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26. 水泳

「……ん?」



 カチカチ、とマウスをクリックしていた速水の手が止まる。警察署内で過去の事件のデータを検索していた彼は、表示された一件の事件データを食い入るように見つめた。


 朝日蒼。悠乃の潜入捜査先の生徒で、そして彼女の協力者。しかし当初悠乃を脅したことや、目的も見えずに捜査に介入している様は速水に不信感を抱かせるには十分だった。

 ただでさえ忙しい中月島の取り調べも追加され、速水は彼が起こしたらしい事件を洗い出していたのだが、ふと思い立って蒼のことを検索してみたのだ。



「これは」



 蒼の名前が書かれたデータ。それは彼の父親の事件だった。

 二年前に蒼の父親は亡くなっている。死因は首を吊ったことによる窒息死で……自殺だったらしい。自宅で死んでいるのを第一発見者である蒼が通報している。彼の母親は蒼が生まれた頃に亡くなっているらしく父子家庭だった。

 以前から何か思いつめていたという証言、そして直筆の遺書が発見されたことから他殺の線はない。ただ少々速水が気になったのはその遺書の内容だった。


 “妻と息子の元へ行く” 遺書にはそれだけ書かれていた。蒼は一人っ子だ。だから息子というのは蒼のことのはずなのだが……当時の捜査では、遺書を書いた時点では蒼と共に無理心中を図ろうとしていたのではないかという見方をしている。



「……まあ、今回のこととは関係ないか」



 蒼が怪しいと言っても彼のプライバシーに関わること、まして悪魔が関わる事件でないのならこれ以上調べることもない。というよりもそもそもそこまで速水に時間がない。

 速水はパソコン画面を見続けた目を休めるように椅子の背もたれに寄りかかり上を向く。目を閉じて少しでも頭を休ませようとするのに、しかし思考は休まることなく働いてしまう。



「あいつ……」



 蒼のことなど調べなければよかった。そうすれば今あの時のことを思い出して頭を悩ませることもなかっただろう。

 月島を捕まえ、そして自宅で事情聴取をしたあの日。悠乃の部屋から出て来た蒼は帰り際に速水に一つの質問を残して去っていた。



『速水のおっさん』

『なんだ』

『あんたは……悠乃とあいつの兄、どっちの味方なんですか』



 どういう意味だとも尋ねる時間を与えず、また答えすら聞かずに蒼はそれだけ言って帰って行った。蒼の言葉を思い返した速水は目を閉じたまま思考の海に沈む。

 あの兄妹のどちらの味方かと言われれば速水はどちらともと答える。だが蒼が聞きたいのはそういうことではないのだろう。あの二人が対立した時、果たして速水はどちらに着くのか。……そして今現在どちらの肩を持っているのか。


 少し前に悠一と悠乃の任務について話をした。断固として悠乃を任務から外せと言った悠一に対して、彼は首を横に振った。現実的に交代が難しいということもあるが、悠乃の気持ちを汲んでやりたかったというのもある。

 だが今の心境は少し変わっている。悠乃の任務が想像以上に大きなものになりつつあるからだ。月島のことをどうして悪魔憑きだと断定したのかと悠乃に尋ねた所、別の悪魔からの情報だという。これまでも悪魔や魔獣が居たというのにまだ増えるとは思ってもみず、速水も思わず悠一のように任務を中断した方がいいのではないかと言いかけてしまった。速水は悠乃の上司であるが、保護者でもあるのだ。出来る限り危険なことはさせたくないし、そういう意味では悠一よりの考え方なのだろう。



『お願いです、どんなことでも頑張りますから……だから、私もお兄ちゃんと一緒にここに居させて下さい』



 ひたすら兄のことを呼んで泣き続けていた小さな女の子。いくら彼女が強く望んだこととはいえ警察に入れたのはやはり間違っていたのだろうか。



「そういえば……」



 蒼が悠一のことを知っていたということは、悠乃が彼にその話をしたということだ。

 以前蒼と電話した時に「悠一は悠乃のことを憎んでいるのか」と尋ねられた時、速水は一瞬思考を停止させた。まさか悠乃がその話を他人にするとは思ってもみなかったのだ。

 速水からしてみれば蒼は何を企んでいるか分からない怪しい人間であるが、悠乃は随分彼を信頼しているように思える。速水に嘘を吐いてまで蒼を庇い、そしてその重たい過去を打ち明けた。

 悠乃は人見知りする性格ではないが、心から他人に気を許すこともなかった。速水にしても和也にしても、どこか一線を引いて遠慮しているように思う。



「……頼むから、悠乃を裏切ってくれるなよ」



 悠乃の心が再びずたずたに引き裂かれることがなければ、この際蒼の思惑はどうでもいいとさえ考えそうになる。彼女に任務を与えた上司がこんなことを考えるべきではないのは承知だが、保護者としてはそれが本音だった。













「朝日ー! どこ行った!?」



 初夏に入った虹島高校では水泳の授業が始まっていた。校内に二つの屋内プールの設備を持つこの学校では女子と男子それぞれ分かれてプールを使用しており、広々と泳ぐことが出来る。

