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移し花

作者: 雨森 夜宵

 ここ暫く、花畑の夢を見る。


 どこかで見たような、見たことのないような、けれど、とにかく美しい花が一面に咲いている場所の夢。そこに咲く花々はどこか曇ったような、滲んだような色合いをして見えた。

 私の立っているところにだけ花がなくて、それ以外には本当に足の踏み場もない。私は花を踏むことも、その場にしゃがみこむことも出来ないまま、ただ空を仰ぐ。それは恐ろしい程高く遠いところにあった。伸ばした手のずっとずっと先、遠く、遠く。その薄い青空の下に、刷毛ではいたような白い雲が重なっている。そして更にその下に、小さな鳥の影があった。それは私の頭上を円に飛び、そして飛び続けていた。その姿は小さくて、頼りなくて、ともすれば薄い青と刷毛ではいたような白の狭間に消えてしまいそうになる。羽ばたく翼の輪郭がそこへ徐々に滲んでいって、それが私の目に溜まった涙のせいだと気付いた時、私は布団の中でふっと目を覚ますのだった。

 ほとんど毎日のように、私はその夢を見た。涙を流しながら目を覚ました。ひどく切ない気持ちになって、まるで心臓を縛り上げられたような気分になって、私は、小さく小さく体を丸める。悲しくはない。苦しくもない。ただ、ひたすら切ない。切なくて、切なくて、堪らない。


 けれど。

 その切なさは多分、私のものじゃなくて。


   *   *   *


「花畑の夢?」


 中村はちらっと顔を上げた。波一つ無い表情だった。

 中村は、よく分からない人。その目はいつも通り、目の前のもう一つ遠くに焦点を合わせている。それは何か難しい考え事をしているようにも見えるし、単に人と目を合わせるのが苦手なだけのような気もする。

少なくとも茶化しのない返事が返ってくるだけ、いいか。


「うん。花畑の真ん中でぼーっと立ってるの」


 私はもう半月程も切れ切れに見続けている夢のことを、実際に泣きながら目覚めるというところだけ抜いて、中村に話していた。何となく、中村。バイト先が同じで、週に一度だけ上がりが被る、同い年の同期。


「夢占いだと、それなりにいい感じだった気がするけど」


 携帯を取り出しながら、中村はぼそっと言った。濃い紺色のボディに、小さく煌めいたストラップは銀色。結構いいセンスしてる。さらさらと画面をなぞる中指は、どでかいペンだこでごつごつしている。ディスプレイの照明が下から照らすものだから、余計にごつごつして見えた。まるで竹のようだ。よく曲がる竹。まっすぐ育ち損なった竹。


「そうなの?」

「うん。確か恋の成就とか、なんかそんな。……ほら」


 すっと差し出されたスマホの画面を見ると、確かに恋愛、の文字が並んでいた。夜道で見ているものだから、眩しい。物凄く眩しい。目を細めてみると、柔らかいピンク色の背景にクリーム色の枠が浮かび、その中に並ぶ文字は濃い緑だった。

 花のようだ、と私は思う。


「愛情、恋愛面でとても充実している、又はこれから充実する暗示。だって」

「どこにそんなチャンスが転がってるんだ……」

「さあ」


 そっけなく言って、中村はまた携帯をしまい込む。途端に今度は周りがあまりに暗すぎて、私は多めに瞬きをしなくちゃならなかった。角ばった残像がそこかしこに浮かんで消える。


「さあって。雑」

「だって、結城が見つけるものだろ。それ」

「それはそうだけど……いや、そうなんだけどさ…………」


 何となく、腑に落ちない。

 私はふと、あの夢の中の滲んだ花々の色を思い浮かべた。色褪せた風でもなく、掠れた風でもなく、ただ、柔らかく滲んだような色。あのひどく曖昧な色彩は、なんだか今の気持ちに似ている。


   *   *   *


 私の中に、その夢は根付いたようだった。

 どこかで見たような、見たことのないような、けれど、とにかく美しい花が一面に咲いている場所。私は毎晩のようにそこへ行き、花を踏むことも、その場にしゃがみこむことも出来ないまま、ただ空を仰いだ。小さな鳥の影はいつも私の頭上を円に飛び、そして飛び続けている。まるで、どこかに行こうとしているように見えた。道に迷った人が標識や案内板を探している時の、狭く煮詰まった視野と、不安げな佇まい。

あの鳥はどこかへ行きたいんじゃないか。或いは、何かを探してるんじゃないか。

 何を?


