14. 理緒
「速水さん、頼みがあるんですけど」
「どうした?」
「……このノートに付いている指紋と、北村さんが所持していたメモの指紋を照合して欲しいんです」
悠乃は首を傾げる速水に一冊のノートを差し出す。それは彼女が高校で使用しているもので、教科は古典だ。速水は目の前にあるノートを受け取ろうとして、そして直後その手を止めた。
「ちょっと待て」と言った彼はすぐに捜査用の手袋を嵌めて彼女のノートを受け取ると、それを厚手のビニール袋にしまい込む。
「あのメモを書いた人物が特定出来たのか?」
「恐らく……可能性は高いと思います」
それもこれではっきりとする。古典のノートには先日貸した時に理緒の指紋が付着している。それがメモの指紋と合致すれば、少なくとも彼女があのメモに触れたことは証明できるのだ。そうなれば、筆跡鑑定をしなくても殆ど間違いなくあれを書き記した人物を特定したようなもの。
友人を無断で調べるということに全く抵抗がないとは言わない。しかしそれが悠乃の仕事だ。それに本当に理緒が北村に悪魔召喚の方法を教えたとなれば、どうしてそれを教えたのか、他の人間にも伝えたのかを尋ねなければならない。これ以上悪魔が現世に召喚されることで起こるかもしれない悲劇を増やす訳にはいかないのだ。
速水の了解の声を聞いて、悠乃は決意を固めて硬い表情で頷いた。
「ごめんね、早めに戻ってくるからお願いします」
「あー、テキトーにやっとくから安心していいぞ」
その返事のどこに安心しろと言うのかと悠乃は首を傾ける。
翌日の放課後、悠乃は氷室に言われた通り進路相談の面談を受けることになっていた。しかしちょうどクラス委員の仕事が重なった為に、その間仕事を蒼に任せることになったのだ。
しかしながら、蒼は形ばかりですらやる気を見せず、酷く面倒臭そうに椅子の背もたれに寄りかかっている。出来るだけ早く帰ろうと決意して悠乃は教室を出ると、進路指導室へ向かって歩き出した。
「……」
そして一人教室に残った蒼は頬杖を着きながら目の前に広がるプリントの束を指ではじく。悠乃には適当にやると言ったが、そもそも最初から仕事を進める気も起きなかった。蒼がクラス委員に立候補したのは、勿論クラスをまとめる立場に就きたかったなんて理由ではないのだ。
おまけにクラス委員の仕事は最終的に生徒会が総括するものも多い。結果的に楓の為になるのだから、蒼は余計に頑張ろうなんて思えなかった。
「まあすぐに戻ってくるだろ」
悠乃の進路? そんなもの真剣に話を進める必要などない。何しろ彼女は既に就職して仕事でこの学校へ来ているのだから。
静かな教室に一人でいると徐々に眠気が襲ってくる。蒼がうとうとと船を漕ぎはじめ、そして意識が完全に落ちる直前、しかし唐突にその静寂は破られることになった。教室の扉が重い音を立てて開けられたのだ。
随分早いが悠乃が帰って来たのか。そう思った蒼は緩慢な動きで頭を揺らして瞼を持ち上げる。しかしいつもの彼女の声は聞こえてこない。
「朝日」
代わりに聞こえて来たのは威嚇するように低く、静かに怒りを抑えているようなそんな声。蒼が顔を上げると、そこに立っていたのは理緒だった。
「時雨?」
「あんたに話がある」
「お前が俺に? まさか告白とか?」
「……着いてきて」
挑発するように笑みを作った蒼に、しかし理緒は酷く冷たい視線を向けるだけだ。それだけ言って先導するように踵を返した理緒に蒼は肩を竦めて立ち上がった。その表情は先日女子生徒に呼び出された時とは打って変わり、酷く楽しそうなものだ。
冗談半分に言いながらも勿論蒼は理緒が自分に告白してくるなどとは微塵も考えてはいない。面倒事は嫌いだが、不穏な予感は大歓迎。彼はつまりそういう男だった。
「さて、一体何事かな」
「編入試験から見ても成績は全く問題無しだが、鏡目は進学希望でいいのか?」
「えーと……ええ、まあ」
進路指導室で氷室と向き合った悠乃は、目の前に並べられた大学のパンフレットに目を泳がせながらも曖昧に頷いた。下手なことを言って突っ込まれるよりも、他の大多数の生徒と同じ大学進学と言っておいた方が詮索されないだろうと判断したためだ。
「希望の学部はあったりするのか?」
「いえ、まだそういうのは決まってなくて」
「まだ時間はあるから焦らなくてもいいぞ。鏡目のなりたい職業が見つかるまでじっくり考えるといい。ちなみに先生なんてのもいいものだぞ! 色んな生徒と関わって、そいつが成長していくのを間近で見られるからな」
