43. 密談
人間に魔獣が憑依した場合、基本的に理性……自我が薄くなり魔獣に意識が寄り始める。力も強くなり魔獣としての力を振るうことも出来るようになるが、時間が経つにつれて徐々に力の強い魔獣に乗っ取られ、最終的には完全に人間としての意識を失いただの獣に変貌する。
五十嵐と対面した翌日、黒木からそう説明を受けた楓は苦虫を嚙み潰したように端正な顔を歪めた。人間としての尊厳を失わせるそんな行為を、自分の祖父は単なる“暇つぶし”で行ったのだ。
「まだ理性は残ってるようだから、もって一、二か月ってとこか」
「……憑依を解く方法は?」
「さあ。普通に魔界に送還すればいいのか、あるいはもっと複雑な手順が必要なのか」
「クロにも分からないのか」
「あの爺さん特製の魔法陣だろうし、俺は頭使うことは得意じゃねえの知ってるだろ? ……まあ、人間ごと殺してしまえば契約者を失った魔獣は魔界に帰るだろうが」
「それは駄目だ」
「お前がそう言うのは分かってるよ。さて、どうするかね」
呑気に黒木がそう言うのに嘆息しながら楓は立ち上がる。生徒会室にいたが、そろそろ教室へ戻らなければ授業が始まってしまう。彼とはクラスの違う小夜子は体育で着替えなければならない為、とっくに居なくなっていた。
「真面目だなー。俺だったら絶対に無理だ」
呆れたように肩を竦めた黒木も同じように立ち上がると、途端にその姿を変質させた。今この場に一般の生徒が居れば恐らく目を疑ったことだろう。今の黒木は普通の人間からは認識することが出来ない存在へと変わっているのだから。
いや見えないだけではない。一部の特殊な人間――悠乃や蒼ならば、今の彼の姿が“黒木”とは全く異なっているのが見えたことだろう。大人しそうな顔には黒い刺青が浮かび、その背中には同じく漆黒の大きな翼が現れる。その姿は悠乃と以前対峙した黒い悪魔そのものだった。
黒木――悪魔のクロはこの学校の生徒ではない。よってクラスに所属していないので授業を受けることはないが、楓の隣で居座っていることも多い。勿論他の人間に見られる訳にはいかないのでこのように姿を消した上で、だ。
楓のクラスは校舎が違う為一度外に出なければならない。彼は歩きながら、周囲にあまり人がいないのを確認して隣にいる見えざる存在に小さな声で話しかけた。
「……朝日なら、知ってるかもしれない」
「あいつ? そうかもな」
魔獣の憑依を解く方法を祖父から聞き出すことは出来ない。そもそも楓は悪魔に関する知識を意図的に得られないように監視されて来た。知識を持てば反抗されると思ったのか、祖父は一切悪魔関連の書籍などを彼に見せようとはしなかったのだ。
だからこそ楓にはどうすればいいか分からない。だが、蒼ならばもしかしたらと思ったのだ。
「あいつがどこまで悪魔の知識を持っているかは分かんねーけどな」
「でも、朝日は普通の人間じゃない」
「それは確かだ」
楓は以前クロに言われた言葉を頭の中で反芻する。あれは一年前、初めて蒼と対面した時の話だ。初対面であるのに関わらず突っかかって来られたことに首を傾げていた楓は、じっと隣で黙っていた黒木が不意に呟いた言葉に大きく驚いた。
『あの男、ただの人間じゃない』
「魂が違うとか言ってたな」
「違うというか、一言で言うと……気持ち悪い」
楓自身あまり蒼を好ましく思ってはいないがそれでも随分な物言いだと感じる。眉を顰めた楓を見たクロは「いや本当にそうとしか言えないし……」と少し言い訳するように呟いた。
「人間ではあるんだよ。ただ中身がぐちゃぐちゃで、あんな生き物見たことがない。例えるなら……あー、あれだよ。人面魚? あんな感じの気持ち悪さ」
「人面魚……」
楓は頭の中で想像した魚に蒼の顔をくっつけてみる。……が、すぐにそのイメージを首を振って振り払った。確かに気持ち悪い、と彼自身も結構酷いことを考える。
そんな楓の様子をすれ違った生徒が不思議そうに見ているのに気付き、彼は慌てて取り繕うように真面目な顔を作った。
「……とにかく、朝日が知っている可能性はある。が、仮に知っていたとしても絶対に教えてはくれないだろう」
「むしろあいつが教えてくれたこと実行したらもっと酷いことになったりしてな」
「クロ。あいつはそんなことはしない……と思う」
言動は酷いが蒼はそこまで非道な人間ではないと楓は思う。断言できないのは単純に彼がそこまで蒼のことを理解していないからだ。
「ふうん。じゃあ朝日じゃなくて向こうに聞いてみたらどうだ」
「向こう?」
