50. 罪
「悠乃、先に行け! すぐに追いつく」
血相を変えてあっという間に姿を消したクロ。恐らく生徒会室へと向かったであろう彼を追いかけようと走り出した悠乃達だったが、クロに切り裂かれた蒼はいつものように全力で走ることは難しい。
「でも」
「今の俺の速度に合わせてる暇なんてないだろ! 下手したら……」
クロの様子を考えれば小夜子に、そして楓に何かがあったのは明白だ。そして先ほどの理緒からの連絡を思い出せば、雪菜が楓達に危害を加えようとしたのを察知したと考えるのが妥当だ。
悠乃は切られた体を押さえながら走る蒼を振り返る。自分を置いて先に行けという蒼に悠乃は一瞬躊躇ったものの、叫ぶように続けられた言葉に彼女は彼を置いて行かざるを得なかった。
「下手しなくても、このままだと死人が出る!」
「……小夜、俺も少しはてつだ」
「結構です。ゆっくり休んでいてください」
すっぱりと一刀両断された楓は小さく溜息を吐きながら自分の代わりに仕事を片付ける小夜子を見つめた。あれは自分がやらなければならないことだ。それなのにまた彼女に負担を掛けてしまっている。生徒会室からクロが出て行ってまだ然程時間は経っていない。
「クロは……」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
楓は言いかけた言葉を途中で止めた。先ほど居なくなったクロは一体何をしているのか。
悪魔だと言っても彼が自分と小夜子を大事にしてくれているのは楓も知っている。だからこそ、剣呑な空気を纏った彼が帰って来ないことが不安で仕方がなかった。
クロが楓の所為で誰かを傷付ける、そんなことはさせたくない。
「クロならすぐに戻って来ますよ。それまで私が楓様をお守りします」
「……」
「楓様?」
小夜子の言葉に答えずに楓は爪が食い込む程に手を強く握りしめる。俯いて黙り込んだのを不思議に思った小夜子が手を止めて楓に近付くと、彼女はその手に気が付いて慌てて彼の片手を掴んだ。
「楓様、そんなことをしては手が……」
「もういい」
「え?」
「もういいんだ、小夜」
楓が顔を上げると小夜子は目を大きく見開いた。酷く淡々とした口調とは裏腹に、その表情は今にも泣き出しそうだったのだから。
「俺なんかを守ろうとしなくていい」
「何を言って」
「憎くて堪らない相手を守ろうなんて、そんなことはもういいんだ」
小夜子の父親は虹島の手によって贄にされた。楓を守るという、そんな当主にとっては悪意しかない望みと引き換えに。そして彼女もまた、悪魔憑きという運命に落とされた。
しかし小夜子は静かに微笑むと楓の手を優しく包み、そしてゆっくりと指を開かせて見せた。
「クロにも言いましたが、私はクロや楓様をもう恨んでなんかいません」
「……」
「確かにあなたは虹島の人間ですが、当主がやったことにあなたの意志はこれっぽっちも介入してないじゃないですか。楓様が責任を感じることは何一つ」
「違う」
「え?」
「違うんだ。小夜……俺が悪いんだ。俺があの時……あんなことを言わなければ!」
骨折してギプスを巻かれていた手が机に叩きつけられる。息を呑む小夜子を前に、楓は酷く苦しげに口を開き、吐き捨てた。
「俺の所為で、選ばれてしまったんだ!」
「楓、何を見ているのだ?」
はっと、祖父から投げかけられた言葉に楓は我に返った。にこにこと穏やかに微笑む祖父は今までずっと楓が見つめ続けていた方向を眺め、「ああ」と納得したように頷く。
「あの娘か」
その日は新年を祝う為に多くの分家の人間が本家を訪れていた。来年小学校に上がる年である楓は見たことがない沢山の親類に興味津々だったのだが、しかし彼らは一様に楓を――楓と共にいる当主を見ると震え上がるように萎縮した。その理由を、楓はまだ全く知る由もなかった。
