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39. 蒼

 父は、恐らく優しい人間だったのだろうと蒼は推測している。推測、というのは彼の前での父親は酷く両極端な人間だったからだ。

 幼い頃からそうだった。普段はとても蒼に優しいというのに、時折何かに取り憑かれたかのように恐ろしい存在に変貌する。どうして怒られるのか、どうして殴られるのか分からずに、けれども蒼は父を嫌いになれなかった。簡単な話だ、当時の蒼は碌に外にも出してもらえず、彼を構成する世界は父だけだったのだから。


 父が蒼に憎悪を向ける理由のひとかけらを知ったのは然程遅くはなかった。鏡で見てみれば分かる、蒼の背中にある丸い紋様。それが魔法陣だと知ったのはもっと後のことだったが、父がこれを酷く嫌っており、そしてこれがあるから手を上げられるのだと幼いながら蒼は理解していた。何せ父が蒼を傷付ける大半はこの背中に集中していたのだ。

 眠っている時に首を絞められることもあった。しかし苦しさに蒼が目を覚ますと、すぐに我に返ったかのようにその手から力が抜け、「蒼、ごめん……本当にごめん」と泣きながら父は何度も何度も謝っていた。

 いくら痛くても、苦しくても、そんな風に涙を溢す父を見るとどうしても蒼は何も言うことが出来なかった。



「お父さん、テストで100点取ったんだよ!」

「そうか、すごいな蒼は」



 小学校へ入学した蒼は、父親に褒められたくて、嫌われたくなくて沢山勉強した。満点のテスト用紙を見せると彼は嬉しそうに蒼の頭を優しく撫でた。蒼を傷付ける時とは全く違うその穏やかな表情がずっと続いてほしくて、蒼はそれからもひたすら勉強に打ち込んだ。勉強だけではなく出来ることは全てやったと言ってもいい。運動を始め、食事の時の箸の持ち方ですら父の顔色を窺って気を遣った。


 けれども一向に父の暴力が止むことはなかった。それどころか成長するにつれて、それはどんどん悪化していったのだ。




「痛い……っ」



 ぽろぽろと堪えきれない背中の痛みに涙が出る。煙草の火を押し付けられたり、カッターで切り裂かれたり、強く殴られたり。蒼の背中はボロボロだった。



「……こんなものがあるからっ!」



 この魔法陣さえ無ければきっとこんな目に遭わなかった。じくじくと痛みを訴える背中に、蒼は唇を噛んで枕に顔を埋めて耐えた。いつか、こんな辛い日々が終わる日が来ると信じて。










 そしてある日、学校で家族の写真を持ってくるように言われた蒼は、仕事で父が不在中に押入れを漁っていた。蒼は自分の写真を撮ってもらったことなどないが、父親の写真ならあるかもしれないと考えたのだ。



「……あ」



 段ボールの中に乱雑にしまわれていた本の中から、アルバムらしき堅い表紙のそれを見つけて引っ張り出す。案の定それはアルバムで、好奇心が赴くままに蒼はそのアルバムを覗き込んだ。

 写真の中で蒼を見ているのは今よりも若い父親の姿だ。見たことがないほど楽しそうに笑っている彼の隣には、見知らぬ女性が彼の腕に手を添えている。



「……あれ」



 見たことはない、はずだった。恐らく蒼の母親だと思われるその女性を、蒼は食い入るように見つめ続けた。どこかで彼女に会ったような気がする。



「蒼?」

「っ!?」



 時間も忘れて写真に見入っていた蒼は玄関から聞こえて来た声に体を飛び上がらせた。蒼は咄嗟にアルバムを元の段ボールにしまい込むと慌てて押入れを閉じる。どうしてそんなに焦ったのかは分からないが、何故か絶対に父親には見つかってはいけないと、そんな気がしたのだ。


 その日から、蒼は夢を見るようになった。写真で見た女性、若い父親、見知らぬ老人、翼の生えた異形。少しずつ少しずつ、ぼんやりとしていた夢が繰り返し見る度に鮮明に、そして残酷になっていった。

 いつしか夢など見なくなった。全てを思い出したからなのか、それとも――悪魔に夢など不要だと言いたいのか。



「俺は……」



 蒼は鏡の前でじっと己の姿を見つめる。人間だ。紛れもなく人間であるはずなのに、その背中に青い翼がないことに酷く違和感を覚える。顔はそっくりなのだ……悪魔として存在していた頃の、アオと。

 アオと蒼の魂が融合したからだろうか、本来の蒼の容姿は徐々に変質しその姿を変えていた。何も知らなかった頃は何とも思わなかったが、今はこの顔が誰のものであるのかはっきりと理解できる。いや、誰のものでもなく、これは自分のものだった。


 記憶を取り戻して蒼は理解した。魂も混ざり記憶も戻った今、蒼はアオでもあったのだ。二つの人格は違和感なく合わさって一つのものとして成立している。悪魔のアオも、人間の蒼も自分だ。


