34. 隠し事
翌日の朝早く、和也は空港に居た。
「という訳で、悠一にもどやされているのでこれから帰ります」
『……お前、悠一にはちゃんと許可取るって言ったよな……?』
「取りましたよ、一方的にですけど」
『あのなあ……』
飛行機に搭乗するまでの時間に和也は速水と連絡を取っていた。ここに悠乃達はおらず、和也は現在一人だ。彼らは今頃まだ理緒達の祖母の家で起き出す頃だろう。
速水の呆れた声を聞いて、今頃電話の向こうで頭を押さえているんだろうなと容易に想像がつく。
『でも別に、悠乃達と一緒に帰って来ても良かったんだぞ? どのみち今日中には戻って来るだろうに』
「目的は全て達成しましたし、それに俺がいると嫌そうな顔をするやつがいたんでね」
『……ああ、朝日君か。それで、お前から見て彼はどうだった?』
「面白いですね。俺は結構好きなやつですよ」
軽く受け答えをしながら彼は頭の中で旅行中の記憶を呼び起こす。悠乃と一緒にいることが多かった蒼。彼は本人に言った通り和也の中では十分認められる人間だった。
悠乃が数か月一緒に居ただけで気を許しているという点もあるが、彼自体も随分悠乃に対して意識を割いているようだ。一日目に悠一からの電話に悠乃が怯えた時も、そしてその後理緒から詮索された時も、蒼はまるで悠乃を守り、庇うような言動を取っていたのを和也は見ていた。まるで自分本位に振る舞うが、悠乃に対する態度を見ればそれだけの男ではないことが窺える。
「誰も彼もにいい顔するやつよりかはよっぽど信用できると思いますよ。少なくとも悠乃のことに関しては」
『そう、か』
「でも……ひとつ」
気になることが、と続けそうになった和也が口を閉じて沈黙する。速水に伝えるべきか黙っておくべきか。そう脳内で思考を高速回転させながら逡巡していると、電話の向こうから不思議そうに名前を呼ばれる。
『和也?』
「いや、なんでもないです」
結局彼は言葉を呑み込んで何てことないように言葉を濁した。速水が特に気にする様子はなく、和也は無意識にほっと安堵の溜息を吐く。
気味の悪い魂だ、と彼の悪魔は不愉快そうに蒼を見ていた。コウが他の人間にそんなことを言うのは初めてで、首を傾げてどういうことかと問いかけた和也にコウは難しい顔をして呻いた。
『あんな奇怪な魂は見たことがない』
『それは、人間じゃないってことか……?』
『いや、そうではない。確かに人間なのだが……上手く言えないが、はっきり言って気持ちが悪い。人間だが、ただの人間ではない』
朝日蒼は一般人ではない。悪魔が見えるのは勿論だが、それ以上の何かがある。コウの言葉を和也は疑うことなく受け入れた。だというのに、最終的に彼は速水に報告するのを止めてしまったのである。
もし和也が速水にそれを伝えれば、彼は間違いなく今までより一層蒼を疑うことだろう。彼を徹底的に調べ、危険視して傍にいる悠乃を引き離そうとするかもしれない。……速水はともかく、もし悠一が知ってしまったら確実にそうなるのは目に見えている。
蒼のことを“一番安心する人”とまで言い切った悠乃から彼を引き離したらどうなるのか。そう思えば和也は口を閉ざすしかなかった。
「……速水さん」
『なんだ?』
「そろそろ速水さんも子離れした方がいいんじゃないですか」
どういう意味だ、と訝しげに問う声に軽く笑って通話を終える。蒼の言う通り、彼らは少し過保護すぎると和也も思う。
悠乃の境遇もあり速水達の気持ちも分からないでもない。確かに悠乃にとって、彼らのような彼女を庇護する存在が必要であることは確かだ。しかし今悠乃が求めているのは、蒼のように一緒に前に進んで、時にその手を強引にでも引っ張ってくれる存在なのだろうとも思うのだ。
「ちびすけだっていつまでも子供じゃねえんだから、ほどほどに放っておけばいいんだよなあ」
たとえ放っておいても、少なくとも今の悠乃には心強く、そして少々ひねくれた味方がいるのだから。
「やっぱり来たからには泳がないとね」
理緒のそんな言葉で、悠乃達は最終日の午前中を洋館の傍で海水浴をして過ごすことになった。午後には帰宅の準備をして、夕方発の飛行機で帰る予定だ。
