57. 誘拐
「当主様、例の少年を連れて参りました」
「ほう、そうか」
虹島家の中でも奥に位置する当主の部屋。そこから隠し扉を通ってようやく辿り着くその広い部屋で、自身の使役する悪魔に呼ばれた当主は待っていたかのように振り返った。
老人が見下ろす魔法陣の敷かれた床には、悪魔に放り出された少年が目を閉じて倒れている。ぐるぐると体を乱雑にロープで縛られているその少年を満足気に眺めた彼は、悪魔に対して一人だけその場に残るように指示をして後の二人を退室させた。
「さて……まずは起きて貰わねば」
「言われなくても起きてるっての」
蒼を起こそうと残った悪魔が彼に触れようとするが、その前に倒れ伏していたそれが平然と声を上げた。
「お前……起きていたのか!?」
「ふあ……寝不足だったからちょっと寝てたけどな」
呑気にそう言った蒼が大口を開けて欠伸をしながら体を起こす。足は縛られていなかったのであぐらを掻くように座った彼は、驚く悪魔を無視して挑戦的な目を目の前の老人に向けてみせた。
「それで? 理事長ともあろう人が、俺なんかの一般人をこんな所に攫ってきて一体何の用なんですかねえ?」
「……はは、懐かしいな。その顔、今まではっきりとは覚えていなかったが実際に見ればすぐに思い出す。……おい、こいつの魂はどうだ?」
「はい。とても普通の人間とは思えないものです」
「成程成程。やはり……成功していたのか」
にたにたと嫌らしく笑いながら蒼を観察する。それに対して蒼はへらへらと軽薄な表情を浮かべているが……その本心は全く別の場所にあった。
「さっさと帰して欲しいんですけど。これでも俺、学年主席の優等生なんですからー」
「まあそういうな。せっかく十七年振りに来たんだ、ゆっくりしていきなさい。君は覚えているのか分からないがね」
ほら、と当主は部屋の中を示す。広い部屋の中でも一際目を引く床の大きな魔法陣、雑に積み上げられたレポート、所々に残る血痕。それらを示した彼は「覚えていないかね?」と蒼に視線を戻した。
「君は十七年前にここで生まれ変わったのだ。言わば儂が君の生みの親だと言っても差し支えない」
「……ばっかじゃねえの。俺に親なんていねえよ」
「そんなことはない。君の両親はちゃんといた。母親はこの場所で君に殺されたがな」
「……」
「父親からどこまで聞いているのか知らないが、うちを恨んでいるのならある程度は知っているということだろう?」
「聞いたんじゃねえ。……最初から全部覚えているだけだ、当主サマ?」
「ほう」
笑みを消して蒼が当主を睨む。僅かに殺気を含むそれに悪魔が動いたが、すぐに当主が片手でそれを制した。
「では、久しぶりと言おうか。悪魔のアオ君。君の名前は私も憶えやすかったよ」
「そりゃあどうも」
「人間になった気分はどうだ? 現在悪魔としての力はどれほど使える? 容姿も悪魔よりになっているようだがいつ頃から変化を? それから――」
「黙れ」
いきなり捲し立てるように話し始めた当主の言葉を無理やり断ち切る。駄目だ、と僅かに冷静な思考が言う。いつものように腹の探り合いでもして警察が来るまでの時間稼ぎをすればいいというのに、どうにも余裕がなくなりつつある。
「そんなの俺が答える義務はないね」
「他に同じ人間などいないのだから君が答えなくては困る。君の後に何人か同じ実験を行ったが、全員死んでしまったのでな」
「てめ」
「見知らぬ人間の生死など気にするのか? 悪魔にしては変わったやつだ」
当主は勘違いをしている。彼は人間としての蒼の人格が完全に悪魔に乗っ取られていると思い込んでいるのだ。他人とはいえ、またしても“蒼”としての存在は否定された。
しかし蒼は既にそのことに対して何も思うことはない。悪魔も人間も、蒼自身と……そしてもう一人が理解していればそれでいい。
「まあいい。君が答えないのならば仕方がない。では、次の実験に移ろうか」
「実験だと」
「そうだ。君は魔法陣についてどこまで理解している? 描く術式の意味を把握しているのかな?」
いきなりなんの話だと蒼はその真意を探るように当主を見上げる。しかしその表情の意味は分からない。最近楓や悠乃のような分かりやすい人間とばかり接していたものだから観察眼が鈍ったのかもしれない。
「ある程度は理解しているが、それが?」
アオとしての悪魔の知識はあるが、魔法陣は元々人間が作ったものだ。丸い円の中に掛かれた模様には全て意味があり、少しでも間違えると召喚は成功しない。
契約や贄などの重要な部分の術式はどんな悪魔も理解しているが、それ以外の細かい内容は蒼も知らない。召喚を安定させるものだったり言葉を通じさせるものだったりと知らなくても契約に影響がないからだ。
