失楽園にて
ベットの布団がもぞもぞと動き出した。
フキダシで括るほどでもないよう声を発して布団が引っ張られた方を向く。
大輝が寝返りを打ったようだ。
さっきまで私の上で悦びに浸っていたクセに今となっては私に背を向けて寝ている。
甘ったるいシャンプーの匂いが彼の存在感を強めていた。
私が大輝と出会ったのは2年程前だ。
大輝は同じ会社の先輩で私達は丸の内にある会社で働いている。
「ねえ知ってる?禁断の恋は報われないんだって。」
大輝が初めて私にキスをした時に言った言葉が未だに私のなかに残っている。
「そんなのやってみないと分からないじゃん。」
私は大輝にそう返して2人で笑った。
そこからの日々はまるで楽園にいるように感じた。
大輝は女性の扱いに長けている。
さり気なくハンカチを出してくれたり、些細な段差でも手を差し伸べてくれたり、細かい気遣いが出来る人で異性に人気だ。
しかし私が惹かれたのはそんな所ではない。
彼は年下の私を良い意味で年下扱いしなかった。
別にご飯を奢ってくれるでも無かったし、率先してデートをしてくれるでも無かった。
でも私にはそれが嬉しかった。
年上特有のやや上からの目線ではなく同じ目線から、対等の関係で居れる事が心地よかった。
そういえば、と不意に思い出して私はベッドから這い出た。
テーブルの上に乱雑に置かれたカバンからスマートフォンを取り出す。
案の定LINEが入っている。
「今日も遅くまでお疲れ様。明日、家に来るって言ってたよね?待ってるよ。」
雄哉からの連絡だった。
雄哉とは付き合ってもう4年になる。
周りの人からは結婚を問われることも多い。
私も雄哉と結婚するんだろうと思っていた。
結婚。私はずっとその言葉を待っていた。彼のタイミングを伺っていた。
今更気付いてしまった。ここまでくれば気付かない方が幸せだったのかもしれない。
―彼はきっと私と結婚する気はない。
「ありがとう。うん、明日行くよ。お昼過ぎくらいかなあ…」
同じ部屋に男がいるという罪悪感を抱えたままで返信をした。
スマートフォンを手にしてベッドに潜り込む。
その刹那、そっぽを向いていた大輝が向き直り私の手を握った。
「あ。ごめん、起こしちゃった?」
私は申し訳なくなり彼に訊ねた。
「ううん、そんな事ないよ。たまたま起きただけ。」
大輝がベッドの横に置いてあったスマートフォンに手を伸ばした。
画面の時計は25時9分と記されている。
時刻の背景には綺麗な歯を見せて笑っている私ではない女性の姿が写っていた。
私は彼女が誰なのか知っている。
受付嬢という肩書きを持っている彼女。
確か名前は麻美と言ったっけ。
綺麗な白い歯に、とろりと全てを飲み込んでしまうような大きな瞳。麻美は誰もが認める美人だ。
そりゃあまあ、受付嬢というくらいだから美人でなければ務まらないワケなのだけど。
「そういや【私】、今日予定あるって言ってなかった?」
大輝がスマートフォンを触りながら私に問う。
「うん。でも昼過ぎからだから。」
寝付けなかったのに寝起きの気怠い声を装って私は言う。
スマートフォンを枕元に置いて大輝に腕まくらをせがむ。
大輝が私のおでこにキスをした。
今、ここにある幸せはきちんと向き合わなければならない問題から全て目を逸らしたからこそ成り立っている。
いつまでもこうして居られる訳じゃないことも、制限時間つきだと言うことも、全て分かっている。
あと少し。あと少しだけを重ねた今。
きっと私たちは死んだら天国になんていけない。そもそも行きたいとすら思っていないけど。
「なんですか?」
キスをしてきた大輝に私は訊ねる。
「踊りませんか?」
大輝が私の耳をなぞるようにしながら言った。
「それってどういう意味なの。」
私は笑いながら大輝の瞳を覗き込んだ。
大輝はさぁね、とはぐらかしながら私の唇に指で触れた。
私は反射的にそれを噛み付いた。
ただそれだけのことで、2人して笑えるのが幸せだと思った。
「さっきも踊ったじゃない。」
私は意地悪そうに言う。
「アンコールがまだだったからさ。」
そんな冗談を言い合ってまた2人で笑った。
一瞬、静寂が訪れた。
大輝が明かりを消した。
甘ったるい空気がシーツの海を包む。
熱い吐息が漸く落ち着いたとき、外はもう夜と朝の境目になっていた。
「この感じは明日も寝不足だな。」
大輝が少しだけ嬉しそうに言う。
「そうだね。少しだけ眠ったら準備しないとなあ。」
私は大輝にくっついて言った。
「そうだな。もう少ししたらお別れだね。」
くっ付いている私の頭を撫でながら、大輝は言う。
本当は今すぐにでもやめなければいけないのに、私は彼のことが止めらない。
結局、予定よりも少し遅く、私達はホテルを後にして別れた。