 ――――止まり木、とか。


 ふっと下りて来ただけのアイデアだったけれど、それは妙にしっくりとくるものだった。

 あの鳥も、花畑の中に足の踏み場を探している。けれどやっぱり、花畑には足の踏み場がない。だからあの鳥は、降りてこられないんだ。それが出来ないから、だからあの鳥は、ただひたすら空を飛び続け、彷徨ってる……?


  *   *   *


「止まり木、か」

「あの鳥、いつか降りてくると思う?」

「さあ」


 中村は今日もまるで愛想のない返事をした。目の前の更に遠くに焦点を合わせたまま、それでも聞くだけは聞く。


「ちょっと。結構真面目に悩んでるんだけど」

「悩んでるのは結城だろ。俺じゃないし」


 思わず大きなため息が出てしまった。


「それを聞いてやるのが友達ってもんでしょ」


 中村の目が一瞬揺れた、ような気がした。


「――――おう」


 返事はいつも通り、そっけない。急に落ち着かなくなってきて、私は意味もなく歩数を数えた。歩数は何も生み出さない、ただの数だから。余計なことを考えなくて済む。

 中村は徐に携帯を取り出す。視線はすっと下がって、見覚えのある柔らかいピンクの背景のサイトに向けられていた。中村の仏頂面がうっすらピンク色に照らし出されるのを見て、なんだかほんの少し、イラッとする。半分ひったくるように、携帯の画面を覗き込んだ。目が物凄い勢いでちかちかした。ひどく明るい画面に、文字がびっしり並んでいる。


「鳥の夢は意味が多いから、鳥ってだけじゃ絞りきれない」

「へえ」


 明らかに短いスクロールバーを見て、私は言った。思ったよりも硬い声が出て、心臓が跳ねる。携帯を持つ右手が震えて、左手をその下からさりげなく重ねた。

 そっと視線を滑らせると、中村は何も言わずに、画面をなぞる私の指を目だけで追っていた。私は浮かび上がる文面もよく追えないまま、ただ画面を上へ上へ送る。スクロールを終えたのを見計らって、中村はそっと手を差し出した。私は中村の携帯を、慎重にそこへ置いた。ともすれば取り落としてしまいそうなくらい力の抜けた手を、中村の手に触れないようにするだけで、ぐっと息を詰めなくちゃいけなかった。


「他に、鳥の情報ないの」


 中村は何事もなかったように携帯をいじり始める。その呆気なさに、私はひっそりと息をついた。


「情報って、どんなの」

「うーん。色、とか。動き方、とか。その鳥の印象」

「印象なんかそんなにないよ……」

「何でもいいんだけど。何か、ないの」


 中村の視線が真っ直ぐにこちらへ向いた途端、私の視線は中村の携帯に流れていた。銀色のストラップが揺れている。それは何かの鳥の姿を象っていた。街灯の光を弾いて、それはきらり、きらりと光る。


「――――まあ、探しとく」


 さりげなく会話から逃げた自分が、妙に引っかかった。


   *   *   *


 花畑は、相変わらずそこにあった。

 咲き誇る花はどれも淡く、空は高く、鳥は円に飛び、私は身動きが取れずに空を眺める。土は柔らかくて、立ち続けているはずの私の足はちっとも疲れなかった。空気はほんのり湿っていて、吸い込んだ空気は驚く程艶やかに香る。その中で花は、まるで波のようにうねりだしていた。ゆらり、と地面が揺れたようにも見える。滲んだ色の波は不思議に美しくて、けれど美しいからこそ、何となく不安げな姿でそこにある。


 風が出てきた、と気付いたのは少し後だった。

 それまでも雲は流れているように見えたけれど、花が目に見えて揺れるほどの風は吹いていなかった。花の香りが私の中を通り過ぎていって、ふっと、何かが変わる予感がした。風はますます湿ってくる。空に目を戻すと、そこは拍子抜けする程に晴れ渡っていた。今までと変わらない青空。雨は降らないだろうと、私は確信した。澄んだ青空と白い雲を背景に、例の鳥は円に飛び続けていた。が、ふと頭を巡らせて、軌道を離れ。

