9. 魔獣
虹島高校は、広大だ。いくつもの校舎と複数ある運動場と体育館、そして講堂やクラブハウスが建てられた敷地内には木々や植物も多く植えられている。その中でも第三校舎の裏に広がる自然は森と言って差し支えないほどに木が多く、中央に設置されたベンチは森林浴に打ってつけで昼休みには人が集まる人気スポットだ。
しかし当然のことだが午後七時ともなると木々に囲まれたこの場所は暗く視界も悪い。他の生徒もいるはずがなく、悠乃は周囲を警戒しながら恐る恐るベンチまで辿り着いた所だった。
「誰も、居ない……」
手紙の通りの時間と場所のはずだが、まだ来ていないのだろうか。それとも、只の悪戯だったのか。そう思いながらも彼女が再度周囲を確認するようにぐるりと視線を回した直後、その声は悠乃の背後から聞こえて来たのだった。
「鏡目、悠乃さん」
「っ!?」
咄嗟に身を翻して息を呑む。囁くような声がしたその先を見つめた悠乃は、そこに周囲の暗闇に紛れ込むように気配を消して薄っすらと笑みを浮かべる女子生徒の姿を目に入れて酷く動揺した。
不気味な程夜に溶け込むその女子生徒の姿を、彼女は一度だけ見たことがある。
「確か……北村、さん?」
「ええ、来てくれてありがとう」
ゆらり、と緩慢な動きで頭を揺らして彼女――北村は頷く。オカルト部にいた彼女がこの場に現れたことに驚いた悠乃だったが、自分が呼び出したのだと言いたげな北村の発言に警戒を強めた。
あの手紙は、どうやら彼女からのものであるらしい。
「どうして……」
「だってあなた、なかなか一人になってくれないんだもの。秘密を知っているなんて嘘だけど、そう書けば来てくれると思ったの」
「嘘……」
では、悠乃が潜入捜査官だとはばれていないということだ。内心勝手に蒼を疑ってしまった自分に罪悪感を抱く。
「私に、何の用なんですか」
「簡単なことなんだけど、一つお願いがあるの」
「お願い?」
こんな夜に人気のない場所に呼び出してまでするお願いとは何なのだろうか。悠乃は微笑みを崩さない北村から視線を外すことなく、そっと一歩後ずさった。嫌な予感がじわじわと彼女の全身を蝕んでいたのだ。
それに合わせるように、北村は一歩踏み出してゆっくりと左手を――以前は包帯が巻かれていたそれを持ち上げて、悠乃に見せつけるように手の甲を前に突き出した。
「消えて、くれない?」
「――っそれは!」
周囲が暗かろうがはっきりと分かる。彼女の手の甲に描かれていたのは、紛れもなく魔法陣だったのだ。
しかしそれに驚く間も与えないとばかりに北村は左手を振り上げる。すると彼女の傍に黒い影が収束し、そしてそれが形となって――魔獣の姿をとった。以前悠乃が対峙した、あの青白い体毛に6本の足がある獣だ。
北村は魔獣を愛おしそうに撫でると、「前に言ったでしょう? あなたにこの子が見つけられるように祈ってあげるって」と不吉な笑みで悠乃を射抜く様に見つめた。
「本当は悪魔を呼び出そうと思ってたのに、魔法陣を描き間違えちゃったのよね。……でも、結果的によかったかも。こんなに私に忠実に動いてくれるんだもの」
「……白鳥和泉さんを贄にしたのは、あなたですね」
「よく知ってるわね。だってあの子邪魔だったんだもの……あなたと一緒でね?」
彼女の言葉と共に飛び掛かって来る魔獣を、悠乃は瞬きもせずにしっかりと捉えていた。
唸りを上げて悠乃に牙を剥いた魔獣は尋常ではない速度で彼女の元まで真っ直ぐに走る。しかし悠乃は魔獣が己に到達する前に上着の内側に手を入れ、そしてそこから鈍く光る黒い塊を取り出し、構えた。
誰が見ても分かる、それは――拳銃だった。
「な」
笑みを消した北村を見ることなく悠乃は躊躇いなくそれを魔獣に向け、撃つ。至近距離から放たれたその弾丸は魔獣の体に吸い込まれるように消えて行き、そして一瞬のうちに獣の姿が霧散する。
銃声が殆どしない特殊なその銃と弾丸は、対悪魔、および魔獣専用に作られた特別なものだ。人体に当たっても確かに普通の銃と同じように効果は発揮されるものの、弾丸の中に仕込まれた封印の術式によって、魔獣に当てれば人間界に存在する力を無くして消滅し、悪魔でもその力を封じることができる。
「その銃……あなた、何なの」
「私は、魔獣が起こした事件を……あなたを捕まえる為に此処に来た捜査官」
先ほどまでの泰然とした様子を一変させて酷く動揺する北村に、悠乃は己の身分を証明する警察手帳をそっと彼女の目の前に示した。
「北村さん、魔獣を使った白鳥さんに対する傷害の容疑で、逮捕させて頂きます」
「……ふ、ふふ」
悠乃が彼女に近付こうとしたその時、今まで狼狽えていた北村が突如小さく震えながら笑い声を上げ始める。次第に大きくなるそれに不審を抱きながらも悠乃が彼女に向かって踏み出した瞬間、北村は虚ろな目で虚空を――悠乃の背後を見上げて口を歪ませた。
「間抜けな子」
「え――」
ぞくり、と悪寒が駆け巡る。それは北村の表情を見たからではない、背後から自分に襲い掛かるもう一つの存在に気が付いたからだ。
瞬間的に振り返った悠乃が見たものは、今にも自分を噛み砕こうと口を大きく開けた魔獣の姿だった。魔獣が複数いたと想定していなかった彼女はそれに動揺し、銃を向けることも出来ずに息が掛かるほどの距離で自分が食い殺される未来が頭を過ぎった。
