48. 不穏
悠一の最後の言葉は、悠乃の心の中でずっと繰り返し繰り返し再生されていた。直前に告げられた言葉とは裏腹な言葉だ。懇願するようなそんな声は今まで一度も聞いたことがないものだった。
「悠乃!」
「おはよう理緒ちゃん、何かあったの?」
翌日、もやもやとした気持ちを抱えた悠乃が登校して教室に入るやいなや、酷く慌てた様子の理緒が話しかけて来た。何があったのだろうかと不思議に思った悠乃は、自分の机へ向かいながら早口で話し始めた理緒の声に耳を傾ける。
「虹島会長が大怪我したんだって!」
「会長が……? なんで」
「分かんないけど、噂では昨日階段から突き落とされたって」
その言葉を聞いて瞬間悠乃の頭の中に黒木の顔が思い浮かぶが、すぐにそれを振り払った。いくら黒木でも楓を怪我させることはないだろう。
周りを窺ってみれば理緒と同様に既に噂は広まっているらしく、そこここで楓のことを話しているのが聞こえて来た。しかし生徒会長だとはいえ、昨日のことだというのに随分と噂が回るのが早いものだ。
「それって誰に聞いたの?」
「朝来てから皆話してたし、それに会長が登校して来たのを見たって人もいるって」
「え、だって怪我したんでしょ? 学校に来てるの?」
「なんかそうみたい。……ねえ、これってあれとは関係あるのかな」
「……それは、なんとも」
理緒が気にしているのは悪魔関係のことだろうが、流石にこれだけの情報では悠乃も判断できない。ただあれだけの所業を成して来た“虹島”なので犠牲になった分家の人間を始めとして恨みを持つ人は少なくないだろうということは想像がついた。
「おーい、お前らそろそろ静かにしろよー」
理緒と話していると、教室の前方の扉から声と共に氷室が入って来る。生徒達がばらばらと席に着き始めると、理緒がふと思い出したかのように「あ」と短く声を上げた。
「どうしたの?」
「いや、ホントの話か分からないんだけど……聞いた噂の中に、会長を見つけて救急車を呼んだのが氷室先生だって言ってたのがあったなあって」
「じゃあ、一応後で聞いてみようかな」
関係あるとは言い切れないが楓は今回の事件の重要な位置にいる人間だ。動向はチェックしておいて損はない。それに悠乃自身としても楓のことは心配だった。
少し遅れて教育実習生の雪菜が教室に入って来てちょうどチャイムが鳴り響く。氷室はちらりと彼女に目をやった後、「もう少し時間に余裕を持ってな」と彼にしては少々厳しい声で言った。
一限目の授業が始まる前に何とか氷室から話を聞こうと思った悠乃だったが、同じように噂を耳にしていた生徒達が殺到して全く話しかけることは叶わなかった。それでも他の生徒に答える氷室の声に騒がしい中必死に耳を傾けていた所、理緒の言う通り彼が怪我をした楓を見つけたのは本当だという話だった。
「先生、犯人の顔見てないんですか!?」
「いや、俺には分からんが……」
「先生の役立たず!」
「すまん……」
随分酷い物言いの生徒もいる。恐らく楓にあこがれている生徒の一人なのだろうとは思うが、氷室は反論もせずに困ったように眉を下げているだけだ。
しかし、氷室が何か言いたげに小さく口を動かしているのをたまたま目撃した悠乃は、何故かその表情が妙に頭から離れなかった。
犯人を見つけたらどうしてくれよう。ひとまず生きていることを後悔するくらいには滅茶苦茶に痛めつける。簡単には死なせやしない、絶望の底に追い込んで魂ごと苦しんでもらわなければ――
「おいクロ、すごい顔してるぞ」
「……当たり前だろうが」
楓に声を掛けられて黒木ははっと我に返った。どろどろとした心中は僅かに静まり、黒木は少しばかり冷静になった頭で周囲を見回す。
生徒会室の中、ここにいるのはいつも通り楓と小夜子と黒木の三人だ。ただいつもと異なっているのは、会長席に腰掛けている楓が大怪我を負っているということだ。
骨折した腕やガーゼを当てられている手足。命に別状はないものの、派手に階段から落ちたとあって酷い有様だった。そんな楓の姿を見ていると再び沸々と怒りが沸き上がってくる。
「楓様! だから生徒会の仕事はしないでくださいって言ってるじゃないですか!」
「いや、利き腕は無事だったし大丈夫だ」
「そんな訳ないでしょう!? 本当ならここにいること自体……」
「分かってる。……だが家よりずっとましだ」
小夜子が机の上にあった紙束を奪い取る。そうするとようやく楓は仕方がなさそうにペンを持つ手を止めた。
こんなに怪我をしているというのに楓が登校して来た理由は簡単だ。家にいるのが嫌で仕方がないからである。家の中では当主と、そして彼の悪魔に常に監視されている楓は普段から自由に外出することすら儘ならない。彼が心を休められるのはこの場所しかないのだ。
