46. 守る
「何でお前はそんなことまで知ってるんだ!」
「だーかーら、分家だからって言ってるでしょうが」
学校帰りの夕方過ぎ、悠乃と共に警察署に呼び出された蒼は速水からの詰問に心底面倒臭そうに言葉を返していた。情報提供者として虹島に関する情報をいくらか話したものの、分家の人間だからと言って何故そこまで詳しいのかと突っ込まれているのだ。
蒼が提供した情報は大きく分けて二つ。一つは当主が複数の悪魔を従えており、分家の人間を贄に好き勝手にやっていること。そしてもう一つは当主の孫である楓の傍に着く黒木が悪魔であるという情報だ。悠乃からしてみれば蒼が情報を持っている理由は理解できるが、蒼は出来得る限り自分に関する情報は出し渋っている為、余計に不自然に映るらしい。
今までは腹の中を探り合うような上っ面の会話が多かった二人だが、今はもう互いに遠慮というものがない。どちらかというと今の方がはらはらすることもないので聞いていて多少気が楽だ。悠乃は少し苦笑を浮かべながら蒼に助け船を出すべく話題を変えた。
「そういえば速水さん、この前言ってた上の方の人達のことはどうなったんですか?」
「……ん? ああ、そのことな。一応何とかした。皮肉な話だが、直前に起きた魔獣の憑依の件が効いたからだろう」
速水は椅子の背凭れに寄りかかるように体を傾けて難しい顔をした。上層部が虹島とのパイプを失いたくないが為に、会議の当初はかなりの非難を受けることになった。
「多方に影響力を持つ虹島が無くなれば多くの人間が困るだろう」などともっともらしい言葉で速水を責める彼らに、速水は内心『この狸どもが!』と叫びたい衝動に駆られていた。今まで分家の人間の死に対して碌な捜査が行われて来なかったことからも相当な賄賂を受け取っていたのだろうが、このまま虹島の当主を放置すればそのしっぺ返しが自分達に返って来ると何故分からないのか。
「今回も分家の人間とはいえ、一介の高校生が躊躇いなく研究とやらに使われました。何の力もない一般人を、です。ならば大きな権力を持つ人間を思い通りにしたいと考えた時、あの当主はそれを躊躇うとお思いですか?」
速水の言葉に、会議に集まった上層部の老人達は騒然とし始める。蒼や月島の言葉が真実ならば、虹島の現当主は深い理由もなく面白半分で他の人間の命を弄んでいるのだ。そこに理由が生じれば、どうなるかは言うまでもない。
「虹島が更に大きな力を持って多くの権力者を操り人形にしてしまう前に、出来るだけ早く手を打つべきです。……異論はありませんか」
あえて自らが標的になるとでも言うように速水がそう問いかければ、ざわざわと騒がしかった会議室は途端に水を打ったかのように静かになった。
「結果的には黙認、ということだな。虹島を排除することに対して手引きもしない。だがこちらの妨害もしない……まあいい方だろう」
疲れたように頭を押さえる速水を見て「中間管理職って大変だなー」と蒼が少し的外れな感想を呟いた。
「ところで悠乃、五十嵐は見つかりそうか?」
「いえ、今のところは。あ、でも実は虹島会長が手を貸してくれると言ってくれました」
「虹島楓が!? どういうことだ」
「会長も理事長のやっていることに不満を持っているようです」
悠乃は楓と黒木と話したことを説明する。五十嵐を何とか助けたいという楓の言っていると告げると、速水はそれが楓の本心なのかとやや疑いを持ったようだ。
「彼が言うことは真実なのか……」
「あいつは悠乃並に嘘とか誤魔化しが下手ですよ」
「それは相当だな」
「速水さん!」
「別に悪い意味で言ってる訳じゃない。正直なのはいい事だぞ?」
警察官としてはどうか、という言葉は速水の胸の内にしまっておく。
「ともかく、虹島楓を押さえられれば傍にいる悪魔も牽制できるな。……一応聞いておくが、彼は魔獣や悪魔が見えるのか?」
「見え、るんじゃないですかね……? 蒼君は知ってる?」
