30. トラウマ
今回の沖縄旅行は二泊三日だ。一日目は空港へ到着した後観光をして、夜は理緒達の祖母の家へ向かう。二日目は一日掛けて書庫の調査をさせてもらうことになっており、そして三日目は調査状況にもよるが、まだ調査が足りなければ続行、十分であれば別に予定を立てようというつもりだった。書庫自体はそこまで大きなものではないらしく、全て読破するのならともかく、どんな本があるかチェックするだけならそこまで時間もかからないだろうと理緒が口にしていた。
「蒼君の言った通りだ……」
「ちびすけ、何か言ったか?」
「何でもないです」
そして空港へ到着した悠乃達に当然ながら着いていた和也に、悠乃は小さく呟いた。やはり蒼の言う通り彼の監視の為に沖縄に来たのだろうか。
「和先輩、せっかくの休暇なんですから私達に付き合わなくていいんですよ?」
「なんだ? ちびすけは俺が邪魔で邪魔でしょうがないみたいだなあ?」
「え、いや、そういう訳じゃ」
「じゃあいいだろ? 代わりに車出してやるし、調査も手伝ってやるから一緒に行かせろって」
悠乃達は元々路線バスを利用するつもりだったのだが、車で行けるのなら勿論そちらの方が楽だ。悠乃が頷く前に勝手に話を終わらせた和也はレンタカーを借りに離れていってしまった。
「……悠乃」
「ごめん」
「まあお前が何言おうと勝手に着いて来るだろうけど」
「理緒ちゃん達もごめんね?」
「あの人悠乃の……先輩なんでしょ? 別に気にしなくても一人増えるくらいいいよ」
星崎は悠乃の仕事を知らないので、理緒は言葉を濁しながら大丈夫と頷く。一方星崎は僅かに渋い顔をしていたが理緒に押されるようにして了解する。
星崎が嫌がった理由は簡単だ、単に顔がいいモテる男が嫌いだからである。
「亮、さっきあの人飛行機の中で英語喋ってたから、このまま明日も一緒だったら翻訳してもらえるかもよ?」
「……鏡目さん、ぜひあの人も明日うちに来てくれるように言ってくれないかな?」
理緒の言葉にあっさり手のひらを返した星崎に、悠乃は小さく苦笑した。悠乃が頼まずとも和也は嫌でも着いて来るだろうに。
「さて、今更だが俺は椎葉和也だ。まあこいつの先輩みたいものだな」
そう言って挨拶した和也が借りた車に乗り込んだ悠乃達は、早速空港を出発して北上する。助手席に座った悠乃はしばらく外の風景を眺めていたが、ふと首を動かしてとても機嫌の良さそうな和也の顔を窺った。エンジンの音や理緒達が話をしている為あまり聞こえないだろうなとは思いながらも、悠乃はつい声を小さくして口を開く。
「和先輩、あの……一応聞きますけど、どこまでご一緒に?」
「とりあえず調査までは手伝うつもりだけど? ああ、安心しろ。流石にホテルは取ってあるからその家に転がり込むことはねえよ」
「……蒼君を監視する為ですか」
「そこの男がそう言ったのか? どーせちびすけにはそんな考えなかっただろうしな」
否定も肯定もせずに彼はそう言って肩を竦める。
「速水さんに頼まれたんですよね?」
「いや、提案したのは俺だ。それに目的……わざわざ行こうと思った理由は一つじゃないしな」
「どういうことですか? 蒼君以外にも何か?」
「さあな」
悠乃の追及をさらりと躱し、和也は「小腹減ったからコンビニ寄るぞ」とハンドルを捻って会話を中断させた。
「……お」
それぞれ軽食や飲み物を購入していざ車に戻ろうとした五人。しかしその直前で和也の携帯が鳴り、彼は画面を確認して何故か唇の端を釣り上げた。
「ちびすけ、パス」
「え?」
にやりと笑みを作った和也は通話を開始すると同時に突如携帯を悠乃へ放り投げた。反射的に受け取ってしまった彼女は訳が分からず和也を見上げたが、その直後悠乃の耳に怒声が叩きつけられたのだ。酷く聞き覚えのあるその声に悠乃は一瞬にして体を硬直させた。
『和也! お前一体どこをほっつき歩いてるんだ! いい加減に――』
「に、兄さん……」
『…………悠乃?』
突如耳に響いた兄の声に悠乃は声を震わせながらも彼を呼ぶ。そして聞こえて来た声が和也のものではないことに気付いた電話の向こうの悠一も、その声の主を理解して沈黙した。
『……』
「……」
お互い黙り込んでしまったのを見た和也は小さく嘆息して悠乃から携帯を受け取って話し始める。
「あ、悠一か? そんなに怒ってどうした」
『……っ和也! どうして悠乃が――というかお前は任務の途中だというのにどこで何をしてるんだ!』
「書置き残しただろ? あとは任せるって」
『あんなふざけた書置きで許されると思って――』
「悠乃」
携帯が離れても僅かに聞こえてくる怒声に、悠乃は怯えた表情を浮かべて動けずにいた。そんな彼女の様子に気付いた蒼は彼女の腕を引っ張って自分に意識を向けさせるようにした。
「蒼君……」
「兄貴が怖いのか? ……その怪我、本当はそいつにやられたんじゃないのか」
「え? ち、違うよ! これは兄さんとは全然関係ないから」
「じゃあなんでそんなに怯えてるんだよ」
「それは……」
蒼の声で悠乃の様子がおかしいと分かり始めた理緒達も少し離れて様子を窺っている。それを見た悠乃は蒼だけに聞こえるくらいの小さな声で「ちょっと、昔を思い出して」と口を開いた。
