19. 単独行動
翌日から、悠乃は一人で調査を開始した。蒼とはあれから一度も話してはいない。それどころか彼が教室に居るのが極端に減った為顔を合わせることも少なくなった。
頻繁に一緒にいた二人の変化には当然クラスメイト達も気付いたようで、理緒を始めとする友人達に悠乃は何度も「何かあったのか」と尋ねられ、その度に困ったように首を振った。特に蒼と悠乃が今まで一緒に行動していた理由を知っている理緒は蒼の変化を訝しんでいた。
「朝日のやつ、ホントにどうしたんだろ……。悠乃とあの後喧嘩でもしたの?」
「喧嘩っていうか……私が一方的に、ちょっと色々言っちゃったから」
詳しく説明するのは躊躇われる。悠乃は曖昧な表情でそれ以上の追及の言葉を躱した。
「やっとべたべたくっついてた鬱陶しいのが居なくなったよねー」
「どうせ飽きられたんでしょ。いい気味」
そして友人達だけではない。他のクラスメイト――蒼に好意を抱く彼女達もすぐに状況を察知し、清々するとばかりに大声で当てこするように噂をしている。悠乃も彼女達に嫌われているのは知っているし、大部分の生徒はどちらかと言えば蒼の性格もあって悠乃に同情的だ。けれどそれでもやはり、陰口が耳に入る度に胸が痛くなる。
「あ、朝日君来たよ!」
予鈴一分前に登校して来た蒼に、早速数人の女子生徒が群がり始める。今までは悠乃と話をしていたり理緒といがみ合っていたりすることが多かったのであまり見られなかったが、ここ最近は毎日同じような光景が広がっていた。
悠乃は無意識のうちに顔を上げて蒼を目で追う。一度彼女の方へ振り向きかけた蒼だったが、視線が合う前にすぐに前を向き、近寄って来た女子と何かを話し始める。
「……嫌な感じよね」
すぐに剥がれてしまいそうな杜撰な作り笑いを浮かべる蒼を、理緒は頬杖を着きながら苛立ちの籠った目で眺め、そして小さく呟いた。
警察署で悠一と速水の会話を聞いた後も、特に悠乃は任務について何も聞かされていなかった。てっきり任務の中断や引継ぎを宣告されると思っていた悠乃は拍子抜けしたが、聞き耳を立てていたと知られるのは困る為理由も聞いていない。
だが大方、速水の言っていた通り代わりの人材が確保出来ていない為現状維持になったのだろうと悠乃は考えていた。そうでなければきっと、このまま蒼と気まずい状態でこの学校を去ることになっていただろう。
とはいえいざ捜査しようにも手掛かりが少なすぎる。結局のところ虱潰しに探すしかないのだが、以前悪魔を見た屋上は蒼が居なければ入れない。本当に一人では何も出来ないのかと落ち込みながらも学校中を見て回る毎日だが、いかんせんこの虹島高校は広すぎる。そして悠乃とて授業中は探すことが出来ないので、酷く効率の悪い捜査だった。
そして今日もようやく最後の授業が終わったところだ。最後の授業は体育で、まもなく迫る体育祭の練習が行われていた。悠乃は200メートル走と二人三脚、蒼は400メートル走に出場する予定なのだが、この授業にも蒼は顔を出すことはなかった。
氷室は「せっかくの体育祭の練習を怠るとはなんてやつだ!」と怒っていた。しかしきっと蒼が聞いていたら飄々として「練習なんてしなくてもどうせ勝てるし」とでも言うのだろうな、と悠乃は考えたところで我に返って落ち込んだ。また蒼のことを考えてしまっている。
「鏡目さんってクラス委員でしょ? そこのコーン倉庫に戻しておいてくれない?」
「え? う、うん。いいよ」
早く着替えて悪魔を探そうと思った矢先、クラスメイト――悠乃を嫌っている女子からそう声を掛けられて反射的に頷いてしまう。本来は体育委員の仕事なのだが、それ以上彼女と会話する気力もなかった悠乃はグラウンドに散らばったコーンを集めて体育用具倉庫へと運んだ。
「……疲れた」
全く片づける気がないと言わんばかりに端から端まで設置されていたコーンをようやく全て倉庫へ運んだ悠乃は、一息吐くように呟いて肩を落とした。急いで着替えないと終礼にも間に合わなくなってしまう。
