番外後編. できないこと
夕方、蒼は夕食の買い物に行くために一人で家を出た。悠乃は遅くなると言っていたのでそんなに急がなくてもいいだろうと、彼はゆったりとした足取りで町中を歩いている。
今日の夕飯は二人分だ。速水は仕事で、帰って来ても夜中だろう。しかしこういう時に毎度毎度飽きずに彼は「悠乃に不埒なことをするなよ」と警告していくのだから蒼は色んな意味でうんざりしていた。そんなに心配なら最初から一緒に住まわせなければいいというのに。
蒼の後ろ盾は椎葉だが、現保護者は一応速水になっている。本来ならば和也の家に引き取られても可笑しくはないのだが、如何せん彼の家は人が多すぎる。来客も多く使用人までいるので蒼の特殊性がどこから漏れるか分からないのである。
蒼からしても広い屋敷なんて場所に住みたくもない。性に合わない上、召喚されたあの家を思い出してしまうのだから。
「ねえ、君すごくかっこいいね」
「あ?」
ぼう、と珍しくのんびりとしながら歩いていた蒼は、不意に自分の隣に並んだ少女に思わず振り返った。
「退屈そうだけど、良かったら一緒に来ない?」
明るい栗色の髪の少女――恐らく蒼と同じか一つ下くらいだろう――はパッチリと決めた化粧を塗りたくった顔で愛想良く笑っていた。もう少し化粧が薄ければ清楚な美少女という印象を持てただろう容姿だ。
しかし蒼はまったく足を止めることなくそのまま進む。
「俺暇じゃないから」
「えーいいじゃん、楽しいよ?」
「暇じゃないって言ってるだろ。暇人は暇人と遊べば」
面倒臭いという感情を惜しまずに伝えるように顔に表してみせると、彼女は「なによそれ」と不満げに声を上げて蒼から離れて行った。思いの外あっさりと引いたので運がよかった。
一年ほど前の蒼だったら恐らく誘いを断らなかった。あの頃は蒼も自覚できるほど荒れていたし、基本的に物事に関してなんでもいい、どうでもいいとしか思っていなかった。
しかし今は違う。そうして頭の中に思い浮かぶのは数時間前に「行って来ます」と蒼に笑いかけた少女のことだ。
蒼と悠乃は一緒に行動することが多い。もし仮に今彼女がここにいたとしたらナンパされた蒼を見て一体どんな反応を見せただろうか。
嫉妬して怒ったり、おろおろと不安になったり。
「いや、ないな」
思わず独り言が口をついた。悠乃がそんな風になるなどありえない。
蒼の頭の中で「やっぱり蒼君ってモテるねー」と呑気に感心している悠乃の顔が思い浮かぶ。絶対にそんなぐらいのことしか言わないだろう。蒼には妙な確信があった。
蒼と悠乃は一応の所付き合っている。しかし彼女がそんな風に嫉妬したりしている場面を見たことはないし、あまり想像も出来ない。仕事に忙しくてそんなタイミングがないとも言えるが。
だが蒼は悠乃の気持ちを疑ったことはない。抱き着けば顔を真っ赤にして狼狽えるし(次の瞬間蒼が悠一に蹴り飛ばされたが)、そもそも彼女は良くも悪くも素直だ。同情で蒼を好きだと言ったとも思えない。
「……けど、あいつも俺のどこが良かったんだか」
それだけは蒼にもちっとも分からなかった。吊り橋効果だったのかもしれないが、それにしたって中々熱は冷めない。それどころか優しいだの安心するだの蒼にとってはとんでもないことを言われたこともあった。他の人間が聞けば目を剥いたであろう、蒼にはまるで似つかわしくない言葉だ。
悠乃がどんな思考回路をしているのか不明だ。だが確実に蒼が思うのは「男の趣味が悪い」という一点だった。
「さて、さっさと作るか」
買い物を終えた蒼は早速手を洗って調理に取り掛かることにした。メニューはハンバーグだ。流石に最初から速水のように手の込んだものを作る気はなかった。失敗したら元も子もないのだから。
まずは玉ねぎをみじん切りにする。包丁は危なげなく扱えているものの、しかし刻めば刻む程目に染みる。じわりと浮かんでくる涙に苛立ちながら、なんで自分はこんなことをしているんだろうかと今更考えてしまう。
