002 簡単に異世界には行けない――――②
玄関のドアを開け外へ出ると、サトシが門の外でスマホを弄っている姿が見えたので、歩きながらその全身に目を向けてみた。
街灯で艶やかに光る黒髪はまだ風呂に入っていないのか、少ししんなりとしながらも整髪料で短めの毛先が整えられている。
グレーのミリジャケに青のジーンズ。ゴツめの生地は異世界に備えているつもりなのか、こういう時の定例の服装。
黒の大き目のリュックを背負い、まさに何処かへ行くような旅支度。
トランクを引いていても不思議じゃないが……サトシも流石にそこまで馬鹿じゃないようで、足元に目を向けても特にそんな物はない。
内心これならセーフだな、と思いつつ右手を上げ声を掛けた。
「すまん。待たせた」
「いや、大丈夫。待ってないよ。それよりちゃんと別れの言葉は言ってきた?」
「ああ……。いつも通りにな」
そんなしょうもない会話を交わし、サトシがニカッと笑うのを合図に俺たちは歩き始める。廃ビルまではここから大体三十分くらいかかるという話。……遠いぞ。
コンクリートの塀の脇を歩きながらアスファルトに伸びる二本の影を見つめる。隣り合うわけでもなく、前後になるわけでもない。
サトシが先行しているのは、このイベントに感じている思いの差。とはいえ俺の心が重たい訳でもない――。
静かに足を動かせば、ゆっくりと住宅街の景色が流れていく。その光景を見ているだけで、何となく夜出歩く価値はあると思えた。
しかし……、黙って歩いていても仕方がないか。そう思い、何の気なしに尋ねかける。
「なぁ。なんで一人でやらねーの?」
「え! 何言ってるの! 怖いからに決まってるじゃん!」
グルンと振り返るサトシに、おいおい。怖いならやるなよ……。と、思ったがそれは言わないことにした――が、思わずため息は漏れてしまう。ぐるん
「はぁ……。まぁ分からないでもないけどな。怖いのが楽しいんだろ?」
「あはは。そうだよ。シュンはよくわかってるね! 肝試しって皆好きでしょ?」
「いや、別に皆好きってわけじゃねーと思うけど……。――まぁ多少はワクワクするし、俺は嫌いじゃないがな」
苦笑いを浮かべながら答えたつもりなのだが、サトシはワクワクという言葉だけを聞いて顔を綻ばせた。本当に楽しそうに笑う奴だな。
「シュンは話が分かるから好きだよ! それにさ……、異世界にもし一人で行っちゃったらやばい……でしょ?」
「はっ、俺は道連れかよ……」
小さく苦笑いを浮かべると、今度はサトシもそれに気付いたようだ。
サトシは前に向きなおすとゆっくりと空を見上げた。俺もそれに倣うと、星は見えなかったが月は目に映る。都会の少し暗い空に浮かぶ三割ほど欠けた黄色い月が――。
「あと……、もし異世界に行けるとするなら、シュンと二人がいいなってのもあるんだよ」
そう言って、照れ臭かったのかサトシは俯いた。その背中からは俺には何を考えているかは分からなかったが――、
「んだよ……。気持ちわりーな」
口から出た言葉とは裏腹に、本心から不快には思わなかった。
自分の心にもやもやとした気持ちを抱えていると、俺たちの間を一瞬の静寂が包み込み、ほんのり冷たい風が俺の首筋を撫でていった――。
話題を変えるためか、サトシは振り向いて、明るめの声で俺に問いかけてくる。
「そういやさ! シュンは何持ってきたの?」
期待のため瞳を輝かせているサトシに、また何か言われるかな、と思い頭を掻きながら答えを返す。
「携帯と3DSとお菓子と飲み物だけど……。あー、懐中電灯とか持ってきたほうが良かったか?」
しまったな、と思ったがサトシはそんなことは気にしていないようだ。
「懐中電灯は持ってるから別に要らないけど……。てか! 持ち物それだけ⁉ 異世界に行く心構えが足りてないんじゃない⁉」
サトシは目を見開いて、少し驚いたといった表情をしながら俺に一歩詰め寄ってくる。
いや、異世界に行けると思ってるのはお前だけだ、とは思ったがこれもいつものやり取り。定型文を返しておけば事足りる話。
「サトシが準備万端で来てくれると信頼してるから、俺はこんな軽装なんだ」
それを聞いてサトシは笑顔になって頬を染めた――ような気がした。
こういったやり取りをするのが、『アレ』の最大の目的なんじゃないかと俺は思っている。単に俺のこういった言葉を待っているだけなんだろう。
サトシは背負っていたリュックを探り……いくつかの道具を取り出した。
「はは。いつも通りサバイバルナイフもエアガンもライターも持ってきてるよ!」
サトシはどんな異世界を想像して、何が起きると思ってるんだろうか――と、いつも通り思ったが、突っこむのはやめた。
以前、これに突っ込んだばかりに、二時間もサトシの妄想に付き合わされることになったからだ。――正直、その話は中々に面白かったけれど。
確か……前回のは、魔王と勇者が青の粘液上生物――スライムをこねくり回して……と考えていると、サトシが前方を指さしながら声を上げた。
「あ! 見てよシュン!あのビルだよ」
くそ高いビルなので、ずいぶん前から気付いていたのだが、サトシは今気付いた様子。改めて目を向けると三十階層以上あるビルは本当に高い。
しかし、住宅街のど真ん中にあんな高層ビルが建っていて、日照権は大丈夫だったのだろうか。いやいや、どう考えても迷惑だろ。
――と、思って辺りを見渡すと『高層ビル反対』と書かれた段ボールの立札のような物や、木で作られた看板なんかが大量にコンクリートの壁に掲げられているのが目に映る。
もう廃れた後なのにな、と思いながらサトシに顔を向け気になっていたことを尋ねてみた。
「どうやって入るんだ? つーか、エレベーター動くのか?」
俺の言葉にサトシはニヤッと口の端を上げ得意げに胸を張る。
「工事関係者用の入り口が開いているんだって! それにエレベーター用の電源の入れ方も一緒に書いてあったから大丈夫だよ。管理室で操作できるんだって」
「工事関係者……? 工事してるのか?あのビル」
「聞くとこそこ⁉ ――まぁいいや。多分、今はまだしてないと思うよ。あのビル取り壊す予定なんだって!」
「へ……⁉」
動揺して間の抜けた声が口から洩れてしまったが、仕方のない反応だったと思う。
誰だって取り壊し予定のあるビルに侵入って聞いて、良く思うやつはいないはずだ。
「まぁ大丈夫だよ。夜だし。取り壊しはまだ大分先って話だし」
それをどうやって調べたのかは分からないが、侵入ってなると完全な犯罪。見つかればただでは済まないだろう。小学生のいたずらとは訳が違う。
まぁそれはいつものことか……と考え頭を振った。今更ここまで来て計画をやめようなんて考えは、俺の頭にすらない。となると、サトシはもっとのはずだ。
俺は天高く伸びる廃ビルを再度見上げてみた。元々は何のビルだったのだろうか。こんな場違いともいえる街中に……。
――と、その時なぜかは分からないが体中を走る悪寒に、全身がブルリと震え、肌が粟立った。
何だ……? と思いながらも辺りを見渡しても、目に入るのはサトシがキョトンとしながら俺の顔を覗き込んできているだけ。
「どうしたの?」
サトシは平気なんだなと思った瞬間、その感覚はすっと消えていった――ので、頭の中から振り払う。
「いや……何でもない。行こうぜ?」