52. 保護
「警察だ! ここに矢代雪菜は――っ!?」
「は、速水さん!?」
悠乃が楓に返事をしようとした直前、突然開かれていた扉から大きな声と共に速水が慌ただしく飛び込んで来た。高校に来るはずのない彼がどうしてここに、と悠乃は大きく目を見開いた。
速水も速水で生徒会室へと入った途端、目の前の光景を見て言葉を詰まらせる。俯せに倒れている女性、雪菜を目に留めた彼は、悠乃の言葉に返事をすることもなく警察手帳を楓に示した。
「あの、あなたは……」
「氷室という教師が金槌で頭を殴られ、そして犯人が凶器を持ったまま校内を逃走していると通報を受けた。……犯人はこの女性で間違いないな?」
楓は速水の言葉を耳にすると酷く困惑した。楓に襲い掛かった理由はともかく、彼の前に氷室にまで怪我をさせていたとは初耳だったのだ。彼は虹島とは一切関係がないというのに何故、と。
「氷室先生が、どうして」
「……君は、虹島楓君だな?」
「そうですが」
「氷室先生が意識を失う前に言ったらしい。“虹島が危ない”と。彼は君が彼女に狙われていることを知っていたようだ」
「な――」
「ここへ来る前に他の生徒に話を聞いたんだが、君は何者かに階段から突き落とされたらしいな。そしてその第一発見者が氷室先生。恐らく彼は犯人……矢代雪菜を見ていたんだろう」
他の生徒というのは理緒のことだろうと悠乃は納得した。恐らく速水は理緒から連絡を受けた後、学校から通報を受けて他の警官と共に高校に入って来たのだ。
言葉を失った楓から視線を逸らした速水は生徒会室の中を観察するように一瞥した。
真っ先に目に入って来るのは倒れている雪菜と楓に抱えられて意識を失っている女子生徒だ。彼女も雪菜に殴られたのだろう、頭を怪我している。
他にこの部屋にいるのは速水を除いて四人だ。悠乃、蒼、そして楓と……。
「見えるのか」
悪魔であるクロ。うっかり彼と視線を合わせてしまった速水は好戦的な表情の悪魔にぎくりと肩を揺らした。
「あんた、もしかしなくても鏡目悠乃の上司か?」
「……どういう事だ」
速水は警察だと名乗ったが何故悠乃のことまで知っているのか。低い声を出して悠乃を見下ろした。
「おっさん、そんな怖い顔すんなって」
「君は黙っていろ。悠乃、説明を」
「すみません、あの……実は」
悠乃は久しぶりに怒る速水を見ながら恐る恐るこれまでの説明を始めた。理緒から氷室が怪我したという話を聞き、速水に伝えてくれるように頼んだこと。悠乃達に襲い掛かって来たクロと交戦し、その際拳銃を使用したこと。途中でクロが離脱し、それを追って生徒会室まで来ると雪菜がクロに殺されかけていたこと。拳銃を見られ説明を求められた為、身分を明かして協力を求めたこと。
悠乃が生徒会室へ来る前の話は楓が補足をして全ての説明を終えると、速水は眉間を押さえながら大きく溜息を吐いた。一体どれだけ事態が動いているんだと。
「ここに来る途中で魔獣に憑依された生徒が倒れているから何があったのかと思ったが……」
「あ! そうだ五十嵐君は!?」
「一緒に来たやつに運ばせた。他の生徒には見えないから怪しまれることもないだろう。……とりあえず、彼女を署に連行する」
速水は倒れていた雪菜を肩に担ぐと生徒会室を出て、すぐ外にいたらしい二人の部下に彼女を引き渡す。救急隊員をここに寄越してくれと一言告げた彼は再度室内へ戻り、楓の傍に膝を着いて気絶する女子――小夜子の様子を窺った。
既に出血は収まっている。しかし頭の怪我だ、下手に動かすのはまずいだろう。
「楓様……?」
「小夜!」
応急処置だけでもしておこうと速水が小夜子の頭に触れると、それに反応するように彼女の目がゆっくりと開かれる。ぼんやりとした様子でうろうろと視線を彷徨わせた彼女は、目の前にいる楓を見て全てを思い出して体を起こした。
「ご無事ですか!?」
「急に動くな! 怪我してるんだぞ!」
「小夜子、楓は大丈夫だから大人しく寝てろ」
すぐさま楓とクロに諫められて小夜子は横になる。しかしすぐ傍に見知らぬ男がいることに気付いた彼女は警戒するように距離を取って鋭い視線を向けた。
「誰ですか」
「小夜、この人は怪我の手当をしようとしただけだから落ち着いてくれ」