 父親の暴力は止まない。彼はアオを見ることが出来なかったから今の蒼の顔が悪魔のそれだとは分からないだろう。だが両親とはまるで違うその顔に変わっていった蒼に強く違和感を持っているのは間違いなかった。

 ましてや彼は幼い頃から蒼が並外れた力を持っていたことも、勿論背中の魔法陣のことも知っている。悪魔の力を持つ蒼に、彼はいつの間にか彼自身を悪魔だと認識するようになってしまっていた。あの時一度死にかけたからだろうか、今の蒼は悪魔に乗っ取られた偽物なのだと思っていたのだ。



「返せっ……返せよ! 妻を、俺達の蒼を返してくれ……!」



 強い力で首を絞められながら、蒼は抵抗することもなくただただそれを甘んじて受け入れた。皮肉なものだと心の中で自嘲する。仮に今自分が死んでも不死のアオは魔界に戻るだけ、本当に死んでしまうのは蒼だけだ。

 蒼は……自分はここにいるのに。きっとそう言っても父には届かないのだろう。


 どんなに勉強しても、何を頑張っても、もうその頃には彼は蒼に微笑みかけてくれることは無くなっていた。だが蒼は勉強を止めなかったし、父親に反抗することもなかった。

 蒼はただ、自分を否定されたくなかったのだ。「蒼はすごいな」と、あの時頭を撫でられたように息子として見て欲しかった、蒼が望んでいたのはそれだけだったというのに。




 転機が訪れたのは、蒼は中学三年の時だった。



「え……」



 目の前でゆらりと足が揺れる。鞄を落とした蒼は瞬きも忘れて徐々に顔を上げ、そして虚ろになった目を呆然と見つめた。

 いつものように中学校から帰って来た蒼を迎えたのは、変わり果てた父の姿だったのだ。首を吊っている父の前で蒼はどれだけの間立ち尽くしていただろうか。彼は宙に浮く足の下に折りたたまれた紙を見つけ、それを拾い上げた。

 妻と息子の元へ行く。その文面を見た瞬間蒼の口から出たのは、酷く乾き切った笑い声だった。



「……はは」



 笑い声は止まらない。涙など少しも出てこない。

 蒼の頭の中に過ぎったのは唯一の肉親がいなくなった悲しみでも、虐待から逃れられた安堵でもなく……ひたすらに虚しい気持ちだった。結局この男は最後まで自分を“朝日蒼”として見ることはなかった。彼にとって蒼は、あの時にすでに死んでいたのだ。

 自分が今までやって来たことに一体何の意味があったのか。



「馬鹿馬鹿しい、本当に」



 そんなに悪魔であるのがお望みなら、大人しい人間のように振る舞う必要などないのだ。父の為に、他人の為に頑張ることはもう疲れてしまった。誰にも望まれないのなら、いっそ他人などどうでもいいではないか。



「だったら俺は――」






 蒼は機械的に警察に通報し、そして一人になった家で少しずつ荷物を纏め始めた。進路も今までとは違う場所を選び、そして次の年の四月、蒼は大きな高校の前に立っていた。ざわつく沢山の生徒達の中で、蒼は正門にある学校名のプレートに触れる。“虹島”と書かれたそれに蒼は無意識に口角を上げていた。



「俺は、俺の望むように生きる」



 もう二度と他人の為に生きることなどしない。だからこそ蒼は、手始めにこの場所に立ったのだ。虹島を壊す、という自分勝手な目的の為に。













 どうして悠乃に話そうと思ったのか、蒼は自分の思考を完全に理解しきれていなかった。彼女にはフェアじゃないなんて言ったが、警察官である悠乃に話すリスクを考えればそんなことを言っていられないのが現状のはずだ。

 だというのにそんな約束をして、そして実際に話してしまったのは多分無意識に悠乃に自分の過去を重ねてしまったからだろう。身内に恨まれていても認められたい、嫌われたくないと必死になって頑張っている彼女を見て嫌でも昔の自分を思い出した。――結局蒼は、最後まで認められることはなかったけれど。



「……悠乃」



 感情を込めずに淡々と事情だけを話し終えると、蒼は何とも言えない表情で悠乃を呼んだ。別に同情されたかった訳じゃない。辛かったねと慰められても、蒼はちゃんとここにいると彼女に存在を認められても、蒼はきっと何も感じなかっただろう。そのことは既に蒼の中では消化されている。悪魔でも人間でもある自分を、他の誰でもない自分がきちんと受け入れているのだ。



「うう……ひっ、ぐす……」

「何でお前が泣いてるんだよ」



 だが、ここまで盛大に泣かれるのは流石に予想外だった。途中から雲行きが怪しいなとは思っていたが、最後には号泣だ。蒼も閉口せざるを得なかった。



「だ、だって……」



 話そうとした声も嗚咽に飲み込まれる。予想では、蒼同様に悠乃も自分と蒼を重ねて感情移入してしまったのだと思っている。鼻をすする彼女にティッシュ箱を渡すと途切れ途切れにお礼を言いながら取って鼻をかむ。……色気のない泣き方だ。

