18. 失言
どうしよう。
どうしよう――
人込みがなくなるにつれて歩くのも早くなる。殆ど走るように非常階段の傍に逃げ込んだ悠乃は、ばくばくとうるさく鳴る心臓を押さえながら膝を着いた。ぐるぐるとパニック状態に陥っている頭を落ち着かせようとして、しかし彼女は決して呑気に落ち着いてなどいられなかった。
「どうしよう……」
一位が取れなかった。妥協した訳でも手を抜いた訳でもなく、実力が及ばなかった。だが、そんなことは言い訳で、結局もっと努力しなかったのが悪いのだ。
「こんなんじゃ……見限られる」
「見限られるって、誰に?」
「!?」
独り言に言葉を返されて思わず肩が跳ねる。こんな人気のない場所に他の人間がいるとは思ってもみなかった悠乃は、恐る恐る背後を振り返った。
「蒼君……」
「どーしたんだ? そんな隅でうじうじして」
傍の壁に寄りかかるようにして悠乃を観察する男がいる。彼は俯く悠乃に首を傾げながら彼女の返答を待っていたが、やがて痺れを切らしたように彼女の名前を呼んだ。
「悠乃」
「……っ一番に、なれなかったから」
「なんだそんなことか。まあ俺がいる以上諦めろって。上には上がいるもんだ」
「……」
「……ホントにどうしたんだ、お前。そんなに一位になりたかった理由でもあんの?」
茶化すように笑った蒼にも悠乃は沈黙を貫く。というよりも声を出してしまえばそのまま涙が零れそうで、黙らずにはいられなかった。
悠乃のあまりに不審な態度に蒼も笑いを収める。震える手でスカートを握りしめた彼女は、絞り出すような声で「だって」とようやく口を開いた。
「二番じゃ、駄目。もっと頑張れた。努力を惜しんだ。私は、誰よりも頑張らなきゃいけないのに……」
「ふうん。じゃあ悠乃は仮に俺がテストの日休んでたとして、同じ点数でもそれで一番になったとしたら満足だったのか?」
「……それは」
「それって、ただ目に見える形で“私は頑張りました”って示したいだけだろ。別にいいんだぞ? 俺が次のテストから手を抜いても。そうしたらお前は今度こそ一番になれる。よかったな」
淡々とした声で正論を言われ悠乃は唇を噛んだ。そうだ。蒼の成績を知らなかった今回なら、彼がテストを受けずに悠乃が一番になればこんな風に悩まなかっただろう。彼の言っていることは正しい。だからこそ痛烈に悠乃の心に突き刺さった。
「それで、一番じゃなかったら誰に見限られるって?」
「……兄、さんに」
「兄?」
「ずっと迷惑ばかりかけてきて、少しでも役に立たないといけないのに。手を抜いたなんて思われたら、今度こそ嫌われる……失望される」
「……」
少しでも早く、多く兄の役に立ちたい。足手纏いになりたくない。兄から普通の生活を奪ってしまった分、せめてこれ以上迷惑をかけないようにしなければならない。――これ以上、嫌われたくない。
胸が苦しくて一粒涙が落ちる。こみ上げてくる嗚咽を必死に堪えようと大きく息を吸った彼女は、そこで蒼が黙り込んでいたことにようやく気が付いた。
ゆるゆると顔を上げた悠乃は、彼が酷く冷めた表情を浮かべているのを見てぞくりと寒気を感じた。
「そんなことで嫌われるんだ。さぞかし普段から好かれてないんだな」
心が抉られるような感覚を覚えた。鬱陶しく落ち込んでぐちぐちと言っている彼女に嫌気が差したのだろう、蒼は冷たく吐き捨てた。
その言葉によって、彼女の中で何かが壊れる音がした。
「……そう、だよ」
「悠乃?」
「私、兄さんに嫌われてる……ううん、憎まれてるよ。取り返しのつかないことをしてしまったから」
「おい、悠乃」
「本当に、今更だった。……蒼君、今まで手伝ってくれてありがとう。ごめんね」
今更好かれようとしていたのがそもそも間違いだったのだ。
声が震えないように早口で告げる。何が迷惑をかけないように、だ。今まで蒼にもたくさん迷惑を掛けて来たというのにそんなことにも気が付かずに彼を頼って。自分の力で何も出来ないようでは、最後に残された居場所すら失ってしまう。
「これからは私一人で捜査する。……もう迷惑掛けないし、危ないことに巻き込まないようにする」
「急に何言ってんだよお前」
「元々は私がやらなきゃいけないことだったから。本当に、今までごめんなさい」
悠乃は蒼の表情を見ないように頭を下げる。そのまましばしの間緊迫した空気が二人の間に流れたものの、ややあって先に口を開いたのは蒼の方だった。
「……そうかよ、勝手にしろ」
「……ごめん」