「え?」
すぐに校舎へ戻ろうと踵を返した瞬間、突如悠乃の視界が真っ暗になった。一瞬何が起こったのか分からなかったが、重く軋む音がしたことから倉庫の扉が閉められたのだと分かった。更に続いてがちゃがちゃと金属音が聞こえ、悠乃は血の気が引いた。鍵まで閉められたのだ。
「ねえ、流石にちょっと酷いんじゃ……」
「何言ってんの。冬でもないし死なないでしょ」
「そうそう。どうせ明日になればどっかのクラスが体育で使うだろうし、平気平気」
悠乃からしてみれば全く平気ではない。扉の向こうから聞こえて来た声にうんざりとしながら、彼女はどうしたものかと扉に手を掛けた。ぱたぱたと去っていく足音が聞こえなくなるのを待ったあと思い切り扉を引くが、しかし全く動く様子はない。
扉から出るのを諦めた悠乃は続いて上方を見上げた。倉庫内は完全な暗闇ではなく、よく見てみれば荷物に埋まるようにして半分だけ天井付近に小さな窓が取り付けられているのだ。大の大人が通るのは難しそうだが、悠乃くらいの女子ならばどうにかなりそうだ。
悠乃は埃っぽい棚をよじ登ると窓の傍に積まれた跳び箱の上へと移動する。邪魔な荷物を適当にどかして窓を全開にするとようやく赤い夕焼けの光が目に飛び込んで来た。窓から顔を出して下を覗き込むと、大体地面まで約二メートルといったところだ。
「この高さならなんとか大丈夫……」
倉庫内にあるマットを着地地点に落としておけばもっと確実だが、窓までマットを運ぶ方が大変だ。窓枠に手を掛けてそのまま上半身を外に出す。そして片足も枠に掛けたところで、悠乃は不意に誰かの視線を感じた気がした。
「危ねえことしてるなあ、人間」
「――え」
「飛べない癖に無茶すると怪我するぞ?」
バサ、と目の前に黒い翼がちらつく。それと同時に顔を上げた悠乃は大きく目を見開いて窓から身を乗り出した状態で硬直した。二階ほどの高さにいる悠乃と同じ高さに浮いている青年。背には大きな黒い翼を携え、その顔や腕には黒い刺青のようなものが大量に施されている。
にやにやと笑う表情がどこか蒼を彷彿とさせるその男は、正真正銘、悠乃があの時に見た悪魔そのものだった。
「あ……く、ま」
「ふーん、やっぱり見えてるんだな。珍しい」
悠乃は無意識のうちに懐から拳銃を取り出そうと手を動かしたが、しかし今の彼女は体育を終えた後の体操着姿だ。勿論拳銃は持っていなかった。
至近距離に悪魔がいるというのに対抗手段を持っていない。おまけに逃げるにも逃げられない場所で、悠乃は一瞬にして死を覚悟した。
殺される。反射的に目を閉じた彼女は、しかし目の前の悪魔が一向に動く気配がないのを感じて、恐る恐る目を開けた。
「なんで急に目閉じたわけ?」
「え……」
「ああ、もしかしてオレに殺されるとか考えてびびった? 大丈夫大丈夫、お前がオレの主サマの邪魔しない限り何もしねえよ」
怯えるような仕草を見せた悠乃に、悪魔はからっと笑って軽く手を振った。彼の言うことが本当かは分からないが敵意は見られない。更に言えば、仮に嘘だったとしても今の悠乃に対処の術はないのだ。後ろ向きな考え方だが、信じる以外の選択肢はなかった。
「……じゃあ、なんで私に話しかけたの?」
「お前、前に屋上であいつと一緒にオレのこと見ただろ」
「あいつって……蒼君のこと知って」
「知ってはいるが知らない」
言葉遊びをするように悪魔はそう言った。
蒼はこの悪魔について知っていたのか、それとも悪魔が一方的に彼を見ていたのか。しかし蒼は最初から悪魔が見えると自信満々だったのだ、もしかしたら悠乃に出会う前からこの悪魔のことを認識していたとしても可笑しくはない。
「それからお前、ずっとオレのこと探してたよな。それを聞きに来たんだ。一体何が目的だ?」
「何がって」