 そのまま矢のように花々の向こうへ落ちて、そして、そのまま、見えなくなった。


 音もしなかった。


   *   *   *


「風、湿ってたんだよな」


 念を押すように中村が訊くから、私は小さく頷いた。


「何か嫌なことでもあったの」

「ほえ?」


 続きが余りにも唐突だったから変な声が出てしまった。ひとつ頭を振って、視線で続きを促す。


「いや。確か湿った空気は憂鬱の暗示だから……」


 取り出した携帯を操作しようとする中村の手を、何を思ったか私は、咄嗟に伸ばした右手で止めていた。掴んだ指は硬くて骨ばっていて、竹の割には温かい。中村と私の歩みが、同時に止まる。中村が、私を見る気配がした。


「――――ソースはいい」


 携帯を凝視したまま、咄嗟にそんな言葉が口をついた。


「……あんまり、自信ない情報なんだけど」

「いいの」


 なんで、こんなこと言ってるんだ。


「――――ん」


 中村は大きく二回瞬きをして、それからゆっくりと携帯を戻した。離した手が、中村の手の上を滑り落ちていった。足を強引に前へ送る。夜道は暗く、足の裏に感じるアスファルトは何故かいつもより頼りなくて、私は一歩一歩を慎重に踏まなくてはならなかった。


「もし夢の中で湿気を感じたら、それは夢見人の感情が湿ってるっていう暗示なんだ」


 中村の目線は、気のせいか正面よりも僅かに左――――私のいない方へ、ずらされている。


「だから。もしも何か不安なこととか、悩むようなことがあるなら、それを解消するタイミングだ、ってことなんじゃないかって。大半、推測だけど」

「なるほど。でも悩み……悩みか」


 中村の右目を凝視しながら私は考えた。眉毛はかもめの翼みたいな形をしていた。ここ最近の気になることなんて、悩みと言えそうなものなんて、この夢のことと、後は、こいつの思考くらいなものだ。こいつの見ているもの、くらい。


「悩んでるからこの話してるんだけどな」

「……確かに」


 気のない返事が、ほんの少しだけ張り詰めて聞こえる。


「でも、今までは湿ってなかったんだろ」

「うん。湿ってなかった。風が吹いたのも、それで花が揺れ始めたのも最近。本当につい最近」

「それってどの位最近」

「どの位、だろう」


 改めて考えると、それは判然としなかった。つい昨日くらいから風が吹き始めていたような気もするし、先週の段階で既に花が揺れていたような気もする。思えば花々自体の輪郭も曖昧なのだから、本当に揺れているのかどうかすら、正直全然自信がない。

 そう伝えると、中村はほんの小さく肩をすくめてみせた。初めて見る仕草だった。微かに笑ったような、気もした。


「……誰が見てる夢なんだか」

「ごめんて」


 私はさり気なく中村から視線を逸らして、それから、小さく口を尖らせた。きっと、夜の闇に紛れて見つからないだろうと思った。その推測は、少しだけ口の端を上げさせた。

 口を尖らせるなんて、思えば初めてやる仕草だ。


   *   *   *


 花は確かに揺れていた。

 その日の夜、疑念のまだ薄れないうちに、私はいつも通り花畑の夢を見た。花は淡く、空は高く、鳥は円に飛び、私は身動き取れずに空を眺め、その脚は疲れを感じない。

 湿った空気が震え、風が吹き、鳥が頭から花畑の向こうに見えなくなった時、私は確かに花々が風にそよぐのを見た。葉と葉、花と花の擦れ合う心地よいざわめきが、ベールのように花畑を覆う。それは、どこか雨音に似ていた。見上げた空は高く、遠く、青い。雨の予感はない。拍子抜けするほど晴れわたった空だ。けれど、私は空から目を逸らせなくなっていた。私はこの空に何かを期待していた。

 うっすらと伸びた雲の隙間。


 何かが、光った。


 それは揺れながら、煌きながら落ちてきて、私はそれを両手で包むように受け止めた。衝撃は小さく、その代わりに、硬く温かな感触がはっきりと伝わってきた。

 手を、開く。

 小指の爪ほどの、小さな小さな涙型の水晶だった。

 水晶はぽつり、ぽつり、と降ってきた。花にぶつかると軽く澄んだ音を立てて、そして、粉々に砕け散る。水晶もまた、花を傷つけることはできないのだろうと思った。水晶は後から後から降ってきて、ひとつ、またひとつと砕けて散る。その音は花々のざわめきの中で、ひどく切なく響いた。私の視界が滲んでいく。それが自分の涙だと気付いた時、目が覚めた。そっと目を拭った。切なかった。はっきり残っているのは、硬くて、丸みを帯びていて、意外に温かい、あの感触。

