15. 悪魔
「駄目!」
「く、あああああっ!」
魔法陣に血を垂らした理緒が叫びながら左腕を押さえる。マジックやクレヨンなどどんなもので魔法陣を描こうと、召喚時にそれは焼け焦げるようにしてその身に消えない痕を刻み込む。思わず彼女に駆け寄った悠乃は理緒の腕を見ようとして、しかしそれは叶わなかった。突然何かに弾き飛ばされるように理緒から引き離され、衝撃で意識が飛びかけたからだ。
「悪魔が……」
悪魔が、来る。北村が呼び出したような魔獣ではない、正真正銘の悪魔が。
「……」
無言でその様子を見つめていた蒼は、いつものように笑みを浮かべてはいなかった。ただ無表情で悪魔が現れるのを食い入るように見つめていた。……蒼には、見えているのだ。
理緒の目の前に風が渦巻く。それは徐々に形を作るように固まってゆき、そして唐突にこの世に存在を現したのだ。
「――我はカギ。呼び出したのは、貴様か」
低く淡々とした声。しかし見た目はそれにそぐわない少年のような姿をしている。だが背中に生える毒々しい色をした翼と鋭く長い鉤爪は、一目で彼がこの世に存在するべきものではないと容易に理解できてしまう。
カギ、と悪魔は名乗ったが、それは彼の本当の名ではない。そもそも悪魔は自分の名前を絶対に知られないようにしている。彼らが名乗るのは見た目や能力などから自ら名付けた仮の名前なのだ。
見た目が子供だったからだろうか、彼を呼び出した理緒は少しだけ安堵したように息を吐き、強い瞳で彼を見据えた。
「そうよ。私があんたを呼び出した」
「ふん、わざわざ来てやったのだ。さっさと契約しろ。贄はどこだ」
「へえ、これが本物の悪魔ねえ? 思ったよりも大したことないな」
尊大な態度でしゃがみ込んでいる理緒を見下ろした悪魔の少年――カギは、不意に背後から聞こえて来た声に振り返る。己を侮辱するような物言いをした蒼を見た彼は憤るように表情を歪め、酷く不愉快そうな顔で「何だ貴様は」と吐き捨てた。
「気持ちの悪い人間だ」
「それはどうも」
「……そいつよ。その男が生贄!」
悪魔を前にしても普段の態度を崩さない蒼に、理緒は声を上げて彼を指差す。それに対してカギは「これが贄だと」と睨むように理緒を振り返った。
「そうよ」
「……まあいい。それで貴様の願いは何だ」
「……願いはない」
「なんだと」
「だから、願いは無くていい! その男を生贄にしてくれれば、それでいいのよ!」
悪魔との契約は、基本的に願いと引き換えに贄を差し出すことで成立する。だが理緒は贄を――蒼を消すこと自体が願いだ。無条件で贄だけを渡すと言っているので、悪魔にとっても悪い話ではないだろう。少なくとも理緒はそう考えていたのだ。
だが、現実はそう上手くはいかなかった。
「――そんな愚かな契約、我が受けると思ったのか」
「え?」
「驕るな人間風情。選ぶのはこちら、貴様らは従うのみだ」
「で、でも願いは無くていいって言ってるのに」
「つまり貴様はあの男を殺すのが願いなのだろう。ならば贄は別に貰うことにする。そうだな……そこの女にしよう」
「っ!」
カギが見据えたのは、先ほどの衝撃で動けなくなっていた悠乃。蒼の背後まで飛ばされた彼女は悪魔が自身を捉えたのを理解して一瞬呼吸が止まった。忌まわしい記憶がフラッシュバックしそうになり、しかしぎりぎりで踏み止まった彼女は震える手をそっと動かした。蒼が影になってカギから見えない位置で、悠乃の手は上着の内に入れられる。
