13. 覚悟
結局その後、悠乃は教室での出来事を理緒に尋ねることは出来なかった。盗み聞きしていたと知られるのが気まずいということもあるが、声だけでも分かるほどに蒼に対する憎しみを露わにしていた彼女の前でその話題を蒸し返す勇気が無かったのだ。
そうこうしているうちに悪魔に対する対応が決まり速水から悠乃へ指示が下る。任務はそのまま悠乃一人で続行、その悪魔を召喚した悪魔憑きを見つけ次第報告するようにとのことだ。彼女は恐らくそうなるだろうなと予想していたので特に驚かなかったものの、速水は酷く苦々しい表情で「絶対に無理はしないこと」と念を押してきた。危険性の高い悪魔を悠乃一人で捜査することが不安なのだろう。
悠乃の役目はあくまで報告だ。悪魔憑きを見つけたからと言って逮捕できるわけではない。それは簡単な話で、単純に悪魔や魔獣を召喚しただけでは何も法律に反している訳ではないからだ。北村を逮捕出来たのは彼女が既に他者を傷つけていたからで、だからこそ悠乃は悪魔憑きを特定してもそれ以上のことはできない。
だが勿論把握しておく必要はある。何かが起きてからでは遅いし、既に起きている事件でも悪魔の仕業だと判断されていないものかもしれないのだから。
「やあ、鏡目さん。僕に何か用だった?」
速水から指示を受けた週明け。星崎が来たら教えてほしいと伝えていたこともあって、彼と同じクラスのオカルト部員からようやく星崎が登校してきたとメールをもらった。ちなみに連絡をくれた部員は包帯の彼である。
テスト週間の為、全部活動は活動を停止している。という訳で悠乃は休み時間の合間を縫って星崎のクラスまで行くことにした。校舎が違うため走ってやって来た悠乃に、星崎は不思議そうに首を傾げながら「そんなに大事な話だったのか?」と疑問の声を上げる。
「もしかしてやっぱりうちの部に入りたいとか?」
「いえ、そうじゃなくて……前に部室で見せてもらった魔法陣のことなんですけど」
「ああ、あれね」
「あれが載っていた本について詳しく聞きたいんです」
「それは別にいいけど……僕話し始めたら止まらないタイプだけど大丈夫?」
「……できるだけ簡潔にお願いします」
もしあまりに長くなるようだったら、迷惑かもしれないが他の時間にもう一度来ようと思いながら、悠乃は時計とにらめっこして苦笑した。話が止まらないのは以前部室に行った時に分かっている。
「前にも言ったけど親戚の……ばあちゃん家に行った時に読んだんだ。何か知らないけどオカルト系の本が色々あってさー。俺は滅茶苦茶嬉しかったんだけど、結局殆ど読めるものがなかったんだよ……」
「その本の他にも悪魔に関係した本がいっぱいあったんですか?」
「オカルトっぽいのは分かったんだけど、他のが全部悪魔関連かは分からないな。あの魔法陣が載ってたやつもかろうじて少し読めたくらいだったし。多分英語だったと思うんだけど、俺普通の英語の成績も悪いくらいだし筆記体だったから解読する気力も沸かなくて……それで魔法陣だけ写したんだ」
「あの魔法陣は正確に写しました?」
「いや……すごく細かかったから細部とかちょっと適当に書いたところも……」
「ええ……?」
それでは元は正しい形式だったのだろうか。オカルト好きな割にそんなアバウトに写したのかと思いながら、悠乃は一番尋ねるべき本題に入った。
「あの魔法陣とか召喚方法を誰かに教えたことってありませんか?」
「人に教えられるほど読めなかったし、むしろ僕が詳しく聞きたいくらいだよ。……あー、こんなことならあいつに翻訳してもらえばよかった」
「あいつ?」
「二年に従妹がいるんだよ。その子が前にイギリスに住んでたから英語ぺらぺらでさー、あの時あいつばあちゃん家に来てなかったからなあ」
「その子の名前は!?」
突然入って来た有力情報に悠乃は掴みかからんばかりに星崎に詰め寄った。この学校にいるということは、その生徒が星崎と同じ本を読みメモを残した可能性があるのだ。それも彼とは違い、その内容を正確に理解した上で。
突然大声を上げた悠乃に驚いて目を瞬かせた星崎は、そんな彼女に疑問を抱きながらも特に言いよどむことなくその名前を口にした。
「時雨理緒っていうんだけど、知ってる?」
「今から抜き打ちの小テストを行う」
「えー!」
「定期テストの範囲内だ。ちゃんとテスト勉強してるやつなら解ける問題だからな」
「うわ、よりにもよって古典で小テストとか」
「……」
時間が迫り慌てて教室へ戻って来た悠乃は、授業が始まると気づかれないようにひっそりと隣に座る理緒を窺い、ぐるぐると回る思考を必死に整理していた。
理緒は星崎の従妹だった、それは確定された情報だ。そして彼女と星崎の祖母の家には悪魔に関する書籍が存在する、これも間違いない。理緒はその本を解読することは可能だったが、しかしその本を読んだという確証はない。
だが、理緒が悪魔を召喚することができる可能性を持つ数少ない人物であるというは見過ごせない事実だった。
小テストを解きながらも悠乃の思考は完全に古典の世界から現代に移っている。終了の合図にようやく顔を上げた彼女は、答え合わせの為に自分の答案用紙を差し出す理緒を見て慌ててそれに倣った。
「あーあ、全然出来なかったよ」
「……うん」