 私の手にその感触は残っていた。というより私は、それに覚えがあった。一度、それを感じたことがあった。


 繋がる。


   *   *   *


「あのさ。ちょっと確認したいことがあるんだけど」

「……夢のこと?」

「そう」


 聞き返した中村は多分、相変わらずの仏頂面だ。私の視界には入っていないけれど、多分。夜道に響く靴音は驚く程大きく聞こえた。私の隣を歩く中村の足音は重く、私が四歩歩くうちに、中村は三歩歩く。


「その、ちょっと――――」

「……ちょっと?」


 どう切り出していいものか、迷った。

 迷いながら歩いていたら、どこにでもいそうなおばちゃんが、どこにでもありそうな自転車に乗って、目の前の十字路を横切った。本当にテンプレートみたいなおばちゃんだったから、なんだかおかしかった。とても、馬鹿らしくなった。


「あのさ。ちょっと、手、貸して」

「手?」

「うん。手。どっちでもいいから」


 間延びした空白の後、私の前にはあの竹みたいな指のくっついた手が差し出されていた。まるでダンスに誘うみたいな手の出し方だ。それは何とも言えずくすぐったかった。

 細く、長く、息を吐く。

 差し出された手の、親指だけ両手で包んだ。

 あの水晶と同じ――――硬くて、温かくて、優しげで。


「終わり。ありがと」


 すぐに、離した。


「……俺の親指がどうしたの」

「――――夢に出てきたの」

「え、何が」

「いや……中村の指が」


 へえ、と答えた中村の声は、驚いているようだった。


「俺の、指」

「そう。あんたの指」


 私は花畑に降ってきた水晶のことを、順を追って中村に説明した。花に当たって砕け散るなんて普通の水晶じゃありえないけれど、それでも私はそれを水晶だと思った、という話を、その後から付け加えた。

 中村はやはり、それを黙ったまま聞いていた。私は何の気なしに、中村のスニーカーがアスファルトを踏みしめる様子を、ずっと見ていた。一歩一歩、地面を耕すような歩き方だった。


「熱いでも冷たいでもなく、温かかったのか」

「そう。何というか、優しい感じがした」


 又してもへえ、と答えた声は、必要以上にぶっきらぼうに聞こえる。


「待って、あんたの評価じゃないから」

「知ってる」


 間髪入れずに釘を刺せば、中村もすぐに答えを返す。返した後で、ふ、と溜め息のような音がした。笑ったのだと思った。ほんの微かな、笑ったかどうかも判然としない笑い方。でも、不思議と嫌な気はしなかった。そんなところに悪意を込める人間じゃないと、何となくそう思った。


「夢に出てくるものは、本人が気になってるものだけだ。同じ夢を見るってことは、その何かに本人が囚われているということ。それが意識的か、そうでないかに拘らず」

「……あんた、自分で何言ってるか分かってる?」


 それって。


「分かってるけど」


 スニーカーの歩調は変わらなかった。


「本当に?」

「本当に」

「――――そう」


 そう、と言ったきり、私は何も言えなくなってしまった。

 中村はただ、黙って隣を歩いてくれた。


   *   *   *


 夢は終わらない。

 花々は淡く咲き誇り、空はどこまでも澄んでいる。一羽の鳥は円に飛び、突然湿った風を裂いて消える。風にそよぐ花畑には水晶の涙が降り、落ちたそれは軽く澄んだ音を立てて、そして、跡形もなく砕け散っていく。その全ては、とても切ない。知らず知らずに涙が出るほど、切ない。

 これは誰の切なさなんだろうと、この夢を見始めた時から、私はずっと気になっていた。絶対に私のものではないと、それだけは無駄なくらいの自信があった。

 今なら、分かった気がする。

 でも、どうして。


 どうして、あいつの切なさなんだろう。


 何故、私があいつの切なさを夢に見るのか。本人の言葉を借りるなら、何故私が「あいつの切なさに囚われる」ことになったのか。どうして。訳が分からない。なんで中村。なんで切なさ。なんで、私。

 分からないことが多すぎて、夢というだけなのに頭がパンクしそうだ。考えて、考えて、考えて、考えすぎて真っ白になった後で、ふっとあの温かさが蘇る。なんなんだ、あいつ。分からない。分からない。もう全然分からない。