「……馬鹿らしい」
そう呟きながらも手は止めない。ようやく刻み終えた玉ねぎを乾煎りしながら、蒼はふと速水が言った言葉を思い出していた。悠乃が初めて笑ったというあの話を。
蒼が今こうしているのは速水に対抗意識を持ったからではない、はずだ。ただ自分だってそれくらい出来ると思っただけ。
射撃練習とは違い、いつものように「蒼君すごい!」と悠乃を喜ばせることぐらい出来る。
「なんだ、結構簡単だな」
冷ました玉ねぎと他の材料を混ぜて形を作ると後は焼くだけだ。思いの外簡単に出来てしまったそれを見て、蒼は薄く笑みを浮かべた。昨日のうちにレシピを一度確認しただけだが元々器用なのも相まって綺麗な楕円形が問題なく三つ出来上がった。楽しみだとハードルを上げられたものの、これなれば大丈夫だろう。
三つのうち一つは保存パックに入れて冷蔵庫にしまうことにする。悠乃がそうしていたのを見たことがあったからだ。速水が早く帰って来た時の為に彼女は毎回彼の分も作り、そしてそれが実際に速水の夕飯になったり次の日の弁当になったりする。
「ただいまー」
そんなことをしていると玄関の扉が開く音と共に悠乃の声が聞こえて来た。思わず時計を見た蒼は、予想よりも早く帰宅に驚きながらもキッチンから出て悠乃を迎える。
「どうした? 時雨と喧嘩でもしたのか?」
「そういう訳じゃないけど……」
もごもごと言いにくそうにする悠乃に首を傾げながら、蒼は踵を返してキッチンに戻る。その背後で悠乃が問い詰められなかったことにほっとしていたことに彼が気付くことなかった。
他の女の子にナンパされていた蒼を見て動揺した悠乃に、再びそうならないようにさっさと帰って安心しろと理緒が言ったのだ。久しぶりに会った理緒との時間を短くするのには少々抵抗があったものの、「またすぐに会えばいいでしょ?」と理緒はあっさりと言ってのけた。
その言葉が悠乃にとってどれだけ嬉しいものだったか、きっと彼女は知らないだろう。
「あれ、もう夕飯作ってるの?」
「ああもう、入って来るなよ」
キッチンに足を踏み入れそうになった悠乃を蒼が腕で制する。完成するまで見られたくないと悠乃を追い返した蒼に、彼女は苦笑しながら「じゃあできたら呼んでね」と自室の方へと向かって行った。
悠乃が廊下の奥へ消えたのを確認した蒼は、フライパンを取り出してハンバーグを焼く準備を始めた。以前の蒼のアパートはガスコンロだったが、この家はIHだ。だからこそ料理をしようという気になったということもある。
油を引くと蒼は二つ分のハンバーグをフライパンに並べる。するとすぐにジュワ、と音を立て始め、次第にいい匂いが漂って来た。それに蒼は無意識に表情を僅かに緩ませる。
やっぱり自分は何でも出来ると調子に乗った蒼は鼻歌交じりにフライ返しを手に取った。そして片面が焼けたハンバーグを意気揚々とひっくり返そうとした時、不意に蒼の手元が狂った。
「っ!」
勢いよくハンバーグがひっくり返された所為でフライパンから大きく油が跳ねる。それがフライパンを持つ手にかかると、彼は一瞬頭が真っ白になって咄嗟に手を大きく引いた。
ところがその勢いで手がフライパンの取っ手にぶつかってしまう。跳ね上がるようにひっくり返ったフライパンは中に入っていたハンバーグと油もろとも蒼の腕に襲い掛かり、派手な音を立てて床に叩きつけられた。
「いっ……」
蒼はフライパンが落ちた手を押さえて呻いた。反射的に避けようとした為に腕には大きな被害はなかったものの、左手の甲と指が火傷で真っ赤になっている。
「蒼君、今の音……大丈夫!?」
フライパンが落ちた音を聞いたのだろう、ばたばたと足音がしたかと思うとキッチンに悠乃が入って来る。彼女はその惨状を見て状況を理解すると、慌てて手を押さえて俯いている蒼に手を伸ばした。
「触るなっ!」
「え……」
しかし悠乃の手は蒼に届く寸前で強く振り払われてしまった。悠乃も驚いたが、何より自分で振り払った蒼もまた驚いたように自分の手を見ていた。