怒気を含んだ声。巻き込んでおいて身勝手だと分かっていた悠乃は、ただ一言もう一度だけ謝って、彼を避けるようにその場から逃げ出した。
「……はあ」
その日の夜、悠乃は警察署内にある射撃練習場で銃を握りしめていた。何度も撃った所為か腕が疲れ、発砲の反動で照準がずれてしまう。的の中心から逸れた場所に空いた穴に溜息を吐いた悠乃は随分遅い時間になってしまったと片づけを始めた。
いつまた悪魔と対峙するか分からないのだ、射撃練習を欠かす訳にはいかない。しかし改めて使用していた的を見るが、その精度はあまり芳しくなかった。普段ならばもっと狙い通りに命中させるのだが、今日はどうにも振るわない。
「もっと頑張らないと」
調子が悪かったから、なんて実際の戦闘において言い訳は通用しない。悠乃は元通り拳銃をしまい込むと、残っていた報告書はないか確認するために一旦仕事場へ足を運ぶことにした。
「――さん」
しかし扉のノブを掴む直前、部屋の中から聞こえて来た声に悠乃は咄嗟に動きを止める。
「どうした悠一」
「あいつの捜査している高校に悪魔が出たというのは」
「……耳が早いな。和也にでも聞いたのか?」
「話が違います」
兄と速水が話をしている。それに気付いた彼女は無意識に息を潜め、思わず彼らの話に聞き耳を立ててしまった。何しろ内容は自分のことに関するものであったからだ。
ばん、と机か何かを叩く音が響き渡る。
「今回の調査は魔獣についてだったはず」
「そう言われてもな。捜査の途中で別の悪魔や魔獣が発見されることなんてそんなに珍しいことじゃないだろう」
「すぐに捜査を打ち切るか別の人間を派遣して下さい。あいつが悪魔を相手にするなんて無理です」
「あのな……悠一、もう少し悠乃を信用してやったらどうだ。あいつも頑張って」
「必要ありません」
「悠一!」
躊躇いなく切り捨てられた言葉に、悠乃は声を出さずにこみ上げてくる痛みを堪えた。まったく信用する気などないと言いたげな冷たい声は、当たり前だと思いながらもそれでも辛い。
「……とにかく悠乃を任務から外してください」
「代わりの人間も居ないし無理だ。それにあいつがやってるのは潜入捜査だぞ? はい交代って出来るような任務とは違うんだ」
「……」
「それに悠乃は既に一度悪魔と交戦している。それも召喚者を説得してすでに送還されているが」
「簡単に還る悪魔なんて殆どいない、今回は運がよかっただけです。同じことが何度も起こるとは限りません。悠乃では……悪魔には絶対に勝てない」
それ以上聞いていられなかった。悠乃は零れ落ちそうになる涙を乱暴に拭って走り出す。
認められていないことなど勿論知っていた。悪魔を送還出来たのだって、悠一の言うように悠乃の実力ではない。理緒が送還の儀式を行い、その間に時間稼ぎをしただけだ。それだって蒼が居なければ死んでいた。
「……また、途中で打ち切られちゃうのかな」
警察署を飛び出してしばらく走った悠乃は、夜道で一人息を切らしながら呟いた。今まで彼女は色んな任務を受けたことがあるが、そのうち何度も途中で任務を中断させられたことがあった。速水は理由を言わなかったが、恐らく全て悠乃の実力不足なのだろう。彼女がショックを受けると思って伝えるのを躊躇ったのかもしれない。
「……嫌だ」
このまま以前と同様に任務を取り上げられて高校を去るなんて、嫌だ。
けれどそう思っても所詮は悠乃の我が儘でしかない。任務をそのまま続行したければ、彼らに認められる実力がなければ駄目なのだ。
少なくとも、蒼に頼っていただけの今までと同じでは駄目だ。
何にも出来ない、役立たずのままでは――今度こそ誰からも見放されてしまうから。
「……今の、悠乃か」
「……」
不意に部屋の外で走るような足音が聞こえた速水は、扉を開けた先に僅かに見えた背中を目で追いかけて驚いたように呟く。速水の言葉に反応して立ち上がった悠一は何も言うことなく速水の視線の先を辿り、しかし結局力が抜けたように再度椅子に腰を下ろした。
「あいつ多分聞いてたぞ」
「そうでしょうね……別に聞かれて困るようなことは言ってませんので問題ありません」
「それで悠乃が傷ついてもか」
速水の探るような視線にも悠一は目を逸らすことなく見返す。そうして続けられた言葉には、揺るぎない強さが込められていた。
「……悠乃が俺の言葉でどれだけ傷付こうが構いません。悠乃だけは――」
「どんなことをしてでも、絶対に死なせない」




