37. 何者
翌日、夏期講習もなかったその日悠乃は私服でいつもの通学路を歩いていた。蒼との待ち合わせ場所は高校の最寄り駅の広場だ。蒼の自宅は高校に近いらしいのでそこで会うことになったのだが、この駅は利用者も多く規模も大きい。部活の為に高校を訪れる生徒の他にも悠乃と同様に待ち合わせに使う人間も多い。
ただでさえ暑い中人込みの中を歩くのは辛い。幾度かぶつかりそうになりながら広場にある噴水の傍までやって来た悠乃は、蒼はもう来ているだろうかとぐるりと見回した。
「あ」
すぐにその姿は悠乃の視界に入って来る。何しろ蒼は目立つのだ。暇そうに壁に寄りかかっているその姿はとても絵になり、まさしく黙ってさえいれば完璧な人間に見える。周囲の人間もちらちらと視線を向けており、悠乃は普段忘れてしまうが本当にかっこいいな、と感心する。
「蒼く――」
「おい、あれってもしかして朝日じゃね?」
悠乃は彼の元へと足を速め声を掛けようする。しかし蒼を呼ぶ彼女の声よりもずっと大きな男の声がそれをかき消し、悠乃は思わず足を止めた。
「あーホントだ。マジで?」
「ちょっと行ってみようぜ」
悠乃の隣をすり抜けるようにしながら二人の青年がそう話している。高校生であろう彼らはそのまま蒼の目の前に来ると、顔を上げた彼に厭味ったらしい口調で話しかけた。二人の体格は大きく、平均程度の身長で細身の蒼の前に立つと酷く威圧感を覚える。
「お前朝日だろ?」
「……そうだけど?」
「うわ、すげえ生意気になってる! 中学の時はあれだけ根暗だったのに高校生デビューってか?」
「うけるー」
「……」
げらげらと笑う彼らに悠乃は眉を顰める。話を聞く限り恐らく中学時代の知り合いなのだろう。蒼は何も言わずに無表情を貫いているが、堪らなくなった悠乃は止めていた足を動かして彼らの元へと走った。
「っていうか何か言えよ。がり勉の朝日くんー?」
「……」
「蒼君!」
悠乃は構わず蒼達の間に乱入すると彼の腕を掴む。悠乃を見た蒼はようやく無表情だった顔に少し驚いたような感情を浮かべた。
「悠乃」
「あ? 何だよお前」
「蒼君、早く行こう」
男達を相手にしないように悠乃は蒼を連れてその場から離れようとする。しかし二人のうちの一人が悠乃の前に立ちはだかって行く手を阻んだ。
「朝日の癖に女連れか? 随分チョーシに乗るようになったんだな」
「どいてください」
「まあ、待てよ。朝日が中学時代どんなやつだったか気にならないかー?今はかっこつけて調子に乗ってるみたいだけどな、昔は――」
「触るな」
蒼が悠乃の手を振り払う。一瞬自分に言われた言葉かと思った悠乃だったがそれはすぐに違うと気付く。男が内緒話をするように彼女に近づき肩に手を置きそうなった所を蒼の手が弾き飛ばしたのだ。
更に蒼はそのまま自分の手を悠乃の肩に置いて引き寄せる。思わず悠乃が蒼を見上げると、そこには先ほどとは違う、いつも通りの意地の悪い笑みを浮かべた彼がいた。
「ところであんた達、誰?」
「……はあ?」
「俺って頭良いし記憶力も良いんだよね。それなのに俺が覚えてないってことは単なる人違いか……それとも、本当に覚える価値のないようなどーでもいい人間だってことだ」
ようやくいつもの調子を取り戻したかのような蒼の言葉に、話す内容が内容だけに少々不謹慎だが悠乃は安心してしまった。
「ふざけるなよ根暗野郎、それ以上調子に乗ると」
「乗ると、どうなるんだ? 怖い怖い、見知らぬ人間に訳の分からない恫喝されたら……もう警察でも呼ぶしかないかねえなあ。俺、こわーい警察官のおっさんと知り合いなんだよねえ?」
