33. 過保護
時雨と虹島の関係、そして虹島が現在も続くあの虹島の家であるのか。それらの調査は帰ってから調査室の方で行われることになった。何せ虹島が絡んでいる可能性があるとなれば今までよりも更に慎重にならざるを得ない。下手に手を出せばこちらが痛手を食らう可能性がある、それだけ影響力がある家なのだ。
速水に連絡を終えて調査を終えた悠乃は、夕食を食べ終えると洋館から出て、ふらふらと傍の海岸へ足を延ばした。海の傍だとは聞いていたものの、敷地内にあるとは思っていなかった。
「……」
沖縄でなおかつ真夏だ。夕日はまだ完全に沈んでおらず、むっとした熱気が漂っている。冷房の効いた室内の方が過ごしやすいものの、今はここで一人でいることの方が落ち着くことが出来た。
「虹島、か」
速水は調査をすると言ったしそれは確かに必要なことだが、悠乃はほぼ虹島があの虹島であると確信している。よくある苗字でもないのに、たまたま偶然の一致だとは思いにくい。
それに何より、と悠乃は乾いた砂浜に腰を下ろして自身の足を見つめた。打ち身が残るその怪我の原因は彼で、だからこそあの時の“警告”の意味は――
「悠乃」
「!? ……っ蒼君」
考え事に耽っていた悠乃は、突然背後から掛かった声に酷く驚いた。思わず飛び上がるほど体を揺らした彼女は、しかし冷静になってみれば振り向かずともその声の主が分かった。
「どーした? また何かうだうだ悩んでんのか?」
「そういう訳じゃないけど……」
蒼は了解を得ることなく悠乃の隣に腰を下ろす。へらへらと笑みを浮かべる彼は相変わらず何を考えているのか分からないままだ。
「ねえ、蒼君はあの学校のこと、虹島の家が関わってるって思ってる?」
「そういうお前は随分確信してるようだな。何かあったのか?」
「……黒木君が」
「黒木?」
「終業式の日に私、黒木君に階段から突き落とされたの。警告だって言われて」
「……」
黒木は大抵楓と小夜子と一緒にいる。確か小夜子も彼を虹島の分家の人間だと言っていたような気がする。そんな彼が悠乃に警告だと告げた。彼が悠乃のことをどこまで知っているかは分からないが、虹島側の黒木がそう言ったのだ、何かしら情報を掴まれていてもおかしくはない。例えば彼が悪魔憑き……例の悪魔の召喚者である可能性もある。
悠乃が告げた言葉に蒼は一瞬目を見開き、無言でちらりと彼女の怪我に視線を向けた。
「そうだったのか……」
「私はね、学校のことは虹島が関与してると思ってる。虹島会長はそういう人には見えないけど、理事長は少し変な感じがしたから」
「理事長ってお前、会ったのか?」
「うん。他の先生も会長も恐れていたみたいだったし、普通の優しいおじいさんって感じじゃなかった」
祖父と孫にしては酷く緊迫とした空気だった生徒会室を思い出す。ただ厳格な性格なだけかもしれないが、それにしても楓の様子はおかしかった。
「……なあ、悠乃」
「何?」
「俺の目的、教えてやろうか」
「……え?」
悠乃は再び驚いて目を瞠る。今まで教えられないと言われてきたことだというのに、彼の方からそう言ってくるとは思ってなかったのだ。
蒼はおもむろに悠乃の方へ体重を掛けると、彼女の腕を引き寄せて内緒話をするように耳元で小さく呟いた。
「蒼君?」
「俺の願いは一つ……“虹島”を、ぶっ壊すことだ」
端的な呟きの中に込められた強い感情。怒りか、憎しみか、様々なものが混ぜられたようなその声に悠乃は息を呑んだ。
蒼の表情を見る前に彼は離れていく。唖然とした悠乃の顔を見た蒼は、何故か少し満足げに笑って見せる。
「どうして」
「今はこれ以上言えない……誰が聞いているか分かったもんじゃねえからな。後ろ、見てみろよ」
