005 簡単に異世界には行けない――――⑤
「ッッッッッッッッ」
――なんだこれっ⁉声が出ない⁉息もできない⁉ 息は止めるって話なんじゃなかったのか⁉
――呼吸自体出来ねぇじゃねーか!
大声を出そうとしても、肺から呼気を絞りだすことが出来ず声にならない。息を吸おうとしても、まるでやり方を忘れてしまったかのように俺の体内に空気は入って行かない。
「ッッ」
何秒――。何秒――息を止めてないといけないんだったか――それすらもよく思い出せない……。
単に息を止めるのとは訳が違う。強制的に呼吸を止められるとこんなにも苦しいのか――と、思いながら回数表示を見る。14…15…。
――まだ半分⁉ サトシはっ⁉
と、サトシに顔を向けると、真っ青な顔をして首のあたりを叩き、声が出ないこと、息ができないことを訴えかけてきていた。
そして俺も同じ状態だとやって見せると、エレベーターのドアを叩き出した。
ドンドンドンドンッ!と鈍い音が静かなエレベーター内に広がる。
いや、そんなことをしても意味はない。しかし……叩く音が聞こえるという事は、空気が無くなったわけではないんだな。
と、考えていつのまにか自分の心が妙に冷静になっていると感じた。
サトシが俺の代わりに取り乱してくれているから、俺は冷静でいられる、多分そう言う事なんだろう。
もし一人だったらこうはいかなかったはずだ。同じようにドアを叩いていたかもしれない。
息が出来ない上に、声も出せない。そして体中を虫がはい回るような悪寒を感じている。
もっとも一人でなら絶対こんなことしねぇけど……、と思いながら、エレベーターの非常停止ボタンを押した。これで止まると思ってだ。
だが――止まらない⁉
何度もボタンを押しこんだ。だが……硬めのボタンはその指に冷たい感触を伝えてくるだけ。エレベーターは止まってくれない。
コカ・コーラのポスターの、麦わら帽子をかぶって缶を掲げたグラビアアイドルが、俺をあざ笑うかのように目に入る。
なんだよ、くそ、と思いながら上を見ると、階層表示の数字だけが移ろいでいく。20…21…。
ボタンが壊れてもいい。そう思いながら何度も何度も何度も何度も押した。
しかし、止まらない。止まろうという気配すらない。
――なんでだよ!廃ビルだからなのか!ふざけんな!
俺も意味はないと分かりつつも、ドアを全力で叩く。ドン!ドン!ドン!ドンッッ!とサトシの時より一層大きな音が鳴り響く。
叩く。叩く。壊して開けてやる、そんなつもりで叩く。
――その時、俺の肩に何かが触れるのを感じた。幽霊⁉ と感じ、ギョッとして横を見ると優し気な目をしたサトシが目に入る。よくよく思えば肩に感じる体温は温かい。
もしかしたら取り乱した俺を見て、サトシが冷静になってくれたのかもしれない。
そう思いながらサトシの目を見つめていると、再度心が静まっていくのを感じた。
この時サトシがどう考えていたのかは分からない。しかし、手を乗せてくれるという行為だけで俺はありがたかった。そのまま上に目を向けると――31…32…33。
リーンという甲高い機械音と共にゆっくりと扉が開いていく――と、同時に、
「ぷはーーーっ」
出来る。呼吸が…出来る。そして多分……声も…出る…!
「はぁはぁ、はぁ、はぁ。本気で死ぬかと思ったぞ」
「う、うん。びっくりした! なんだったんだろうね? しかも、異世界には行けてないみたいだし」
思わず腰を下ろしながら目を向けた扉の外には、先ほど見えた三十三階と全く同じ光景が広がっている。
しかし、そのことに俺は内心ホッとしていた。
圧倒的な臨場感と恐怖感、これは絶対やばい、何かが起きる――、と思える確かな予感がエレベーターが上る途中ではあった。いや、サトシも同じだったのだから予感ではなく確信だ。
一人なら錯覚で済ませられることも、二人でなら見過ごすことは出来ない。心霊現象なんてほとんど信じていない俺でさえだ。
「とりあえず、一旦出ようぜ」
「うん」
このままエレベーターに乗っているのはただただ嫌だったので、立ち上がり一度三十三階に出ることにした。
目の前に広がるのは、オフィスのような場所の為れの果て。紙の束と使い古された机がまばらに並びに椅子がいくつか散らばっている。他には枯れかけた観葉植物があるのと、ブラインドが下りているくらいか。
おそらくこのまま放棄されてしまうであろう場所。埃っぽいが今は一秒でも早くエレベーターから離れたい。
「ちょっと休憩していこう。どうせエレベーター使わないと下りれねーしな」
「そうだね。しかし、本当にびっくりした! 今まで生きてきた中で四番目くらいにはびっくりしたよ!」
そう言いながら、サトシは椅子の埃をはらい腰かけた。
いやいや、待てよ。俺の中では断トツで一位だったんだが……、こいつは一体全体どんな経験してきてるんだよ。
つか、ほとんど一緒に生きてきたから、でかい話なら俺も知っているはず。普通に考えれば、今の体験より恐ろしいことなんてないだろう、そう思ってサトシに聞いてみた。
その答え。サトシのびっくり第一位は小さい頃にゴールデンレトリバーのしっぽを踏んで、街中を追い掛け回されたこと。
当然俺はこの出来事を知っているし、盛大に笑い転げた記憶も残っている。
俺は追いかけ回されたりしたわけではないが、サトシとの感性の違いに俺は失笑が漏れるのを抑えることが出来なかった。