42. 憑依
「始業式の前に教育実習生の先生が来たから紹介しておくぞー」
「矢代雪菜です。担当は現代文、少しの間ですがよろしくお願いします」
氷室に紹介されて挨拶をした女性を見て、悠乃は観察するように彼女を見つめた。すらりとスタイルの良い、整った容貌の真面目そうな女性だ。初日で緊張しているのか少々表情は硬いが、クラスメイト達も特に悪い印象を抱いていない。
悠乃は続いて前方の席に座る蒼に目を配った。しかし蒼は思い切り大あくびをしておりまともに彼女を見ている様子はない。……ならばひとまずは安心していいのだろうか。
悠乃が気に掛かっているのは、彼女が虹島の関係者ではないかという点だ。仮に分家の人間だとしても調べてみないと分からないが、蒼の反応を見れば少なくとも黒木のような人間に扮した悪魔ではないということは窺える。
一応速水に報告だけしておこうと式の為に移動する合間を縫って簡潔に彼女の情報を速水に送信することにした。
始業式は講堂で滞りなく行われた。校長の話を聞いていると、調査や射撃訓練の疲れからか異様な眠気が襲ってくる。がくりがくりと何度も船を漕いでいる悠乃を、隣に座る理緒が苦笑しながらちらちらと窺っている。同じような生徒は多いので目立たないだろうと、彼女は悠乃を起こそうとしなかった。
「それでは、生徒会の役員選挙について――」
子守歌のような校長の声が別のものに切り替わった瞬間、今までほとんど意識を飛ばしていたはずの悠乃ははっと我に返ってがばりと顔を上げた。両隣が驚いているが気にしてはいられない。悠乃の目線の先には、司会である教頭に促されて檀上に上がっている楓がいるのだから。
「来季の生徒会役員だが、立候補したい者がいれば生徒会室まで来て申し出てくれ。その時は推薦者が二人必要だから忘れないように。それから……」
聞き取りやすい速さではっきりと話す楓はいつも通り穏やかな表情をしている。……彼は理事長の研究に加担しているのだろうか。黒木という存在がいる以上悪魔を容認しているのは間違いないが、彼自身もそれに手を染めているのか。
楓は悠乃と同じようにあまり嘘や誤魔化しが得意には見えない。だからこそ悠乃は、楓が平然とした顔で分家の人間の命を弄ぶような真似は出来ないのではないかと思っている。いずれにしても希望的観測だが。
「生徒会……今年はどうするんだろうねー?」
「虹島会長の後だもん、プレッシャーすごそうだよね」
ひそひそと話す生徒の声が耳に入って来る。それを聞いた悠乃はふと夏休みに学校へ来た時のことを思い出した。小夜子に追い出されたという会計の男……五十嵐に絡まれた時のことだ。彼は来季の会長になりたいと言っていたが、結局どうなったのだろうか。楓は間違いなく却下するだろうが、それで引き下がるとは思えない態度だった。
面倒なことにならないといいけど、と悠乃は虹島だということを置いて楓に少し同情した。
「あー長かった! 早く帰ろっと」
始業式が終わると今日は授業もなくそのまま午前中で解散だ。大きく伸びをしながら声を上げた理緒と共に講堂を出ると、悠乃は入口近くの柱に寄りかかっている蒼を見つけた。
「どうしたの?」
「んー? 人多くて鬱陶しいから捌けるまで待ってた」
そう言って彼は背中を預けていた柱から離れて彼女達の元へ来る。楓の話の後に再度眠くなってしまった悠乃が、式が終わっても少しぼんやりしていた為出て行く生徒はもう随分減っていた。
そのまま三人で少し開けた廊下を歩く。理緒は帰ってからすることを考えているらしく機嫌が良さそうだ。
「悠乃もこのまま帰るの?」
「ううん、私はお弁当持って来てるから。食べてから……その、向こうで仕事かな」