 ――――でも、分かりたい。


   *   *   *


「あんたのせいで、寝不足になった」


 言うに事欠いて、そんなセリフで口火を切ってしまった。


「ごめん」


 中村は相変わらず無愛想な声で応じる。それが無関心ではなく単なる真面目さの表れであることは、特に表情を見ずとも分かるようになった。


「あの夢、この前から全然進まなくなったんだ。水晶が降ってきて砕けて、そのシーンから全然進まなくなった」

「進まなくなった……」


 おうむ返しにした声が、ほんの少し緊張を帯びている。その微妙な上擦りも、歩調のほんの小さな乱れも、分かった。今だから、分かった。


「うん。あれ、なんで」

「さあ」

「さあって」

「だって、結城の方が知ってるはずだろ」

「そうだけど、私も分かんないんだよ」

「じゃあ俺も分からないよ」

「でもだって――――」


 だって。


「――――だって、あんたの夢じゃん。あれ」


 大きく、息を呑む音がした。

 中村は何も言わなかった。ただ、私の言葉を待っていた。だから、待たれてしまったから、溢れてしまった。言うしかなくなってしまった。

 言葉が、溢れていく。


「あの夢、すっごく切ないの。あんたには言わなかったけど、あの夢、いつも視界が滲んで終わるんだけど、目が覚めると、私、泣いてるんだ。切なくて切なくてたまらなくて、それで、本当に泣いちゃうんだ。でもね、ずっと気になってた。誰の切なさなんだろうって。これ絶対に私のじゃない、って、あの夢が始まった頃からずっと思ってた。思ってたんだよ、だけど、だけどね、最近分からなくなっちゃった。私、本当に切なくなっちゃった。あんたのせいだ。あんたの夢なんか見るから、あんたがその話聞いてくれるから、私、本当に切なくなっちゃったんだ。あんたの切なさが、うつっちゃったんだ。なんかもう、全部、あんたのせいなんだ。そうでしょ」

「――――うん」


 返ってきた言葉が余りにも短くて、なんだか笑えてきた。ほんの少し、涙が出そうな気もしてきた。


「うんって。否定しないの」

「否定しない。言う通りだから」


 一番ありえないと思ってたことが、正解だった。


「……否定してよ」

「しない」

「……じゃあ、なんで」

「結城と俺しか話さない話題が欲しかったから」


 恥ずかしげもなく飛び出した言葉が、凄く恥ずかしかった。

 私の足はいつにも増して重い。一歩々々を引きずるようにして歩いた。それでも、私が四歩歩く間に中村は三歩歩く。そのスニーカーの先に、引っかき傷のような汚れがいくつもいくつもついているのが見えて、思わず唇を噛んだ。

 切ない。切なくなくていいはずなのに、切ない。


「なんで」

「俺と結城だけのものだったらなんでも良かった。それで、一番作りやすいのは話題かな。と、思って」

「なんで。――――なんで、私と」

「結城が好きだから」


 息が、止まったようだった。

 ほんの一瞬、全部が止まった気がした。


「それじゃ、ダメかな」

「馬鹿」


 叩きつけたはずの言葉は、ぐしゃりと潰れた。


「えっ」

「最初からそう言え、馬鹿」

「ごめん」

「私も、あんたのこと好きだ。馬鹿」


 馬鹿、という言葉が、私の頭の中で乱反射する。

 馬鹿なのは私だ。こんなに長い間夢を見て、結局こいつに言われるまで何にも気付けなかった。馬鹿なのは私だ。こいつでさえ気付いていたのに。この馬鹿でさえ気付けていたのに。

 だというのに、私は。


「ごめん」


 馬鹿は、今度は少し寂しそうな声で謝った。


「俺、結城を騙してた」


 そんな言葉が、後に続いて飛び出した。

 それは魚が跳ねるように、夜の水面を騒々しく揺さぶった。中村がどんな顔でそれを言ったのか、私は急に確認したくなった。視線の先のスニーカーは夜闇に紛れて淡い。私の足はいつにも増して重く、一歩一歩を踏み出すだけで頭がいっぱいになってしまう。


「――――何を」


 絞り出した言葉は自分で驚く程強ばって、ぎこちなかった。


「その夢、俺が見せてた」


 ぽつりと、言葉が落ちる。夜がざわめく。波打って、うねって、私と中村の周りをぼんやりと滲ませていく。そのざわめきに驚くことはなかった。どこかで、聞いたことがあった。