 そんな中、昼食前の四限目に水泳を終えた悠乃達が着替えを終えて教室へ戻る途中、叫びながら歩いて来る氷室の姿を見つけたのだった。



「氷室先生、どうしたんだろ?」

「どうせまた朝日が何かしたんでしょ」

「お、鏡目と時雨! 朝日のやつを見なかったか?」



 すれ違う前に氷室が気付いて悠乃達を呼び止める。しかしながら悠乃達は今まで蒼とは分かれて授業を受けていた為勿論彼の姿は見ていない。



「見てないですけど、何かあったんですか?」

「あいつまた体育の授業さぼってな、水泳になってから一度も出席してないんだ。そもそもあいつは一年の時から水泳だけは絶対に参加しようとしなくて……」



 いい加減どうにか出席させようと思うんだがいつも逃げられる、と疲れたように嘆息する氷室に悠乃と理緒は顔を見合わせた。



「水泳嫌いなのかな」

「あいつ、普段何でも出来ますよーって顔してるけどホントは泳げないんじゃない?」

「そうなのかも……」

「とにかく、朝日を見かけたら教えてほしい。あと鏡目、出来れば授業に出るようにちょっとあいつに言ってやってくれないか? 俺が言うのも教師として情けない話だが、鏡目の言うことなら朝日も少しは聞く耳を持つかもしれない」

「え」

「あー、確かに」



 氷室の言葉に理緒まで賛同するように頷く。悠乃はそんな二人に困惑しながらも、しかし断ることも出来ずに曖昧な表情を浮かべるしかない。正直言って、悠乃が何を言おうと蒼の行動が変わるとは到底思えない。やりたいことをやる、とそう言って憚らない蒼なのだから。


 教室に戻った悠乃は弁当を手に持つと、理緒と別れて再び教室を出る。泳ぎ疲れた体のまま階段を駆け上がり、そして最上階に辿り着いた彼女は歩き慣れた廊下を進んで目的の扉の前で足を止めた。

 普段は施錠されているはずの屋上へと続く扉が容易に開くのを確認した悠乃はやはりここかと扉の奥へ足を踏み入れる。そのまま再度階段を上ってようやく屋上へ着くと、日陰で寝そべっている彼の傍まで駆け寄って声を掛けた。



「蒼君、もうお昼だよ」

「んー?」



 眠っていたらしい蒼が目を擦りながらゆっくりと上半身を起こす。彼が欠伸をしている間に弁当箱を取り出した悠乃はそのうちの一つを蒼の前に差し出した。



「今日は?」

「生姜焼きだよ」

「おー、いいな」



 「いただきます」といそいそと箸を持って食べ始めた蒼を見ながら悠乃も彼と同じメニューの弁当の蓋を開ける。

 一度は断ったものの、最近の悠乃は蒼に弁当を作って来るようになった。その理由はいくつかある。いつもパンだけでは足りない様子だった蒼に、悠乃はもう少し買ったらいいのではと疑問を投げかけたことがあった。しかし彼の返答は意外にも酷く現実的なものだったのだ。



『節約』

『え?』

『だから、あんま食費使いたくないんだよ。一応特待生として入学したから学費は免除されてるけど、親の残した金もそんなにある訳じゃねーから』



 蒼が両親を亡くしているという話は悠乃も聞いていたが、まさか蒼が食費を削ってまで生活しているとは知らずに驚いた。同情というのは少し違うが、蒼には悠乃もたくさん協力してもらっているので、彼が希望した弁当くらいは作ってあげようと思ったのだ。

 そしてもう一つ。悠乃のいじめがなくなったのは蒼のおかげだと聞いたからだ。元々蒼のことが発端にあったといえばそうだが、勿論それで彼を責めるのはお門違いだ。蒼本人が悠乃の為にそうしたと言った訳ではないが結果的に助かったのは事実なので、お礼も兼ねている。



「まあまあ美味い」

「ありがとう」



 淡々とした賛辞に悠乃の表情も綻ぶ。彼女が料理を振る舞うのはせいぜい速水くらいだ。勿論彼も美味しいと言ってはくれるが、速水の料理の腕は悠乃の数段上なので、身内だということも含めて本当に美味しいと思っているのかと正直な所疑っていた。