「……なんかごめん」
少し遠慮するように謝った理緒に悠乃はぶんぶんと首を振る。むしろ気を遣わせてしまったのは悠乃の方である。
「蒼君はどうするの? お弁当多めに持ってきたけど一緒に食べる?」
「じゃあ貰っとく。何作って来たんだ?」
「サンドイッチ」
「……屋上じゃ暑いな。今日は空いてるしどっかの教室で食うか」
蒼とお弁当を食べる時は今まで大抵屋上だったのだが、流石にこの時期は暑い。大人しく空調の効いた室内で食べるのが賢明だろう。
「……相変わらず甲斐甲斐しいのね」
ぽつりと呟いた理緒の言葉に悠乃は首を傾げた。理緒の声に嫌味は含まれていなかったが、その代わりに何故か呆れと生暖かさの混じった視線を向けられる。
「それじゃ、また明日」
教室まで戻ると鞄を手にして理緒と別れる。ひらひらと軽く手を振る彼女に同じように振り返してから、悠乃は蒼と共に教室を出た。別にここで食べてもいいのだが、他の生徒も出入りするので迂闊なことは話せない。
「ていうか、俺が食べるかも分からないのにわざわざ多めに作って来たのか?」
「蒼君がいらないって言ったら、そのまま速水さんの軽食になるけど……」
「絶対に食べる」
「……蒼君って速水さんのこと、嫌いだよね?」
「向こうが嫌ってるんだろうが。俺はどうでもいい」
確かにあれだけ疑われれば良い印象はないだろう。仏頂面になった蒼に悠乃は苦笑しながらどの教室で食べようかと考えていると、不意に視界の端に人影がちらついた。
「あ」
思わず声が漏れる。廊下の端から階段を上って来た三人の生徒を思わず凝視してしまうと、それに気付いた蒼が少し面白そうに笑った。
「悠乃、行こうぜ」
「い、いやでも、今はちょっと……」
戸惑うように首を振る悠乃を無視して、蒼は彼女の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。そんなことをしていれば少し離れた場所にいる彼らも悠乃達の存在に気付き、各々違った反応を見せた。
「よう、生徒会の皆サマ?」
「朝日……」
悠乃を引っ張って彼ら――楓達の傍へやって来た蒼はいつも通り挑発するような物言いで話しかけた。楓は少々苛立たしげに、小夜子は警戒するように視線を鋭くし、そして黒木は……薄っすらと笑みを浮かべている。今まで悠乃が目にしていた大人しそうな雰囲気は一切払拭されていた。
速水に楓との接触は気を付けろと言われていた悠乃は、困ったように曖昧な笑みを浮かべて会釈する。今は出来るだけ会わないようにしようと思っていたのだが早速顔を合わせてしまった。
「こんにちは、先輩」
「ああ……久しぶりだな。二人とも結構焼けたみたいだが、夏休みはどこかへ行ったのか?」
「はい、沖縄に旅行に行ったりしましたよ」
険悪な雰囲気が漂う中、楓と悠乃がその空気を誤魔化すように当たり障りのない話題を口にする。沖縄も高校の夏期講習もあって自分でも結構肌が焼けたと思っていたので、悠乃も楓の言葉に頷いた。
「へえ、沖縄か。楽しそうだな」
「いいだろ、羨ましいかー? 悠乃、すっごく楽しかったよなあ?」
「え……う、うん」
正直あまり蒼が楽しんでいた記憶はないのだが、促されて慌てて肯定する。すると何故か小夜子が「……朝日も一緒に?」と不可解な表情でぽつりと呟いた。
「そーそー。悠乃と三日間ずっと一緒だったわけ」
「鏡目さん、その、他人が口を挟むことじゃないんだが……高校生の男女が二人で旅行というのはちょっと、親御さんが心配になるんじゃ」
「ふ、二人じゃないです! ちゃんと他の人もいましたから!」
「……そうか、すまない」