――しかし、その想像は刹那のうちに霧散することになる。
「あっぶねえの」
魔獣は直後、横っ面に強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。そしてその実行者は酷くのんびりとした口調でそう呟くと、魔獣を蹴り飛ばした足を地面に下ろして余裕のある笑みを悠乃に見せたのだ。
「蒼君……!」
「悠乃、さっきの警官らしくてかっこよかったぞ?」
「見てたの!?」
「いいタイミングで登場しただろ」
どうやらずっと様子を窺っていたらしい蒼は「朝からお前の様子が可笑しかったからな、追いかけてみて正解だった」と満足げに呟き、自分が蹴り飛ばした魔獣を遠目に視界にいれた。
「蒼君、魔獣が」
「見えるな。やっぱり俺ってすごいだろう?」
にやにやと笑う蒼の目は確かに魔獣をはっきりと捉えている。そもそもあれだけ正確に蹴り飛ばしたのだ、本人の言う通り霊感があったのだろう。
「……それで? あの女が魔獣を召喚した、悪魔憑きって訳だ」
「どうして」
突然現れた蒼に驚いたのは悠乃だけではない。いや、むしろ北村の方が余程衝撃を受けたように目を見開き、そして酷く動揺しながら声を上げた。
「どうしてその子と一緒にいるの、朝日君」
「俺?」
「朝日君には孤高が似合うのに、相応しくない人間が近くにいるなんてあってはならないのに……!」
全身を酷く震えさせてぶつぶつとまるで呪うように呟く。蒼がその言動に眉を顰めた直後、北村は殺意を込めた目で悠乃を睨み、そして再度左手を振り上げた。
「……朝日君に近付く人間は、皆消えちゃえばいいのよ!」
狂気を宿した目で叫び声を上げた彼女の声に呼応して更にもう一体の新たな魔獣が現れ、先程蒼が蹴り飛ばした魔獣と共に一斉に飛び掛かって来る。だがそれらは蒼には見向きもせず、真っ直ぐに悠乃に向かってくるではないか。
「っ」
同時に襲い掛かる魔獣を前に、悠乃は咄嗟の判断で転がるように魔獣達を避ける。どちらを狙ったところでもう片方にやられると思ったからだ。しかし転がってできた隙を魔獣達は逃さない。すぐさま噛み付いてこようと体を反転させた魔獣は再度彼女を狙うが、しかしその前に体を起こす前の悠乃を蒼が抱え上げた。
「蒼君!」
「俺を狙わねーってことなら、これでどうする?」
膝裏と背中に手を回して彼女を持ち上げた蒼は、挑発するように北村を見据える。いきなり足が地面から離れた悠乃は反射的に見をよじったものの、魔獣が唸りつつも襲い掛かってこないことに気が付いてその動きを止めた。
しかしいくら協力してくれていると言っても蒼は無関係の一般人だ。こんな危険な所に巻き込んでしまったことは申し訳ないが、今はそのことよりももっと優先して考えなければならないことがある。
「……もう、いい……なんて」
今のうちに悠乃が魔獣に照準を合わせようとすると、北村が愕然とした表情で何かを呟いた。その声に反応して一瞬動作が遅れた悠乃は、突如動き始めた魔獣に銃弾を掠めさせることしかできなかった。
「他の汚らわしい人間と一緒にいる朝日君なんて、朝日君じゃない!」
「な」
魔獣達が蒼に構わず――いや、蒼も攻撃対象に含めて襲い掛かる。
蒼は悠乃を抱えたまま避けようとするが、二人の間に割り込むように魔獣が体をぶつけた来た所為で蒼の腕が緩む。必然的に宙に放り出された悠乃はもう一体の魔獣を視界に入れると無我夢中で強く握りしめていた拳銃の引き金を引いた。
「いたっ」
頭から地面に落ちた彼女は小さく声を上げながらもすぐに起き上がる。銃弾はしっかりと命中したようで魔獣の数は減っており、もう一体は少し離れた場所で蒼に牙を剥いて襲い掛かっていた。
しかし蒼はその攻撃を上手く立ち回って躱す。元々思考能力が決して高くない魔獣は彼の動きに翻弄されているようで、彼はその隙に北村のすぐ傍にまで到達していたのだ。
「朝日君……!」
「悪いが俺は、そうやって勝手にイメージを作られた挙句それを押し付けられるが……大嫌いなんだ」
蒼の右手が北村に振り下ろされる。悲鳴を上げることなく膝から崩れるように彼女は倒れ、気絶した。
ところが、一瞬気を緩ませた蒼に背後から衝撃が襲う。北村の意識を奪ってもなお、魔獣は消えることなくそこにいたのだ。それどころか司令塔を失った魔獣は目に付いたものを食いちぎろうとぎらぎらと目を光らせて、容赦なく蒼に口を開いた。
「がああっ」
「っしつけえな……!」
思い切り顔面から地面に叩き付けられた蒼は、すぐに振り返ると背後に迫る魔獣の顎を掴んで動きを止めさせる。しかし無理な姿勢でしっかりと力が入らない所為か、ぐぐぐと蒼と魔獣の牙の距離は徐々に縮まっていく。
「蒼君!」
この距離なら外さない、そういう風に教えられてきた。
悠乃はその場で魔獣に向かって拳銃を構える。標的のすぐ傍には蒼がいる。もし彼に当たったらと僅かな不安が頭を過ぎったものの、彼女は一瞬さえ間を置くことなく引き金に掛かった指に力を込めた。
銃声というには極小さいその発砲音は木々の障害をものともせず真っすぐに進み、そして暗闇と魔獣の身を的確に切り裂いたのだった。