 一方蒼はどう考えてもわざわざお世辞を言うような性格ではないので、彼にそう言われるだけで悠乃は弁当を作るのが楽しく感じるようになった。



「そういえば蒼君、さっき氷室先生が怒って探してたよ」

「んー? 何かしたっけ」

「水泳の授業、さぼってるんでしょ?」

「ああ、そのことな。先生もしつこいよなあ」

「蒼君って泳げるの?」

「……さあな、泳いだこととかないし」

「え、無いの!?」



 高校生になってまで泳いだことがない人間なんてどれだけいるのだろうか。泳げないのなら分かるが、ならば何故こんなにも授業に出ようとしないのだろうか。



「泳いだことないなら、一回やってみればいいのに」

「……悠乃、氷室に何か言われたのか?」

「な、何かって?」

「その顔だと図星みたいだが、悪いがこればかりは誰に何を言われようと授業に出る気はないからな。……ご馳走様」



 あっという間に食べ終えた蒼が手を合わせる。綺麗に空っぽになった弁当箱を片付けて悠乃に差し出すと、蒼は空を見上げて「今日はあっついなあ」と片手で顔を仰いだ。



「プール冷たくて気持ちよかったよ」

「その手には乗らない」

「……でも意外だった、蒼君が泳げないなんて。苦手なことあったんだね」

「何か勝手に泳げないことにされてるけど」

「だって泳いだことないんでしょ?」

「泳いだことはないけど、やってみれば多分出来る」



 大した自信だなあと悠乃は呆れと感心を半々に思う。しかし蒼は自分で「なんでもできる」と言うだけあって、確かに運動神経も頭もいい。見よう見まねで泳いでみたら案外あっさり出来てしまいそうな気はした。



「そういえば蒼君、この前も私の拳銃使って悪魔倒したって言ってたもんね。本当に何でもできちゃうんだ…」



 悠乃は元々身体能力が高い方ではないし、不器用だとは言わないが器用だと胸を張れるほどでもないのだ。必死で射撃練習を重ねてようやくある程度の技術を身に着けた彼女は、羨望の眼差しで蒼を見た。



「……まあ、それはそれとして」



 しかし悠乃の視線にどこか居心地が悪そうな表情を浮かべた蒼は、話題を変えるようにそう言って先ほどのように仰向けに寝転がった。



「そういえば聞いてなかったんだが……悠乃、お前どうして月島が悪魔憑きだって分かったんだ?」

「あ、ごめん蒼君には言ってなかったっけ」



 速水には報告していたので勝手に言った気になっていたようだ。

 悠乃は以前この場所で見かけた悪魔から接触を受けたこと、そして彼が悠乃達がどう行動するのかと他の悪魔について教えてくれたことについて話した。軽く目を瞠った蒼は少し考えるようにして「……ふうん」と納得するように小さく相槌を打った。



「あのさ……私に会う前から、あの悪魔について知ってたの?」

「そうだな……あいつのことは知ってた」



 やはり悠乃の思った通りのようだ。蒼は悠乃に会う前から悪魔について認識していた。だからこそ最初から自分が悪魔を見ることが出来ると分かり切っていたのだ。

 しかし悠乃が少し驚いたのは、それを蒼がはぐらかすことなくあっさり認めたことである。



「教えてくれるんだ」

「悠乃だって大体分かってたんだろ?」

「予想はしてたけど……じゃあなんで最初からそう言ってくれなかったの?」

「どんな人間かも分からないやつにそう簡単に手の内を明かせる訳ないだろ。悠乃が速水のおっさんにほいほい報告してみろ、何でそんなこと知ってるんだって俺が怪しまれるだろうが」

「成程……」



 当初から何かと行動の読めなかった蒼だが、色々と考えて立ち回っていたようだ。しかし利用し合うとは言ったものの相変わらず蒼の目的は分かっていない。



「……蒼君が何をしようとしてるのかは、教えてくれないんだよね?」

「まだ、な。もう少しお前の捜査が進行したら教えてやってもいいかもしれない。安心しろ、悠乃の目的と相反することはないから。お前はただ自分の仕事をすればいい」

「……うん」



 いずれ教えてくれるという蒼に、悠乃も少し声を明るくして頷いた。



「それで、だ。あいつ、俺達の行動を窺う為に他の悪魔を餌にしたんだよな?」

「そんな風に言ってたけど」

「今回交戦したのは町中だったから流石にあいつも見てはないだろうが……月島が逮捕されたってのは学校中が知ってるからな。勿論あの悪魔も……そいつの悪魔憑きも承知のはずだ」

「蒼君はあの悪魔の主が誰だか知ってるの?」

「確定はしていないが、大よそ確信は持ってる」



 まあ悠乃もそのうち分かって来るだろ、と軽く流すように言った蒼は、このことについては教えるつもりはないらしい。どのみち蒼が教えてくれた所で報告書に蒼の証言だと書く訳にはいかないが。

 少しずつ悠乃も分かって来た。蒼が悠乃に話さないことは大体、悠乃のバックにいる警察組織を警戒しているのだろうと。彼がどこまでの情報を持っているかは不明だが、少なくとも容易に手に入る情報ではないことは確かだ。



「向こうがどこまで情報を得ているかは分からないが、今回の逮捕に月島と接触していた悠乃が関わっていると知られているかもしれない。向こうがこれでどう行動を起こすのか分からないから気を付けた方がいいな」

「分かった。蒼君ありがとう」



 蒼の忠告に悠乃は素直に頷いた。一人でやらなければと追い詰められて時とは違い、今はとても落ち着いて捜査に臨めているのだ。互いに利用し合うとは言ったが、それでも悠乃は今の蒼との関係がひどく心地の良いものに感じられていた。




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