29. 飛行機
終業式のその日、悠乃は少々浮かれていた。
夏休みには理緒の祖母の家へ旅行に行く――勿論これは仕事を含めだが――予定であるし、これには当初は無理だった蒼も参加するのだ。速水の行動を警戒しているらしい蒼は少々不機嫌だったものの、それでも悠乃は嬉しかった。
自然と足取りも軽くなる。式も終わり、早く家に帰って旅行の準備をしなくてはと鞄を軽く振りながら階段を下っていた彼女は、ふと下の階から階段を上がって来る男子生徒に目を止めた。
少し幼い顔立ちの大人しそうな生徒……それは黒木だった。
「あ」
思わず小さく声を上げる。悠乃と彼はついこの前生徒会室で遭遇したばかりだったが、その時の張り詰めた空気を思い出してどうにも声を掛け辛かった。そもそも楓や小夜子とは違い、悠乃と黒木は碌に会話もしたことがないのだ。
踊り場ですれ違う直前、悠乃は軽く会釈をしてその横をすり抜ける。しかしその瞬間、背中に強い衝撃が襲い、そのまま体は前方に大きく傾いたのだ。
「――これは警告だ」
「!?」
黒木が低く呟いた声に反応する間もなく、悠乃の体は階段へと転がり落ちそうになる。彼女は咄嗟に片手で傍の手すりを必死に掴み、階段の中頃でずり落ちる体を何とか押し止めた。
しかし足や体の所々を打ち付けて痛い。痛みで顔を歪めながら、悠乃はすぐさま階段上の踊り場を振り返る。しかしそこには既に誰もおらず何もない空間がただ、しんと静まり返っていた。
「黒木君……?」
一体何故悠乃を突き飛ばしたのか。警告とは何のことを言っているのか。不可解な行動に悩みながら、彼女はすっかり浮かれた気分がしぼんでいくのを感じた。
「あれ? 悠乃、怪我でもしたの?」
「え……ううん、大したものじゃないから」
黒木の行動が分からなくても夏休みに入ってしまえば問い質す機会はやって来ない。もやもやした気持ちを抱えながら待ち合わせ場所の空港を訪れた悠乃は、先に待っていた理緒の言葉に誤魔化すように曖昧に笑った。彼女の腕や足はいくつか絆創膏が貼ってあったり青痣が残っていたりする。長袖に服で隠すには難しい季節――それもこれから向かう場所が場所――である、不思議そうに様子を窺う理緒の目から逃れるように、悠乃は鞄で足元を隠した。
「鏡目さん、久しぶり」
「あれ、星崎先輩?」
「俺もちょうどばあちゃん家に行く予定だったんだ。理緒に聞いたら君も来るって言うし、せっかくだから日程合わせちゃったんだけど駄目だったかな」
理緒は一人ではなかった。彼女の隣には大きな旅行鞄を持った星崎の姿があり、悠乃は少し驚いた。従兄妹同士の二人だが、こうして揃っている所を見るのは初めてだ。
「勿論……というよりも私達がお邪魔する方なので。お世話になります」
「あの書庫見るんだろ? ぜひ色々読んで僕に内容を教えてくれ!」
「少しは自分で頑張りなさい!」
わくわくと目を輝かせる星崎の言葉に理緒が呆れながら突っ込みを入れる。仲が良いんだな、とその様子を見守っていた悠乃は、不意に背後から肩を叩かれて思わずびくっと体を跳ね上がらせた。
「どんだけ驚いてんだよ」
「……ごめん、蒼君」
悠乃が振り返った先に居たのは蒼だった。肩を叩かれたことでつい黒木に背中を押された時のことが過ぎってしまったのだ。彼は理緒の隣にいる星崎に目を止めると「何であいつ居んの?」と首を傾げる。
「というか誰だっけ」
「星崎先輩だよ。ほら、オカルト部の。理緒ちゃんの従兄だって言ってなかったっけ?」