「魔法陣が作られた当初の文献も消失し、今の人間は魔法陣が何であるか殆ど理解しているものはいない。しかし儂は長年の研究でいくつかの術式の解析を成功させた」
「自慢話はいらねーです」
「そして新たな術式を作り出したのだ。例えば、強い力を持つ悪魔を引き寄せる魔法陣。これを使って、今度は更にお前に――」
「当主様」
老人の言葉が開かれた扉の音と声に遮られた。それに機嫌を悪くした当主がじろりと入って来た男――先ほど蒼を捕まえた悪魔の一人を見ると、彼は無表情で淡々と用件を告げる。
「侵入者です」
「なんだと?」
「玄関にて悪魔のうち二名が交戦中です。いかがなさいますか?」
「さっさと潰せばいいだろう。何を聞くことがある」
「いえ、中々手こずっているようです。侵入者は警察と名乗り、この家にそこの少年が攫われたと言っているようです」
その言葉を聞いて当主の表情が歪む。虹島にとって警察は相性が良い訳がない。政治的にも経済的にも常に虹島の足を掬うタイミングを待っているのだから。
まして蒼を攫ったのは悪魔だ。それを確認出来たということは。
「調査室のやつらか。面倒な」
「あれ、やっと警察来たんですかー? これで怖―い誘拐犯ともお別れですねえ。偶然俺が捕まるのを目撃して、それが悪魔を見ることが出来る人間だったなんて本当にラッキーだ」
「貴様、図ったな」
「さて、なんのことやら」
「……楓か」
蒼が警察と繋がっていたことを確信した当主が歯噛みするがもう遅い。舐め切って油断していた孫に一矢報いられたなど屈辱でしかなかった。
「……お前だけ残って、後の悪魔は全員で警察を蹂躙しろ。どんな手段を用いても構わない」
「了解しました」
最初からこの部屋で待機していた悪魔だけを残し、他の五体の悪魔に警察の対応を命じる。既に交戦している以上、これから穏便に警察を追い返すことなど不可能だろう。
焦りもなく悠々と返事をした悪魔は、入って来た時と同様に特に急ぐことなく静かに部屋を出て行く。
「愚鈍な」
「主の癖にホントに人望ねえの。少しはお孫さんを見習ったらどうですかね」
「そんなもの必要ない。さて、続きを行うか」
「続き?」
「言っただろう、強い力を持った悪魔を召喚すると。それを再びお前に融合させる」
「な――」
「今度は一体どんな風になるだろうな。力が強まるだけか、人格が奪われるか。それとも今度こそ器が耐え切れないか。儂を嵌めた貴様が死のうが今度はどうでもいいがな」
くく、と小さく歪んだ笑みを浮かべた当主は衣服に隠されていた右腕の袖を捲り上げる。そこには四つの魔法陣が腕を覆いつくしていた。ちらりと蒼が確認すると、そのうちの三つは発動中のもの。そして残りのもう一つを当主は楽しげに撫でてみせた。
「警察に追い詰められてるっつーのに随分余裕だな」
「何、どうせ警察など大した戦力もないだろう。昨日の今日で五体の悪魔の対抗するような人材など用意できるわけもない」
「……」
それはどうかな、と蒼は俯いて小さく笑った。
「万が一この部屋を見つけ、そして侵入を許したらその時はそいつらを贄にすればいいだけのこと。本来はこの悪魔を贄にしてみようと思ったが、まあどちらでもいい」
「……!?」
当主の背後に控えていた悪魔の目が大きく見開かれる。その為に残されたのかと酷く驚いた様子の悪魔を視界の端に捉えた蒼は、僅かな同情を覚えて当主を見上げた。
「初耳っぽいけど」
「別に一々断る必要などないだろう。初めから私の命令を聞くのが契約だったのだから」
「……」
何か言いたげな悪魔をまるで見る様子もなく、当主は棚から小さなナイフを取り出した。
「さて、一体どれほどの悪魔が来るか」
鞘から抜かれ銀色の刃が顔を出す。蒼はそれを見た瞬間、警察は間に合わないと判断して立ち上がった。途端に、今まで蒼を拘束していたはずのロープが力なく床へと落ちていく。
「いつの間に……魔術か!」
「あんた、人間を舐めすぎじゃねえの」
蒼がロープを切った方法は魔術などではない。というよりもそもそもアオならともかく蒼はそんなこと出来ない。予め攫われることは分かっていたのだ、単純に制服の袖口にナイフを忍ばせていただけである。
自由の身になった蒼は、彼に目を向けた所為で手を止めてしまった当主に向かって一気に走る。悪魔が邪魔をするかと思ったのだが、しかし彼は、その場から一歩も動かなかった。
自分を助けない悪魔に驚く当主に蒼は笑った。自業自得だとナイフを叩き落そうとした蒼は、けれどその直前で背後から聞こえた爆音に思わずその手を止めて背後を振り返ってしまった。
それが命運を分けてしまったのだ。