「駄目! 悠乃だけは!」
「言っただろう人間、選ぶのはこちらだ、と。あの女も我らを見ることが出来るようだな。面白い魂だ、貰い受けよう」
「悠乃っ!」
理緒の悲鳴を無視して悠乃の元へ来ようとする悪魔。カギが一歩足を踏み出した瞬間、悠乃は取り出していた拳銃を素早く悪魔に照準を合わせたのち、間髪入れずに引き金を引いた。
まさか攻撃を受けるとは思ってもいなかったのだろう。カギは一発目の弾丸をもろに胸に直撃させて呻く。しかし相手は悪魔だ。更に追撃をするように銃を撃つが、しかし今度は見切られたように鋭い鉤爪で弾き飛ばされてしまった。
「人間風情が……!」
「悠乃、逃げて!」
悪魔の爪がそのまま悠乃へ向けられる。理緒も急いで彼女の元へと急ぐが、カギの方が距離も近く素早い。咄嗟に威嚇するように悠乃は数発発砲したものの、それも同様に防がれてしまう。
少年の手が悠乃を引き裂こうと大きく振り被られる。避けるか、それとも怪我をするのを承知でぎりぎりまで引き付けて脳を打ち抜くか。彼女が後者を選ぼうとした時、突然腹部に強い圧迫感を覚えて引き金に掛かっていた指が外れた。
「逃げるって発想はない訳?」
「蒼君!」
蒼が悠乃の体に手を回して無理やり後退させたのだ。彼女の鼻先を掠めるように空ぶった悪魔のするどい爪を間近で感じた彼女はひゅっと息を呑む。怪我は覚悟していたが、実際に直撃していたらどれだけ酷い怪我を負っていたか分からない。
大きく腕を振り回した所為で態勢が崩れ、悪魔がふらりとよろめく。最初に当てた銃弾に込められた術式が効いているのかもしれない。とにかく、逃げるのなら今のうちだった。
悠乃が再度足止めをするようにこの隙を突いて悪魔を撃つと、少年は鈍い呻き声を上げて苦し気に膝を着く。それを確認する間もなく悠乃達は駆け出した。勿論悪魔も追いかけて来るが先ほどよりもずっと動きは鈍く、彼女達は何とか悪魔から一時的に逃げ出すことに成功した。
「はあ……」
全力で走った三人はそれぞれ息を切らしながら校舎内の一室に身を潜めていた。元々足が速い蒼と仕事柄体力のある悠乃は少々疲労を感じる程度だが、問題は理緒だ。平均的な運動神経の彼女はもう走れないと立ち上がることすら億劫な様子だった。
「根性ねえやつ」
「蒼君! 仕方ないよ、召喚には体力も精神力も使うんだから……」
「ごめん、私が……あんなもの、呼び出したから」
「ほんとにな。自分の手を汚さずに楽しようとした結果だ」
「……」
淡々と理緒を責める蒼は、しかしすぐに思考を切り替えるように「さて、あれどうするっかね」と悠乃を――彼女の持つ拳銃に目をやった。
「悪魔は、それじゃあ倒せないんだったか?」
「絶対に無理って訳じゃないけど……正直言って難しいよ。脳や心臓に確実に何発も撃ち込む必要があるし、それに急所じゃなかったとはいえ当たってもあれだけ動けたから、多分あの悪魔は結構強い力を持ってる。……それに、弾だってそこまで残ってる訳じゃない」
悠乃が新たに銃弾を装填しながら残りの弾数を数えるものの、残りは五発だ。先ほど威嚇射撃をするのにいくつか使ってしまったのが痛かった。
「時雨が命令して止めるのは?」
「まだ契約が成立してないから理緒ちゃんの命令には従わないよ。だから取れる方法は一つかな……悪魔を正式な手順で魔界に送還すること」
「出来るのか?」
「召喚者である理緒ちゃんなら……」
「ねえ、悠乃……悠乃は一体、何者なの」
