44. 共同戦線
「これで授業を終わります。質問のある人は来てくださいね」
教育実習生である雪菜の最初の現代文の授業が終わると、数人の生徒が教壇に立つ彼女の元へといそいそと近寄って行った。小論文を書くポイントについて分かりやすく解説していた授業は中々好評だったようだ。教室の後ろ側で授業風景を眺めていた氷室も彼女の元へ向かって「最初にしては見事だ」と褒めていた。
「矢代先生の授業、現代文だけどちょっと好きになれそう」
「理緒ちゃんがそう言うって相当すごいよね」
現代文と古典の成績が芳しくない理緒がうんうんと頷いているのを見ながら、悠乃も生徒に囲まれている雪菜に目をやった。生徒の中には全く関係のない質問をしている者もいるが、一つ一つ丁寧に言葉を返している。
念のためあれから彼女について調べてみたが、虹島との血の繋がりはなくただ偶然この学校へ来たようだった。その事実にほっとしながらも、別の問題を思い出して悠乃は少し疲れたように息を吐いた。
「鏡目さんはいるかな?」
教室の扉の方から声が聞こえて来たのはそんな時だった。既に休み時間に突入している為特に不自然なことはないが、訪ねて来た人間を見るとクラスメイト達は僅かにざわついた。
「虹島会長……」
悠乃が顔を上げると目が合った。彼女を呼んだのは神妙な表情を浮かべた楓と、そして睨むように彼女を見据える黒木だった。反射的に隣の理緒が警戒するのが分かる。
「悠乃」
「……行ってくるよ」
理緒に大丈夫、と曖昧に笑いかけて立ち上がる。突然の会長の登場に少々驚いたクラスメイト達も、呼ばれたのがクラス委員である悠乃だと知るとその視線も散っていく。
「……?」
彼女が教卓の前を通り過ぎて楓の元へ向かおうとしたその時、不意に生徒達に混じる雪菜の表情を見た悠乃は首を傾げた。雪菜の目は楓を見ている。しかし酷く剣呑なその視線に悠乃は訝しんで雪菜を見上げた。
「先生?」
「あ、ごめんね。そこは――」
質問していた生徒に声を掛けられてその視線は逸らされる。悠乃は不審に思ったものの、今は楓を相手にすることに集中しなければと意識を切り替えることにした。一体何の用事で悠乃の元へ来たのか分からないのだから。
「会長、何か御用ですか?」
「少し話したいことがあるんだ。今時間はいいかな?」
「……はい、大丈夫です」
下手に断ると何かあるのではないかと疑われそうで、悠乃は大人しく頷くことにする。返事を聞くとすぐに悠乃に背を向けて歩き出した楓に、やはりここでは出来ない話かとその後ろに着いて歩き出そうした。
しかし一歩踏み出した所でいきなり「待った」と黒木が胡乱な目で悠乃を――正確には彼女の背後を見た。
「お前は呼んでない」
「まあまあ固い事言うなって。本性出てるぞ?」
蒼だ。悠乃が振り返った先にはにやにやと企むように笑う蒼が黒木の視線を受け止めていた。暫し無言で睨み合うようにしていた二人だったが、先に口を開いたのは蒼の方だ。
「なあ会長さん、俺も着いて行っていいよな?」
「……分かった」
「楓」
「クロ、情報は多いに越したことはない」
「余計なノイズが増えるだけだと思うがな」
不機嫌さを隠そうともしない黒木が仕方ないと楓の言葉に従うように歩き出す。悠乃は一度蒼を見上げてからその後に続いた。余裕そうな蒼の表情を見て僅かばかりプレッシャーが緩んだ気がする。
「時間がない。単刀直入に聞こうか」
少し歩いて空いている教室へ入る。するとすぐに楓が扉に鍵を掛けてから矢継ぎ早に話を始めた。
「鏡目さん達は、今五十嵐がどういう状況か分かっているか?」
「い、五十嵐君、ですか……」
「知ってるけどそれが?」
動揺を露わにした悠乃とは裏腹に、蒼は何てことないかのようにさらりと答えを返す。思わず悠乃が不安げに蒼を見上げた。
「蒼君……」
「別に隠すことでもないだろ。俺達が悪魔や魔獣に関わってるなんてそいつがよく知ってるだろ? なあ、“クロ”さんよ」
「お前にそう呼ばれると腹立つな。まあ確かにそうだが」
悠乃は虹島の人間にどこまで情報を開示するべきかと悩んでいたが、蒼は笑いながらそう言って黒木を見据えた。考えてみれば確かに黒木……悪魔の彼とは既に話をしているのだから今更といえば今更だ。
「魔獣に憑依されてる、面倒な状態だろ?」
「……やっぱり分かっているのか」
「それで?」
「あいつを助ける方法を知らないか。早く元に戻さないと取り返しのつかないことになる」
深刻な表情でそう言った楓に、悠乃は少し驚いた。そもそも蒼の言うことが確かならば、五十嵐に魔獣を憑依させたのは理事長――楓の祖父なのだから。
五十嵐については既に調査室の面々にも報告を終えている。魔獣の憑依については全く前例がないわけではなくそれを解く方法も存在する。一度五十嵐の体を調べてみる必要はあるが、概ね可能だろうという結論に至っている。