「でも……」
「説明はこれからする。だから先に応急処置だけさせてくれ」
「……お願いします」
楓の言葉に渋々と従った小夜子に、速水はようやく手を動かす。一度病院で見てもらわないとならないが、今できるだけの処置を終えた彼は再び小夜子を横たわらせた。床だが他に寝かせられる場所もない。
「警視庁特殊調査室、悪魔部門室長の速水だ。悠乃の直属の上司に当たる」
「警察……? 楓様、どういう」
「小夜、彼らはお爺様のしていることについて捜査をしているらしい。鏡目さんもだ。それに矢代先生のことも止めてくれた。……敵じゃない、と俺は思う」
困惑する小夜子にそう説明した楓は、そっと彼女の額を撫でながら悲痛な表情を浮かべた。
「ごめん小夜。本当に、ごめん。俺の所為でこんな怪我を負わせて、怖い思いをさせて」
「楓様……」
「鏡目さん、朝日も。クロが君達を怪我させたのも全部俺が原因なんだ。それに、速水さん。今まで俺が不甲斐ないばかりにお爺様を止められずに、すみませんでした」
「君は……」
懺悔するように次々と告げられる謝罪に速水は目を丸くした。悠乃から楓のことについては報告を受けていたものの、やはり虹島の人間であると少しは偏見を持っていた。しかしいざ本人を目の前にすると、彼の人柄が悪魔を娯楽代わりにしているという祖父とは似ても似つかないことがすぐに分かる。
「お前、ばっかじゃねえの」
頭を下げる楓に、しかし蒼だけは少々冷めた視線を彼に向けていた。
「朝日君、何を」
「全部自分が悪いんですって謝ればいいとでも思ってんのか? お前のそういう所、ホントに腹が立って仕方ない。なあ、お前もそう思わねえの。悪魔さんよ?」
「……」
「しかし、本当に俺が」
「夕霧の怪我は矢代がやったもの。俺のもクロが勝手に暴走した結果。あのじじいのことなんざ、ちょっと血の繋がっただけの赤の他人のやったことだ」
「蒼君」
「誰もお前に止められたなんて期待、端からしてねーって。それなのに俺の所為俺の所為って、ただの自意識過剰だっての」
ふん、と鼻を鳴らすように偉そうに言い終えた蒼に楓は何も言い返せずに黙り込んだ。蒼の言葉は棘がある。けれど、まるで“楓の所為じゃない”と慰めているようにも聞こえるのは自分の都合の良い勘違いだろうか。
「朝日君の言うことはともかく、虹島の当主のことは君の所為じゃない。だが協力してくれるのならありがたい。二人の保護はこちらで約束しよう」
「お願いします」
「保護って、一体何のことですか」
「当主を捕まえるのに協力する条件として、仮に失敗したとしても夕霧先輩とクロさんをこちらで守るという話です」
「何、それ」
悠乃の説明に言葉を失った小夜子はすぐに傍に居る楓に掴みかからんばかりに怒り始めた。
「どうしてあなたはいつも自分を顧みずに……! 楓様が犠牲になるのなら私も」
「駄目だ! 俺には虹島の人間としての責任がある。たとえ何も出来なくても――」
「お前らいい加減にしろ。そういうことは後で考えればいいだろ。大体小夜子、俺が楓を一人で犠牲にするとでも思うのか」
「思わない、けど」
「だったら少し落ち着け。目下の問題を片付けるのが先だ」
クロは小夜子を宥めると、値踏みするかのように悠乃や速水に視線を送る。
「お前らは力を貸せと言った。だがこっちが協力したとして勝算はどれくらいある? 爺さんの悪魔に返り討ちに遭うくらいならこちらが手を貸す理由もないからな」
「……この悠乃が持つような対悪魔用の武器、それらを使って今まで悪魔を対峙して来た面々。それから悪魔憑きの人間も何人か揃っている。後は物的証拠を揃えて家宅捜索が出来れば制圧することが出来るだろう。勝算は十分にあると考えている」
「ふうん。楓、いいのか?」
「俺は構わない、というよりもこちらから協力させてほしい。少しでもお爺様を止める役に立てるのなら断る理由なんてない」
お願いします、と楓が頭を下げていると、ばたばと慌ただしい足音が徐々に近づいて来るのが聞こえて来た。
「救急隊員、連れてきました」
「ご苦労。頭を殴られて先ほどまで意識を失っていた生徒がいる。病院に搬送を」
「は!」
速水の部下と二人の救急隊員が生徒会室へと入って来る。彼らは持ってきた担架に慎重に小夜子を乗せると立ち上がり扉にぶつからないように外へ出ようとする。
