒を斜めに二枡動かす。そのあいだに、ニッシは盤の横に置かれたカップを持ち、一口啜る。
「甘くないな。――それなら俺は、今のうちに王の守りを固めるか」
ニッシは、黒い駒を将棋の桂馬のようにエル字型に動かし、白い駒を飛び越えた枡に置く。
「混ぜないからだろう。――良いのか、ニッシ。歩兵を頂くぞ」
グレイは黒い駒を一つ取り上げて盤外に置き、先程動かした駒を縦に四枡進める。ニッシは、ティースプーンでコーヒーをかき混ぜながら、悔しそうに言う。
「しまった。そこは、気付かなかったな。参りました。発明馬鹿も、たまには鋭い一手を打つもんだ」
ニッシは、おどけた顔をしながら両手を挙げて言った。それを見たグレイは、フフンと鼻を鳴らしながら言う。そのあいだ、ニッシはコーヒーを飲む。
「最近は、役立つ薬も生成してるよ。君にまで馬鹿呼ばわりされたくないな」
「馬鹿呼ばわりされるのは、フィアだけで充分ってところか、グレイ」
ニッシが口元をニヤニヤと吊り上げながら言うと、グレイは顎を上げながら、目を細めて言う。二人は、口と同時に手も動かしており、ニッシは黒の、グレイは白の駒を集め、それぞれ、手前の二列に並べていく。
「何の当てつけのつもりか知らないが、僕がフィアにいだいている気持ちは、君がサーラにいだいている気持ちほど純情無垢なものでは無いよ。せいぜい、前もって恩を売っておけば、のちのち少々面倒なことを押し付けても文句を言ってこないだろう、という程度の打算に過ぎない」
「それは、どうだか。俺だって、公爵の護衛を任命されてるから、滞りなく仕事にあたれるように、我慢して付き合ってるだけだぜ」
得意気な顔をしてのたまうニッシに対して、グレイはシュガーポットを横目で見ながら、少し声を潜めて言う。
「なぁ、ニッシ。もし、俺が持ってきたのが角砂糖ではなくて、遅効性の自白剤だと言ったら、どうする」
グレイが言い終わった直後、ニッシは訝しげな表情をして、カップを取り上げて覗き込み、漆黒の液面に映る自分の顔を睨みつける。それから、ティースプーンをランプの光に透かし、匙先を検める。
「黒く変色してる様子は無いが」
「おいおい、ニッシ。こんな場末のカフェバーが、純銀のスプーンを使ってるはずないだろう。まっ、仮に使ってたとしても、反応が出るはず無いんだがね」
「何だよ。やっぱり冗談だったんだな。――今度は負けないぞ」
「そうそう。ジョークだよ、ジョーク。やっとユーモアが通じるようになってきたな、ニッシ。――これで引き分けだからな。悪いが、勝ち越させてもらうよ」
そう言うと、グレイは白い駒を一つ手に取り、前に二枡進めた。