真夏の強い日差しの下、冷たくて気持ちの良い海で泳いでいるのは四人だ。悠乃と理緒、星崎と、そして彼らの祖母だった。和也は何故か朝一の飛行機で帰ると連絡が入ったので、今頃もう向こうに到着している頃だろう。
「理緒ちゃんのおばあさん、元気だよね」
「ここに引っ越してきてから泳ぎまくったおかげでかなり丈夫になったんだってさ。朝日も見習えばいいのに」
悠乃達の視線の先には、少々深い場所で孫と泳ぎの競争をしている祖母がいる。彼女が速いのか、それとも星崎の体力がないのか、意外にその差は拮抗していた。
そして理緒が名前を挙げた蒼はというと、当然というべきか泳ぐ気など毛頭ないらしく砂浜で木陰に入ってのんびりと悠乃達を眺めている。
「一応聞いてみたけどやっぱり泳がないって」
「やっぱり泳げないとこ見せたくないだけに決まってるって。弱みを見せたくないんじゃない?」
本人は泳いだことはないが多分泳げると言っていた。が、その真偽はやってみなければ分からない。
「……そういえばさ、悠乃。もう貰った?」
「貰う? 何を?」
「あー、分からないんならいいや」
突然話題が変わったかと思えば、理緒の言葉の意味が分からずに悠乃は首を傾げた。どういうことかと尋ねても「すぐに……そのうち分かるよ」としか言われず、楽しげに笑う理緒に悠乃はますます困惑してしまう。彼女の表情から少なくとも悪いことではないのだろうと判断した悠乃は、それ以上何も言う気がなさそうな理緒に追及を諦めることにした。
「ちょっと蒼君の所行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
少し泳ぐのに疲れた悠乃は、一息吐くために海から上がって蒼のいる木陰へと向かった。海から出た瞬間に体を熱気が包み、足元の砂がじわじわと熱さを主張し始める。自然と足を速めて木陰に入ると途端に足の裏が冷やりとして気持ちがいい。
「蒼君、暑くないの?」
「別に?」
「熱中症にならないようにね」
悠乃は蒼の服装に目を落とすと、少し心配そうに言って彼の隣に腰を下ろす。いくら木陰にいるといっても、蒼はTシャツの上から更にパーカーまで着ている。下はラフなショートパンツだが、それでも今まで水着で海に入っていた悠乃にとってはとても暑そうに見えた。
「お前はもう泳がなくていいのか?」
「ちょっと休憩。それに……蒼君が出来るだけ離れるなって言ってたでしょ?」
「ああ……あれはもういいんだけどな。あいつ帰ったし」
「和先輩と関係があったの?」
「あいつというか、警察の人間に憑いてる悪魔と顔を合わせたくなかった」
なるほど、と悠乃は納得する。確かに悠乃の傍に居れば、和也の悪魔は決して出て来ることはないだろうと。その理由――蒼が悪魔を避ける訳は、今は分からないけれど。
悠乃はそっと隣の蒼を窺う。何を考えているか分からない顔で理緒と星崎の競争を眺めている彼の目的は、昨晩聞いたばかりだ。
「ねえ……虹島を壊したいって言ったけど、どういうこと?」
「そのままの意味としか。俺はあれが大嫌いだ。だから壊したい、以上」
「じゃあ虹島会長を嫌ってるのは……」
「ん? ああ、それは関係ない。あいつは根本的に気に食わないから。たとえ虹島であろうとなかろうと生理的に受け付けない」
「そ、そうなんだ」
あまりにもきっぱりと言われて悠乃は少し驚いた。あれだけ楓を嫌っておいて、しかし家のことは関係ないらしい。尚更楓を嫌悪する理由が分からなくなった。
「そういう話は帰ってからな。あいつは居なくなったが、長くなるしここで話すことでもない」
「でも蒼君、本当にいいの?」
「何が?」
「私に色々話して。フェアじゃないって言ったけど、私も一応警察官だよ? 蒼君にとって不利になるかもしれないのに」
蒼と悠乃は対等な関係だ、と言ったのは彼の方だ。そんな風に言われたのは悠乃にとってとても嬉しかったが、警察官である自分の立場がそんな彼の気持ちを無碍にする日が来るかもしれない。蒼の事情を知った悠乃がそれを悪用しないと彼は言い切れるのか、と。