一瞬手を止めて蒼を見ていた悠乃だったが、すぐに行動を再開して今度は振り払われないように強く彼の腕を掴んだ。
「早く冷やさないと」
ぐいぐいと蒼の腕を引っ張ってシンクまで持ってくると水を流して火傷した手の甲や指を冷やし始める。今度は抵抗しなかった蒼は大人しく悠乃にされるがままになっていたが、俯いた顔を上げることも口を開くこともしなかった。
「これでよし」
しばらく冷やした後薬を縫ってガーゼで覆うと、悠乃は落ち着くように息を吐く。その頃には蒼の頭も多少は冷え、僅かに顔を上げて「……悪い」と小さく呟いた。
「気にしなくていいよ」
「いや、これもだけど……」
蒼の視線がテーブルの上へと移る。そこにはぐちゃぐちゃになったハンバーグの残骸が皿に乗せられている。片付けの際に一応皿に乗せたものの既にハンバーグの形は成していない上、半分は生焼けの状態で床に落ちた。更に言えば悠乃が蒼の手当を優先した為しばらくの間放置されていたそれは、もはや食べられるものではなかった。
「一応一つは冷蔵庫に残ってるが……」
「じゃあそれを半分こしようか? 私が焼くから蒼君は」
「いや……俺がやる」
悠乃の提案に首を振った蒼は立ち上がって冷蔵庫にしまった残りのハンバーグを取り出す。心配そうに自分を見る悠乃をあえて見ないようにしながら、蒼はもう一度別のフライパンを手に取った。
「蒼君、これ付けて」
しかしIHの電源を入れる前に悠乃に再び左手を掴まれる。何をするのかと思えば悠乃は鍋掴みを手にしており、それを蒼の左手に嵌めさせたのだ。
「蒼君がやりたいなら止めないけど、私もここにいるからね」
今度は出て行かないと言った悠乃に、蒼は小さく頷いて返事とした。
「「いただきます」」
そう口にしてから蒼は思わず舌を打った。癖だとはいえ無意識に言ってしまうそれは中々直らない。
それ以上蒼の機嫌を悪くさせるのは目の前に広がる夕食だ。ご飯はあらかじめ炊いていたごく普通のもの、サラダは出来合いのものを取り分けただけ、それは別にいい。初めからそうなるものだった。だがメインであるはずのハンバーグは一つのものを分けた為随分貧相なものになり、その分空いてしまった皿のスペースが蒼を嘲笑うかのように白い表面を見せていた。
「美味しいよ」
「……」
気に入らない。悠乃の賛辞を聞いても蒼の心は晴れなかった。
失敗した。料理ならばと思ったのに、それも完璧にはならなかった。途中まではよかったのだ。だがあの時、油が手に跳ねた瞬間に蒼の脳裏にあの光景がフラッシュバックした。
昔、嫌になるほど味わった火傷の痛み。それが過ぎって蒼は何も考えられなくなったのだ。
蒼は自覚している。自分は今でもあの父親の影に囚われているのだと。父親の顔色を窺って過ごした十五年間、それは父が亡くなった今も無意識のうちに蒼の行動を左右し続けている。
今しがた口にした「いただきます」という言葉ですらそうだ。悠乃に意外だと言われたそれも、父に怯えた蒼の癖でしかなかった。何でもできると口にするのは、何でも出来なければ嫌われると恐れたからに他ならない。悠乃よりもよっぽど重症だった。
銃の訓練が上手く行かない、料理を失敗してしまう。そんなことだけで悠乃が愛想を尽かすとは微塵も考えていない。仮に蒼がどんなにできないことがあっても、彼女は大丈夫だと笑うだろう。
それでも、体に染みついた恐怖は完全に拭いされずにそこにあった。
「蒼君」
「なん――」
悠乃の声に蒼が緩慢に顔を上げる。すると蒼が返事をするタイミングで口の中に何か温かいものが入って来た。反射的に口を閉じた蒼は、口の中に広がるハンバーグの味にようやく状況を理解した。
「早く食べないと美味しいご飯が冷めちゃうよ?」
そう言って笑った悠乃が蒼の口に入れていた箸を引き抜く。ぽかんと一瞬間の抜けた顔をした蒼は、悠乃の言った言葉を反芻して少し怒ったように軽く睨んだ。
「……真似するな」