「聞いた覚えはないけど……で、一緒に行くのか?」
「うん」
「ふうん……まあ、別にどうでもいいけど」
蒼は興味を無くしたように星崎から視線を外す。そして次に蒼が見た先は、悠乃だった。
「……」
「な、何?」
「どうしたんだよそれ」
じろじろと蒼が見ているのは理緒と同じ、彼女の手足の怪我だ。しかし悠乃は「何でもないよ」と理緒に言ったのと同じように曖昧な返事を返した。彼に事情を説明しようかと一瞬だけ悩んだが、結局彼女は口を閉ざす。黒木の言った“警告”の意味が悪魔に関することかは不明であるし、もう少し状況が把握出来てから必要があれば改めて説明してもいいと思ったからだ。下手に階段から突き落とされたと事実だけを述べて蒼にいらぬ心配を掛けなくてもいい。
しかし説明しない悠乃を余計に訝しんだのか、蒼は目を細めて悠乃を観察する。その表情は、心なしか険しいものになっていた。
「……おっさんは無いだろうが、まさか兄貴の方か?」
「蒼君?」
「何でもない」
囁くような小さな声で呟かれた言葉は完全には悠乃の耳に届かなかった。兄という言葉が聞こえた気がした悠乃は首を傾げるが、蒼はそれに対して何も答えようとはしない。
「さて、集まったしそろそろ手続きを――」
「お、偶然だなーちびすけ!」
理緒が先導してカウンターへ歩き出そうとしたその時、悠乃は突然聞き慣れた声が耳に入って来たことに驚いて咄嗟にそちらを振り返った。
「和先輩……」
「……そういうことかよ」
金髪ピアスの男がにっと笑いながら悠乃達の元へ歩み寄って来る。予想外に現れた人物に悠乃は驚き、星崎は首を傾げ、理緒はどこかで見たようなと頭を捻らせ、そして蒼は……酷く不愉快そうに顔を歪めていた。
「どうしてここに? 何か仕事で?」
「休暇だよ。ある程度片付いたって言ってただろ? 残りは悠一に任せて俺は一足先に休ませてもらったんだ。それにしても偶然だなー、俺は沖縄行くんだけどお前はどこ行くんだ?」
「え?」
「白々しい……」
うんざりとした顔で蒼が吐き捨てる。蒼は一度少し顔を合わせた程度だが悠乃の先輩であることぐらいは知っている。大方速水が蒼の監視に送り込んだのだろうと、彼の機嫌は一気に急降下した。
「ちょうど沖縄に前に話した悪魔の本を見せてもらいに行くんですけど……」
「へえ、すごいタイミングだな。ちょっと飛行機のチケット見せてみろ。……おお、同じ便だな」
「え、そうなんですか? すごいですね」
馬鹿悠乃、気付け。
蒼が頭の中で悠乃にどうしようもなく呆れていることにも彼女は気付いた様子はない。そのまま流れるように和也も一行に紛れてぞろぞろと歩き出し、「あ、あの時の!」と理緒が手を叩いた時には手続きのカウンターへ一緒に到着していた。
「蒼君、荷物を――」
「お前馬鹿だろ、悠乃」
「急にどうしたの!?」
苛立ちを溜め込んだ蒼は、話しかけて来た悠乃に思わず先ほどから頭の中で考えていた言葉をそのまま口に出していた。
搭乗時間になり、五人は同じ飛行機へと乗り込んだ。席は悠乃と蒼が隣、その後ろが星崎と理緒だ。和也の席は流石に離れており、隣になった外国人とぺらぺら英語で何かを話している。
「飛行機、好きなの?」
「ん?」
離陸の衝撃に体を揺らしていると飛行機はどんどん上昇していく。じっと窓の外を眺める蒼を見た悠乃は、その姿珍しい姿に興味を引かれて尋ねてみた。
