001 簡単に異世界には行けない――――①
都内某所
太陽はすっかり沈み、辺りが暗くなるにつれ住宅街はぽつぽつと明かりを増やしていく。帰宅ラッシュで多かった人々も段々とその数を減らし、耳に届く音は少しずつ減っていった。
住宅街のはずれ。一軒家やアパートが立ち並ぶど真ん中に、どう考えても日照権をガン無視した廃高層ビルがそびえ立っている。
見上げれば感じる圧倒的な存在感。無機質なコンクリートが醸し出す冷たく暗い雰囲気。顔を正面に向けると、その壁面に月明かりが、俺達の影を二本伸ばしているのが目に入った。廃ビルは寂れて日が経っているのか、目に映るのは風に舞う埃と散らかったゴミ。そして、転がった瓦礫を月明かりを頼りに避けて歩く。
俺(本名 林田俊 はやしだしゅん)はここに来ようと言い出した、諸悪の根源でもある幼馴染(本名 山中聡 やまなかさとし)に振り向き囁きかけた。
(おいおい……。本当に大丈夫なのかよ……? 分かってたけどくそ不法侵入だよな?)
(大丈夫だって! このビルには……誰もいないから!)
誰もいないのは、大丈夫の理由にならないだろ……、と思いながら小さく息をつく。月明かりを背にしたサトシの顔は、影が落ちて見にくいが若干の恐れを含んでいるような気がした。
怖がり程こういうの好きだよなぁ、と思った後、顔を前に向け、汚れた空き缶を蹴らないように慎重に進んでいく。
とはいえ、俺だって怖くないわけはない。不法侵入であるし、暗く寂れた廃ビルだ。自分の意志とは無関係に心拍がその速度を速めているのを感じている。
けれど、肝試しなんてそう言うもの。サトシに肝試しなんていえば怒られてしまうだろうが、この恐怖からくる心身の高揚感が最大の目的。
――肝試し。
そう、俺にとってはただの肝試しだ。けれど、サトシにとっては違う。行っている過程は全く同じでも求める結果がまるで違う。
俺の目的は高揚感を得ること、そしてサトシの目的は――――。
考えながら、肩にかけたカバンからスマホを取り出し、なるべく光が漏れないように時間を確認する。時刻は二十時。
こんなところに来る事になった発端は、今から約十時間程前。入学式の途中、突然後ろから話しかけてきたサトシの発言から始まった――。
♦♦♦♦♦
都内某高校入学式
俺は緑色のパイプ椅子に腰かけていた。目を動かすと見えるのは黒い学ランを着ている男達と、藍色の襟に白の布地、赤のスカートを身に着けた女の子達。これから同じ高校の生徒になろうという仲間候補。息を吸えば、服を新調した時の、得も言えぬ匂いが鼻に届く。
視線を前方に向けると黒い頭が並び、さらに先に見えるのは、木製の壇上に立ち頭をつるてんに光らせている老齢の男が雄弁にマイクをとっている姿。
「皆さんも当校に入学と相成りましたので、学業、スポーツに力を入れるのは当然のこと、ボランティアや 身の回りの人に親切を――」
校長――。なぜ校長はどいつもこいつも同じような話をするのだろうか。いや、小学校ではいい話だと思う。中学校でもぎりぎり許そう。だが……それ、高校生になって今更する話か?
いや……分かっている。話の時間を繋ぎその口上に重みやら深みやらよく分からんが、持たせるために必要なんだという事は。
けれども、それはそれ、これはこれ。俺達が退屈することに変わりはない。目線を動かせば、俺と同じようにあくびをかみ殺しているだろう人間が、いくらでも見える。
その時――、俺は後ろからトントンと二回肩を叩かれる。後ろはサトシが座っていたな……と思い意識を向けると、聞きなれた小声が耳に届いてきた。
(ねえ、シュン。今日学校終わったらいつものアレに付き合ってよ)
(はぁ。アレって……、アレだよな? また何か新しいネタを仕入れてきたのか?)
振り向くことは出来ないので、小さく顔を俯かせながら手を口に当て小声で返した。
そして考える。またか――と。
(うん。そう。アレだよアレ。今度こそは本物だから!)
