28. 理事長
「は?」
「いやだから、こちらで君の旅費は出すと言っているんだ」
突然電話を掛けて来たと思ったら何を言い出すのか。蒼は首を傾げながら速水の言葉を反芻して訝しげな顔をした。
自宅で携帯を耳に当てながら、蒼は相手の真意を測りかねて目を細める。
「どういう風の吹き回しですか」
「いや、今まで君には今まで随分助けてもらったからな。民間人に協力してもらっている以上謝礼は出すと言ってるんだ」
「……へーえ?」
怪しい。勿論蒼も行けるのなら行きたいが、それが相手の――警察の思惑に乗ることになるのなら気が進まない。
疑ってかかっているのが分かるのか、速水が小さく苦笑しているのが聞こえる。
「これでも朝日君には感謝しているんだ。何度も悪魔や魔獣から悠乃を守ってくれたようだからな」
「何言ってるんですか? 俺は殆ど何もしてませんよ。……何せ、悪魔なんて見えないもんですから」
ばれているのは承知だが、馬鹿正直に認める訳にはいかない。悪魔が見える程度ならば知られても構わないのだが……それ以上を知られればこちらの身が危うくなる可能性がある。蒼は何てことない口調でそう言葉を返すと、面倒だな、と速水に聞こえないように溜息を吐いた。
「まあそれはいいとして……結局君は行く気はあるのか?」
「……行きますよ」
少し逡巡したが蒼は頷いた。悪魔に関する書籍を見たところで自分の目的に何か変化があるとは思えないが、このまま速水の思惑に怯えて引き下がるというのも気に食わない。冷静に判断すれば行かない方が正解なのだろうが、蒼は無駄にプライドが高いのだ。
「でもいいんですかー? 俺なんかを大事な大事な悠乃と一緒に旅行に行かせて」
「……気に食わないと言えば嘘になるな」
「やっぱり」
「だが悠乃は君を信頼している……ぐれぐれもそれを忘れないでくれ」
良心にでも訴えかけたつもりなのだろうかと蒼は少々首を傾げる。だが生憎蒼は自分に良心など欠片もないと自覚しているつもりだ。
「あいつが俺をどう思ってようと俺には全く関係ありませんね」
「朝日君」
「腹の探り合いはもう面倒なのでいいです。あんたらの事情も悠乃の気持ちもどうでもいい。だが俺は悠乃を裏切らない、それだけは言っておきますよ。……それをおっさんが信じるかどうかはどうぞ勝手にして下さい」
そのまま言うだけ言って一方的に電話を切る。なんだか速水と電話をするときはいつもこうだと思って蒼は苦笑した。
今までもそれなりに警戒されていたようだったが最近は――月島の事件以降だろうか、特に酷い気がする。流石に悠乃が倒れていた状態で悪魔を倒したという言い訳が苦しかったからか……それとも、悠乃の態度の変化だろうか。
速水が蒼を疑おうが彼の行動は変わらないが鬱陶しいのは事実だ。だからこそ蒼は速水が求めているであろう言葉を口にした。彼がどう受け取るかは分からないが、蒼にとってはただ事実を言っただけのことだ。
「……約束したからな」
「やっぱり、負けちゃったか」
「俺に勝とうとするのが間違ってるんだよ」
7月中旬、期末テストの結果が戻って来た。結果は案の定蒼が一番で、悠乃はまたもや二番に終わった。
悠乃が返却された答案用紙とテスト問題を見比べて一つ一つ間違った問題を解き直していると、勝手に理緒の席に座った蒼が不思議そうに顔を覗き込んで来る。
「どうしたの?」
「いや……今回は泣かないんだな」
「えっと……うん」
中間テストの頃を思い出して悠乃は複雑な表情で小さく頷いた。あの頃は今よりもずっと悠乃は精神的に追い詰められており、色々とパニックになって泣いてしまった。
仕事を辞めさせられないように、兄や速水の足を引っ張らないようにと悠乃は必死だった。何でも出来るいい子にならないとと強迫観念に駆られ、一番になれなかったのを知った時は絶望した。
その所為で蒼と喧嘩のようなものになったりと色々あったが、結果的に今の悠乃が多少悔しいとは思っても落ち着いていられるのはその蒼のおかげだ。
今の悠乃は、たった一人で孤独に頑張っている訳ではない。
「……それに、蒼君も頑張ってるんだもんね」
「何だって?」
「何でもないよ」
いつも飄々としているが、常に一番をキープする蒼は蒼で頑張っているのだろう。しかしそれを彼に直接告げたところで否定されるのが関の山。
中間テストの時よりも蒼との点数の差を縮めた悠乃は、自分も蒼に負けないようにもっと頑張ろうと意気込んだ。その表情に陰りはない。