 なんだか脱力してしまい、蒼は温くなったお茶を一気に飲み干した。



「つまり、俺の魂の半分は悪魔、もう半分が人間……特殊な悪魔憑きだ。だから同族である悪魔は見れば分かるし、黒木のことだってすぐに分かった」

「……うん」

「向こうはよく分かってねえみたいだけどな。まあこんな人間、滅多にいるもんじゃない。俺が俺として生きられたのも、奇跡のようなものだろうから」



 本来ならあの時に器が耐え切れずに死ぬのが普通だったのだろう。だが蒼は生き残った。アオと蒼が驚くべき同調を果たしたからだ。人格が分かれていないのだって、それほど相性がよかったのだろう。他に同じような存在など恐らくいない。



「だから、蒼君は警察に知られないように……?」

「悪魔が見える、それだけなら悠乃達みたいな体質もいるし知られてもよかった。だけどもし魂を見られたら一発で異常だとばれる。警察にはあの男みたいな悪魔憑きもいるし、報告されたらどんな仕打ちを受けるか分からない。あのじじいのように研究の名目で好き勝手に体をいじくられるかもしれないだろ」



 そんなものはごめんだ、と蒼は吐き捨てた。警察は利用すべきだが、こちらの弱みを知られる訳にはいかない。……警察官である悠乃には言ってしまったが。

 ギブアンドテイク。蒼は悠乃を利用し、悠乃は蒼を利用する。互いの利益の為だと言いながら、誰かに望まれ、利用”価値”を見出されたのは蒼が生まれてから初めてのことだった。だからこそ、蒼は悠乃を裏切らないと決めた。



「蒼君は」

「ん?」

「理事長に復讐したいの?」

「……いや、そんな高尚なもんじゃねーよ」



 少し逡巡するようにしてから尋ねられた質問に、蒼はややあってから否定した。虹島は壊すが、ただ恨んでいるというのは少し違う。



「強制的に契約を結ばされたとはいえ結果的に母親の魂を奪ったのは俺自身だ。それに今のこの自分が嫌いな訳じゃない。ただ……あのじじいだけ自分の思い通りに好き勝手人の人生を弄んで、それで何も痛い目を見ないっていうのもムカつくだろ。ただの憂さ晴らしだよ」

「……」



 悠乃が少し疑うような目を向けて来る。だがこれが事実だ。蒼は自分の為にしか動かない。死んでいった父の苦悩など知ったことではない。腹立たしいから虹島をぶっ壊す、それしか理由なんてない。

 悪魔を探す悠乃を利用して、警察を虹島へ誘導する。本家へ介入させることが出来れば、悪魔の研究も当主の思惑も全て壊すことが出来るかもしれない。蒼が考えたのはそれだった。意気込んで虹島高校へ来た癖に悠乃が編入してくるまでどうにも手出しできなかった蒼は、彼女が来た時にようやく光が見えた気がしたのだ。



「蒼君……私、頑張る」

「何を?」

「虹島がやってることを終わらせるの、私頑張るから!」



 泣き止んだかと思ったら、今度はすぐに決意を固めた表情で悠乃は宣言した。立ち上がったかと思うとテーブルを迂回して蒼の傍に座り込んだ彼女は蒼の手を力強く握りしめて再び真剣な表情で口を開く。



「蒼君がしっかり憂さ晴らし出来るように、捜査も今まで以上に力を入れる!」

「……アホだろ」



 呆れた。だけどそれだけじゃない。どこかむずがゆくなるような、何とも言えない気持ちを悟られないように蒼は悠乃が自分を見ないように強引に彼女の頭を押さえつけるようにして髪をぐしゃぐしゃと撫でた。困惑の声が上がるが勿論無視する。

 蒼の、他人の為に頑張るという悠乃は、本当に眩しいぐらい馬鹿みたいだ。


 彼が溜息を吐いていると、不意にインターホンの音が聞こえて来た。滅多になることのないそれを無視しようかと思った蒼だが、「出ないの?」と不思議そうに言ってくる悠乃にしかたなく腰を上げた。



「あ、蒼君服!」

「そういやそうだった」



 暑いので服を脱いだままだったが、流石にこのまま出る訳にはいかない。シャツだけを羽織って適当にボタンを留めながら扉を開けると、そこに立っていたのは予想していなかった人物だった。



「あれ、おっさん?」

「速水さん?」



 扉の先にいたのは険しい表情を浮かべた速水だった。蒼の言葉を聞いて悠乃も顔を出すと、彼は少し驚くように目を見開いてから更に恐ろしい表情を浮かべる。

 速水の右手が、彼の懐に差し込まれた。



「……殺す」




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