「ありえない」

「ありえる」

「どうやって」

「好きな人の夢に出るおまじない」

「小学生か」


 違うよ、と中村は苦笑気味に言う。


「試したんだ。どれが効いたのか分からないけど。とにかく、片っ端から試した。どうにかして、結城と特別な話をしたかった、から」


 ふ、と息が漏れる音。

 酷く自嘲的な笑いに聞こえた。


「だから、もういいんだ。俺は十分楽しかったし、もう終わりで」

「終わり……」

「おまじないは全部やめる。夢は終わるだろうし、その恋心も消えるだろうし、俺は結城を騙すのをやめる。これ以上結城を捕まえとくのは嫌だ」


 中村が立ち止まったから、私も、その隣に立ち止まらざるを得なかった。少しずつ、見上げた視線の先で、中村は今までになくはっきりと微笑んでいた。私の奥底から、酷く熱いものが吹き出し、私の喉へ、上がってきて。


「だから、終わりに――――」

「馬鹿」


 中村はゆっくりと瞬きをした。


「馬鹿っつったの」

「……」

「聞こえなかったの、馬鹿。ぐず。ろくでなし。詐欺師。私の気持ちも、知らないで」


 固く握りこんだ拳を、ぶつけた。軽すぎる音がした。


「惚れさせといて、責任も取れないなんて。身勝手すぎる。このチキン。へたれ。へたれチキン。馬鹿」


 言葉を重ねても音は重くならない。輪郭のはっきりしない、滲んだ色の言葉が私の中を満たして、溢れ出して、ぐちゃぐちゃにしていく。ぶつけた拳が、少しずつ滲んでいく。


「何とか言ってへたれチキン。悪いことしたと思うなら、私の欲しいものくらい聞いたらどうなの。私が、私のことが好きなら、キスのひとつくらいしてみたらどうなの。ねえ」


 ただ。


「好きなんでしょ。私のこと、おまじないかけちゃうくらいには、好きなんでしょ。だったら、やりたいことのひとつくらいやりなよ。私があんたに惚れてるうちに、、あんたのこと好きでいるうちに、好きって言って、ぎゅってして、キスして、あと他にも、色々、遊びに行ったり、美味しいもの食べたり、しようよ。だって私、あんたのこと好きなんだよ。この、馬鹿」


 ただ、私が言いたいのは。


「好きなのに、これでおしまいなの。あんたの、勝手な都合で」


 言いたいのは。


「――――これで終わりだなんて、嫌だよ」


 渾身の一撃を、みぞおちに。


 微かな、微かなため息の後に、あの、溜め息のような笑い声が。


「ごめん」


 今までに聞いたことがないくらい、震えた言葉。


「責任、取らせて」

「……取れって、言ってんの」

「ん」


 二歩、近付いた。

 温かい。温かくて、優しくて、切ない。この切なさが、夢の中で何度も私を苦しめた、この切なさが。恋、という奴なんだ。

 もう、あの夢は見ないだろう。


「ごめん」

「謝らないで」

「ん」


 頭に手が置かれる。髪の表面をなぞる様になで下ろされて、そのほんの少し上を滑って戻ってくる。大きな手のひらと、若竹のような、節くれだった指。強ばって、ひどく不器用で、曲がっていて。臆病で、遠回りで、仕込みなしじゃ惚れた相手の前で微笑むこともできない。両想いだって分かってても頭を撫でることしかできない。チキン。馬鹿。馬鹿チキン。


 でも、好き。


 与えられたものかどうかなんて、どうでもいい。そもそも恋なんて、相手がいなくちゃ始まらないんだ。きっと私があげたものを、返してもらっているだけなんだ。はっきりしたものじゃなくていい。切なくていい。苦しくていい。だから。

 この、煌くような時間が、続けばいい。


「ねえ」

「ん」

「私にかけたおまじない、解かないで」

「うん」


「あと、手、繋いで」

「うん」


「……中村」

「ん」

「私にかけたおまじない、教えて」

「えっ」

「ダメ?」

「いや。効いたのがどれだか、分からないんだけど」

「じゃあ、全部」

「うん」


「私もかけるから」

「うん」


「中村」

「ん」


 ――――その携帯ストラップ、私も欲しい。

 ――――うん。

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