「氷室先生、日誌持って来ました」
「ああ、日直だったな。今から部活に顔出すところだったからちょうどよかった」
その日の放課後、日直だった悠乃は書き終えた日誌を職員室に居た氷室に差し出した。これで日直の仕事は全て終了であとは帰るだけなのだが、しかしふと職員室の端に何人もの教師が固まって何か言い争っている様子を目にして悠乃は首を傾げた。同じく部活に行こうと立ち上がった氷室も悠乃の視線を追って「何かあったのか」と不思議そうに呟く。
「あ、氷室先生!」
視線に気づいたのか、その中の一人の女性教師が悠乃達の方を振り向いて氷室を呼ぶ。その必死そうな表情に本当に何があったのかと思わず悠乃もその場に留まっていると、酷く早足でやって来た彼女はぱん、と両手を目の前で力強く合わせた。
「お願いします! 理事長の案内お願いできませんか!?」
「理事長の? いやでも今から部活に顔出さないといけないので」
「そんなあ……」
氷室先生なら理事長相手でも平気そうなのに、とがっくりと項垂れた彼女は俯いた視線の先に悠乃の足元を見つけて今度はがばりと勢いよく体を起こす。そして藁にもすがりつくといった様子で悠乃の両肩を掴んだ教師に、悠乃も怯えて体を仰け反らせた。
「鏡目さん!」
「は、はい」
「あなた確かクラス委員だったわよね!? 生徒会室に持って行ってほしいものがあるの!」
「はあ……」
「理事長も生徒会室に行かなきゃいけないから、ついでに案内してね!」
「……え」
それじゃあお願い! と数枚のプリントを持ってきて悠乃に押し付けた教師は、憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情で去って行った。ぽかんと口を開けながら彼女を見送ってしまった悠乃は無理やり渡されたプリントに目を落として小さく溜息を吐いた。
「鏡目、大丈夫か?」
「……はい、多分」
生徒会室に案内するだけなら悠乃でも問題ないだろう。しかしあれだけ必死にそれを拒否していたらしい彼女を思い出すと理事長とは一体どんな人間なんだと不安を覚えた。
「それでは頼む」
「よろしくお願いします、二年の鏡目です」
理事長と紹介された男は、特筆すべき点はあまりない普通の老人だった。優しそうな風貌の物腰柔らかな彼は悠乃に対しても酷く穏やかだ。彼がこの高校の理事長なのだとすれば、それはつまり楓の祖父ということになる。
生徒会室は職員室とは別の棟にある。「何度か行ったことがあるが中々覚えられない」と苦笑する理事長に道案内をしながら、悠乃は失礼にならない程度に彼を観察した。
真っ白な白髪は綺麗に整えられており、身に着けた和服も隙なく綺麗に着こなしている。足取りもしっかりしていて中々に健康的に見える。
「鏡目さんは、この学校をどう思っているのかね」
「設備も整っていてすごく綺麗な所ですね。最初にこの学校に来た時は驚きました」
「うむ。では、教師達はどうかな? ……近頃一人、犯罪を犯して逮捕された不届き者がいたそうだが」
「……ええと」
「いや、すまん。君に言っても仕方のないことだったな」
どう返せばいいのかと目を泳がせた悠乃を見た理事長は、さらりとその話題を終わらせた。逮捕された教師――月島のことを口にした途端酷く冷ややかな物言いになった理事長を見上げた悠乃は、それ以上話題が続かなかったことに安堵した。
教師達が案内を嫌がったのは、同じ教師として自分に矛先が向けられるのを恐れたからだろうか。
「ここが生徒会室ですよ。……虹島会長、失礼します」
特に身の無い世間話で道中の会話は繋がれた。妙に道のりが長く感じる中ようやく目的地へと到着した悠乃はいそいそと室内に声を掛けながら扉を開ける。
「ああ、鏡目さ――」
悠乃の声に顔を上げた楓の表情が凍り付くその瞬間を悠乃はしっかりとその目で見た。楓だけではない、同じく部屋にいた小夜子も目を見開いて動きを止める。唯一変化がないのは静かに席について悠乃達を見ている黒木ぐらいだった。
いつも穏やかに悠乃を迎えてくれる楓がそんな表情を見せるのは初めてのことだ。蒼を前にしてもここまで動揺している姿は見たことがない。
「お爺様……」
「どうだ楓、会長の役目はしっかりと果たせているか?」
「……はい」
穏やかな雰囲気のままである理事長にも楓は表情を硬くしたまま返事をする。祖父と孫であるのに関わらず酷く緊迫した空気が流れているのが悠乃にも伝わって来た。
