番外前編. できること
バンッ、と鼓膜を叩きつけるような銃声が何度も響き渡る。
警察署内の一室、射撃訓練施設では蒼が銃を構えて離れた的に目がけて発砲していた。彼の傍には悠乃がついており、彼女は撃ち終えた的を見てどうしたものかと首を傾げている。
「……うーん、ちょっと撃つのが早すぎるのかな」
悩むようにそう言った悠乃に蒼が眉を顰める。悠乃に苛立っているのではない、彼も碌に中心に当たっていない的を見て上手く行かないことに不機嫌になっているのだ。
「蒼君、どうしても照準を完全に合わせる前に撃っちゃうよね」
「なんか狙いを定めるのがまどろっこしいんだよ。そんな時間あったら近づいて確実に当たる距離で撃てばいいっていうか」
「それもう銃の意味ないよ……」
呆れた顔をした悠乃から顔を逸らしてもう一度銃を構える。しかしまたもや銃弾は的の端ぎりぎりを掠めただけで、蒼は思わず舌を打った。
「蒼君も銃が嫌なら木下さんみたいに接近戦用の武器を使う?」
「別に銃が嫌な訳じゃない」
ただ当たらないだけだ。
蒼は銃自体はむしろ好きだ。それはごく普通の男子高校生らしく、かっこいいからというそれだけの理由でしかないが。
蒼はちらりと悠乃を窺う。どうやって教えたものかと悩んでいる彼女の射撃技術はこの部署の中でも上から数えた方が早いと和也が言っていた。それだけの才能があったのか努力の結果か。恐らくどちらもなのだろうが、生憎蒼は射撃の才能もなければ、悠乃のようにひたすら何年も努力を重ねて来た訳ではない。
普段なんでもできるなんて言っている手前、ここまで上手くいかないものがあると腹立たしい。そんな蒼の心情を見抜いたのか、悠乃は「今日はここまでにする?」と口を開いた。
「もう暗いし、きっと速水さんも待ってるよ」
「そーいやおっさん今日非番か」
「うん。書類仕事も終わってるしそろそろ帰ろう」
新人である蒼の教育に力を入れている為、最近の悠乃はそこまで大きな任務は与えられていない。そのためある程度仕事の時間を自分で決められるのだ。
しかしながら蒼は飲み込みが早く、元々身体能力も優れている為早々に教育係もお役御免になりそうな空気である。そんな中、唯一蒼が手を焼いているのがこの射撃訓練だった。
「速水さん、ただいま帰りました」
「おっさんただいまー」
そして今、蒼は悠乃達と同じ家で生活している。仕事の関係もあるが、何より今まで蒼が住んでいたアパートでは防犯性が著しく低い。特殊な魂を持つ蒼が寝ている間にあっさり攫われたりしたら大変なのである。
「二人ともお帰り。夕飯食べるか?」
「はい。……ビーフシチューですか?」
「正解」
家に帰って早々にキッチンから漂ってくる食欲を刺激する匂いに悠乃の表情が緩んだ。
にこにこと上機嫌な悠乃は「私が準備するので二人は待っててください!」と張り切ってキッチンへと入っていく。その後ろ姿を見送りながら、蒼はソファに腰掛ける速水に向き合うように座った。
「どうだ朝日君、仕事には慣れて来たか?」
「どーせなら早く外の仕事がしたいです。書類とか訓練ばっかりで正直退屈というか」
「最初なんだから少しは我慢してくれ。そのうち嫌でもそういう仕事が来るからな」
速水の言葉に返事をしながらも、蒼は彼を見ていない。蒼がキッチンで忙しく動き回る悠乃を目で追っていることに気付いた速水は、何かあるのかと不思議そうに首を傾げた。
「悠乃がどうかしたのか?」
「やけに機嫌がいいなって思っただけです」
「ああ、ビーフシチューだったからじゃないか? 悠乃はあれが好きだし」
「前に来た時も作ってたけど、おっさんってあれしか作れねえの?」
「そういう訳じゃないぞ。料理は趣味だしな」
流石アラフォー独身男、と蒼が心の中で呟く。
「ただ……確かにビーフシチューの頻度が高いのは確かだな」
速水は悠乃に目を向ける。そして彼女がこちらの話を聞いていないことを確認すると、少々体を前に傾けて声を落として話し始めた。
「あれはな、昔俺が悠乃を引き取って初めてあいつに作った料理だったんだ。その時、それまでずっと暗い表情や泣きそうな顔しかしてなかった悠乃が、食べた瞬間本当にちょっとだけだけど笑った」
「……」
「それが忘れられなくてな。だからついつい非番の日はビーフシチューにしてしまうんだ」