「小夜……」
不安げな小夜子に楓も着いて行こうとするが、彼女は静かに手でそれを制した。
「クロ」
「クロも残って。私の代わりに楓様を」
小夜子にとって、悠乃達はまだ信頼できる人間ではない。これから警察と協力体制に入るのならば、お人よしな楓だけでは相手の都合の良いように利用されるだけだと思った。
小夜子の言葉に僅かな逡巡の後頷いたクロは「何かあれば呼べ」と運ばれる彼女を目で見送った。
「小夜を頼みます」
「勿論、民間人の保護は警察の仕事だからな。……虹島君、君もそうだ」
「え?」
「君も当然保護されるべき人間だ。私達も全力を尽くして君達を守る。だから少しばかりでいいから信用してほしい」
「……」
楓は酷く驚いて速水を凝視する。言葉も出ずに黙り込んだ楓に速水は首を傾げたが、そのまま話を続けることにした。
「ところで、君の祖父についていろいろと話を聞きたいんだが一緒に署まで来られないか? あまりこの場に警察が長居することも出来ないからな」
「すみません、それは無理です」
「無理?」
「俺は外出を禁じられています。家でも常にお爺様の悪魔に監視されている。俺が校外に出れば、すぐに他の悪魔が来ると思います」
「――そうか、分かった。この件については後日悠乃を通じて話をさせてもらうことにしよう」
楓を味方にしたと言ってもここで焦っては当主に気付かれるだけだ。速水はそう判断して今日は引き上げることにした。被害者は搬送済み、犯人は既に捕らえて事情も把握した。これ以上本来の意味で警察が留まる理由はない。元々重傷者も居ないため大きな事件でもないのだ。
「悠乃、後は頼む」
「分かりました」
悠乃にそれだけを言うと、速水は楓とクロを気にするようにしてから生徒会室を出て行った。
その直後崩れ落ちるように楓が膝を着いたのを見て、真っ先に反応したのはクロだった。
「楓! どうした!?」
「いや、少し気が抜けただけだ」
楓をひょいっと抱えたクロはそのまま定位置の会長の席に座らせる。そもそも楓も全身怪我だらけなのだ。
「知らなかった。小夜やクロ以外に、助けようとしてくれる人がいるなんて」
「会長……」
小さく呟かれた独り言に悠乃は何とも言えない気持ちになった。
「ところで、そいつは警官らしいけどお前もそうなのか? ますます似合わねえけど」
「俺? 俺はそんなんじゃねえよ」
「じゃあ何なんだよ」
「ちょっとした悠乃の共犯」
重たい空気を跳ね除けるようにクロと蒼が軽口を交わす。悠乃の正体はばらしたものの、やはり蒼は自分の情報を与える気はないらしい。納得できない顔をしたクロの視線も軽々と受け流している。
「朝日、一つ謝りたいことがある」
「また? いい加減にしろって」
「いや、これは本当に俺がやったことだから」
蒼がうんざりした顔を見せるが、楓は首を振って真剣な表情で続ける。
「前に、お爺様に校内に怪しい人間がいるかと聞かれたんだ。その時に、その」
「俺の名前を出したと?」
「……本当にすまない」
「へーえ?」
心底申し訳なさそうに俯く楓を見た蒼は、怒ることも文句を言うこともしなかった。ただ、少し考え込むように視線を宙に彷徨わせただけだ。
「楓、こいつを見たら誰だって怪しいと思うからあんまり気にするなよ」
「酷くね?」
「自分の行動を顧みろ」
「主の命令も聞かずに勝手に暴れた悪魔にそう言われるとはな。……会長さん、少し聞きたいことがある」
「何だ?」
「俺の名前を聞いた時、そのじじい何か言ってたか?」
悠乃は弾かれるように蒼を振り返る。理事長は蒼を悪魔と融合させ、彼の母親を贄にしたのだ。分家も多い虹島とて朝日という名に反応するかもしれない。
「そういえば……聞いたことがある、と言っていたような気がするな」
「本当ですか!?」
「ああ、だけど結局思い出したかどうかは」
「それならいい」
蒼は楓の言葉に満足するように頷く。蒼が生きていると知ればまた彼に関心を示すだろう。完全に思い出したようではないらしい事実に、悠乃はほっと息を吐いた。
彼女は後から知ることになる。この時の悠乃は蒼の言葉の意味を完全に取り違えていたということを。