「ただの興味だったら止めるんだな。好奇心で悪魔に近づくと――死ぬぞ?」
「……知ってるよ、そんなの」
それこそ、痛いほど身に染みている。
悠乃は悪魔の視線から逃れるように俯いた。彼女の目的は警察官として未確認の悪魔を調査、監視して事件を未然に防ぐ、また過去に起こった事件に関連していないかを捜査することだ。しかし悠乃の身分が悪魔憑き――この悪魔の召喚者に知られるのはまずい。
黙り込んだ彼女を見た悪魔はそれ以上問い詰める訳でもなく、黙って肩を竦めた。悪魔にしては妙に人間臭い仕草だ。
「ま、大方あの男に利用されてるだけなんだろうが」
「利用?」
「あいつがお前に近づいたのはその目があるからなんだろ? お前のこともよく分からないが、あの男の方が余程分からない。何が目的なのか、何者なのか興味がある。お前はそれを知ってるのか?」
「……知らないよ」
悠乃は蒼のことを殆ど知らない。明るく飄々として人を揶揄うのが好き。身体能力も成績も優れていて、更に容姿も整っているが性格はあまりよろしくない。両親は他界しているらしいがそんなに気にしている様子はなく、悪魔に興味がある。……分かっているのは、それくらいだ。どうして悪魔に固執するのか、悠乃の捜査に協力すると言ったのか、結局最後まで分からずじまいだった。
「あなたは、この学校にいる誰かに召喚されたの?」
「おっと、主に関する質問は答えねえぞ。オレはマジメな悪魔だからな。主が不利になるようなことはしない」
「じゃあひとつだけ教えて。あなたは他の人間に危害を加えるつもりはある?」
「言っただろ? そっちが何もしてこなければ何もしないって。……まあ、あれは違うみたいだけどな」
「あれ?」
「ほら、見てみろよ」
悪魔が指を差す方向へ視線を向けた。悠乃が今いる高さからだと随分遠くまで見渡せる。遠方を差したその指の先を追うと、離れた校舎の裏に二つの人影が見えた。
「――っ!」
「――」
流石に会話は聞こえてこないが、どうやら男性と女子生徒が何か言い争いをしているようだ。悠乃は目を凝らして二人を見つめ、そして見覚えのある男の顔に首を傾げた。
「月島先生?」
悠乃達二年の数学の授業を受け持つ学年主任。そんな男がどうしてこんな場所で言い争いをしているのだろうか。
女子生徒は月島に縋りつくように彼の腕を掴んで何かを叫んでいる。しかし彼は冷たくその手を振り払うと、何かを口にしておもむろに右手を上げた。
「え?」
「あれのことだ」
悠乃は自分の目を疑いたくなった。何しろ月島が手を上げた瞬間、それに反応するように彼の背後に“それ”が現れる瞬間を目撃してしまったのだから。
悠乃の傍にいる悪魔とは対極の白い髪と肌、遠目から見ても分かる蠱惑的な表情、そして……天使かと見紛う白い翼。それらの要素を持つ女性がそこにいた。
あれは、悪魔だ。
「おかしいよ……何なの、この学校」
窓枠を押さえていなかったらきっと今頃悠乃は両手で頭を抱えていただろう。見える見えないに限らず、普通悪魔なんて生きていてもそうそう出会うことなんてありえないのだ。悠乃とて悪魔が見えると言っても十歳になって初めてその存在を知った。あの時に出会ったのだって本当に偶然だったのだ。
それがこの高校に潜入捜査を始めて僅か数か月で既に三体目の悪魔を見つけている。それは偶然で片付けられるものだとは思わなかった。
この学校は、おかしい。
悠乃が動揺している間にも悪魔は動く。白い女の悪魔はその手を女子生徒に向けると何かを呟く。勿論悪魔が見えていない彼女は構わずに月島に何かを言っているものの、すぐにそれも止まった。
突然棒立ちになって虚ろな目をした少女。彼女はしばらくぼうっと虚空を見上げていたのち、先ほどまでの必死な様子はどこへ行ったのか、酷く無気力な表情でふらふらと踵を返して建物の影へ消えていったのだ。
「何、今の……?」
「あの男、ああやって生徒引っ掛けては飽きたら悪魔に指示して記憶を消してるんだよ」