携帯をひらひらと示しながら蒼が笑うと、一瞬男達が怯んだ。“警察”という言葉に反応して僅かに出来た隙を見て蒼がさっさと悠乃と共に人込みの中に滑り込むと、少々遅れて男達は「待て!」と怒声を上げた。
「どうせはったりの癖して……ってだから待て!」
勿論それで蒼が足を止める訳もない。悠乃の肩を抱いたまま人込みの中を器用に縫って歩く蒼に対して、体格の良い二人は周囲を歩く人間に足止めを食らって満足に進めてはいなかった。
「蒼君……」
「邪魔者はいなくなったな。さっさと行くか」
人込みを抜けると蒼の手が悠乃から離れる。そのまますたすたと歩いていく蒼の背中を見つめていた悠乃は、はっと我に返って慌てて彼の後を追いかけた。
道中の会話は特になかった。悠乃が先ほどの二人組を思い出していたこともあるが、蒼の家が思いの外近くあったということもある。蒼の少し後ろを歩いていた悠乃は不意に立ち止まった蒼に気付いて少々俯いていた顔を上げた。
「ここだから」
見上げた先にあったのは二階建ての古びたアパートだ。そのまま外にある階段を軋ませて二階に上がると、廊下の一番奥の部屋の前で蒼は鍵を取り出した。さっさと扉を開けて部屋の奥に入っていく彼に、悠乃も「お邪魔します……」と遠慮がちにその後に続く。
蒼の家の中は酷く質素だった。ワンルームの狭い部屋には殆どの家具はなく、備え付けのキッチンにも調理器具は出ていない。当然エアコンもなく蒸し暑い空気が充満している。蒼は小さな冷蔵庫からお茶を取り出すと、コップに注いでテーブルに置いた。
「悪いが暑いけど我慢してくれ。誰にも聞かれない場所がここしかなかった」
「大丈夫だよ。お茶頂きます」
炎天下の中歩いて来た悠乃は酷く喉が渇いていた。ひんやりとしたコップからお茶を飲むと、悠乃は蒼の言葉を待つように彼を見つめる。蒼もテーブルを挟んで悠乃の正面に座り込むと、言葉を選ぶようにして暫し沈黙した。
外から蝉の鳴く声と共に車が走り去る音が聞こえてくる。じっと蒼を見つめていた悠乃は、不意に蒼が口を開いたのを見て居住まいを正した。
「悠乃は、虹島についてどう思う?」
「どうって」
「感じたことや印象、なんでもいいけど」
悠乃は少し考えるように俯く。はじめは速水に名前を聞くまで有名な家であることすら知らなかった。しかし今は様々なことが頭を過ぎる。楓、小夜子、黒木、理事長、そして……悪魔。
「……虹島会長や夕霧先輩は悪い人には思えないけど、でも何か隠してるのは確かだと思う」
「どうしてそう思う?」
「夕霧先輩は最初からずっと蒼君のこと危険だって言ってた。関わらない方がいいって私に言ってたの。それに、昨日虹島会長と話してた時も少し様子が可笑しかった」
何より極め付けは黒木だ。楓の言葉が気掛かりだった悠乃は昨日警察署へ寄って、調査している面々に混じって生徒名簿を調べた。しかし、黒木という男子生徒はいたが全くの別人で、あの黒木本人はどの学年にも籍を置いていなかったのだ。
楓が言い澱んでいた理由は分かったが、ではどうして黒木は生徒に成りすましていたのか。
「蒼君は分かる?」
「悠乃も考えてみろよ。どうしてあいつはわざわざ生徒の振りなんかして……そんなことが出来ているのか。あの会長もそれを承知なら、どうしてそれを許可したのか」
「……」
「まったく思い浮かばないか? じゃあヒント。黒木は虹島の分家の人間じゃない」
「違うの?」
「そう。それなのに学校に籍のないやつを傍に置いてる……その意味、分かるか?」
蒼に促されて悠乃は思考を巡らせる。
三人は随分親しげだった。分家の人間ではないにせよ黒木も楓にとっては大切な存在なのだろうと悠乃は感じた。しかし何故黒木は生徒の振りなどをしているのか。普通に入学することはできなかったのか。学校に籍を置けない理由とは……籍?
