56. 突入
いつもと同じ時間に蒼は家を出た。
「ふあ」
大きな欠伸が出る。昨日は結局一睡もしなかった為随分眠いのだ。あまり早く速水に伝えては思い直されても困る、しかし警察の準備が出来るくらいの時間はいる。その辺りを考慮して結局明け方に電話してしまったが、寝起きの所為か酷く不機嫌な第一声につい笑ってしまった。
しかし速水の反応は蒼の予想とは違っていた。反対されるだろうとは思っていたが、その理由が予想外だったのだ。てっきり蒼が信用できないから警察を動かす訳にはいかないと言われると思っていた。
「あのおっさんもお人よしだよなあ」
悠乃のことを言えない、と苦笑しながら蒼は然程時間も掛けずにいつも通り高校の正門前へと到着する。他の生徒もちらほら登校しているのが見える中、蒼はあえて警戒することなく鼻歌でも歌いそうな気軽さで歩みを進め、そして不意に目の前に現れた複数の足に顔を上げた。
「朝日蒼だな?」
「そーですけど」
蒼が顔を上げた先にいたのは三人の悪魔だ。人間に化けている訳でもない、本性をそのまま表している彼ら。蒼を取り囲むようにしている彼らは他の人間には見えていない。
「一緒に来てもらおう」
「やなこった」
感情の籠らない声で告げられた言葉に蒼は揶揄うようにそう切り返してにやりと笑った。直後、捕まえようとする手を振り切って蒼は一目散にその場から逃げ出したのだ。
あえて人気のない方向へと走る。結果は同じだとしても従順に従うなどすれば怪しまれることこの上ない。あくまで蒼は“誘拐”されなければならないのだから。蒼は悪魔達から逃れるように、しかし撒かない程度の速度で走り第三校舎の裏までやって来た。木々が生い茂っているこの場所は、確か以前悠乃と共に魔獣を倒した場所だ。
「待て!」
疲れたように息を切らしてスピードを緩めれば、すぐに蒼の体は俯せに地面に倒されて押さえつけられる。「放せ!」と形ばかりの抵抗をしていると後頭部を強く殴られて意識が混濁した。
「っ……」
痛いものは痛い。反撃したくなるのを必死に堪えて、蒼はぐったりと力を抜いて目を閉じた。意識は辛うじてあるが、それでも今にでも本当に気絶してしまいそうだ。
「気絶したか。さっさと当主様の所へ運ぶぞ」
蒼は悪魔達に運ばれるように体が浮くのを感じながら意識を途切れさせないように集中した。作戦は、今のところ順調だ。
悪魔達は人が居ない道を選んで最短距離で本家へ向かう。悪魔は見えなくても蒼は普通に一般人に見えるのだ。下手に見つかって厄介なことになっても困ると慎重に蒼を運んだ彼らは、本家に到着するとようやく一仕事終わったとばかりに息を吐いて蒼を家の中へと連れて行った。
「……」
悪魔達は気付かなかった。その場に人影は無くても、校舎の窓からひっそりと彼らの様子を窺う生徒が居たことを。
「全員集まったな」
「速水さーん、こんな時間から何なんですかー。まだ六時半ですよ」
調査室へ集まったメンバーを見回して速水が頷く。悠乃を始めとして今回虹島の悪魔達に対抗するためにこの場には十人ほどの捜査官が揃っていた。本来一人ないし二人で一つの任務を行う為、人員が少ない調査室ではこれでも異例の人数だ。
悠乃はそわそわしながら文句を言う和也……の隣にいる兄をちらりと窺った。この間電話してから一切話していないのでどうにも緊張する。
悠乃が速水の方を向いた所で今度は悠一が悠乃の方を窺う。そんな二人の様子を見て嘆息した速水は、本題を切り出すべく口を開いた。
「予定よりも早い招集ですまなかった。今日は会議だけの予定だったが変更だ。今日中に当主を捕まえる」
「!? どういうことですか……」
ざわざわと周囲が騒がしくなる。悠乃も同じように困惑しながら速水を見て一体何があったのかと首を傾げた。慌ただしく他の捜査官に連絡を取っていたため彼女もまだ詳細を聞いていなかったのだ。
前にいた三十代の男性、吉川が代表するように片手を上げた。
「時期尚早ではないでしょうか。そもそも今日の会議はそのための対策を考える場だったはずでは」
「事情が変わった。……今日これから、虹島がある少年を捕えようとしていると情報が入った」
「速水さん、それって」