(声が大きいぞ。目をつけられると今後の学校生活が面倒になるから、また後でな)
(分かった)
そんな会話だけ交わしたあと、サトシは静かになった。
サトシとは小さい頃から家が近所で、共に成長しながら同じ時間を共有してきた。親同士の仲が良いのもその関係に拍車をかけているのだろう。世間一般で言えば幼馴染ってやつにあたる。小学校、中学校、高校とずっと一緒。別に合わせたわけではない。別れようと思えばその機会はあったと思うが、なぜかずっと同じ道を進んできた。
もっともクラスも全て同じというような気持ちの悪い事はないので、別のクラスに分かれたりはしている。それでも進んできた道は同じ。
はっきり言えば腐れ縁。いや…、恥ずかしいので言いたくはないが……、親友と言ってもいいんだろう。
そしてサトシの口にした『アレ』にも何度も付き合わされてきた。俺とサトシの間に絡みつく呪いのようなもの。アレ。
なぜアレなんて言い方をするというと、単純に恥ずかしいから。その一言に尽きる。
アレっていうのは『異世界に行く方法』のこと。考えるだけで馬鹿馬鹿しい。
こんな歳にもなって異世界に行く方法なんて、中二病を患っているとしか思えない。
でも……、サトシは大真面目なんだよなぁ……。
どこから仕入れてくるのか分からないが――おそらくインターネットの某巨大掲示板とかで調べたであろう訳の分からない事に、何度も付き合わされてきた。
病院に忍び込んだり、夜の学校に忍び込んだり。〇ブホに噂が~みたいなこともあったな……、実行はしなかったけど。
自分でもなぜ断らないのかと思うが――結局友達ってのは馬鹿やってなんぼなんだろうな、という結論に達している。
それに俺自身も本心から嫌だってわけじゃない。心の奥底にはキラキラと光る珠のような心を持っているんだろう。
異世界に行く方法なんて微塵も信じてないけれど、夜忍び込むっていう行為に少しワクワクしている自分がいるのは確かだ――。
♦♦♦♦♦
入学式は滞りなく終わり、ホームルームでの集まりを経て俺たちは帰宅する。
当然のように家が近所のサトシとは一緒に帰る。その道中サトシに入学式の時の話の続きを説明される。そして自宅まであと百メートルという所で決まる約束――。
「じゃあ、七時半に迎えに行くから!」
「分かった。分かった。じゃあ、また七時半にな」
「ちゃんと準備しといてよ? 今回のは本当に本物なんだから!」
「おう。おう」
こんな会話を最後にサトシは背中を向け、自宅に帰っていった。
俺も身を翻すと小さく息をつき、サトシが話した内容を反芻する。
今回の異世界に行く方法の手順は三十三階層以上の建物で、一階から三十三階をエレベーターで一往復半。そして……その間、誰にも会ってはいけない、というもの。
以前、似たようなこと――二十階層の建物で二往復半をしようとして、失敗してるんで正直反対した……。
その時実行したのは休日の日中。しかもマンションでやったため何度やっても途中で人と出会ってしまい、最終的にいたずらしてると思われて管理人に説教される、という事態になった。
小一時間程こってり怒られた。当然と言えば当然だ。
しかも……サトシが正直に異世界に行く方法とか言ってしまったから最悪だ。
頭がおかしいと思われて、学校にも連絡されそうになったが、俺が口八丁手八丁で何とか阻止したのが中学時代での最後の大きな思い出。
あれは大変だった――。
だが! 過ぎたことを気にしていても仕方がない。
今回はその教訓を生かしてか、調べてきた情報通りなのかは知らないが、廃ビルを利用し、しかも夜に忍び込んで行うので大丈夫だと熱弁していた。
サトシがなんでこんなに自信もって、本物本物、言ってるのかと思ったら、実際にそのビルでやった人がいて成功したから。
呆れる――。
実際に成功したんなら異世界に行ってしまって、情報提供なんて出来るはずはないっての。
もっともこんな風に考えられるなら、異世界に行く方法なんて信じる奴になってないんだろうけどな。
そんな風に思いながら、俺は自宅までのアスファルトを踏みしめていく。『Hayashida』と書かれたプレートに目を遣りつつ黒い門を開け、玄関までの煉瓦道を歩きながらスマホを取り出した。
現在の時間は十一時四十八分。
まだまだ時間はある。そう思いながら俺はのんびり夜までの時間を過ごすことに決め、玄関のドアノブに手をかけた。
♦♦♦♦♦