そう言って少々不安そうな表情を浮かべた悠乃に、蒼は意外そうに片眉を上げて「ふうん」と相槌を打った。
「つまり悠乃は俺が話したことを包み隠さず速水のおっさんに報告するつもりなんだな?」
「え」
「そいつは困るなあ。折角お前のこと結構信頼してたのに、残念だ」
「違う! そんなことはしないけど……」
「なら別にいいだろ。……というか、お前はそれでいいのか? 警察官なのに職務よりも俺を優先して」
「……」
「例えばさ、今後速水のおっさんに俺についての情報を全て吐け、と命令されたらどうする。警察……おっさんと俺、いざとなったらお前はどっちを取るんだ?」
「それは……」
悠乃が困った表情で黙り込むのを、蒼は少々楽しそうに眺めている。
悠乃は警察官だ、そうである自分に一応誇りもある。そして何年も保護者として一緒に居た速水には勿論恩も情もある。それに対して任務に協力してくれたとはいえ僅か数か月一緒にいただけの蒼。
蒼には悪いが本来なら迷うこともない質問だ。しかし悠乃は答えに窮していた。
悠乃は顔を上げて蒼をじっと見つめる。蒼と一緒にいる時、悠乃はとても安心する。それは恐らく、彼が自分を絶対に裏切ることはないと心の底から信じているからなのだろうと思った。
何故そんな風に思うのか、その答えを悠乃は知らない。だがいつからか悠乃は蒼に対して絶対的な安心感を覚えるようになっていた。
「冗談だよ、そんなに真剣に悩むなって」
「私は……」
それがいつ頃からだったかと考えた彼女は、何となく思い当たる記憶を見つけ出した。あの時……月島の悪魔と対峙したあの時だ。訳も分からないまま蒼に泣きついたあの瞬間、悠乃は彼に対して言葉にならないくらい安堵した。
術を受けた所為か起きた頃の記憶は曖昧でそう感じた理由も覚えていない。あの時自分に何があって何を思ったのか。必死に思い出そうとした悠乃は、気が付けば穴が開くほど蒼の顔を真剣に見つめていた。
「おーい、悠乃? 悠乃さーん」
「……」
「そんなに見惚れられると困るんだけど。……ってホントに聞いてねえな」
「蒼君……」
もう少しで何かを思い出せそうだった。その時悠乃はとても恐ろしい思いをして、そして――。
「約、束?」
「ん? 何だって?」
「あらまあ! 二人でいちゃいちゃするのもいいけど、朝日君もそろそろ泳いだらどう?」
悠乃が何かを思い出しかけたその時、理緒達の祖母が大きな声で悠乃達に向かってそう言って近づいて来た。その声にようやく我に返った悠乃は、頭の中に蘇りそうになっていた記憶を掴み損ねて酷くもやもやした感覚を覚える。何を考えていたのか分からなくなった。
「さあさあ、折角来たんだから泳がないと損よ!」
「いえ俺は……」
「泳げないんなら教えて上げるから大丈夫よ? 若いんだから運動しないと!」
溌剌とした声を張り上げた彼女は悠乃達の元へ到着するやいなや蒼の腕をしっかりと掴む。そうしてぐいぐいと海へ連れて行こうとする彼女に蒼は抵抗するものの、流石に元気とはいえお年寄りに対して乱暴に手を振りほどくことはできず、波打ち際まで連れていかれる。悠乃も彼らを追いかけるが彼女が辿り着いた時には、既に祖母が蒼のパーカーを無理やり脱がし終えた所だった。
「服着てたら余計に泳げないわよ、男ならさっさと脱ぐ!」
「いや本当に無理で――」
「いいからいいから」
更にTシャツに手を掛けた彼女に蒼の顔色が変わった。反射的に祖母の手を振り切った彼は一瞬のうちに動き出し、そして何と自ら海に飛び込んだのだ。
「え!?」
その行動に悠乃が驚いていると、彼はそのまま手足を動かして足の着かない場所まで泳ぎ出す。綺麗なフォームとは言えないが、それでも初めて泳いだとは到底思えない速さで軽快に海の中を進む蒼に、悠乃だけではなく理緒達も同様にぽかんと口を開けた。それも服を着た状態で、だ。今まで嫌がっていたのが嘘のように水中に浮かぶ彼に、理緒と悠乃は思わず顔を見合わせる。
「あいつ、泳げたの……?」
「そう、みたいだね」
「じゃあなんであんなに嫌がったんだろ」
彼女達が首を傾げている間に蒼が戻って来る。肩まで浸かるくらいの深さまで来るとそこで足を止め、面倒くさそうに「これでいいですよね?」邪魔そうに顔に張り付いた髪の毛を払った。