蒼の口ぶりから勘違いされたのだろう、真面目な顔で忠告するようにそう言った楓の言葉を悠乃はぶんぶんと首を振って強く否定する。蒼の言動に疲れながら、悠乃はちらりと楓を観察する。焼けたと悠乃達に言った本人はというと、夏休み前と変わらず全く日焼けもしていない。
「虹島会長はちっとも焼けてないですね。どこにも行かなかったんですか?」
「……ああ。生徒会の仕事や夏期講習で殆ど学校にいたからね。うちはすぐそこだからあまり外も歩かなかったんだ」
「はいはい引きこもりご苦労様ですねー」
「いい加減お前は黙れ」
一々突っかかって来る蒼に楓は低い声で威嚇するように言って彼を睨む。家のことは抜きに楓が気に食わないと蒼は言っていたが、それにしても妙に彼を嫌っている。楓も他の人間に対する態度とはまるで正反対なので相当相性が悪いのだろうと思った。
「あの、それじゃあそろそろ……」
会話が途切れた所で悠乃が蒼を促す。これから昼食を食べた後に署に戻らなければならないし、楓と話して余計なことを言ってしまわないか不安だった。先ほどから一言も話さずにじっと悠乃達を観察している黒木の視線に気まずさを覚えていたということもある。
「ああ、じゃあまた」
「あれー? 虹島会長じゃないですかあー」
ちらりと小夜子と黒木に目をやっただけで大人しく引き下がった蒼を連れて歩き出そうとした直後、背後から聞こえていた声に悠乃は足を止めた。何気なく振り返ると、そこにはへらへらと笑いながらこちらへ向かってくる男子生徒がいた。
「五十嵐……?」
「ははは、そうですよ。次期会長の五十嵐です……へへ」
戸惑うように楓が男子生徒――五十嵐を見る。それもそのはず、以前対面した時に五十嵐とは険悪な空気になっていたというのに、今は随分と調子に乗っているようで次期会長などと口にしている。
「悠乃」
しかしそれだけではない。蒼に呼ばれて悠乃は五十嵐から距離を取るように数歩後ろに下がった。今の五十嵐は、まるで人が変わったかのように妙な雰囲気を見せている。どこか怖気が立つような、近寄りたくないその雰囲気はその場の全員が共有しているようで、小夜子と黒木は楓を守るかのように一歩前に出た。
「五十嵐、あんた一体……」
「副会長様か。ひひ、口の利き方がなってないんじゃないか? 俺はもうすぐ会長になるっていうのにさあ」
「さっきから聞いていれば……どうしてお前が会長になることが決まっているんだ」
「そりゃあ俺は、理事長にも気に入られたからなあ? そのくらい当然だろ。ははっ」
理事長、という言葉を聞いて楓がぴくりと反応する。そのまま楓達の様子をおろおろと見ていた悠乃だったが、蒼に強く腕を引かれてその場から歩き出した。悠乃達のことは既に視界に入っていないらしく、楓達も五十嵐も全く気にする様子はない。
「蒼君……」
「いいからちょっと来い」
ぐいぐいと引っ張られながら蒼を見上げていると、彼は楓達から十分に距離を置いた所で悠乃の腕を離した。
「あいつ……五十嵐って言ったか?」
「うん、生徒会の会計の人らしいんだけど……夕霧先輩に追い出されたとかなんとか」
「生徒会ってことは、やっぱりあれも分家か」
蒼はやや眉を顰めて壁に寄りかかる。ちらりと窓の外に視線をやった彼は少し離れた場所に見える虹島の屋敷を見て苛立たしげに腕を組む。
「あの人、何か様子が可笑しかった、よね?」
「ああ。……また、あのじじいの玩具が増えたらしいな」
「それって」
「俺もだが、黒木もすぐに分かっただろうな。あいつは――」
「お爺様!」
「なんだ楓、騒がしい」