速水が再度悠乃を見る。懐かしそうに目を細めた彼には、その当時の悠乃の姿が蘇っているのかもしれない。
穏やかな表情をする速水、しかし彼を見る蒼は少々不機嫌だった。いや不機嫌というよりも、何となく胸の中がもやもやするような消化不良を覚える。速水が自分の知らない悠乃を知っていたからだろうか。
「……そこまで独占欲強いはずじゃねえんだけどなあ」
「何か言ったか?」
「別に。おっさんの作った夕飯が楽しみだなーって言っただけです」
蒼が言ったことが嘘だということは速水にも分かったが、彼は特にそれ以上追及することはなかった。むしろ他の部分が引っ掛かった。
「ところでずっと思ってたんだが、お前いつまで俺のことをおっさんで通すつもりだ。一応お前の上司なんだが」
「じゃあお父さんの方がいいですか?」
「全力で却下する」
へらへら笑う蒼の言葉に、速水の顔が思い切り顰められた。
「蒼君、ちょっといい?」
その数日後。悠乃が蒼にそう声を掛けて来たのは、彼らが非番を翌日に控える夜のことだった。退屈そうにテレビを眺めていた蒼は、悠乃の声に肘を着いていた顔を持ち上げる。
「何だ?」
「明日なんだけどね、ちょっと私出掛けるから夕飯が遅くなるかもしれないの」
蒼が詳しい話を聞けば、どうやら理緒と会う予定だという。蒼も来るかと誘われたが、彼は即座に首を振る。数か月ぶりに会う友人との時間を邪魔しようとは思わないし、そもそも蒼が着いて行けば以前のように理緒から煩く突っかかられるだけだ。
「それで悪いんだけど、帰りが遅くなったら何か買って帰ることになると思うの」
「別にそれはいいけど……」
悠乃が家事よりも自分の予定を優先することは珍しい。というよりも家事に関わらずあまり我が儘を言うことがない。その辺りはあのことが原因なのだろうが、最近は徐々に緩和されつつある。恐らく兄と和解出来たのが一番大きいのだろうと蒼は思っている。
別に夕飯が何であろうと蒼は文句をつけるつもりはない。以前の生活に比べたら温かい食事が普通に食べられるだけで十分だ。
蒼は悠乃の言葉に頷こうとして……しかし口を開きかけた所で一旦それを閉じた。そして僅かな思考の後改めて彼女を見る。
「いや、買って来なくていい」
「え?」
「明日は俺が作っとく」
「……ええ?」
ぽかん、と悠乃が口を半開きにする。おかしなものを見るように凝視された蒼は少し不機嫌になって「なんだよその反応は」と軽く悠乃を睨んだ。
「だって、蒼君今までそんなこと一度も言わなかったし……それに、あの、作れるの?」
「俺は何でも出来るって言ってるだろ。それに一応俺は一年半一人暮らししてたんだけど」
「そういえば、そっか」
蒼の言葉にあっさりと納得する悠乃。実際には一度も碌に自炊なんてしたことがなかったとはあえて言うことはなかった。
「それじゃあお願いしてもいい?」
「ああ。……何でそんなに嬉しそうなんだよ」
蒼に微笑んでそう言った悠乃に蒼が首を傾げると、彼女は当然のように「だって」と口を開く。
「蒼君の作るご飯、楽しみだなーって!」
「映画面白かったね」
「うんうん。途中でどうなるかと思ったけど、綺麗に終わったよね」
翌日、悠乃は久しぶりに会った理緒と共に映画を見ていた。事前に二人が見たいと思っていた、最近話題のファンタジー映画だ。
映画館を出ると時刻はもう午後四時である。昼前に待ち合わせてランチを食べ、そしてその足で映画を見た。そして今からは理緒のおすすめのカフェに寄る予定だ。
「でさー、せっかくの春休みだっていうのにすっごい量の課題が出たんだよ。それも各教科から! まったく課題出さなかったのなんて氷室先生ぐらいだよ」
「氷室先生は体育担当だから……」
「いくら来年受験だからってやってられないよ」
理緒達はもう春休みに突入しているらしい。春休みという言葉に懐かしさを覚えた悠乃は、理緒の愚痴を聞きながら半年ちょっと通っていた高校を思い出して感慨に耽った。
「それで悠乃の方は……あれ?」
「どうしたの?」
大きな交差点で信号待ちをしていると、不意にしゃべり続けていた理緒の言葉が途切れた。悠乃の後方を見つめる理緒に釣られて悠乃が彼女の視線を追いかけると、道路を挟んだその先にごく普通に歩く男女の姿があった。