「あれに黒木が憑いてたら当然見えるだろうし、もし夕霧の方が悪魔憑きだったとしても本体の姿が見えないやつをあれだけ信用するとは思えないな。お前と同じなんじゃねえの」
「そうだよね……悪魔のことだって存在を疑ってる感じはなかったし」
「まあ万が一見えなかったとしても黒木がいるから五十嵐を探すのには支障はないだろうよ」
蒼は椅子の上で胡坐を掻くように足を押さえる。そして速水を見て「結局」と億劫そうに口を開いた。
「いつになったら虹島を本格的に潰すんですか? 上を押さえたんならもういいでしょうに」
「俺だってそうしたいのは山々だがな、何分まだ戦力が整ってないんだよ。向こうの悪魔の数も正確には把握できていないし、下手に突っ込んで返り討ちに遭う訳にはいかないからな。おまけに……一番問題なのが、物的証拠が乏しい所だ。分家の人間の証言だけだと弱い、言い逃れされずに完全に潰せる所まで持って行かないといたちごっこになるだけだからな」
「……物的証拠、ですか」
「一番分かりやすいのは現行犯逮捕だが――」
どうしたものか、そう言いかけた速水の言葉が不意に途切れた。
無機質なノックの音が聞こえ、部屋の中にいた三人が同時に顔を上げる。調査室の誰かが帰って来たのだろうと深く考えずに開かれる扉の先を見ていた悠乃は、そこから現れた人物に思わず呼吸を止めてしまった。
「……悠乃、か?」
「兄さん……」
彼女と同じく部屋に入って来た人物――悠一も大きく目を見開いて硬直する。小さく呟かれた言葉に完全に確信が持てていないのは、この兄妹が七年間顔を合わせていなかったからに他ならない。
悠乃もまた、中学生からいつの間にか大人になっていた兄と対面して何を言っていいのか分からなかった。七年前、最後に会った時に向けられた怒りと憎しみの表情は今でも鮮明に蘇って来る。
沈黙が続く中、困ったように二人を見ていた速水が口を開く。ところが彼の言葉は発せられる前に、露骨に作ったような明るい声にかき消されてしまった。
「へえー、あんたが噂の兄貴ってやつねえ」
「……誰だ」
「ただの情報提供に来た民間人Aですが?」
蒼の声に我に返った悠一はその時ようやく彼の存在に気付き、その言葉に込められた嫌味を感じ取って眉を顰めた。
「悠一、彼は悠乃に協力してくれている虹島の分家の人間だ。情報は挙げておいたはずだが」
「分家の……そうかこいつが」
「ところでお前今日はどうしたんだ? まだ任務の途中じゃ」
「終わりました」
「は?」
「だから、全部終わらせて来ました。……速水さん」
悠一は一瞬だけ悠乃を見た後速水に向き直る。そして無表情を張り付けて淡々と告げた。
「これ以上こいつを任務に参加させるのを止めて下さい」
「っ」
息を呑んだ悠乃は悠一の視界には入らない。
「だから、それは前に」
「人が居ないというなら俺が全て引き受けます。それに虹島が黒だと決まった以上、高校への潜入捜査も然程重要ではないはずです」
「悠一」
「複数の悪魔と戦闘になる可能性があるなら尚更、他の人間の足手纏いになるだけだ。悠乃は必要ない」
その場の誰もが沈黙した。悠一が悠乃の任務に口を出すことは今までにもあったが、こうして本人を前にしてこうもはっきりと彼女を否定したのは初めてだった。
必要ない、その言葉が悠乃の頭の中を侵食する。
「いや……」
気が付けば、それは口から零れ落ちていた。
「悠乃、お前には無理だ」
「嫌だよ……私」
「お前はもう何もしなくていい」
膝に置かれていた手がスカートを握りしめる。小さく声を震わせながら、それでも悠乃は兄の言葉に首を振った。それは、彼女が警察官になってから初めての反抗の言葉だったのだ。
確かに悠乃は悪魔との戦闘経験が他の捜査官と比べて少ない。然程危険が多いとは言えない高校への潜入捜査とは違い、ほぼ確実に複数の悪魔と交戦するであろう現場に出るのは危険極まりない。下手をすれば悠一の言う通り、他の捜査官の迷惑になるだけだろう。
「止めたくない。最後まで頑張りたいよ……!」