「記憶を……消してる!?」
「他にも色々やってるぜ。万引きとか空き巣、あと援助交際ってやつ? しかもばれそうになったら悪魔にうやむやにさせて誤魔化してる。すっげえせこいよな。悪魔にやらせる仕事じゃねーっての」
「何それ……」
今まで授業を受けていた教師がそんな人間だったと知って悠乃は愕然とした。月島は成績が良かったり従順な生徒は贔屓し、他の生徒には厳しいと評判であまり好ましいとは思っていなかったものの、そこまで酷い人間だとは思っても見なかった。
悪魔が言ったことが全て真実かは不明だが、しかし今目の前で女子生徒に悪魔を使って何かをしたのは悠乃がその目で見た確かなことだ。
「……ねえ、どうして私に教えてくれたの? 一応同じ悪魔のことでしょ?」
「悪魔に同族意識なんて基本的にない。むしろ人間よりの悪魔だっているしな」
「あなたはそうなの?」
「オレは主限定。他のやつは悪魔だろうが人間だろうがどーでもいいね。お前にあの悪魔のことを教えたのは……他の悪魔を知ったお前らがどう行動するかが気になるからさ」
悪魔はそう言うと、ばさっと翼を大きく羽ばたかせて上空へ飛び立つ。「向こうにばれるのは困るんでね」と笑う悪魔の言葉に悠乃が下を向くと、ちょうど月島が一人でこちらへやって来るところだった。
「じゃああいつによろしく、カガミメユノちゃん」
「え」
名前を知られていたことに驚いた悠乃は咄嗟に悪魔の背を追いかけるように身を乗り出す。しかし当然というべきか、不安定な場所にいた彼女の体はその勢いにぐらりと態勢を崩し、そしてそのまま二メートル下の地面に向かって落ちていく。
「っ!」
声も出せず眼前に迫る地面を見た彼女は咄嗟に頭を庇うように腕で抱え体を丸めた。そして訪れる衝撃を覚悟して身を強張らせたが、しかしいざ体を襲った衝撃は想像よりもずっと小さなものだった。
「痛ったた、何だ一体……」
その声は悠乃のものではない。低い男性のそれに驚いた彼女が目を開けると、そこには先ほどまで遠目で様子を窺っていた月島が悠乃の下敷きになっていたのだ。
タイミング悪く……悠乃からしてみればある意味よく真下に到着した月島を見た悠乃は、一瞬だけさっと周囲を確認する。すでに女の悪魔はその場から消え去っているようだ。
「せ、先生……」
「鏡目? 何で急に落ちて」
「いえ、あの」
突然降って来た悠乃に顔を顰めた月島は、彼女と上方の開いた窓を交互に見つめて得心が言ったように「成程」と呟いて不意に彼女の両肩に手を置いた。
「分かるぞ……お前、いじめられてここに閉じ込められたんだな?」
「え」
「可哀想に。辛いことがあるなら先生に何でも相談していいんだからな」
確かに月島の言うことは間違っていない。相談しろという言葉も教師らしいものでそこは問題ないのだが……肩に置かれた手や妙に近い顔に悠乃は思わず身を引いた。
元々彼女は成績優秀で問題を起こす生徒ではない。更にクラス委員で傍から見れば立派な優等生だ。そしてそれは言うまでもないが、月島の贔屓する生徒の全ての要素に当てはまっていた。
「怪我はないか」
「はい……あの、大丈夫です」
「また何かあったら先生に言うんだぞ? 俺が助けてやるからな」
背筋がぞわりとするような猫撫で声。先ほど悪魔が言った言葉が蘇り、嫌でも自分がターゲットにロックオンされたことを理解した悠乃は、砂を払うように体に触れる月島の手を不自然にならない程度の力で拒絶した。
この男をこのまま野放しにしてはいけない。ただでさえ犯罪を、しかも悪魔を使って証拠隠滅を行っているのだ。このまま逮捕してしまいたいくらいだが、現状悪魔の証言だけでそれはできない。
「……よろしくお願いします」
悠乃は月島の言葉に応えるように頭を下げた。囮でもなんでもいい。悪魔を引きずり出して証拠を掴めれば――今度こそ、自分の力で兄や速水に貢献できれば、それでいい。