ようやく息が整い出した理緒は、二人の会話を聞きながらずっと疑問に思っていたことを口にした。北村を知っていたことや悪魔に妙に詳しい所、そして何よりその手に持つ拳銃。ただの一般人ではないことは容易に推察できる。
悠乃は一瞬言葉を躊躇った。しかし今更隠していても仕方がないとすぐに判断すると、拳銃と同じく上着の内側に縫い付けたポケットの中から警察手帳を取り出して、それを彼女の目の前で広げてみせた。
「私は、悪魔や魔獣の調査の為にこの学校に派遣された、潜入捜査官」
「警、察……?」
「元々は北村さんが起こした事件を追ってここに来たの。……隠してて、ごめん」
悠乃の言葉を受け取り損ねた理緒は、うろうろと悠乃と警察手帳とを交互に見つめて酷く困惑していた。それもそうだろう、そもそも警察と言っても悪魔や魔獣を取り扱う部署があるなんて一般人には知る由もないのだから。
「ごめん、今はこれ以上説明してる時間はないの。とにかく理緒ちゃん、あの悪魔を魔界に戻すのに協力してほしい」
「でも、どうやって――っ!」
ずしん、と何かがぶつかる音が聞こえて理緒の声が途切れる。随分近くで聞こえて来たように思えるそれに、何が近づいて来たのか三人はすぐさま理解した。
悠乃は即座にスカートのポケットに入れていた手帳を取り出すと、急いでページを捲ってその中の一ページを理緒に示した。
「理緒ちゃんの腕にある魔法陣にここに書いてある術式を書き足して。そうしたら召喚した時と同じように血を垂らす。これで悪魔は送還できる」
手帳に描かれているのは理緒の腕に掛かれている魔法陣とよく似通っているが、更に細かく書かれている。魔法陣は繊細だ。少しでも間違えると予想外の効果を発揮することもある。理緒が悪魔を召喚出来たのも、彼女が一切の妥協をせずに魔法陣を完成させたからに他ならない。だからこそ、今回も理緒ならばできると悠乃は思っていた。
「理緒ちゃんが魔法陣を完成させるまで私が悪魔を引き付ける。また血を使うから怪我させちゃうことになるんだけど……」
「そんなこといい! だけどそんなことしたら悠乃が」
「はいはい。悠乃は俺に任せて、つべこべ言わずにやるんだな。――悠乃、行くぞ」
「え」
自分一人で囮になるつもりだった悠乃は、蒼に腕を引かれて教室の外へと引っ張り出される。
「蒼君は戻って! 悪魔が狙ってるのは私なんだよ!」
「んなこと言って悠乃一人で時間稼げるのか? さっきだって危なかっただろ」
「それは……」
「お前が照準を合わせる間くらい悪魔の狙いを逸らしてやるよ。……まあ挑発するのは得意分野なんでね」
廊下の先に悪魔の少年を見つける。酷く苛立った様子の彼は二人の姿を目に留めると、殺気を色濃くしてすぐさま彼らの元へ向かってきた。
「贄にするまでもない、今すぐ引き裂いてやるわ!」
「魂奪う訳でもなく殺すって……碌に契約一つ満足に出来ないんだな」
「黙れ、全部殺してしまえば同じこと」
「悪魔ってこんな短絡的な脳筋野郎なんだなー。もっとすげえやつ想像してたのにがっかりだ」
「人間ごときが何を」
「その人間に契約一つでこき使われるのが悪魔ってもんなんだろ? 程度が低い」
「貴様!」
理緒がいる教室から離れるように蒼が階段へ向かう。売り言葉に買い言葉、見た目と精神が比例しているのは不明だが、簡単に挑発に乗ったカギは悠乃から狙いを変えて階段の手すりを軽々と滑り降りる蒼を追った。