しかし悠乃は兄にどんな否定の言葉を投げかけられても、途中でこの任務を投げ出したくはなかった。じわりと涙が浮かび、それが溢れそうになる前に彼女は立ち上がって部屋を飛び出した。
怖かったのだ。兄に反論して、それでどれだけ冷たい目で見られるかと思うと怖くて堪らなかった。
「……悠一、お前」
「速水さん、あなただって分かっているでしょう。悠乃は警察官なんて向いてない。これ以上任務を続行すれば、警察官であり続ければあいつもいつか死ぬ。それくらいなら、俺は」
あまりに冷たい悠一の言葉を咎めようとした速水だったが、続けられた言葉にその口を閉じてしまった。速水だって悠乃が大事だ。その身を案じる悠一の言葉を否定できない。
パチパチ、と場違いな拍手の音が聞こえたのは、その直後のことだった。
「いやー妹の身を案じる優しいお兄さん、泣かせますねえ。……とんだ茶番だ」
ずっと黙っていた蒼がゆっくりと立ち上がる。歪んだ笑みを浮かべて悠一を見る蒼に、悠一は酷く苛立たしげに表情を険しくした。
「何が言いたい」
「そんな独りよがりで悠乃を守ってる気でいるあんたはさぞかしおめでたい頭をしてんだなって言ってんだよ。反吐が出る」
「……黙れ!」
蒼の前までやって来た悠一が彼の胸倉を勢いよく掴む。至近距離で恫喝されても、しかし蒼は平然と悠一を睨み返してみせた。
「おい、朝日君! 悠一も止めろ!」
「部外者のお前に何が分かる! 知ったような口を聞くな!」
「ああ、あんたの考えてることなんて知ったこっちゃない。だけど少なくとも、あいつの気持ちだったら……唯一の身内に否定される気持ちぐらい、あんたよりはずっと知ってるさ!」
凄む様な蒼の目に、胸倉を掴んでいた手が僅かに緩んだ。悠一も速水も知る由もなかったが、蒼がこうして声を荒げて怒りを見せるのは、初めてのことだった。
悠乃は蒼とは違う。何をしても認められずに終わってしまった蒼とは違い、悠乃にはまだ大切に思ってくれる兄がいる。だというのにそれを表に出さず傷つく彼女を見て見ぬふりをする悠一が、蒼にはどうしても許せなかった。
「あんたは一体どれだけあいつを追い詰めれば気が済むんだ。そこまで悠乃が憎くて堪らない? あいつが望んでることなんて本当にちっぽけなことだっていうのに」
蒼は以前、悪魔の術に掛かった悠乃を助けるために彼女の悪夢の中に飛び込んだ。固く閉ざされた頑丈な扉を蹴破った先にいた小さな子供。あれは今の悠乃そのものだ。大事にされるあまり閉じ込められ、何もしなくていいと成長を止められている哀れな存在。
無理やり浸からされたぬるま湯で溺死し続けているのに、何故この男は気付かない?
「勉強、運動、射撃……どれもあんたの傍に居たいがために、置いて行かれないように悠乃が必死になってやって来たことだ。それなのにあんたは簡単にそれを否定する。お前には出来ない、無理だ、ってな。それでどれだけあいつが傷付いているのか分かってる癖によくもいけしゃあしゃあと守ってるなんて勘違いが出来るもんだ」
「……だからなんだ」
「なんだと?」
「それであいつに死ねというのか! 悠乃はただ、普通に生きてくれればそれでいいんだ。悪魔に関わって両親のように死ぬくらいなら――」
「大事に大事にしまい込む。そうやって悠乃の心を殺し続ける気か」
激情を露わにする悠一に対し、先ほどまで怒りを見せていた蒼は冷ややかな視線を彼に向ける。悠一の手を無理やり振り払った彼は悠一とそして速水を見て、彼を知る者ならば驚くであろう酷く真剣な表情を浮かべた。
「それがあんたのやり方だ。だが俺はそんなの認めない。あんたが守るために悠乃の心を壊し続けるっていうなら、俺は――悠乃をどんなに危険に晒してもあいつの心を守ってやる。俺はあんたとは違う、絶対に悠乃を置いて行ったりしない」
悠一が彼女を閉じ込めてでも守るというなら、蒼は力づくでそれをこじ開けて彼女を連れ出す。あの夢の中で、そうであったように。