悠乃は以前一度同じ疑問を抱いたことがある。学校の屋上で寝そべって蒼が飛行機雲を見つけた時のことだ。しかしあの時は今考えると、実際に彼が飛行機雲に興味を示したというより、悠乃にあの悪魔を見つけさせたかっただけのように思える。
「別に。ただ珍しいだけだ。……お前だって旅行に行くって決まってから妙に浮かれてただろ?」
「それは……だって、楽しみだったし」
「悠乃にしては随分珍しいと思ったんだよ。お前、仕事だって割り切ってそうだったから」
彼女と数か月過ごしただけの蒼でも旅行を楽しみにしている悠乃は物珍しく感じられたのだ。彼女自身も少々それを自覚していた。
「こういう風に、友達を作って一緒に出掛けられるなんてもう無いと思ってたから」
「……ふうん。俺って友達なんだ?」
「え? いや、蒼君は何て言うか……」
理緒は勿論友達だ。だが以前も思ったが蒼を友達というカテゴリーに当て嵌められるかというと、悠乃は首を横に振る。彼女は何か分かりやすい言葉は無いかとしばらく考えてみたが、これという完全に合致する言葉は容易に思いつかなかった。
「……うーん」
「いや、そこまで真剣に考えることでもないだろうが」
「蒼君は、何か……一緒に居て一番安心する人かな?」
「……はあ!?」
「え、なんでそんなに驚いてるの?」
「いや待て、悠乃。俺のどこに安心する要素があるんだよ」
一瞬何を言われたのか分からないとぽかんと口を開けた蒼は、その言葉を理解した途端ありえないとばかりに強く反論した。彼は普段他人からどう思われているのか大体理解している。それらの大半がマイナスなものであるというのに、悠乃は一体何を考えてそう言ったのかと本気で首を傾げた。
「隠し事だらけの人間によく安心できるな、お前。悠乃も性格悪いって言ってただろうが」
「まあ言ったことあるけど……でも優しい所もあるし、蒼君は私の事情を全部知ってもこうして一緒に居てくれるから」
上辺だけの同情をする訳でもなく、互いの利益の為に手を組むのだと実に蒼らしい言葉で協力してくれた彼に悠乃はあの時酷く安堵したのだ。
「随分と仲良しこよしなことで。これは確かに速水さんも妬くだろうなー」
「あ、和先輩」
蒼が何とも言い難い不機嫌そうな顔を作ったところで、悠乃の隣の通路を和也が通り掛かる。「ずっと座ってると体痛くなるよなあ」と呟いた彼はにやにやと笑いながら蒼と悠乃の表情を見比べて楽しそうに席に戻っていく。どうやら通り掛かったのはなく元々悠乃達の様子を見に来たらしい。
和也が離れていくと彼女の隣から大きな舌打ちの音が聞こえて来た。
「鬱陶しい」
「そんな言い方しなくても……それに沖縄に着くまでなんだからそんなにちょくちょく来ないよ」
「阿呆か、あいつ絶対に向こう着いても俺達にくっついて来るぞ。……というかいい加減気付け、あの野郎はわざわざ俺を監視するために来たんだろうよ」
「監視って……」
「そもそもおっさんが俺の旅費を払うって言ってきた時点で怪しさ満載だろ。……悠乃、確かあの男って悪魔憑きって言ってたか?」
「うん、そうだよ。悪魔は見たことないけど……」
「お前の前では姿を見せないって話だったな」
蒼は考え込むように腕を組んで目を伏せる。そんな彼の姿は非常に絵になるもので、通路を挟んで悠乃の隣の席に座る女子大生らしき二人組がきゃあきゃあと騒いでいた。
「悠乃」
「何?」
ややあって顔を上げた蒼は軽薄な雰囲気も出さずに大真面目な表情で口を開いた。
「俺から出来るだけ離れるな」
「……ん?」
どういうことなのだろう。