そうして不思議に思いながらも中庭に面した廊下を歩いていると、庭の池で鯉を眺めている一人の少女がいた。赤い着物を着て黒髪を綺麗に結い上げた彼女の横顔を見た途端、楓は一瞬にして他の景色など目に入らなくなったのだ。
綺麗だ、とそれだけが頭を駆け巡りながら、祖父に声を掛けられるまでずっと彼女のことを見つめていた。
「あの娘は確か、夕霧の所の子供だったな」
「夕霧?」
「ああ。楓はあの娘が好きになったのか?」
「べ、べ、べつにそんなこと……」
「お前は嘘が下手だな」
祖父に問いかけられた瞬間その名前の通りに顔を真っ赤に色づかせた楓は、もごもごと忙しなく口を動かしながら小さく否定する。呆れたような、笑うような声でそう言った祖父は再度少女――小夜子に目を向けると、少し考えるようにしてから「楓」と優しく微笑み掛けた。
それが悪魔の――本物の悪魔が聞けば怒るだろうが――微笑みであったことに楓が気付いた時には、全てが手遅れだった。
「楓、あの娘と仲良くなりたいか?」
「……うん」
「なら、お前と一緒にいられるようにしてやろう」
「本当!?」
「本当だとも」
幼い楓は碌に外に出してもらえずに育った。この日のように親類が集まる日でなければ彼女に会えないと落ち込んでいた彼は、祖父の言葉に飛び上がるようにして喜んだ。喜んでいた彼は、続けられた呟きを聞くことはなかったのだ。
「嫌でも一緒にいさせてやろう」
何も知らなかった。虹島の家がやっていることも、祖父が何を考えているかも。幼い楓はあまりに無知だったのだ。そしてその代償はあまりに大きかった。
「俺がお前を好きになったから、あの人はお前を悪魔憑きにしたんだ!」
小夜子が硬直する。楓は絶句した彼女を見て自嘲すら出来ずに唇を噛んだ。
忘れられない、いや忘れることなんて許されない。他の悪魔に武器を突きつけられるクロ、目を開いたまま動かなくなった小夜子の父親、縛られて腕に魔法陣を刻まれる小夜子。「これでずっと一緒に居られるぞ」と楽しげに笑う祖父の姿。
すべて、楓が小夜子を好きになったから起こったものだった。楓を守るという契約でクロと、そして彼の悪魔憑きになった小夜子は楓の傍を離れられなくなった。父親を贄にされた彼女は、虹島に憎しみを抱きながらも楓を守らなければならなくなった。
祖父はただ、面白がってそうしただけだ。好きになった小夜子に恨まれる楓を笑い、憎む楓の傍に居なければならない小夜子を笑う、それだけの為に。楓の命を守ろうとしてそんな契約をしたのではない。実際に楓は、幼い時に一度小夜子に殺されかけたこともあった。
だが小夜子に楓は殺せない。契約によりクロが守るからだ。主である自分よりも楓を守るクロに、小夜子は一体どんなことを思っただろうか。憎むべき相手の傍にいながら何もできずに十年以上過ごして、一体どれだけ苦しかっただろうか。
「俺は、お前に守ってもらう資格なんてない。全部俺の所為なんだから」
「……」
何も言わない小夜子に楓はゆっくりと握られていた手を離す。
「いつか……いつか本当に虹島から解放されたら、クロも自由にしてやれたら。その時が来たら俺を――」
「虹島」
聞くだけでぞわりと怖気が立つような呪いの言葉が吐かれたのは、その時だった。
「あなたは」
「殺す!」
生徒会室の扉が酷く乱暴に開けられ、そこにゆらりと立っていたのは楓の記憶では教育実習に来たという女子大生だった。彼女――矢代雪菜の右手には僅かに血の付着した小さな金槌が握られており、彼女は鬼の形相でそれを振りかざして楓に向かって突進して来たのだ。
「楓様!」
彼女が楓を突き落とした人物だと悟っても遅い。楓の傍に立っていた小夜子が反射的に庇って前に飛び出すが、既に氷室を怪我させてしまっている雪菜はもう止まらない。そのまま小夜子は金槌を振り下ろされ、悲鳴も上げることなく血を流して倒れた。
「小夜!」
「……クロ」