「あの事件の時、兄さんは本気で私に怒ってて……それを少し思い出しただけ」
お前の所為で、と悠一に怒鳴られたあの時。悠一の怒声を聞いた瞬間あの時の記憶がフラッシュバックしたのだ。
あの事件以降、悠一は悠乃に対して声を荒げたことはない。良くも悪くも感情を抑えた淡々とした言葉しか聞いていなかったのだ。
「あー分かったって! 帰ったら埋め合わせするから許せ。それじゃ」
悠一の声を遮って何とか通話を終わらせた和也は疲れたように携帯をしまう。そして悠乃の顔を見ると、少し罪悪感を滲ませた表情を浮かべて「失敗したか」と小さく呟く。
「先輩?」
「悠乃、悪かった」
蒼が胡乱な目で和也を見る中、彼は悠乃の頭に軽く手を置き珍しく殊勝な顔をして彼女に謝罪の言葉を告げた。
なんとなく妙な雰囲気に包まれていた車内も、目的地に到着すればその空気は一変した。沖縄の青い海に感嘆の声を上げた悠乃も先ほどの表情は消え去って楽しそうな顔をしている。
「ここに来るの久しぶりだな。昔はよく理緒と乗ったよなー」
「うん。懐かしいよね」
青い海が目の前に広がる広大な公園。悠乃達はチケットを購入するとボート乗り場まで歩き出した。船底がガラスになっていて海の中を覗くことが出来るグラスボートに乗るためだ。
「今更だけど、蒼君海って大丈夫なんだよね?」
「どういう意味だ?」
「いや、水が嫌いなのかなって」
「だからそういうのじゃねーって。泳ぎたくないだけで、別に海とか水がどうのって訳じゃない」
何てことないように言う蒼は本当に大丈夫なようだ。仮に彼が嘘を吐いていたとしても悠乃には分からないだけかもしれないが。
理緒達の祖母の家は海沿いにあるらしく毎年泳ぐというので悠乃は少し心配になったのだ。
「ふーん? せっかく夏に沖縄に来たっていうのに泳がねえのか。俺が教えてやってもいいけど?」
「お断りします」
「“蒼君”は冷てえなー」
あえて蒼の神経を逆撫でするようにそう言う和也に、蒼は少し苛立つように眉を顰めた。しかしそれ以上突っかからずに「悠乃、さっさと行くぞ」と彼女の腕を掴んで早足で和也から離れた。
「蒼君と和先輩って……」
「なんだよ」
「何でもない」
似てる、と言いかけた悠乃は、しかし蒼の不機嫌な表情を見てその言葉を飲み込んだ。
グラスボートに初めて乗った悠乃は船底から見える想像以上に透き通った海と泳ぐ魚に目を輝かせていた。どれだけ見ても飽きないその光景をひたすら眺めているのは悠乃と星崎、そして和也で、蒼は彼らの様子や周囲に広がる海を観察しながらも時々何かを警戒するように目を細めている。
「朝日」
そして最後の一人である理緒はというと始めは悠乃達同様に楽しんでいたものの、不意に顔を上げて悠乃の意識が逸れているのを確認した彼女は、そっと移動して蒼に話しかけた。
「何だ?」
「さっきの悠乃、何かあったの?」
「……」
「お兄さんって言ってたよね。悠乃ってお兄さんと仲悪かったりするの……?」
「俺に聞くな。……悠乃にも聞くな」
「何それ」
蒼は楽しげに笑っている悠乃を見る。今は心から観光を楽しんでいるようだが、先ほどは本気で怯えていた。せっかく悠乃が珍しくはしゃいでいるのだ。彼女が理緒に話すかはともかく、少なくとも今は水を差すべきではない。
だがそこまで考えて蒼は思わず舌を打った。悠乃は確かに蒼にとってお互いに利用し合う間柄だが、本来蒼がそこまで気を使ってやる必要などないのだ。
「……最初から本人に聞く度胸もないなら関わらねー方がいいんじゃねえの?」
「それは……だって」
「オトモダチのことは何でも知らなきゃ気がすまねえって? 流石友達の為に人殺ししそうになったやつは違うな」
「朝日っ!」
咄嗟に声を上げた理緒に全員の視線が一気に集まる。我に返った理緒は言葉を失って、心配そうに自分を見る悠乃達に何でもないと首を振った。蒼の性格上話し相手が苛立つことは然程珍しいことでもないので悠乃も星崎も特にそれ以上追及することなく、またそれを知らない和也も然程気に留めなかった。
蒼の言葉に理緒は返す言葉を持たない。何しろ理緒が蒼を身勝手に殺そうとしたのは事実なのだから。
しかし蒼は蒼で流石に言い過ぎたと思ったのか少し気まずそうに頬を掻く。一つ貸しにして終わらせた以上、彼もこれ以上その話題を出す気はなかったのだ。
「……少し言い過ぎた」
「……私こそ、ごめん。前のこともだけど、悠乃のことも」
悠乃が特殊な警察官だということを知っていても、蒼は理緒が知る以上に悠乃のことを理解している。嫉妬していた訳ではないが少し気になって軽薄な気持ちで尋ねてしまったのは失敗だった。
「朝日、その、ありがとう」
「今度は一体何なんだ」
「前もそうだったけど……あんたはそうやって自分で憎まれ役買って出て悠乃を守ってくれてるよねって」
「……そう思うなら勝手にそう思ってろ」
飛行機の中で悠乃が言ったこともだが、こうして他人に勝手にいいように思われるのは蒼の望む所ではない。他人の為に頑張る自分など吐き気がする。蒼は常に自分のしたいことをしているだけなのだ。……あの時、そうやって生きると決めたはずだ。
悠乃の為ではない。自分ではそう分かり切っているはずなのに、何故か蒼はわざわざ頭の中で何度も自分にそう言い聞かせていた。




