36. 黒木
悠乃と楓が生徒会室で話をしていた頃、蒼は一人別の校舎の廊下を歩いていた。虹島が経営するこの学校が好きな訳ではないが、それでも自宅に比べたら廊下ですら涼しい校舎内は快適で過ごしやすい。
しかし蒼が今目指しているのはエアコンの効かない屋外だ。ふらふらとのんびりとした足取りで歩いていると、「待って!」と高い声が背後から聞こえて蒼を呼び止める。聞き覚えのない声だと思いながら彼が振り返ると、案の定見たことのない女子生徒が早足で蒼の傍まで駆け寄って来るところだった。
ああ、と何となく呼び止められた理由を察して面倒臭いと思った。
「蒼君、ちょっといい?」
「……何?」
馴れ馴れしい、というのが第一印象だった。恐らく同学年だろうその女子は、勝気そうな中々の整った顔立ちをしている。彼女は可愛らしい封筒を手に持っており、少し恥ずかしそうに顔を紅潮させながらそれを蒼に差し出して来る。
「あの……私、蒼君のことが好きで」
「……」
「体育祭の時に走ってるの見て、その、一目惚れしちゃって……あの、これにアドレスとか書いてあるから――」
「俺、付き合うとかそういう気さらさらないから」
「え」
それじゃ、と億劫そうに声を出した蒼は止めていた足を動かして再び歩き出す。しかしすぐに腕を掴まれてその足は止まる。
「待ってよ!」
「返事はしたはずだけど?」
「友達からでいいから、少しは考えて欲しいの」
必死に蒼を引き留める彼女に思わず眉を顰め、掴まれていた手を振り払った。
「そもそも友達もなる気ないから」
「どうして……やっぱり、蒼君は鏡目さんのことが好きなの?」
「……それ、あんたが知る必要ある?」
「だって、そうじゃないと諦められない……」
手紙を握りしめて泣きそうな顔で蒼を見上げる。こんなにもすっぱりと振っているというのに答えた所で本当に諦めるのかと蒼は暫し頭の中で考える。
「本当に好きなの……誰よりも、鏡目さんよりもずっと、私の方が蒼君のこと」
「じゃあこうしようか」
蒼は女子生徒の言葉を躊躇いなく遮って明るい声を出した。はっと顔を上げた彼女はにこりと笑った蒼を至近距離で見て思わず心臓を高鳴らせる。
蒼の手が彼女の持っていた手紙に伸びる。それを受け取った彼は微笑んだまま手紙を女子生徒の目の前まで持ってくると、不意にその表情を一変させた。
「諦めさせてやるよ」
蒼は両手に力を籠める。そして彼女の目の前で手にしていた手紙を真っ二つに破ってしまったのだ。
「……え?」
何が起こったのか分からない彼女を置き去りにして、蒼は丁寧に丁寧に、手紙を細かく千切る姿を見せつける。にたりと、悪い顔で楽しげに笑いながらそれを続けた彼は最後にそれをぱらぱらと廊下へばら撒いた。
手紙と一緒に、彼女も力が抜けたように廊下に座り込んだ。
「なん、で」
「ん? このままネットにアドレス晒される方がよかったかー? せっかくこのまま捨てられるようにわざわざ個人情報処理してやったっていうのに」
「どうして……私はただ、蒼君が」
「あ、それあんたのなんだから、ちゃんと自分でゴミは片づけておけよ。ゴミはゴミ箱へ。ジョーシキだから」
手紙をゴミ呼ばわりされた彼女は大きく目を見開いて放心した。唇が戦慄いて震えるが、しかし蒼は彼女を一切視界に入れることなく踵を返す。すたすたと足を進めて廊下の角を折れると、蒼は今まで浮かべていた笑みを消し去って真顔になった。
そのまま蒼は屋上に続く扉の前まで行くと鍵を開けて階段を上る。そして真夏の太陽に晒される屋上へと出ると、一度視線だけを動かして周囲を見回してから日陰に腰掛けた。
「くく……相変わらずひでえ男」
「……黒木か」
「そんなこと言って、オレを探しに来たんじゃないのか?」
蒼が座り込む日陰の、真上。影を作っているその建造物の上からその声は振って来た。そこから蒼の横に飛び降りたのは、幼い顔立ちをした一人の男子生徒――黒木だった。
「あーあ、せっかく結構可愛い子だったのに可哀想になあ?」
「覗きとか趣味悪いんじゃねえの」
「これで流石にあの子はお前のこと幻滅しただろうな。……前みたいに鏡目悠乃が嫉妬されていじめられることもなく」
「……」
「わざわざ泥被って、お優しいこった」
「俺が本当にそんなことするとでも思ってんのか?」
「思ってるとも、偽悪者君?」
蒼は一つ舌打ちをすると、苛立たしげに黒木を睨み付けた。
悠乃のことを引き合いに出されたのは事実だが、先ほどの女子生徒が実際に悠乃に嫉妬していじめるかなど分かるはずもない。むしろそうならない可能性も十分にあるのに、あれだけ過剰に自分のことを嫌わせる行動を取ったのは、単純にこれ以上付き纏われるのが嫌だったからだ。それ以外に他意などあるはずがない。