楓にとって“虹島”は味方にならない。そして“虹島”を敵視する人間からは――今怪我を負わされたように――敵対される。彼を守ることが出来るのは黒木達だけなのだ。
だというのに楓に怪我を負わせてしまった。彼が小夜子を守ることを望んだ結果だとしても、黒木にとっては屈辱でしかない。
「クロ」
「なんだよ」
「少し落ち着け。お前が今怒った所で犯人が分かるわけじゃないんだ」
「……へえ、随分物分かりがいい優等生な回答だな」
「クロ、楓様に当たるのは止めなさい」
「小夜子、お前もだ。楓が怪我させられたっていうのに何でそんなに落ち着いていられるんだよ!」
「落ち着いてなんかないわよ。……でも、一番苦しいのは楓様だってこと忘れないで」
「いや、俺は」
「楓様は黙って療養してください」
珍しく楓に対しても返答がつっけんどんになっている小夜子に、表に出ていないだけで彼女も相当腸が煮えくり返っているらしいと気付く。楓の手前大人しくしているものの、小夜子は怒ると怖いのだ。
黒木は不機嫌な顔をそのままに、一体誰が楓を階段から突き落としたのかと考え始める。以前自分が牽制の為に悠乃の背中を押したのとは違う、完全に殺す気でやったとしか思えない怪我。変に頭を打たなかったのは不幸中の幸いだった。
頭上から花瓶を落としたのも時期的に考えて恐らく同じ犯人だろう。校内で立て続けに起きたことを考えるとほぼ間違いなくこの学校の生徒か教員辺りだ。黒木の頭の中にいくつかの犯人候補が思い浮かぶ。
「階段から落ちて気を失ってるのを見つけたのは、氷室ってやつだったよな」
「ああ、そう聞いている。階段から落ちる瞬間に誰かに呼ばれたような気がしたんだが、そういえば氷室先生の声だったような気がするな」
「そいつ怪しくないか?」
犯人が第一発見者を装うというのは現実でも小説でもままありそうだ。しかし楓は静かに首を横に振った。
「氷室先生はそんなことしないとは思うんだが」
「じゃあ逆に聞くが、誰ならしそうなんだよ」
「……」
黙り込んだ楓に黒木は嘆息した。しそうにない、という言葉には何の信憑性もないのだ。確かに氷室は分家の人間ではないかもしれないがそれだけでは否定材料にならない。
「というか、なんでお前はまっすぐ戻って来なかったんだ。すぐに戻るって言っただろうが」
「あ」
「どうした?」
「済まない。すっかり記憶から抜け落ちていたんだが、俺はあの時、職員室からの帰りに五十嵐を見かけて追いかけたんだ」
「何だって?」
「慌てて追いかけたんだが、階段を降りようとした所で背中を押されて……」
常人に姿が見えなくなっていると悠乃が告げた五十嵐。魔獣化し始めているという意見には黒木も同意しておりそこに疑問はない。
「なら、楓様を突き落としたのは五十嵐なのではないですか?」
「いや、あいつは前にいたからそれはないと思う」
五十嵐は違うと楓が言う。しかし、である。五十嵐が実行犯ではないとしても、他に協力者がいたとすれば?
先ほど思い浮かべた氷室の他に、黒木の頭の中に悠乃と蒼の顔が過ぎる。彼らは五十嵐の状態を知っており、かつ見ることが出来た。ならば楓に嗾けることも可能だったのではないか。
「……」
生徒会室に授業が終わるチャイムが響き渡る。三年はこの時期もう復習や受験対策ばかりであるし、生徒会を理由にすればいくらかの授業は出なくても文句は言われない。そもそも今の楓は教室へ顔を出すだけで驚かれるだろうが。
黒木は立ち上がるとその姿を変質させて本来の悪魔の姿を取る。放課後になるのをずっと待っていたのだ。生徒が密集している授業中よりも……ずっとやりやすい。
「待てクロ、どこに行くつもりだ」
「ちょっと息抜きに」
楓から目を離したくはない。だが今も校内のどこかで楓を嘲笑っている人間がいるのならば、じっとしてはいられなかった。喋ると反感や注目を受けるので大人しくしていろと言われ、“黒木”である時は極力本性を出さないようにしていたが、本来クロは酷く短気な性格なのだ。
「クロ、あんた……」
「楓を頼むぞ小夜子。何かあればすぐに呼べ」
魔法陣で繋がっている小夜子ならば離れていてもすぐにクロを呼ぶことが出来る。
頷いた小夜子を見た彼はそのまま生徒会室を出て行こうとしたが、再度楓に呼び止められて振り返った。苦々しい顔をする楓に、クロはへらっと笑って見せる。
「頼むから、軽率なことは考えるなよ」
「分かってるって」
「……」
疑わしげな目をする楓を置いて廊下に出る。軽い笑いを見せていた表情は即座に凶悪なものへと変化し、そして彼はその手に自身の魔力で作られた大きな槍を持った。
「軽率なものかよ」
彼にとって、軽々しい気持ちなど一切ないのだから。