「何だ、朝日君泳げたのね?」
「ええまあ、俺は何でも出来るんで」
「またこの男はそういうことを……」
「でもそれなら最初から一緒に泳げばよかったのに!」
星崎の僻みも聞こえていないらしい蒼は、祖母の言葉にあっさりと首を振って「遠慮しておきます」と断った。
「悠乃、パーカー取って」
「え、でもそのまま着るの?」
「いいから」
波が来ない砂浜に置かれたパーカーを手に取った悠乃はそれを蒼に渡そうとするが、しかし彼は一向にその場から動こうとせず渡すに渡せない。
「濡れてもいいからくれ」と言われた彼女はなるべく上に持ち上げて蒼の元へと持って行くものの、パーカーを受け取った蒼はそんな彼女の行動を一切無駄にするように海の中でそのままパーカーを着用してしまった。
「うわ、着にくい」
「当たり前だよ。でもなんで」
「なんでも」
悠乃の質問に答える気がなさそうな蒼に彼女もそれ以上何も言えない。しかしパーカーを着るとあっさり海から上がって来た蒼を眺めた悠乃は、その理由について嫌でも頭の中で考えてしまう。
蒼は実際に泳ぐことが出来た。それも服のまま海に飛び込んだり、異様にパーカーを必要としてきたりしていたのだ。蒼が本当に嫌がっていたのは、もしかしたら泳ぐことではなく――。
「悠乃、またぼーっとしてんな」
「あ……ごめん」
帰りの機内の中で蒼に声を掛けられた悠乃は、その声に顔を上げて隣の席を振り返る。色々と考え事をしているうちにここまで来てしまった。勿論記憶がない訳ではないが、旅行の疲れもあってぼんやりしていた所為で随分時間が経つのが速い。
「そんなに疲れたんなら寝とけば?」
「うん……」
そう返事をしながらも悠乃は考え事をしながらも開いていた本に目を落とす。それは書庫にあったものではないがそれでも悪魔や魔法陣に関するもので、蒼は隣から本の内容を覗き込んで「へー」と淡々と声を上げた。
「こんなとこでも勉強か?」
「まだちゃんと覚えてない所あるから」
何も知らない人間が見ればただのオカルト趣味だと認識されるだけだろうが、悠乃の場合仕事で実際にその知識を必要とする為しっかりと頭に叩き込んでおかなければならない。
しかしながら今の悠乃には碌に文章が頭に入って来ない。疲れがたまった状態で座っていれば自然と瞼は下に落ちそうになり、頭ががくりと前に傾く。
「……っ」
眠るのならばちゃんと栞を挟んで鞄に仕舞わなくては。そうは思うものの睡魔で手が動かない。悠乃は何度か前方に落ちた頭を上げたものの、眠気に抗い切れずにそのまま夢の中に落ちて行った。
「――まもなく機内は着陸いたします。お客様は、前のテーブルをお戻しに……」
機内アナウンスの声にゆっくりと悠乃の意識が浮上する。重たい瞼を持ち上げると彼女ははっと傾いていた体を起こす。いつの間にか眠っていた。それも、隣の蒼に寄りかかりながら。
「ごめん、蒼君」
「別に? テーブルに頭ぶつけそうだったしな」
どうやら前かがみになっていた悠乃を動かして肩に寄りかからせたのは蒼自身らしい。お礼を言った悠乃はテーブルを畳もうとして、そこに先ほど眠る前に手にしていた本が置かれているのに気が付いた。
悠乃は首を傾げる。何故ならその本には、先ほど呼んでいたページに見覚えのない栞が挟まっていたのだから。手に取ってみれば、それはステンドグラスのような見た目の色鮮やかな栞だった。記憶を辿れば、水族館でお土産コーナーに売っていたような気がする。
「これ、蒼君が?」
「俺は知らない」
「でも、私買ってないし……」
「知らない。でも勝手に挟まってたんなら貰っておけばいいんじゃねえの」
「……」
ずっと窓の外を見ている蒼の表情は窺うことが出来ない。悠乃は蒼と栞を何度か見比べた後、それを再び大事に本に挟んで鞄の中にしまった。
「……ありがとう」
もうすぐ着陸する為に騒がしくなってきた機内の中で、悠乃はそっと微笑みながら小さくそう言った。蒼からの返事はなかったが、彼はやけに忙しなく足を組み直したり手すりを指で何度も叩いていた。