「情報は回っているだろう。我々に情報提供してくれている分家の少年だ」
「……あいつ、か」
悠一と和也は思わず悠乃を見た。彼女も蒼のことだと理解して酷く不安げな表情を浮かべている。
蒼が昔実験に使われた赤ん坊だと思い出してしまったのか。悠乃は今すぐにでも蒼を助けに行きたくて堪らなかった。
「朝日少年の保護は?」
「保護はしない」
「どういうことですか」
「少年……朝日蒼にはこのまま虹島に捕まってもらう。彼が捕まったのを確認後、誘拐事件として我々は虹島家へ介入する」
「そんな! いくらなんでもそれではその少年が危険過ぎます!」
表情を変えずに蒼を囮にすると言った速水に、聞いていた面々は驚きと共に不満を口にした。しかし速水は何を言われても静かに首を振り「決定事項だ」と告げるだけだ。
「向こうから正当に突入する理由をくれるんだ。この機会を逃すつもりはない」
「しかし、分家の人間とはいえ民間人を」
「決定事項だと言った。……勿論彼を見殺しにするつもりはない。早急に片付けるぞ、各々対悪魔用の武器を所持して待機だ」
「速水さん、あの」
「悠乃。お前は先にやることがある。朝日君が普段登校する時間は分かるな? 登校時を狙うだろうから、今から学校へ行って朝日君が虹島家へ連れていかれるのを確認したら連絡するんだ」
「……はい」
「いいか、絶対に彼が捕まるのを妨害するんじゃない。今回を逃せばまた被害者が増えるかもしれないんだからな」
いつもに増して有無を言わせない命令に、悠乃は何も聞けずに頷くことしか出来なかった。
「……蒼君」
朝練の生徒に紛れて登校した悠乃は、窓から虹島の家を窺うことの出来る三階の廊下で窓の外を食い入るように見つめていた。三人の悪魔によって蒼が屋敷の中へ運ばれていく。彼らに担がれた蒼はぐったりとしており、気絶させられているらしいことが分かった。
今すぐ虹島家へ突入して蒼を救出したい。しかし悠乃にそれは許されていないのだ。
「虹島家に蒼君が運び込まれました。気絶しているようです」
『そうか、了解。お前も戻って来い』
速水に連絡を入れると悠乃は急ぎ足で階段を駆け下りる。勿論今日は授業を受ける暇などない。元々そのための潜入捜査だったのだから。
悠乃は走りながらもずっと考えていた。どうして速水は蒼を囮に使おうなどと思ったのか。そもそも蒼が攫われるなんて情報、一体どこから手に入れたのか。
情報が正しかったことは今悠乃も見た通りだ。しかしそれを知ることが出来たのは誰だったのか。そう考えて最初に思いつくのは楓かクロだが、彼らが速水と連絡を取るのは基本的に無理だ。小夜子との連絡用にタブレットは置いて来たが、あれに速水の連絡先は登録していない。万が一当主に見つけられた時の為に警察のアドレスは残していないのだ。
「……もしかして」
「戻ったか」
「速水さん、それに……」
高校近くに止められた二つの大型のワゴン車。その車の後ろで何かを話していた速水と兄を見つけた悠乃は二人に駆け寄った。
「これから突入作戦に入る、二手に分かれるぞ。俺達は正面から、お前らは裏口からだ。表から訪問して大人しく容疑を認めれば……まあ絶対にないだろうが、それでいい。向こうが悪魔等で妨害してきたらそのまま迎撃。表の方で悪魔を引き付けるから、その隙に裏から侵入しろ。虹島だけあって屋敷内は広いが……悠乃、お前は昨日から間取り図を見ていたから内部を把握出来ているな?」
「はい。大丈夫です」
「裏から侵入したらそのまま地下室へ向かえ。俺達も悪魔を排除したら後を追いかける。……朝日君のことを頼むぞ」
真剣な表情で悠乃を見下ろす速水に、悠乃はやはり速水がこの作戦を考えたことに違和感を覚えた。何より悠乃は、明け方に速水が誰かに怒鳴っていたのを聞いたのだ。それが突然の予定変更の理由だとすれば、相手はおのずと分かって来る。
「悠一、悠乃のことを」
「分かっています……行くぞ」
「あ……速水さん、ちょっと待って下さい!」
悠一が悠乃を連れて車に乗り込もうとした時、悠乃は足を止めて速水を振り返った。
「悠乃?」
「……速水さん、今回の作戦を考えたのは蒼君ですよね?」