嫌われるのは慣れている。今更一人や二人増えた所で何の感慨も抱くことはない。
「悠乃を階段から突き落としたらしいな」
「へえ、お前はそのことを怒ってるんだな。ただ“目”を利用してるだけかと思ったが、これは本気であいつに惚れたのか?」
「馬鹿言え」
「なら別にお前が気にすることでもないだろう。むしろお前、こうなることを望んでたんじゃないのか? わざわざオレ達に見せびらかすように傍に置いた癖に今更何を言っている」
黒木の言葉に蒼は一瞬言葉に詰まった。彼の言うことは的を得ているのだ。
生徒会に警戒されている蒼と親しい姿を見せて、彼らに悠乃を蒼の仲間だと認識させる。そうして彼女を危険視して危害でも加えてくれればいい、と思っていたのは事実だ。向こうから尻尾を出してくれるのなら警察も虹島へ目を向けて動いてくれるのではないか、と。
だからこそ蒼は悠乃をわざわざクラス委員にさせて生徒会と近づけた。彼らにより自分達が一緒にいる姿を見せるために。あえて最初から悠乃に名前を呼ばせたのも親しい間柄だと示す為、そんな思惑だった。
「……ただ、あの偽善者どもがそうすると思ってなかっただけだ」
「確かに、楓も小夜子も甘ちゃんだからな。あれは俺の独断だ、あいつらは知らねえよ」
「そんな所だろうな」
「警告とは言ったが、結局お前らの目的は分かってないんだよなー。ま、オレ達に何かするようだったら勿論その時は容赦しない。一応言っておく」
黒木は口を閉じると蒼から離れてフェンスに近づく。がたがたと揺れるそれを難なくよじ登ると、彼は外側に足を放り出す形でフェンスの上に腰かけ、一度蒼を振り返った。
「……その奇妙な魂といい、本当にお前は何者なんだろうなあ」
「お前には絶対に教えてやらねー」
「はは、だろうな」
黒木は笑って前を向くと、そのまま勢いよくフェンスを蹴った。当然彼の体は空中に投げ出され、そして落ちていく。蒼の視界から消えた黒木を、しかし蒼は特に気にすることもなく目を閉じ、眠る姿勢に入る。
「……お前には、な」
「あいつら……絶対に見返してやる」
楓の前から逃げ出した五十嵐は、憤りを露わにしながら高校の敷地内を大きく足音を立てながら歩いていた。ちらりと見上げた先には学校の敷地に面するように虹島の屋敷がある。
「俺だって理事長に気に入られればあいつらなんて」
本家の当主に認められれば将来は約束されたようなもの。その為には今現在その地位にいる小夜子を蹴落とすのが一番の近道だろう。適当に彼女の悪い噂をでっち上げて本家に報告し、自分が彼女の立場に成り代われれば一番いい。
酷く杜撰な計画を立てた五十嵐は虹島の本家へ向かっていたが、いざ屋敷の敷地内へ足を踏み入れようとしたとき、庭の方から突然声が掛かった。本家に入る緊張で体を強張らせていた五十嵐はその声に異様に驚いてしまい、大きく肩を揺らしながら弾かれるようにそちらを振り返った。
「おや、その制服は高校の生徒の子かな?」
「理事長……」
穏やかな老人の声だ。五十嵐はのんびりと自分の方へやって来るその老人が理事長――虹島の現当主だと理解した瞬間、背筋を伸ばして「お、お邪魔してます……」と消え入りそうな声で言った。理事長として檀上に上がる姿は見たことがあるが、分家の人間といえども直接会うのは初めてだった。
「あの、俺五十嵐と言って、虹島の分家で」
「……ああ、五十嵐の家の。何かうちに用があったかな?」
「いや、その……俺、生徒会の会計をやっているんですけど……あの、まだ一度も本家にご挨拶に伺ってないなと思いまして」
もごもごと誤魔化すようにそう告げる。まさか当主本人に面会できるとは思ってもみず、小夜子の悪口などこのタイミングではとても口に出来なかった。
恐縮するように頭を下げた五十嵐を理事長は観察する。しばらく静かにそうしていた後、彼は人の良さそうな表情を浮かべて「顔を上げなさい」と五十嵐に優しく声を掛ける。
「折角来たんだから上がって行くといい」
「い、いいんですか?」
「この老いぼれに色々と楽しい話を聞かせてほしい。ゆっくりしていきなさい」
「……ありがとうございます!」
一気に五十嵐の機嫌が急上昇する。当主自らに招かれたのだ、きっと自分は気に入られたのだと浮かれた彼は、今までとは反対にとても軽やかな足取りで屋敷の中へ向かう理事長の背中を追った。
「……せいぜい儂を存分に楽しませてくれ」
五十嵐の先を行く老人の発した小さな呟きは、生憎有頂天になっている彼には到底届くことはなかった。