「だって本当のことだから」
蒼の低い声にも悠乃は臆さずに平然とそう言ってみせる。それは以前、蒼が初めてこの家に来た時に悠乃にやったことだったのだから。
蒼とは対照的ににこにこと機嫌の良い悠乃は手を止めることなく夕飯を食べている。何だか気が抜けてしまった蒼も、ずっと止まっていた手を動かして料理を口に運び始めた。
「……」
食べながらも蒼は何度も悠乃を窺う。幸せそうに食べる彼女を見ていると、なんだか深刻に悩んでいたのが馬鹿みたいに思えて来る。元々の目的は彼女を喜ばせることだったのだから、もう何でもいいかと肩の力を抜いた。
「悠乃」
「何?」
「ただでさえ少ないのに俺が食べたら殆どないだろ。ほら」
蒼は箸でハンバーグを分けると、そのうちの一切れを掴んで悠乃の口元に差し出した。
「いいよ。せっかく自分で作ったんだから食べなよ」
「へえ? 悠乃は俺が作ったものが食べられないのか?」
「そんな訳ないけど」
「それともあれか? 悠乃、もしかして自分でやっておいて照れてるのかー?」
蒼がにやにやと笑みを浮かべると、悠乃はみるみるうちに顔を赤くした。むしろ今、よううやく先ほどの自分の行動を自覚したといったところだ。
恥ずかしそうに赤面する悠乃を見ると、先ほどまでの暗い気持ちがいつの間にか消えていくのを感じた。むしろ揶揄いたくてたまらない。嫌われるのを恐れていた癖に、怒らせてみたいなんてすら思った。
「照れてないから!」
そう怒鳴った悠乃が口の前にあるハンバーグを見て口を開ける。それを蒼が口に運ぼうと手を動かした時、図ったかのように玄関のドアが開く音が聞こえて来た。
「帰ったぞー」
速水の声を聞いて咄嗟に悠乃が体を後ろに引く。しかしその距離を埋めるように蒼は立ち上がると、そのまま身を乗り出して彼女の口にハンバーグを突っ込んだのだ。
「ぐ」
「悠乃? 居ないの――」
いつものように速水を迎えることのなかった悠乃を不思議に思った速水は、そのままリビングに足を踏み入れ……そして固まった。
「おお、朝日少年やるなー」
「……」
速水に見られたことに動揺していた悠乃は、更に彼の後ろから入って来た二人の男を見て更にパニック状態に陥った。片や面白そうに悠乃達を見ており、そして片や速水と同様に固まっている。
「あれ、随分早かったですね」
「上手い事片付いたからな。まあコウの機転だが」
「でもおっさんの分も夕飯残ってないんで外で食べて来てもらっていいですかー? 俺達はこのままゆっくり食べるんで」
ようやく蒼の箸が離れると、悠乃は急いでハンバーグを咀嚼しながらどうしたものかと無言の二人に視線を送った。
「あの……兄さん、速水さん」
「お前……悠乃に不埒なことをするなと言っただろうが!」
「えー、これくらいで何言ってんですか」
「そうそう、どうせこれからもっといちゃつくだろうし、これくらいで怒ってたらキリがないとおも……ぐはっ」
「黙れ」
「だからなんで俺を殴るんだ!?」
悠一が殺気立って和也の脇腹に一撃を食らわせる。
一気に騒がしくなった家に、悠乃も自然に笑いながら残りの夕食を口に運ぶ。速水と蒼、和也と悠一の言い争いを聞きながら食べ終えた彼女は、相変わらず速水を挑発している蒼に向かって「ご馳走様」と嬉しそうに笑った。
「蒼君ありがとう、美味しかったよ」
「……そうか」
虚を突かれた蒼はそれだけしか言えなかった。速水の怒鳴り声が聞こえて来るが、蒼はそれを気にすることなく、ふと客観的に部屋の中を見た。
明るい部屋、一人分じゃない温かい食事、騒がしい声、笑顔。どれも以前の蒼の家ではあり得なかったものだった。
今の蒼は、あの頃とは何もかも違う。誰の顔色を気にする必要もなく、出来ないことを恐れることもしなくていい。
「何笑ってるんだ! 大体な、もっと健全な付き合いを――」
「あー、はいはい」
「ちゃんと聞いてるのか!」
怒鳴られているというのに、その時の蒼は緩んだ表情で笑っていた。