「あれ朝日じゃん」
「え……」
遠目に見える男は、確かに理緒の言う通り朝顔を見たばかりの蒼だ。しかしその隣にいる女性――恐らく女子高生だろう――は全く見覚えのない人間だった。
メイクは派手だが、元々の容姿も中々整っているらしい茶髪の少女。彼女は蒼に何か話しかけているようだったが、少しすると不満げに彼から離れて行った。
「あ、他の男にも声掛けてる。ただの逆ナンか」
「そう、みたいだね……」
「あいつ、相変わらず顔だけはいいから……悠乃? どうしたの?」
突然理緒が悠乃の顔を覗き込んだ。やや俯き気味の悠乃を心配そうに見た理緒は何かあったのかと首を傾げる。
「なんでもないよ」
「本当に?」
「本当に!」
「ならいいけど……」
信号が青に変わる。若干納得していない様子の理緒に誤魔化すように笑った悠乃は、横断歩道を渡りながら再度蒼の方を振り返った。
しかし蒼の姿はもうどこにも見当たらなかった。
二人が到着したカフェは混雑時が過ぎたからかいくつか席が空いていた。すぐに案内された席に腰掛けた悠乃達はそれぞれ飲み物を注文してすぐに会話を再開させる。次から次へと出て来る話題に一向に会話は途切れない。
「そういえばさー、朝日って今悠乃と一緒に働いてるんだっけ」
「そうだよ」
理緒は多少の事情は知っているので以前にそのことも電話で話したことがあった。悠乃が頷くと、彼女は少し考えるようにした後複雑な表情で「あいつが警察とか色んな意味で逆な気が……」と小さく呟いた。
「悠乃が居なくなってから朝日もすぐに学校辞めたでしょ? だから学校で色々噂になって」
「噂ってどんな?」
「あの朝日蒼が一人の女に滅茶苦茶惚れこんでとうとう後を追いかけたって。噂っていうかうちのクラスじゃむしろ皆当たり前にそう思ってたけど」
「え」
さらりと告げられた言葉に悠乃の顔が熱くなる。いや実際には事実とは異なるのだが、しかし蒼と悠乃は付き合っているので一概に間違いとも言えなくもないというか。
「え、何その反応。……悠乃、あんたまさか朝日のことホントに好きになったんじゃ」
「何というか……えっと」
あれから何度も理緒とは電話もメールもしていたというのに、悠乃はなんだか気恥しくて蒼のことを伝えていなかった。テーブルに両手を置いて前のめりになる理緒に、悠乃は目を泳がせて小さく頷いた。
「はあー、まさか本当に」
「好きというか、付き合ってるというか……」
「……んんっ!?」
紅茶を飲もうとした理緒が思わず噴き出しかけた。慌ててティーカップを置いた理緒はその場に立ち上がって思い切り悠乃の両肩を揺らし始める。
「聞いてないっ! いつから!?」
「り、理緒ちゃんちょっと」
「どっちから告白したの!?」
席が空いているとはいえ客が居ない訳ではない。周囲の注目を浴びた悠乃は先ほどとは違った理由で赤面し、必死に理緒を宥めた。
ようやくの思いで理緒を座らせた悠乃は、疲れたようにコーヒーを一口飲んでから顔を上げて、期待の籠った目で自分を見る理緒と目を合わせた。
「で、どっちから?」
「……私、になるかな」
「え、意外!」
「あの事件の後、蒼君しばらく意識がない状態だったんだけど……その時に言ったのが聞こえてたらしくて」
「狸寝入りってこと?」
「そうじゃないんだけど、覚えてたみたい」
蒼の詳しい事情は話せないので曖昧に答えると、理緒もそれ以上は尋ねることなく頷いた。
「あー、じゃあさっき落ち込んでたみたいだったのは朝日がナンパされてたからなのか」
「……そう、なるかな。蒼君はモテるから仕方ないけど」
悠乃は小さく溜息を吐いた。ちょっとナンパされたくらいで一々嫉妬していてはキリがないのは分かっているのだが、分かっていてもどうしようもないこともある。
「でもさー、いや悠乃がそれでいいならいいんだけど……」
「?」
「あのさ、悠乃って朝日のどこが好きなの?」
あの性格を許容できるほどいいところある? と歯に衣を着せぬ物言いをした理緒に悠乃は思わず苦笑した。彼女の蒼に対する印象は相変わらずのようだ。
「色々あるけど」
「色々あるんだ……」
「例えば……優しい所かな」
笑顔で言った悠乃の言葉に、「へー、それで本当は?」と全く信じなかった理緒が即座に聞き返したのは余談である。