太陽が地平線に近付いたのか、オレンジ色の光が窓から差し込んでくる。俺は顔を顰めながらカーテンのバリアを閉め、赤外線をシャットアウトした。
さて、サトシが来る前にそろそろ準備をしておかないといけない。
とりあえず飯食って先に風呂に入っておこう。サトシ様曰くの異世界に飯や風呂があるか分からない――。
と、考えると思わず口から漏れる小さなため息。
自室から外に出ようとドアを開けると、鼻に届くのはカレーの匂い。
そうか、カレーが最後の晩餐になるんだな、と思うと自然と口の端から苦笑いが漏れる。そのまま、廊下のフローリングを歩き階段を下りていく。
居間のドアを開けると、八角形のテーブルにスープカップとカレーが並んでいるのが目に映る。
――と、同時にキッチンで準備をしていた母さんが俺に気付いたのか、首筋で束ねた茶髪を揺らして顔を向けてきた。
「あら? 今呼びに行こうと思ってたのよ」
「わりーな。手伝うのすっかり忘れてたよ」
母さんが運ぼうとしていた大き目のサラダボウルを奪い取り、取り皿と共にテーブルへと運ぶ。
用意されているのは二人分。父さんは――まだ仕事なんだろうな。
さらにスプーンやフォーク等の準備を終えた後は母さんと共に食卓へと座り、最後の晩餐が始まる――。
普通に手を合わせて「いただきます」を言っただけの何の変哲もない夕食の時間だが。
「新しい高校はどうだった?」
口の中でとろけていく牛スジ肉に、舌鼓を打っていると母さんが尋ねかけてくる。俺は口内に広がっていた名残惜しさを泣く泣く飲み込んだ。
「んー。別に普通かな? あ、サトシと同じクラスになったよ」
入学式でサトシが後ろから簡単に声をかけて来れたのは、単純に五十音順による順番。
山中の『や』、林田の『は』、少し離れているので前後になれたのはかなりの幸運――いや、これこそ腐れ縁故か。
「へぇ~そうなの。やっぱり仲良いわねぇ」
いや……そんなのはただの偶然。同じ学校から進学すると、クラスを揃えられるような気がする。他にも何人か知ってる顔がいたし。
とはいえ、縁を感じるのも確か。良いのか悪いのかは知らないけれど――。
そんな他愛もない会話をしながら夕食の時間は流れていき、やがて最後の晩餐は幕を下ろした。しばらく休憩した後に風呂に入った俺は、外に行けるように準備をしていく。
着こむのは、ただの赤のパーカーと黒のジーンズ。普通だと思うが、普段の部屋着とは違うためか、母さんに訝しむような視線を向けられた。特に何も言ってくるようなことはなかったが。
次は持っていく物の準備。スマホとお菓子に――他、何がいるかな……。どうせ失敗して、だべって帰宅って流れになるのは見えている。となると……、飲み物とゲーム機でもあればいいか。
そんな風に馬鹿馬鹿しさすら何となく楽しい、と感じながら準備をしていると、耳に届くのは『ピンポーン』という定型インターホン音。
インターホンのモニターまで歩いていく母さんの足音。応答する母さんとサトシの機械越しの声。全てを聞き流しながら準備を終えた俺は立ち上がった。
「あら、サトシ君じゃない? こんばんは。どうしたの? シュンに御用?」
「こんばんは。こんな夜にすみません。ちょっと話したいことがあって」
親同士の仲が良い関係で母さんとサトシも仲が良い。そして非常に残念な事であるが、うちの親はアレも知っている。
しかし……なぜかうちの親――いや、特に母さんは反対をしない。むしろ歓迎している様子。――止めろよ。
そんなことを考えながら玄関に向かうと、廊下で俺と母さんの視線が交錯した。
「サトシ君来たけど……。着替えてるのって、もしかしていつものやつに行くため?」
「ああ……。そうだよ」
「やっぱり! じゃあ、気を付けて行って来るのよ。成功したら魔王を倒すまで帰ってきちゃ駄目よ」
「……」
ニヤニヤと口元と目を細めて笑っているうちの母親を見て俺は思う。こいつはあほなんじゃないだろうか――と。いや、単にからかっているだけの可能性のほうが高い――いや、完全にそうだろう。
父さんの経営しているピザ屋で働かせようとしたのも、この母親だった。苦労は買ってでもしろとか、色々な経験が将来に役に立つのよ、おほほほほ、とかどこの女王だよ!といった様子でほざきやがる。
だが、こんなやり取りはいつものことで、気にするだけ損。だから、俺はいつも通りの定型文を言って外に出ることにした。
「じゃあ、魔王を倒すまで帰って来ないから、帰ってこなくても心配はすんなよな」