速水が一般人を危険に晒すことを作戦に組み込むなど考えにくい。そうでなくても囮にしたのはあの蒼だ。仮に速水が心を鬼にして今回の作戦を考えたとしても、予想外の行動を起こす可能性が高い蒼を速水がそのまま利用しようと思うだろうか。
悠乃の過大評価かもしれないが、蒼だったら悪魔が三人立ちはだかろうと上手く逃げてしまうのではないかとすら思ってしまう。
「どうしてそう思った」
「蒼君は虹島をどうしても潰したがってます。それも少しでも早く。自分が狙われていると知ればそれを利用しようと考えても可笑しくありません」
当主が蒼のことを思い出せばきっと彼に興味を持つだろう。蒼は復讐ではないとは言っていたが、自分の手で虹島に打撃を与えられるのならばそれを望むのではないだろうか。
悠乃が答えを待つように口を閉じると、速水は僅かに驚いたように目を瞬かせてみせた。
「お前は本当に朝日君のことをよく分かっているな」
「じゃあやっぱり」
「ああ。今朝彼から電話が掛かって来た。これから虹島に誘拐されるから囮にしろ、と」
「あいつが……」
一度だけ蒼に会ったことのある悠一も驚愕の表情を浮かべる。
「どうして蒼君のことを言わなかったんですか?」
少なくともそうすれば速水が批判を受けなかったのではないかと思った。が、彼は悠乃に向かって肩を竦めて苦笑してみせる。
「長々と説明している暇もないし理由を知っても作戦は変わらない。それに悠乃、お前はともかく朝日君がどんな人間か知らないメンバーに話しても余計にややこしくなるだけだろう」
「……言われてみれば」
これから攫われることを知った一般人が、果たして警察に助けを求めるのでもなくこのまま利用しろなんて言うだろうか。普通に考えてそんな考えに至る人間などほぼいない。蒼が例外過ぎるのだ。
「どのみち彼の提案を受け入れたのは俺だ。責任は持つ。だから……頼むぞ」
「はい!」
強く返事をした悠乃に速水も少し安心したように表情を緩め、そして今度こそ二人は車に乗り込んだ。
無線で悠乃達が裏側に回ったのを確認した速水は、玄関近くに止めた車から降りて他の表側を担当する捜査官と共に玄関の前に立ってインターホンを鳴らした。
「……どちら様でしょうか」
暫し時間を置いて出て来たのは二十代に見える若い青年だ。彼は朗らかに笑みを浮かべて速水達を見るが、しかし勿論警戒を緩めることなどない。
「警察だ」
「警察、ですか? この家に一体何の用で」
「先ほど一人の少年が暴行を受けて誘拐されたとの通報が来た。この屋敷の中に連れていかれたとな。中を調べさせてもらう」
「待って下さい。何かの間違いでしょう」
青年は速水達に立ちはだかるように両手を広げ、困惑の表情を張り付けた。
「一体何の証拠があって……」
「目撃者がいると言っただろう。ここの生徒が偶然見て通報して来た。すぐに捜査に入れ」
速水は強引に青年をどかして屋敷の中に入ろうとする。拒否権などない、速水達には捜査する正当な理由があるのだから。
しかし彼が一歩家の中に足を踏み入れた時、困り顔をしていた青年の口が僅かに吊り上げられた。
「……警察も随分お暇なようですね。どうせそんなのただの嘘ですよ。何せ――見えるはずなんてないですから!」
青年の視線の先にいるのは速水達ではない。彼らよりも更に後ろに現れた、大振りのナイフを振り上げる同族の姿だった。
「やれ」
「コウ!」
一番後ろにいた警官――和也を狙ったナイフが振り下ろされる。しかし彼は焦ることなく相棒の悪魔の名を呼んだ。瞬く間に和也とナイフの間に現れたコウは分かっていたとばかりに冷静にナイフを素手で掴み、そしてそのまま握りつぶした。
ナイフを持っていたもの――悪魔の表情が驚愕に染まる。それと同時にコウの右手が悪魔の顔面にめり込んだ。握りしめられたナイフの破片ごと顔に叩き込まれた衝撃に、流石に悪魔とはいえうめき声を上げて顔を押さえる。
「貴様ら……」
「誘拐及び公務執行妨害」
途端に玄関の前に立ちはだかっていた青年の姿が変わる。殺気を色濃く放つ彼は翼を大きく広げ、その本性を見せた。彼は己の魔力で作られた剣を速水に向けると、一瞬の間も置かずに飛び掛かって来る。
速水も既に銃を抜き放っていた。彼は即座に悪魔の頭部に照準を合わせると、剣が迫るよりも早く引き金を引く。
「――制圧しろ!」