受け取った理緒の答案用紙を見てみればそれが謙遜ではないことがすぐに分かる。空白は無いものの、とりあえず聞いたことのある言葉を適当に並べたように見えた。素っ頓狂な回答に苦笑を漏らしていた悠乃は、しかしはっと我に返るとそっとポケットから例のメモのコピーを取り出して理緒に気付かれないように文字を見比べた。
似ている。詳しくは照合してみないと分からないが、しかしぱっと見ただけでは同じ人物が書いたもののように見えた。何も情報が無い状況だったら何とも思わなかったかもしれないが、今の悠乃が理緒を疑うのには情報が揃い過ぎている。
「すごい悠乃! 満点だよ」
「う、うん……理緒ちゃんはもうちょっと頑張った方が」
「古典は既に諦めてるから。まあ英語でその分稼ぐよ」
その言葉に悠乃が余計に反応しているということには、理緒は気付いていないのだろう。
「おい朝日! 起きろ!」
「せんせーちょっとくらい寝かせてくれてもいいだろー」
「授業開始5分で寝るやつがあるか! せめて10分は粘れ!」
「先生それでいいんですか」
前方の席から聞こえてくる騒がしい声に悠乃と理緒は答案用紙から顔を上げる。見れば案の定蒼が騒ぎの中心にいるようで、悠乃は然程気にすることなく視線を逸らした。
「……悠乃」
「何?」
「ちょっと後で話があるんだけど、いい?」
教室の喧噪に紛れるように聞こえて来た理緒の声に、一瞬悠乃はどきりと心臓を跳ね上がらせた。真剣な表情の理緒を見た彼女は、その動揺を悟られるのを恐れて努めて何事もないように頷いてみせる。
……悠乃だって、理緒に尋ねたいことがあるのだ。
その日の放課後、理緒は他のクラスメイトが居なくなるまでずっと俯いて黙り込んでいた。話しかけにくい雰囲気に悠乃も困ったように沈黙を貫き、理緒が話し出すまで待っている。
蒼は寝ていた所為で書かなかった古典の小テストのやり直しを命じられたらしく、解散を言い渡されてすぐに担当の教師に職員室まで連れていかれた。理緒を刺激してほしくなかったので悠乃の傍に来なかったのは幸いだ。
「……ねえ、悠乃」
沈黙が響く教室内でようやく理緒が声を出す。思わず姿勢を正した悠乃は怖いほど真剣な眼差しで自分を見る理緒を見返し、つい身構えてしまう。
「理緒ちゃん、話っていうのは――」
「朝日と仲良くするの、もう止めなよ」
「……え?」
悠乃は理緒を疑っていた。それも小テストの文字が決定打となってずっと彼女の頭の中でそのことばかり考えていた。だからこそ勝手に理緒が告げるであろう言葉が、悪魔に関係するものだと勘違いしてしまっていたのだ。
慌てて思考を切り替える。そもそも理緒は悠乃が悪魔に関する情報を持っていることなど知るはずもないのだから、そんな話題になる方がおかしいというのに。
「絶対に後悔する。あいつと一緒にいると悪いことが起きる」
「……どうして蒼君のことそんな風に言うの?」
「だって、あいつは!」
「理緒ちゃんは、蒼君と一体何があったの」
蒼のことに関して忠告されるのは今までにも何度もあった。それも理緒だけではなく小夜子にも。小夜子は蒼を危険だと口にし、理緒も悪いことが起きるという。なぜそこまで彼女達は蒼を嫌うのだろうか。
まっすぐ目を見つめて問いかけた悠乃に、理緒はその視線から逃れるように俯いて首を横に振った。
「私は……でも、あの子は」
「あの子?」
「……とにかく朝日から離れて、そうじゃないと悠乃まで」
「ちゃんと理由を言ってくれないと分からないよ。蒼君は確かに善人って感じじゃないけど、悪い人じゃないよ」
「……でも」
「あれ、お前らまだ残ってたのか?」
「っ!」
理緒が更に何かを言い募ろうとしたその時、不意に教室の前方の扉が無遠慮に開かれた。息を呑むように言葉を飲み込んだ理緒に、ずかずかと教室へ足を踏み入れた氷室はきょとんと目を瞬かせる。
「どうした時雨、何かあったのか?」
「……いえ」
「テスト週間なんだからあんまり遅くまで残るんじゃないぞ」
氷室の言葉にこくりと頷いた理緒は、ちらりと悠乃に視線を送った後鞄を持って立ち上がる。そして「ごめん悠乃、帰るね」とだけ彼女に告げて、早足で教室を出て行ってしまったのだ。思わず追いかけようと悠乃も立ち上がるが、足を動かす前に氷室に呼び止められる。
「そういえば鏡目、まだ編入してから進路希望とか聞いてなかったよな?」
「え? あ、はい」
正直今それどころではない、と言いたくなる気持ちを堪えて返事をする。
「一度面談しとかなきゃなって思ってたんだ。明日の放課後にいいか? それまでに一応でいいから大まかな希望だけ考えておいてほしいんだが」
「……分かりました」
「じゃあ進路指導室で行うからよろしくな」
それじゃあ気を付けて帰るんだぞ、という氷室の声にぼんやりと頷きながら、悠乃は理緒が去っていった廊下ばかりを気にしていた。
「……」
一足先に教室を後にした理緒は、酷く思いつめた表情を浮かべながら廊下を歩いていた。悠乃を説得して蒼から引き離そうとしたが氷室に水を差されてしまった。そうでなくても、明確な理由を告げなければ彼女は納得しないだろう。
しかしそれはできない。一体誰が信じるというのだろうか。
「……私が、どうにかするしかない」
悠乃まで、あの子のようにさせるわけにはいかない。