高校からすぐ傍にある自宅へと戻った楓は靴を脱ぐとすぐに祖父の部屋へと向かった。多くの本で埋め尽くされているその部屋で、当主である祖父は老眼鏡を掛けながら本を手にしている所である。それだけならば普通の老人と変わらない姿だが、楓はその本が一般に出回らない悪魔に関するものであることを知っている。
「お爺様……どうして五十嵐にあんなことを……!」
「五十嵐? ……ああ、あの若造か」
顔を歪めてそう訴える楓に対し、祖父はさほど興味のない様子で「何故そんなことを聞くのか」とでも言いたげに孫を見返した。
『楓』
どこか不穏な気配を纏った五十嵐を追い返した後、ずっと無言だった黒木が冷静に口を開いた。
『クロ、あいつは……』
『今のやつ、魔獣に憑依されているぞ』
『な……んだって』
『クロ、本当なの?』
『ああ。……またあの爺さんがやらかしたんだろうな』
淡々と告げる黒木の言葉に楓は居ても立っても居られなくなり、すぐに自宅へと駆け出した。虹島の当主の孫だというのに楓は悪魔のことに詳しくない。しかしただの人間に魔獣を憑依させることが異常だということぐらいは分かった。
どうして、と尋ねる孫を冷めた目で一瞥した祖父は、至極単純で無常な言葉を彼に突きつけた。
「暇だったんでな」
「暇、って、そんなことであいつを!」
「何故お前がそんなに怒っているんだ? あの若造と親しかったとは思えないが」
「そんなことは関係ありません! 今すぐ五十嵐を元に戻してください!」
「……博愛主義の偽善者か。我が孫ながら反吐が出る」
どうにかしたければ自分でなんとかするんだな、と冷たく楓を突き放した祖父はそのまま会話を打ち切ろうとして、しかし思い直したかのように再度楓に視線を向けた。
「そういえば、最近周りが少々騒がしくてな」
「騒がしい……?」
「警察が嗅ぎまわって分家の人間に色々と探りを入れているらしい。お前は何か知っているか? 例えば……校内に虹島に敵対しそうな怪しい人間がいるとか」
楓は無意識のうちに体を硬直させた。警察が虹島を調べているなんて初耳だ、楓に心当たりなどない。だがしかし、虹島に敵対しそうな人物――いかにも怪しい人物と言えば、すぐに思い出す顔がある。
けれど楓は口を噤んだ。
「……いえ、そのような生徒は」
「本当にお前は嘘が下手だな」
「嘘などでは」
「儂は怪しい人間とは言ったが生徒とは一言も言っていない。……まあいい。お前が言わないというのなら、夕霧の娘に尋ねてみることにしよう」
「!? ま、待って下さい!」
祖父の言葉に楓の表情が一変する。顔色を真っ青にして叫んだ彼は、ほんの僅かの間逡巡したのち、絞り出すかのように苦々しい表情でその名前を口にした。
「……朝日蒼、という二年の生徒が」
「朝日? どこかで聞いたような……」
考え込むように祖父が目を伏せたのを見て楓は小さく安堵した。これ以上追及されれば蒼だけではなくまだ現状立場がはっきりしていない悠乃の名前まで出すことになっていただろう。
「……気のせいかもしれんな、まあどうでもいい。楓、その怪しい生徒の処理をお前に任せよう。別に断ってもいいが、その時はあの娘に頼むことにする。どうする?」
「……お任せ下さい」
「いい返事だ、それでこそ我が孫だな。あの娘の為なら他人をいくらでも切り捨てられる……お前も立派に虹島の血を引いているようだ」
何も言わずに楓は部屋を出る。無言で長い廊下を歩き、そして自室の扉を閉めた瞬間彼は右手を壁に強く叩きつけた。
「……分かってるさ」
祖父に、蒼に言われなくても、自分が偽善者なんてことは楓が一番よく分かっていた。どんなに他の人間に優しくしようと、平等にと努めようと、結局小夜子に何かあれば楓は躊躇いなくその他の人間を犠牲にすることが出来るのだから。