「じゃあもうひとつ。黒木はお前が“見えている”ことを知ってた」
「……え?」
何故、という言葉で頭がいっぱいになる。あの学校で悠乃が悪魔を見ることが出来ると知っているのは捕まえる直前に知った月島を除いて蒼と理緒、そして――。
「……悪魔?」
「そういうことだ」
悠乃に月島のことを密告した悪魔しかいない。黒木があの悪魔を使役していて知ったという可能性もあるが生徒ではないのに楓達の傍にいること、そして悪魔の知識を持つ分家の人間でもないことを考えると、彼自身があの悪魔であった可能性の方が高い。
悪魔は基本的に悠乃達のような特殊な人間や悪魔憑きではないかぎり見ることは出来ない。しかし召喚者の命令や悪魔自身が現世に姿を現わそうとするのなら話は別だ。そんなこと自体稀なことだが、しかし不可能ではない。悪魔の力をもってすれば人に化けるなど造作もないのだ。事実悠乃が見た悪魔と黒木の顔は殆ど似ていなかった。
蒼は笑って頷く。悠乃には真実かは分からないが、彼は確信を持っているように見えた。
「本当に?」
「本当だ。まあ知ってる理由はあとで分かる」
「……黒木君が、あの悪魔。じゃあ主は」
「勿論あいつらのどっちかだ。そこまでは俺も確信を持って言えない。まあ黒木にとってはどっちも主のようなものだろうからあんまり関係ないだろうが」
確かに、と悠乃は頷く。あの悪魔は自分の召喚者を随分と大事にしているようだった。それが楓なのか小夜子なのかは分からないが、三人がよく一緒にいる所を見ると、主でないもう一人も同じように大切なのだろうと想像できる。つまり魔法陣の有無はともかくどちらも主だと考えていた方が分かりやすい。
「蒼君は虹島のこと、実際にどこまで知ってるの?」
「そんなにしっかりと知ってる訳じゃない、けど……あの理事長のじじいがやってることは少し知ってる」
「理事長が?」
「悠乃、虹島は悪魔の研究をしていた、だったな?」
「うん……」
「あのレポートが正しいのなら昔はそうだったんだろうな」
昔は、という言葉に悠乃は引っ掛かりを覚える。ならば今は、蒼が知る理事長は研究を行っていないということだろうか。
「今はやってないってこと?」
「今もそうかもしれない。だけど確実に、それ以上に質が悪いのは確かだ」
「どういう、こと?」
蒼はやや言い澱むように一旦口を閉じる。そして少しお茶を飲んで喉を湿らせると、改まった様子で真っすぐに悠乃を見据えた。自然と彼女も緊張で背筋が伸びる。
「今の虹島の当主……理事長のあのじじいは今まで何度も悪魔を召喚している」
「何度もって」
「そして何より……あいつはそれを楽しんでるんだ」
悪魔召喚を、楽しむ?
あまりにも文章としての繋がりが可笑しくて悠乃は首を傾げた。しかし蒼は黙って首を振って、淡々と感情の籠らない声で話を続ける。
「研究なんて名目があるのかは知らない。だけどあのじじいは明らかに悪魔や魔獣を召喚することを娯楽として考えてる。……贄にする人間のことも含めて、あいつはただ自分を楽しませるための玩具だと思ってるんだ」
とうとう悠乃は言葉を失う。娯楽? 玩具? 贄にされた人間がどうなるかも分かっていて、それを楽しむ?
唖然として目を見開いたまま思考を停止させた悠乃を見て、蒼は少し迷うかのように目を泳がせた後、突然その場に立ち上がった。彼が動き出したことで我に返った悠乃は何をするのかと座ったまま蒼を見上げ、そして驚くことになる。
「蒼君、どうしたの……って、え、ちょっと!」
蒼は何故か、突然着ていた半袖のシャツのボタンに手を掛けるとそのままそれを外し出したのだ。いきなり服を脱ぎ始めた彼に悠乃は目を白黒とさせて慌てて目を逸らした。
「急になんで!」
「朝日、というのは虹島の分家の一つだった」
「……え?」
ボタンを外しながらも冷静な声で話し出した蒼の言葉に、思わず逸らしていた視線を再び彼に向ける。
朝日が……つまり、蒼が分家の人間?
「17年前、朝日の家に一人の男の赤ん坊が生まれた。だがその直後、虹島の当主はその赤ん坊の母親を生贄に一体の悪魔と契約を交わした。……いや、少し違うか。その赤ん坊を無理やり悪魔憑きにして契約させたんだ」
生まれたばかりの子供にその母親を生贄にさせる。一体どれだけ非道なことをするのか。ましてやそれが娯楽の一環だというのなら外道としか言いようがない。
ボタンを全部外すと蒼はそれを床へと脱ぎ捨てる。そしてもう一枚中に着ていたタンクトップにも手を掛けた。
「その時のじじいの考えはこうだ。人間に悪魔の力を宿らせることが出来るのか。人間を悪魔に変えることは出来るのか。そんな好奇心で悪魔は召喚されて……その結果生まれたのが、俺だ。――悪い、気持ち悪いもの見せる」
全て脱ぎ捨てて上半身裸になった蒼は、少しだけ躊躇って言葉を付け足した後彼女に向かって背を向ける。
「あ……」
悠乃は思わず口を覆った。目が逸らせなかった。蒼の背中には大きく刻み込まれた丸い紋様―ー魔法陣がぼんやりと小さな光を纏っていたのだから。紛れもない悪魔召喚のためのそれに加えて更に彼女が驚いたのは……その魔法陣を傷付けるかのように付けられたあまりにも酷い無数の火傷や切り傷だった。
悠乃には見えない位置で、蒼は自嘲気味に笑った。
「人と悪魔の融合体。二つの魂がぐちゃぐちゃに混ざり合った、悪魔に言わせれば気色の悪い魂。人間でも悪魔でもあるいびつな存在……そんなものが、俺だ」
 