「鏡目悠乃。俺としてはあっちの方が確率は高そうだと思うね」
クロは両腕を頭の後ろで組んで思考に耽る。まともに会話をしたのは一度だけだが、召喚者が誰かと尋ねて来たことなどから彼女はそれなりに悪魔について知っているように感じた。それに捻くれ曲がった蒼よりは御しやすそうだという印象もある。
クロとしてはそう思うのだが、それを聞いた楓は難色を示す。
「だが、鏡目さんはまだ関係があると決まった訳じゃ」
「あれ、言ってなかったか?」
「何を?」
「あの女俺が見えてるぞ」
「……は?」
「それに話もした。小夜子には伝えたが楓には言い忘れてたか」
さらりと告げられた言葉に楓は思わず足を止めた。悠乃が悪魔を見ることが出来るなんて初耳だ。そしてそれと同時に一見奇妙な組み合わせに見える悠乃と蒼を繋げていたものを理解した。
それにしても勝手に話していたとは……単独行動が多いとは思っていたが頭を抱えたくなった。
「余計なことは言ってないだろうな?」
「多分。あ、そういえばもう一つ言い忘れてたことが」
「まだあるのか」
「これは小夜子にも言ってなかったなー。月島っていただろ? あいつが悪魔憑きだってあの女に言ったんだよ」
「ちょっと待て……思いっきり余計なこと言ってるだろうが……」
楓は大きく嘆息して歩みを再開する。必要以上に咎めないのはもう過ぎた話だというのもあるが、月島がろくでもない人間だったということが大きい。むしろ捕まってくれてありがたいというのが本音だ。
「それで、どうしてわざわざ鏡目さんにそれを伝えたんだ?」
「あの二人の目的が分からなかったから、ちょっと月島を使ってどう行動するのか試してみた。で、結果は警察に逮捕された。あの爺さんが言うには悪魔が倒されたってこった」
「朝日か鏡目さんが」
「十中八九そうだろう。どうやったのかは知らねーけど、悪魔を倒せるだけの実力がある。……正面切って敵対されたらさぞかし厄介だろうな」
まあ俺がどうにかしてやるけど、と余裕の表情でクロが笑う。楓は祖父から蒼を処理しろと言われているのだ。今まではお互い牽制し合っていたようなものだが、今度こそ動かなければならない。
「……とりあえず、優先するべきは五十嵐の方だ。時間がない。クロ、鏡目さんと話を付ける」
「へーへー了解。小夜子には?」
「今は何も。彼女が何かを知っている確証はないからな。小夜に言えば余計に鏡目さんを敵視するかもしれない」
「小夜子よりもあの女を取るのか?」
「クロ、分かって言ってるだろ」
クロがにやにやと笑う。疲れたようにそう返した楓はそろそろ急がなければ遅刻してしまうと、歩く足を速めて校舎へ向かおうとした。
がしゃん、と背後で何かが割れた音がしたのはその直後のことだった。
「え?」
「楓!」
鋭いクロの言葉に振り返ると、楓の足元から一メートル後ろのアスファルトに粉々になった花瓶が落ちていた。驚いて反射的に上を向くと、割れた花瓶の真上に位置する三階の校舎の窓が開け放たれている。どうやら花瓶はそこから落ちたらしい。
「っ」
小さく舌打ちしたクロがすぐさま翼を広げてその窓へ飛び上がった。窓から室内へと入るとそこは理科室で、次の授業では使用されないのかがらんとしている。さっと周囲を一瞥して隠れている人間がいないのを確認したクロはそのまま廊下へ飛び出した。
もうすぐ昼休みが終わる所で行き交う生徒は多い。誰もがクロに気付かない中、彼は目を細めて歩く生徒の顔をさっと確認する。
「一体どいつだ……」
窓際に花瓶が置いてあっても、人がいない以上風が吹いたとしても校舎の外側に落ちるとは考えられない。そもそも楓が下を通ったこのタイミングで落ちるものか。楓が歩くのを速めなければ直撃していたというのに。
明らかに意図的に落とされたとクロは考えた。僅かに殺気を滲ませた彼は、しかしその生徒の多さに犯人の特定は無理だと判断し楓の元へ急いで舞い戻る。
「クロ」
「楓……!」
また危ない目に遭っていないかと慌てて戻って来たクロが見たのは、箒を片手に花瓶の破片を片付ける楓の姿だった。
「……お前何やってんの」
「授業に遅れるが放っておくと危ないからな。用務員を呼ぶよりも早い」
「……そうか」
心配して来てみれば掃除。クロは少し気が抜けてはあ、と楓に見せつけるように大きく溜息を吐く。一方楓は塵取りで破片を集め終えると、ちらりと花瓶が落ちて来た窓を見上げてその表情を厳しいものへと変えた。
「虹島が、狙いか」
楓も分かっているのだ、今の花瓶が自分を狙って落ちて来たことを。