「さて、先に君の用事を済ませた方がいいな」
「あ、はい……虹島会長、先生からプリントを預かって来たんですけど」
「……ああ、ありがとう」
悠乃が楓にプリントを差し出すと、彼は硬い表情のままぎこちない笑みを見せる。そのまま立ち上がった楓は「すまないが鏡目さん、ちょっと席を外してもらっても構わないかな」と言いながら理事長の前まで足を運んだ。
「あ、すみません。それじゃあ失礼します」
「……」
悠乃の言葉に返事をする余裕もないのか、楓は薄く微笑むだけで彼女との会話を終わらせる。気まずい雰囲気に素早い動きで生徒会室から飛び出した悠乃は、一度背後を振り返って大きく溜息を吐いた。一体あの空気は何なんだと酷く疲れながら、悠乃はとぼとぼと鞄を取りに教室へと帰って行った。
「……お爺様、あの、何か御用が」
「月島が捕まったらしいな」
悠乃が去って行った生徒会室では重苦しい空気の中話が始まっていた。
「はい……そのように聞いています」
「どうしてか分かるか?」
「どうして、とは。色々と犯罪行為を行っていたという話は――」
「儂が言っているのは、どうして捕まるような状況に陥ったのか、だ」
理事長の表情は悠乃に見せていたものと同じ穏やかなもの。しかし楓はそれにこそ恐怖を抱き、慎重に言葉を探す。
「……いえ」
「愚鈍な孫だ。月島は悪魔憑きだった。それも隠蔽行為の得意な、だ。警察でも何でもいくらでも誤魔化せるはずのやつが捕まったのは……つまり、その隠蔽工作が行えなかったからに他ならない」
「それは、悪魔が倒されたということ、ですか?」
「恐らくな」
「しかし悪魔が見える人間など――」
「お前もそうであるように、探せば意外にいるものだ。我ら虹島に害をなそうと目論む人間が月島を見せしめに上げた可能性もある。もしそのような不穏分子を見つけたら――分かるな?」
「……はい」
穏やかなのにまるで有無を言わせない圧力を感じた楓は、大人しく従うように返事をする。そんな孫の姿に満足したらしい理事長は、帰ろうと踵を返したが、その前に小夜子に目を止めて彼女を振り返った。
「夕霧の娘も、くれぐれも楓を頼むぞ」
「お任せ、下さい」
小夜子が頷くと、理事長は今度こそ生徒会室を後にする。扉が閉められ、そして廊下に響く足音が遠ざかっていくのを確認した楓は、不意に力が抜けたように傍にあった机に寄りかかった。
「楓様!」
「……大丈夫だ」
楓を支えようと慌てて駆け寄って来た小夜子を彼は手で制す。そして安堵するように大きく息を吐くと、少し落ち着いたように表情を緩めた。
「月島先生の悪魔が倒されたか……」
「いいんですよ、そんなの。元々碌な人間ではなかったんですから」
「しかしお爺様の言う通り、本当に虹島に危害を加えようとする人間がいるのなら俺は……その人間を、どうにかしなければならない」
苦々しい表情で呻くように楓が呟く。彼は決して祖父に逆らうことなど不可能なのだ。
「楓様は、何も心配しなくていいんです。私がお守りしますから」
「小夜……」
「どんな人間からも……虹島からも、私達が守ります」
小夜子は力なく垂れ下がった楓の手を取って強く握りしめる。安心させるように静かに微笑む彼女を見た楓は、しかし自分の不甲斐無さにどうしようもなく苛立ちを覚えた。
彼女をこんな風にさせてしまったのは全て自分の所為なのだ。
「……それにしても、鏡目さんは」
「小夜?」
「楓様、彼女は理事長と何か関係があったりはしませんよね……?」
「無いとは思うが」
「そうですか」
小夜子は目を伏せて思考に耽る。今日理事長と悠乃が一緒にここを訪れたのは単なる偶然なのか。それとも彼女は理事長と何らかの繋がりがあるのか。
クラス委員がプリントを持ってくる。何もおかしなことではないのに小夜子が引っ掛かっているのは、常に彼女が蒼と一緒に行動しているからだ。悠乃がどの立場にあり誰の味方なのかは不明だが、しかし何より彼女を放置できない理由がある。
何しろ悠乃は――見えているのだから。
「……」
生徒会室で一人、静かに楓と小夜子の姿を見ていた黒木は、不意に視線を外して扉を見つめた。先ほど出て行った悠乃と理事長の背中を思い浮かべながら、彼は頬杖を着いてゆるりと唇を歪ませる。
大人しさの欠片もないその表情は、普段の黒木からは酷くかけ離れたものだった。
「とりあえず、少しばかり牽制しておくか」