意識を失いそうになりながらも必死にクロを呼ぶ小夜子だが、楓の目前に迫った雪菜を止めることは出来ない。「死ね!」と叫びながら振り下ろされた金槌を咄嗟に腕で庇った楓だったが、しかしその激痛とこれまでの怪我で立っていることが出来ずにそのまま床に倒れ込んでしまう。
追い打ちを掛けようとする雪菜が倒れた楓の後頭部を狙うが、寸前のところで楓は振り落とす直前の彼女の腕を掴んだ。
ぐぐぐ、とお互い力で押し合う。非力な女である雪菜と、男ではあるが怪我をしてさらに体勢の悪い楓の力は拮抗して金槌は動かない。
「死になさいよ! 虹島の人間なんて全て居なくなればいい!」
「……っあなたは」
目の前に迫る金槌を押さえていた楓の顔に暖かいものが降って来る。それは、雪菜の涙だった。
「あの人が殺されたのに何でのうのうと生きてるの! あの人を殺した罪を償いなさいよ!」
「……」
雪菜が何故虹島を憎んでいるのか。それは楓にもすぐに分かった。その人物は分からないが、とても大切な人間を殺されたのだと。
虹島に生まれた以上、祖父を止められない楓にも罪はある。彼はそれから逃げるつもりもないし、償いたいという気持ちもある。
……だが、それでも楓は抵抗した。彼女に殺される訳にはいかなかった。
「償いが必要ならばいくらでもする。どんな罵倒も侮辱も受け入れる……だが、俺の命だけは渡せない!」
「やっぱり薄汚い虹島の人間ね! 他人の命は好きにしておいて自分だけ命乞いするなんて!」
怒りで雪菜の力が強くなるが、しかし楓もなんとか耐える。今までクロと小夜子が守って来た命だ。彼女の気持ちも痛いほど分かるが、それでも。
「何とでも言えばいい、この命は俺のものじゃない! 俺の命は――ずっと昔から小夜のものだ! あいつに殺されるまで、他の誰であろうと渡す訳にはいかない!」
「楓、様」
「よく言ったな、楓」
瞬間、楓の腕に掛かっていた重みが一瞬にしてなくなった。視界から消えた雪菜の姿を目で探すと、すぐ傍の床に転がされ、クロに押さえつけられている彼女を見つけた。
色濃い殺気を放つクロは片手を雪菜の首に、そしてもう片方の手は、鋭い槍を構えていたのだ。
「な、なに」
「色々あって本調子じゃねえけどお前を殺すくらいなら簡単だ。……ああ、まあ簡単には死なせねえけどな」
って聞こえてねえか、と感情の籠らない声でクロが呟く。雪菜にはクロの姿も声も認識できていない。だが突然見えない何かに首を強い力で押さえつけられ、碌に息も出来ずに苦しんでいる。持っていた金槌は弾き飛ばされ、武器もなく抵抗も出来ない。
「クロ……」
「小夜子、お前は少し休んでろ。その間にじっくりと痛めつけてやる」
「止めろ、クロ!」
今にも雪菜をずたずたに引き裂こうとしているクロに、楓は痛みを押して立ち上がった。しかし苛立った目が楓に向けられると、彼はそこから動けなくなった。何かの術ではない、それほどの気迫だったのだ。
「何故止める? お前を殺そうとしたこの女を生かす必要なんてないだろ?」
「この人はうちの所為で……」
「だからなんだ。それでお前を殺すことが正当化されるとでも? されたとしても関係ないがな。楓と小夜子を傷付けた以上、こいつに生きる資格なんて与えない」
クロは楓から目を離すと再び目の前の雪菜に向き直る。怒りすら浮かべていない無表情で彼女を見下ろした彼は、何の躊躇いもなく槍を振り上げ、そして楓の声など耳を貸さずにそのまま彼女へ振り下ろす。
しかし、槍の切っ先が彼女に触れることはなかった。
「そこまで」
「な」
重い金属音と共にクロの手から槍が離れたのはその刹那だった。一瞬何が起こったのか理解出来なかった彼は、手の痺れと共に傍に転がった刃の折れた槍を見て驚きに目を瞠り、声のした扉の方を弾かれるように振り返る。
「全員、動かないでください」
「鏡目、悠乃!」
そこに立っていたのは、先ほどのように拳銃を構え冷静にそう告げた悠乃だった。
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