「後ろ?」
蒼に促されて振り返った悠乃は洋館から砂浜へ向かってくる人影を捉える。少し距離があるが、それが和也であることは容易に分かった。
「向こうに帰ったら」
「え?」
「そしたらゆっくり話してやる。今まで黙っていたこと、全部な」
「待って、なんで急に」
「フェアじゃねえだろ、俺だけがお前のこと知ってるのは」
「何だ二人とも、こそこそ隠れてデートか?」
早口で和也が来る前にそれだけ言い切った蒼は立ち上がると、砂を落として悠乃も同じように立ち上がらせた。
直後傍まで悠々とやって来た和也の言葉に肩を竦めた蒼は、余裕の表情で言葉を返す。
「そーです。だから邪魔者はどっか行ってほしいですねえ」
「それは困ったな。お兄さん蒼君とちょっとお話したいんだなあ、これが」
ははは、と互いに乾いた笑いを見せる男達に、先ほどまで暑かったというのに悠乃は寒気を覚えた。
「というわけだからちび、ちょっと先に戻ってろ」
「悠乃、まさかお前が俺を置いていく訳ないよなあ?」
「え……」
蒼が悠乃の腕をがしりと力強く掴む。それを見た和也は挑発するように方眉を上げて見せた。
「おやおや、随分蒼君は寂しがり屋の甘えん坊なんだなあ? こいつが一緒じゃなきゃ俺としゃべることも出来ないなんて、ちびすけもべたべた依存されて大層苦労してそうだな」
「あ? 誰が依存なんて」
「ああ、なら一人でも平気だよな? 普通の幼稚園児でも一人でおしゃべりぐらい出来るしなー、まさか『悠乃が居なきゃヤダヤダ』って駄々捏ねる訳ないよなあ」
「……」
悠乃は頭を抱えそうになる。和也の煽り具合は本当に蒼のようだ。彼女の心情的には蒼を疑う和也と二人にはさせたくないが、完全に苛立った様子の蒼は掴んでいた悠乃の腕を放して「悠乃、戻ってろ」と低い声で告げた。
「あの、大丈夫?」
「いいから戻ってろ」
「……うん」
頭に血が上っている蒼に嘆息した悠乃は言われた通り先に洋館への道を戻り始めた。普段人を散々おちょくる癖に、蒼は意外と逆に煽られるとすぐにペースを崩されるのだ。
蒼は無駄にプライドが高い。本当に無駄に。それは彼自身も自覚していた。悠乃の背中を見送りながら彼は自分を落ち着かせるように大きく息を吐く。
「悪かったな蒼君、デートの邪魔して」
「そう思うなら遠慮して欲しかったんですけど。あと蒼君って気色悪いんで止めてください」
「酷いなー、俺は結構お前に親しみ感じてるんだけど。速水さんにも少し似てるって言われたし」
間違いなくいい意味ではないだろう、と蒼は半ば睨み付けるように和也を見据えた。
「腹の探り合いはもう面倒だって速水のおっさんには言ったんですけどね」
「だったら単刀直入に言わせてもらうか。お前、なんで俺を警戒してるんだ?」
「それこそ言わなければ分かりませんかね? 監視なんてされていたら誰だって警戒しますよ」
「本当にそれだけか? 速水さんにはそこまで距離を置いてなかったらしいけど?」
「……俺、あんたみたいな人間好きじゃないんで」
確かに蒼は速水に対してはそこまで警戒を強めなかった。だがこの男は駄目だ。
「そこまで嫌うことないだろー。俺は実際に昨日と今日見てお前のこと気に入ったよ」
「はあ?」
「うわ、すっげえ嫌そうな顔。笑える」
実際に声を立てて笑った和也は、「いやー本当に来た甲斐があった」と楽しそうに言った。
「正直に言うとな、俺がわざわざここに来たのはお前の監視だけが目的じゃないんだな」
「興味ないので別に言わなくていいです」
「まあそう冷たいこと言うなって。お前に旅費を出すって提案したのは俺なんだぞ?」