「その気色の悪い魂、滅茶苦茶に切り刻んでやる!」
「さて、それはどうかな?」
余裕綽綽の口調で挑発を続けながらも、やはり人間の蒼よりも悪魔の方が速い。しかし蒼はそれでも笑みを崩すことなく、迫りくる悪魔の背後――階段上を見上げて合図を送った。
「今だ、悠乃」
蒼の声と同時にしっかりと拳銃を構えた悠乃が発砲する。無理な態勢でもなく、また蒼に向かってまっすぐに襲い掛かっている悪魔を狙い撃つのは、悠乃にとって難しいことではない。まして悪魔は彼女に背を向けているのだから防ぐことも儘ならない。その弾丸はカギの頭を正確に打ち抜いた。
「ぐっ、ふ、ざけるなあああっ!」
「っ!?」
しかし予想外だったのはその後だった。カギは怒り狂うように長い爪を振り回して蒼を吹き飛ばすと、そのまま背後を振り返って悠乃に襲い掛かったのだ。脳を貫いた銃弾の所為か攻撃は定まらないが、縦横無尽に鉤爪を振り回し広範囲を切り刻もうとする。
悠乃は後退しながら銃を構えるが、しかし撃つ直前に爪に引っ掛けられて弾き飛ばされてしまった。
彼女の武器は、もう無い。徐々に銃弾の効果は強く表れて動きは鈍くなりつつあるが、彼女が廊下の奥まで滑って行った拳銃を拾いに行く時間など到底ない。
「殺す!」
「っぐ」
カギの右手が悠乃の首を掴み上げ、彼女の体が宙に浮く。カギも今まで受けた攻撃が蓄積されているからかあまり力は入っていないが、それでも自分の全体重の重みで首が締まるのだ、苦しくないはずがない。
「悠乃!」
珍しく焦った蒼の表情が、生理的に出た涙で滲んで見えた。悠乃はせめてもの抵抗でカギに蹴りを食らわせようとするが、彼はまるで意に介さず左手を彼女に向かって振り被っていた。
殺される。悠乃はそう確信して思わず目を閉じた。
「ぎ、ぎゃああああっ」
しかし次の瞬間に響き渡ったのは悠乃自身の悲鳴ではなく、彼女を掴み上げていた悪魔の方だった。直後彼女の首に掛けられていた手が外れ、悠乃はどさりと床に落ちて目を開けた。
「げほっ」
「悠乃、大丈夫か!」
悠乃が咳き込みながら顔を上げると、そこには余裕のない顔をして彼女に駆け寄って来た蒼と、そして目を押さえて未だに悲鳴を上げるカギの姿があった。
「蒼、君……」
「武器が無くてもどうにかなるもんだな……」
「何したの?」
「背後から近寄って思い切り目潰し」
それは痛い。思わず想像してしまった悠乃も目を押さえてしまう。
「貴様らぁ!」
「ったく、時雨はまだか……って」
「あ……」
ようやく悲鳴を押さえたカギが今度こそ悠乃達を殺そうと立ち上がる。しかし悠乃達が警戒を見せたのもつかの間、突然カギの足元がさらさらとした砂のようなものに変わっていくのを目の当たりにしたのだ。
「な、なんだこれは……! 引っ張られる」
「理緒ちゃんが、成功したんだ……」
混乱する悪魔をよそに、どんどんと体は崩壊を続けていく。最後の抵抗とばかりに悠乃達の方へ伸ばした爪も届くことなく、悪魔は再び魔界へと引きずり込まれてその姿を完全に人間界から消滅させた。
「消えた……」
「悠乃! 朝日!」
送還が完了し、ばたばたと理緒が教室から出てくる音がする。しかし安堵で力が抜けてしまった悠乃は顔を上げる気力もなく、掴み上げられていた首に触れて大きく息を吐いた。
「やれやれ、終わったな」
肩を竦めてそう言った蒼の声は先ほどとは違いいつも通りのそれで、悠乃は泣きたくなるくらい安心感を覚えたのだった。