「知らない訳じゃないですが……」
「本当か!? 頼む、教えてくれないか!」
「いえ、私は分からないんですが、それが出来そうな人達はいます」
「人達、ねえ」
悠乃の言葉を意味ありげに黒木がぼそりと繰り返す。つまり悠乃には蒼以外にも悪魔についての知識を持った人間が複数傍にいるということ。何かしらの組織に所属している人間だろうかと推測した。
己の失言に気付かなかった悠乃は、「でも……」と表情を曇らせて俯いた。五十嵐を元に戻す方法は分かっている。だというのにまだ何もしていないのは別の問題があったのだ。
「居ないんです」
「居ない?」
「五十嵐君、探しても見つからないんですよ。知りませんでしたか?」
「……そう、なのか?」
「始業式の日以降、学校にも来てませんし家にも戻っていないようなんです」
楓の目が大きく見開かれる。悠乃としては虹島で匿っている可能性も考慮していたのだがこの様子だと違うのだろう。楓は嘘を吐くのが苦手だ、とても演技には見えなかった。
「……あいつ、一体どこに」
「お前らが隠した、っていうのが一番分かりやすい答えだけどな」
「違う!」
「蒼君ちょっと……。虹島会長、人に魔獣が憑依するとどうなるか知っていますか?」
蒼の軽々しい言葉を諫めるように悠乃が制して楓を見上げる。彼女の質問に、蒼を睨みつけていた楓は落ち着きを取り戻して険しい表情を浮かべた。
「魔獣のような力を手にする。その代償に自我がどんどん無くなっていって、最後には人間としては居られなくなる。……と、クロが言っていたが」
「そうです、魔獣に乗っ取られる。……見掛け以外は本質が全て魔獣になるらしいんです。つまり、普通の人からは見えなくなる」
「! ということは……」
「多分会長の考えているような状態だと思いますが……でも、早すぎるんです」
五十嵐の存在を見失った。警察で捜索しても見つからず、その理由として調査室では二つの可能性が上げられたのだ。一つは虹島が匿っている。そしてもう一つは、魔獣化が進んだことによって一般人の目から見えなくなったこと。
しかし今までのデータによれば、そこまで魔獣化が進行するにはもっと時間を要する。夏休み途中に学校で会った五十嵐はまだ憑依されていなかったように考えると進行が早すぎるのだ。
警察のことは隠して悠乃がそこまで伝えると、楓は驚愕の目で彼女をじっと見つめた。
「そんなことまで知っていて……鏡目さん、君は一体何者なんだ」
「……言えません」
しゃべり過ぎたのだろう。だが収穫はあった。楓がここまで理事長のやっていることに対して知っていて、そしてそれを好ましく思っていない。速水が言ったように、楓をこちら側へ取り込むことが出来るかもしれない。彼自身がそれを望むのなら、楓に従順そうな黒木も着いて来るかもしれない。敵対する悪魔が一人でも減るのならばそれに越したことはない。
「あの爺さんがやったことだ、普通の憑依と違ってても可笑しくないんじゃねーの? 滅茶苦茶な魔法陣作って楽しむのが趣味みてえだからな」
黒木が皮肉な笑みを浮かべながら言う。悠乃はその言葉で蒼が今の体になった話を思い出して眉を顰めたが、当の本人は平然としている。余裕そうな顔の裏で何を考えているのか、悠乃には推し量ることは出来ないけれど。
「五十嵐を探し出さないことにはどうにもできないか……」
「……本当によく出来た人間だなあ? どうでもいいやつの為にそんなに必死になって」
「何が言いたい」
「今更必死になるんだったら最初からてめえのじじいぐらいどうにかしてほしいもんだ」
「……黙れ」
楓を庇うように黒木が蒼の前に出る。剣呑な空気を漂わせた黒木が低い声で唸ると、すぐさま楓が諫めるように彼の腕を掴んだ。
「クロ、止めろ」
「だが」
「お爺様を止められない俺に非があるのは事実だ、朝日は間違ってない」
「……何も知らない癖に知ったような口を」
「さてな、知っていたらどうする?」
「……」
挑発的に笑う蒼を、黒木はその言葉の真意を問うかのように睨む。楓が理事長を止めることが出来ないのは、恐らく彼に憑いている複数の悪魔の所為だろう。それを彼の非だとするのは少々理不尽だ。
だが、過去にその理事長に酷い目に遭わされた蒼のことを思えば、悠乃はそう言った彼を責めることは出来なかった。とにかく今はこの張り詰めた空気をどうにかしようと、明るい声を作って蒼と黒木の間に割って入った。
「と、とりあえず五十嵐君を見つける。そのことに異論はないですよね!? ここは協力しましょうよ!」
「……そうだな。うちのことに二人を巻き込んですまないが、手を貸してほしい」
「ま、別にいいけど」
「……」
悠乃の言葉に楓も同意し、蒼も軽く了解する。
しかし黒木は最後まで、じっと無言で蒼を睨むのを止めることはなかった。