「だから感謝しろと?」
「むしろ俺がお前に感謝したいね。お前を見極める為って名目で俺も久しぶりに旅行なんて来られたからな」
蒼を泳がせて動向を監視し、その思惑と人柄を見極める。その為に和也が速水に提案したのは蒼を旅行に向かわせ、自分もそれに同行することだった。
だがそんな理由だけで和也は動かない。そもそも殆ど知らない蒼をわざわざ和也が調べる必要などないのだ。
「俺がそう提案した理由その1、お前の監視。その2、単純に俺が遊びたかったから」
「はあ……」
どうでもいい上に最低な理由だ、と蒼が思っていると「まだあるぞ」と和也は言葉を続けた。
「その3、お前が一緒に行くことによって悠乃が喜ぶ」
「……」
「んでもってその4……あのバカ兄貴の代わりに悠乃の様子を見て来る。以上だ」
「バカ兄貴って」
「あのちびのバカ兄貴だよ。気になる癖に絶対に自分から会いに行こうとしない、大馬鹿もんだ。お前、あいつらの事情どこまで知ってる?」
和也からの問いかけに蒼は肩を竦めて大体は、と答えた。
鏡目悠一、悠乃の兄。両親が死ぬきっかけを作った悠乃を恨み、そして一度は彼女を見捨てた人間。速水や今の和也の言動から、現在はそこまで悠乃に憎しみを抱いている訳ではなさそうだが、彼女は今も恐れている。……けれども同じぐらい慕ってもいるのだろう。
中間テストのあの時、兄に嫌われると泣いた彼女の姿が蒼の頭の中に過ぎった。そして同じように、謝罪を繰り返して泣く小さな女の子の姿も思い出す。
蒼は彼女の兄に会ったことはないし電話で会話をしたこともない。だが――蒼は彼が大嫌いだった。少なくとも目の前の自分を挑発して面白がる和也よりも、ずっと。
「……へえ、あいつが話したのか。相当気に入られたみたいだな」
和也は蒼の返答に少し驚くが、しかしならば話は早いと蒼から視線を外して海を眺めた。気が付けば夕日は沈んでおり、周囲は随分暗くなっている。
「あいつら兄妹はお互い思い合ってる癖にちっとも歩み寄ろうとしないし、会おうともしない。だから時々俺がお節介焼いてるんだけどな……昨日の電話も、少しは会話させようとしただけだったが失敗した」
「本当に余計なお世話でしたね」
「そう言うなって。あれは俺も反省してるんだよ。でもあいつら、ほっといたらいつまでもああだからさ」
蒼の刺々しい言葉を躱し、和也は小さく溜息を吐いた。
「悠一も少しは本人に大事にしてるってことを伝えればいいものを、あいつ回りくどいことしかしねえからさ」
「……任務を途中で放棄させようとするのもその為だと?」
「ほう、よく知ってるな」
「速水のおっさんもその兄貴ってやつも、どいつもこいつも過保護すぎる」
蒼は酷く憮然としながらそう吐き捨てる。その所為で役に立たないと落ち込み、居場所が無くなると恐れているやつがいるというのに随分と身勝手なやり方だ、と。
しかしそんな蒼を見た和也は何故か笑い出す。訳が分からず不愉快になった蒼は苛立ち、つい傍にあった和也の足を思い切り踏みつけた。
「あたっ!」
「どこに笑う要素があったと?」
「いや悪い悪い……俺も同じこと思ってたからさ。確かにあの二人は過保護だよ」
「俺からしたらここまで着いて来るあんたも大概ですけど」
「俺はそこまでじゃねーよ。仮に悠乃がお前に騙されていたとしても、まあそれもいい経験になると思うしな。……例えば俺さ、実は悪魔憑きなんだけど」
「はあ、それが?」
知っているということは告げずにいきなり切り替わった話題に首を傾げる。
「悠一のやつ、悠乃の前では絶対に悪魔を見せるなってすげえ剣幕で言ってくるもんだからホントに困ってんだよ。どんだけ過保護だって話だよなあ」