先生も高校生の時は――と自身の経験を話し始めた氷室に、悠乃は適当に相槌を打ちながら思考の海に沈む。もしあの事件がなかったら……あの時、声を上げなかったら自分は一体どんな高校生活を送って、そしてどんな職業に就こうと考えていたのだろうかと。
少なくとも警察官にはならなかった、それは確実だ。そもそも試験を受けたところで悠乃の性格では面接で落とされるのが関の山だ。彼女自身も自らなりたいとは考えないだろう。
OL、看護師、氷室の言うような教師。どれを想像しても自分がそうして働いている姿などぼんやりとして碌に浮かんで来ない。しかし想像した所で無意味ならばそれでいいのだ。
……悠乃の過去は消える訳もなく、そしてずっと彼女をこれからも苛んでゆくだけなのだから。
「氷室先生、そろそろ戻ってもいいですか? クラス委員の仕事がまだ残っているので」
「あ、ああすまない。最後に一つだけいいか?」
戻ったら完璧に仕事が片付いている、そんなことはまずありえないだろう。蒼が全くクラス委員の仕事をしない訳ではないが、基本的に真面目とは言いがたい人間だ。早く戻ると言った手前、なるべく急がないとと立ち上がった悠乃に、氷室は話し続けていた口を一旦閉じて彼女を引き留めた。
「何かこの学校に来て困っていることや悩みはあるか?」
「……いえ」
一瞬理緒のことや、他のクラスメイトの女子が頭を過ぎった悠乃だったがそれを口にすることはなかった。どちらのことだって氷室に相談することではない。
そのまま氷室に会釈して廊下に出た彼女は急いで教室へ戻り始める。校舎は渡り廊下で繋がっており、悠乃は歩きながらふと窓の外を見つめた。外には下校する生徒がまばらに歩いており、その数は普段のこの時間よりもずっと少ない。テスト週間なので、大部分はもう下校しているのだろう。
視線を廊下へ戻した悠乃は、しかし何かに違和感を覚えて再度窓の外を見つめた。今何かを見た気がする。もしやこの前の悪魔かもしれない。
彼女は窓に張り付くように外を凝視しその違和感の正体を探る。眼下に広がるのは先ほどと同様の下校途中の生徒達だけだ。しかしそれでもぐるりと満遍なく周囲を見渡した彼女は、そこでようやく先ほどの違和感が何だったのかを知った。
「理緒ちゃんと、蒼君?」
教室へいるはずの蒼と、そして彼が嫌いなはずの理緒が一緒に歩いている。それも下校する生徒達から離れるように、彼らは正門の方向ではなく真逆……校舎の中へ入っていったのである。それも今日は部活が行われてはいない部活棟に。
理緒も蒼も部活には入っていない。そのことに不審を抱いた悠乃は渡り廊下を通り抜けるとすぐ傍にある二年三組の教室の扉を勢いよく開いた。
やりかけどころか全く手の付けられていないプリントが蒼の机に散乱し、そして鞄も置きっぱなしになっている。やはり帰ったのではない、理緒と何かあったのだ。
今日悠乃は理緒と一切話をしていない。まるで悠乃を避けるように休み時間になる度にすぐさま教室を出ていく彼女に話しかけるタイミングを計り損ねてしまった。理緒とそんな風になってしまったのは昨日の会話の所為……つまり蒼が関係している。
そんな二人が一緒にいることに、悠乃はとてつもなく悪い予感を覚えた。まして理緒は悪魔に関する情報を持っている可能性が高いのだ。彼女はすぐさま踵を返して階段を下りながら、速水に指紋の照合結果を急ぎ聞き出す為に電話を掛けた。
部活棟は静まり返っていた。それもそうだ、テスト週間は全部活の活動は禁止されており、今この場所にいるのは理緒と蒼だけなのだから。だからこそ、理緒はあえて人気のないこの場所を選んだのだろう。
彼女の背後に着いて黙って歩く蒼は、理緒が足を止めたのを確認して同じく立ち止まる。そこはバスケ部やバレー部が使用する広い体育館の中だった。
「それで? こんなところまで連れてきて一体何の用だ?」
「……これ以上悠乃に近づかないで」
「はあ?」
「あんたは周りを不幸にする」
何を言い出すかと思えば、と蒼は途端につまらなそうな表情を浮かべた。今更わざわざこんな場所に連れてきてまで言うことではない。何しろいつもその目でさんざん言葉にせずとも伝わって来ていることなのだから。
