A 駅に向かっていたはずだった
A 駅に向かっていたはずだった
――私は、櫻井ヤヨイ。お察しの通り、三月生まれ。現在、十八歳。地元の女子大学に通う、ごくごく普通の学生。少なくとも、現時点では。
「もう八時を過ぎてるわよ。起きなさい」
ヤヨイは、ティーシャツにハーフパンツ姿で、髪を茶色く染めた男の肩を揺すりながら言う。男は目を閉じたまま眉根を寄せてそっぽを向き、タオルケットを被って惰眠を貪ろうとする。
「うるさい。自由登校だから起こす必要ないって言ってるだろう」
パイル地越しのくぐもった反論を聞きながら、ヤヨイは男の丸くなった背中を蹴る。すると、男は背中に片手を当てながら飛び起きる。
「いってぇな、このメスゴリラ。受験前に大怪我したら、どうしてくれる」
「誰がゴリラよ。か弱い乙女に、そんな怪力あるわけないじゃない。放っといたら、夕方まで寝てしまうでしょう。おばさんだって困るんだからね」
「お袋が困ろうが、知ったことじゃねぇって。あぁ、嫌な目覚めだな」
腕を天井に向かって大きく伸ばし、男は欠伸まじりに言う。ヤヨイは、男に向かって一言だけ言い残し、部屋をあとにする。
「私は、大学に行くから。二度寝するんじゃないわよ」
「ガキ扱いするな。とっとと行け」
男は、野良猫でも追い払うかのように、ヤヨイに向かって片手を振った。
*
――さっきまで私が居たのは、お隣の楠家。起こしていたのは、私と一歳違いの幼馴染、キサラギ。お察しの通り、二月生まれ。地元の高校に通う、ごくごく普通の、いや、ちょっと不良の真似事をしている生徒。根は優しくて良い子なのに、どうして悪ぶってるのかは、私には理解できない。それよりも。
「あっつい」
駅に向かう道すがら、ヤヨイは脇によって足を止め、ハンカチで額の汗を拭いながら言った。街頭モニターでは、気象予報士が猛暑日から熱帯夜になるとの予報を発表している。
――肩に背負ってる、この無駄に重いテキストやレジュメの束をトートバッグごと砲丸投げ出来たら、さぞかしスカッとすることだろう。だいたい、キサラギがすんなり起きてくれれば、こうやって走らずに済んだのだ。
「一限は必修の語学だから、急がなきゃ」
そう呟いたヤヨイは、再び歩き出そうとしたが、何かに躓いたように、そのままフラフラと倒れてしまう。
――あぁ、目の前が真っ暗になっていく。
櫻井ヤヨイ:十八歳。現代日本では女子大生。ヒロイン。濃褐色の瞳。黒髪。