「……そういうことか」
和也に聞こえないように殆ど消え入りそうな声で蒼は納得して呟く。和也が意図的に悠乃に悪魔を見せないようにしているとは聞いていたが、それに兄が絡んでいたのならば理由が分かる。
和也は悠乃の前で悪魔を見せることはない。だからこそ蒼はこの旅行中、出来る限り悠乃の傍にいるように……この男とこうして二人になることを避けていたのだ。
「俺としては味方の悪魔から慣らした方がいざ対峙した時にもいいと思うんだが、あいつはそもそも悠乃がこの仕事をすること自体嫌がってるからなー」
「実際にもうあいつは何度も悪魔と顔を合わせてる。そんでもってちゃんと戦ってもいる。余計なお世話なんだよ……」
「お、なんだ? やっぱりお前は随分悠乃の味方をするんだな」
「……今あいつにこの捜査を辞められるのは、俺が困るので」
「ふうん?」
探るような目で自分を見る和也に、蒼も視線を逸らさずに彼を睨み付ける。先に視線を逸らしたのは和也の方だった。
「まあ、そう言うんならそれでいいけどな」
「……結局あんたは、俺に何の用だったんですか。これ以上くだらない話をするつもりはないんですけど」
「おっと悪い、結構話し込んじまったな。……まあつまり言いたいことはひとつだ。お前は俺から見て――合格ってこと」
「はあ? 合格?」
「そういうことだ。それじゃあ朝日少年、これからもあのちびのこと、今まで通り頼むぞ」
「……あんたに言われる筋合いはありません」
やっぱりこいつも過保護野郎じゃねーか、と息を吐いた蒼は和也を見ることなく洋館に向かって歩き出す。悪魔憑きであることは元より、こういうタイプの人間――自身と似通った人間と話すのは心底疲れる上に不愉快だった。
「……面白いやつだな」
和也は小さくなる蒼の背中を見ながら無意識にふっと笑みを浮かべる。旅行中ずっと悠乃と蒼を観察していたが、二人のやり取りを見て和也は正直に驚いたのだ。一体どんな手を使ってあの悠乃を垂らし込んだのかと、朝日蒼という男に興味が沸いた。
「カズ」
「っわ、急に出てくんなって! 悠乃がいたらどうするつもりだ」
「そのくらい気を付けておるわ」
一息ついて和也も洋館へ戻ろうとしたその時、突如目の前の空間が歪んだ。そして彼を呼ぶ涼やかな声と共に鮮やかな紅色の翼がばさりと音を立てて姿を現した。
男にも女にも見える中性的な美しい顔立ち。背中までの深紅の髪を揺らして、同色の瞳が和也を呆れたように見据える。それはまさしく悪魔だった。
「それでコウ、どうしたんだ? 旅行中は呼び出さないから魔界に戻ってるって言っただろ?」
「うむ。魔界もつまらないのでな、気まぐれに戻って来ただけよ。そろそろそなたも戻らねばあの男も怒るのではないか?」
「もう怒られたけどな。まあ明日には帰るし、悠乃の土産も預かってるから少しは機嫌も戻るだろう」
「相変わらずそなたは……ん?」
「どうした?」
不意に言葉を止めた紅い悪魔――コウが和也から視線を外し、彼を通り越したその先……洋館へと続く道を見て動きを止めた。不思議に思った和也も同じように振り返るが、そこには先ほどよりも更に小さくなった蒼の背中しか見ることは出来ない。
いや、コウが見ていたのはまさしくそれだった。
「あれは……」
「あいつがどうかしたのか?」
「カズ、あの人間は……一体、何だ」
「何だ、って言われても」
蒼を見つめるコウの表情は厳しい。いや、どちらかというと不愉快そうにも感じられるものだ。和也が首を傾げてコウを見つめるが、コウはひたすら目を細めて蒼を睨み、そして吐き捨てるように言った。
「……酷く、気味の悪い魂だ」