周りを不幸にする、と吐き捨てられた言葉にだって蒼は「ふうん」とどうでもよさそうに相槌を打っただけだった。特に傷つくこともない、あながち間違ってもいないのだから。
しかしそんな反応に理緒は「ふざけてるの?」と怒りを露わに、呪うような憎悪を込めた目で蒼を射抜く。
「あんたの所為で、あの子はおかしくなった。ただちょっと不思議なことが好きなだけの、大人しくて優しい子だったのに……全部、あんたに出会って変わってしまった!」
「何の話だ?」
「あんたは知らないでしょうね! でもあんたの所為で人生が狂った子は、確かにいるのよ!」
悠乃の話ではないだろう。蒼が気づかぬうちに理緒の友人を振ったのかもしれない。
「結局恨み言を言いたいだけなわけ? それだったら帰るけど」
「違う!」
「ならさっさと本題言えよ。俺だって暇じゃないんだ」
「……すぐに暇になるわよ。だってあんたは――ここで居なくなるんだから!」
体育館に響き渡るほどの怒声を上げて理緒が何かを取り出した。小さく細長い何かを手に持った彼女はその上部分を掴んで引き抜く。そこから現れたのは、銀色に光る小さなナイフの刃だった。
ぎらりと反射するナイフを目に止めた蒼は少々目を瞬かせた。今まで色んな女と適当に付き合って来た所為で「そのうち刺される」とはよく言われて来たものの、本当にナイフを向けて来た女は彼女が初めてだったのだ。
「……ははっ」
気が付けば蒼は自然と笑っていた。理緒が自分に向けてくる殺意に、その凶器に少しだけ昔を思い出したからかもしれない。
しかしすぐにその笑い声は収まる。理緒の殺気が一層強くなったからでもあるし、そして彼女の背後に見慣れた少女の姿を見つけたからかもしれない。
「理緒ちゃん止めて!」
「ゆ、の?」
息を切らして二人に駆け寄って来た悠乃に理緒は目を大きく見開いて一瞬硬直した。しかしすぐに我に返ると「近寄らないで!」と叫んで咄嗟にナイフを前に構えたのだ。
「悠乃、どうしてここが分かった?」
「二人が部活棟に入っていくのが見えたから……理緒ちゃん。理緒ちゃんが蒼君を嫌ってるのは、北村さんのことがあったからなんだよね?」
「な……なんで悠乃が」
「北村さんが所持していた魔法陣が書かれたメモから理緒ちゃんの指紋が検出された。……ごめん、勝手に調べて」
速水から照合結果を聞いたことで、北村と理緒が関わりを持っていたことが証明された。そして理緒が、彼女に悪魔召喚の方法を教えたことも。
悠乃の言葉に訳が分からないと困惑する理緒をよそに、蒼はその言葉で全てを理解し「成程なあ」と場にそぐわない感嘆を上げた。
「つまりあの女が悪魔憑きになったのは時雨の仕業ってことか」
「……あんた達、あの子――加奈子のこと知ってたのね。それに、あれのことも」
だらりと、理緒がゆっくりと項垂れるようにナイフを下ろす。そして酷く苦しげに顔を歪めた彼女は独り言のように小さな声でぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「普通の女の子だった。大人しいけどオカルトや不思議なことが大好きな普通の子だったのよ。なのに朝日に惚れてから、何かに取り憑かれたようにおかしくなった。あんたと付き合ってる女を異常に憎んで、悪魔についての本を読んだって言ったら方法を教えろって脅して来た。……あんた以外の人間なんてどうでもいいみたいに冷たい目で見られた。……全部、あんたが居なければこんなことにならなかったのに!」
「あのさ、それって逆恨みって言うんだけど」
理緒の言葉を酷く冷めた表情で聞いていた蒼は、たったその一言で彼女の嘆きを打ち切った。しん、と静まり返った体育館に悠乃は二人を窺いながらどうしていいか悩んでいたが、不意に理緒が再度ナイフを持ち上げたことに息を呑んで神経を張り詰めた。
「だから、何? 加奈子はおかしくなっただけじゃない。入院して学校も辞めてしまった。……だから、私が代わりに終わらせる」
「理緒ちゃん、何を――」
「あの子は、これを使っていたんでしょ!」
理緒が左腕の袖を捲り上げる。そこには、悠乃が何度も目にしたことのある紋様――悪魔召喚の魔法陣が描かれていたのだ。
驚く悠乃に構わず理緒は動く。彼女は手にしていたナイフで自分の右手を躊躇いなく傷付けると、溢れてくる血を左腕の魔法陣に擦り付けた。
体に魔法陣を描き、そしてそこに血を垂らす。理緒が今行っているのは、間違いなく悪魔召喚そのものだったのだ。




